ケイケイの映画日記
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この作品は最近観たものではなく、5月に十三の第七藝術で、新藤兼人特集でモーニング上映された時に、改めて観た作品です。何故今頃思い出したように書くかというと、昨日アップした圧倒的に感動した「清作の妻」の脚本が、この作品の監督・新藤兼人だからです。「鬼婆」の方は、同じ圧倒的でも衝撃の方。この作品は高校生の頃地元のUHF局で観て、脳天を叩き割られた如くの衝撃を覚えたものですが、よほどショックだったのでしょう、今回再見してみて、細部に渡ってほとんど覚えていました。とにかく乙女心を震撼させた作品でした。
時代は室町の不安定な戦国時代、若い男は武士以外も農民とて戦場に借り出され、貧困な農村は女子供と年寄りだけです。この作品の主人公である嫁(吉村実子)と姑(乙羽信子)は、落ち武者狩りをして生計を立てていました。ある日息子の親友のハチ(佐藤慶)が二人の前に現れます。 そして息子は死んだと言います。
今回再見してみて、佐藤慶が声と言い容貌と言い、竹中尚人にそっくりなのでびっくりしました。しかし、変だけど実は結構いい人のポジションの竹中尚人と違い、佐藤慶は昔も今も佐藤慶。親友の母と嫁を陰ながら支えて、嫁への思いをひた隠しにすると言うような男の純情は見せるはずもなく、姑に隠れて嫁に言い寄り、姑など捨てろとけしかけます。
お腹に響くような力強い和太鼓の音をバックに、平然と人殺しをする嫁姑の姿にもショックを受けますが、当時思春期だった私を何よりびっくりさせたのは、女性の性欲を題材にしていたからです。心より体の方が反応するのは男性だけで、女性と言うのは愛がないと、そういう行為は出来ないのだとずっと思っていた私は、夫が死んだと言うのに悲しむ間もなく、さっさと姑の目を盗んで、ハチに会いに行く嫁に仰天。しかしもっとびっくりさせたのは、姑です。
演じた乙羽信子は製作当時の1964年頃は40前後。役柄と同じくらいでしょう。男の出来た嫁に嫉妬し、大木に抱きつきながら煩悩のため身悶えするのです。そして果敢にもハチにアタックするのですが、当然相手にされません。乙女であった私の思考では、もう女でないような年の、それも姑と名がつく女が男の体を求めるとは・・・と頭の中は!?!?!?の嵐。
演じる乙羽信子は、私が子供の頃はホームドラマの優しいお母さん役を演じていた人で、それでなくても口裂け女のようなメイクの彼女には違和感ありまくりだったのに、ちょうどその頃50の坂を越えた彼女は、妻子持ちの三橋達也の愛人でありながら、若い男を誘惑して破滅させる役をドラマで演じ、その他にも男出入りの激しい情熱のフラメンコダンサーの役など、狂い咲いたようにおばさん役から見事現役の女に復帰。どうして年が若かった石井ふく子シリーズがおばさん役で、50を超えた時の平岩弓枝シリーズで現役に返り咲くのか、私の頭は混乱でぐちゃぐちゃになっていた時でした。
余談ですが、この時期「寺内貫太郎一家」などで素敵な優しいお母さんだった加藤治子も役柄が、灰になるまで女一筋に転換した時で、20歳くらい年下の松田優作と濡れ場なんぞ演じていました。今から思うと、還暦では十朱幸代、4〜50代では、黒木瞳、かたせ梨乃など、生涯現役のような女優さんが増えた今、彼女たちはその先駆者だったのかもしれません。
この作品では、ヌードや盛りがついたとしか表現しようがない濡れ場も出てきます。思春期ではわかりませんでしたが、二人の女性の裸は、この作品ではものすごく語るのです。若い嫁の体は、女としての勢いを感じさせ、フェロモンなどと、生易しい表現でないセックスアピールを振りまき、まさに牝。何人でも子供が生めそうです。対する姑の体はしなびたなすびのよう。自分の遺伝子を残したいと言う牡としの本能は、当然若い女に向かいます。愛を抜きにした生物としての性的欲求を表現するのに、これ以上のものはありません。
その他、寝る時に鼾はかくは、ご飯を食べる様子はかっ食らうと表現がぴったりの嫁姑、しかし人殺しはしても、それより楽な生き方に思える、体を売ると言うことはしないのです。自分の好みの相手なら愛がなくてもなのですが、食わんがために体なんぞ売るかの気概が、その様子を下品さより生命力に溢れたたくましさに感じさせます。
嫉妬と嫁に捨てられると落ち武者狩りの生計が立てられない姑は、手に入れた鬼の面で、嫁を脅かしハチの元に行かせません。そして・・・・・、
どうぞラストはお確かめになって下さい。40年も前描かれた強くて怖い女二人、強くなったと言われる現代女性もたじたじです。
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