ケイケイの映画日記
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2004年08月03日(火) |
「清作の妻」(日本映画専門チャンネル) |
この作品の監督・増村保造の作品は何作か観ていて、いずれも大変面白く観たのですが、一番観たいと熱望していたのが、この「清作の妻」。期待にたがわぬ作品で、大変感動しました。
時代は明治、主人公お兼(若尾文子)は生家の貧しさのため、年端も行かぬ10代後半から、妻に先立たれた60過ぎの老人の妾になっています。その老人が急死し、老人の遺族から大金の手切れ金を手にしたお兼ですが、長患いしていた父も亡くなり、残った母の希望で、故郷の農村に帰ることにしました。 久しぶりに故郷に帰った母子を、お兼が妾あがりだと知る村人は蔑み村八分にします。意固地になったお兼も、畑を耕すでもなく村に溶け込もうとしません。そんな村に、勤勉で誠実、軍隊でも模範兵で通した村一番の青年・清作(田村高広)が除隊してきます。
お兼の母の急死の際、火事と葬儀は村八分から除かれると言うのに、誰も手伝おうとせず、彼女をわけ隔てなく受け入れようとする清作は、野辺送りまで親身に手伝います。これがきっかけとなり、二人は接近、好きあうようになり、母や妹、村人中の非難をよそに、二人はお兼の家で生活を始めます。
当時の感覚では、妾、それも老人の慰み者になっていたお兼には、もう2度と堅気の女としての幸せは望めなかったのでしょう。そういう立場にいる者を見る、好奇と侮蔑の入り混じった村中からの目を向けられるお兼が、捨て鉢な感情にかられるのが、手に取るように伝わります。 そんなところへ手を差し伸べた清作。初めて自分が好意を寄せた相手に、思いのたけをぶつけるお兼は、いじらしさを越えて情念の塊です。好きな男に守られ幸せにしてもらう、そんな女としての当然の願いもあきらめていたのでしょう、観ていて胸がいっぱいになります。
仲睦まじいと言うより、愛欲に溺れているような日々を送りながら、徐々に夫婦らしくなってきた二人に、清作への召集令状が届きます。時は日露戦争の頃です。清作が出征した後、毛嫌いされる清作の母や妹のご機嫌を伺い、あからさまにからかい侮辱する村人に健気に応対し、必死に清作のいない日々を耐えるお兼。そんな中、戦争で負傷した清作が治療を済ませ、一時村に帰還する事になりました。清作を囲み、村中の人が集まり宴会が行われる中、「もっと大けがなら、清作も除隊出来たものを。」という誰かの言葉を耳にしたお兼は、あろうことか、清作の両目を五寸釘で突き刺します。
逃げ出すお兼を、たくさんの男の村人がこれでもかこれでもかと、殴り続けます。いくら何でもか弱い女を大の男が血みどろになるまで殴るとは、凄惨すぎる場面です。同じ増村作品で「赤い天使」を観た時、こんなすごい反戦映画はないと、私は衝撃を受けましたが、この作品では反戦はあまり感じません。感じたのは群衆心理の恐ろしさ、いじめ、差別などです。自分より辛い蔑む者を作り、自分はあの人たちより上の人間。そう思うことで卑しいプライドを満たす人々。このシーンは、鬱積した気持ちをお兼のしたことを言い訳に、爆発させたように思います。
この作品に描かれる貧困はなくなったように思う現代ですが、この構図は子供から大人まで社会に地域に学校に続いています。恐ろしいのは物が満たされていても、心の飢えが続くことです。この作品は1965年の高度成長期に作られています。明治を引用しながら、なくならない人間の深い業のようなものを感じました。
では清作は何故お兼を受け入れたのでしょう?彼は人々から「村一番の青年」「村の英雄」「模範生」と賞賛され、人より一段も二段も上の人間であるという自覚があったはずです。そういう人間は、お兼のような可哀想な女に優しくしなければならない、そういう思いあがりが彼にはあったのではないでしょうか?女性に初心だった清作が、情熱をぶつけるお兼の肉体に溺れているという、周りの見方はあたっていたように思うのです。
お兼は清作にそばにいて欲しかったから両目を潰したのではありません。周りからは認められない名ばかりの妻でも、自分を差し置いて、出征のための身支度を母や妹に手伝わせる無自覚な残酷さをみせる清作が、「もう2度とみなの顔を見られないかもしれない。」とつぶやくのを立ち聞きしたからです。恋しい男が死を覚悟して出征していく、その気持ちに耐えられなかったのです。清作がどんな姿であろうと、生きていて欲しかったのです。
お兼は2年の刑期を言い渡され、清作はお兼と謀って兵役逃れをしたと村中から思われ、英雄が一転、卑怯者として扱われます。ここにも清作に対しての嫉妬を、都合よく自分たちで解釈して爆発させる怖さを感じます。お兼に対して憎悪を募らせる清作。
2年の刑期を終え清作に会いに帰ったお兼は、どんな目に遭わされてもいい、償いに殺してくれと清作に懇願します。すると清作は、「よう帰ってきてくれた。俺にはお前しかいない。」とお兼を抱きしめます。お兼と同じの孤立したひとりぼっちの立場になり、今までの自分の偽善や傲慢さに気づき、お兼の今までの辛さが身に染みて理解出来たと話すのです。ここで私は号泣が止まらず。両目を失なった清作は、心の目が開いたのです。人からはお兼は、将来を嘱望された青年を、あばずれ女の自分にお似合いなよう、社会から突き落としたように見えたでしょう。しかし魔性の女に見えるお兼は、実は清作には菩薩だったのです。お兼のしたことは、決して肯定されるものではありませんが、心からお互いを理解し求め合う二人の抱擁に、私は崇高さを感じずにはいられませんでした。
人からは地獄に落ちた男女に見えることでしょう。しかしラストシーンで、清作の手を引き一緒に田に出たお兼が、夫の見えない目に見守られながら、一心に田を耕す姿に、その言葉から連想する甘美さやただれた肉欲、辛い行く末は感じられず、力強く爽やかな、そして穏やかな暮らしを予感させるものでした。情念の塊のような狂おしいお兼を見せ続けられ、こんなカタルシスと癒しを感じさせられるとは、思ってもいませんでした。そんなに数は観ていませんが、私には一番好きで感動した増村作品です。この日記をお読みになって興味を持った方は、是非是非一度ご覧下さい。
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