ケイケイの映画日記
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2005年01月30日(日) 「エレファントマン」

生誕25周年でリマスター版のこの作品を、「エイプリルの七面鳥」の前に、同じテアトル梅田で観てきました。誰もがタイトルぐらいは知っている不朽の名作です。当時、デビッド・リンチはまだ「イレイザー・ヘッド」一本撮っただけの新人監督で、これで一気に世に名前が出ました。製作はメル・ブルックス。社交界のリーダー格ケンドール夫人役で出演の、アン・バンクロフトは夫人です。初見当時は、人間の尊厳の描き方に感動して泣きまくった私ですが、どこをどう感動したか思い出せず。それで今回は思い出すだろうと思っていましたが、だいぶ感想が違うのです。180度とは言いませんが、90度くらいは絶対違います。それは何かと言うと・・・

初見の時この作品を観たかったのは、障害者の人間の尊厳を描いて、ヒューマニズム溢れる感動作と謳われていたからです。しかしそれと同じくらい、エレファントマン=ジョン・メリック(イアン・ハート)の姿形がどうなのか、俗人丸出しでとても興味がありました。そう、見世物小屋に集まる観客といっしょです。当時はそれは恥ずかしいことだから、自分の正直な気持ちを見ないようにしていました。

何故その事を思い出したかと言うと、彼を一見助けるように見える人たちが、私と同じ視線の偽善者に見えるのです。ケンドール夫人など、初見の時は純粋な心でメリック人に接する人に感じました。しかし今回は初めて会うとき、自分のポートレートをプレゼントしたり、いくらメリックの文学的教養に感激したとしても、あれほどの容姿の彼に、初めて会ってキス出来るでしょうか?トリーブス教授が、学会で彼を標本扱いして、医学者の前で彼をさらす時、生殖器は完全であるとセリフにあります。21歳の若者であるメリックに対し、何か弄んでいるように感じるのです。一人の人間としてではなく、可哀相な奇形の障害者という気持ちが高じてのキスではなかったか?彼女にとってメリックは、自分がいかに崇高な人間であるかを感じる道具に過ぎないように見えます。そしてその事に全く無自覚でもあるのです。

トリーブス教授(レクター博士になるずーーーと前のアンソニー・ホプキンス)も、婦長(ウェンディ・ヒラー、立っているだけで英国女性の沽券と頑固さを感じさせて最高!)に、「あなたは見世物小屋の親方といっしょだ。」と言われ、思い悩みます。妻にはメリックの知らない世界を見せ、劣悪な環境から救ったではないかと慰められますが、家にメリックを招く時、彼は子供達のショックを思い図って、外出させます。本当に心の底から彼を受け入れているなら、そうするでしょうか?確かにメリックに対し、偽善だけではなく情も愛も感じられる教授ですが、演劇の舞台を観た時、ケンドール夫人がメリックを親友と紹介して自己満足(と私には見える)した時、「立てばいいんだよ。」と彼を促し、自分も満足していました。

これがメリックの幸せ?、私は彼を差別していないと勘違いしている人たちの、好奇と憐れみの目に曝されることが幸せ?清潔な部屋と暖かいベッドと食べ物、そこには確かに情も愛も介在していますが、やはり見世物小屋と変わらないのではないでしょうか?

病院の雑役夫が、夜な夜なメリックを見世物にして小金を稼ぎますが、何故彼が教授や婦長に訴えなかったのか不思議でしたが、きっと自分に対する扱いは、全て受け入れることで彼は今まで生きてこられたのでしょう。そんな彼が追い詰められて発する「僕は動物なんかじゃない、人間なんだ!」の叫びには、やはり慟哭してしまいます。

メリックは、教授やケンドール夫人やその他の人々の偽善にも気づいていたのではないかと思います。ラストの行為は、本当の人間としての尊厳は自分の手で、というメリックの行動にも現れています。しかし無自覚であったり、思い悩む質のものであっても、周囲の人々の彼に対する気持ちは、善意には間違いありません。メリックは偽善を捨てて、感謝しながら善意を受け取ったのだと思います。その心がメリックの手作りの塔ではなかったでしょうか?半分だけでも塔の見える場所に連れて来てくれた人たち。下半分は想像で作られましたが、本当にメリックが過ごしたかった生活は、その下半分にあるように思いました。

教授の家にメリックが招かれた時、必死で同様を隠し彼と握手する夫人に、美しい自分の母の写真を見せるメリックが、「こんな美しい母が、自分のような子供を産んで、さぞ失望させてしまったでしょう。」と言った時、夫人は心の底からの涙を見せます。そして私も泣きました。こんな体に生んでしまってと自分を責めても、母親は絶対そんな事は思いません。メリックだけでなくその言葉から、息子と生きられなかった彼の母の悲しさまでも感じてしまいました。

私の今回の解釈があっているのか、間違っているのかわかりません。ただ人間として尊厳を持って生きるとは、とてもひとことでは言えないのだと思います。そして生半可な同情や憐れみは、きっとそうされる側の人には見抜かれるのでしょう。私は末っ子が20歳になれば、障害者の方たちを手助けするボランティアがしたいと思っていますが、何故そう思うのか、今一度自分にしっかり問いかけたいと思います。


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