ケイケイの映画日記
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うーん、残念ながら久々の玉砕です。ストーリーは黒人ながら白い肌を持ち、黒人であることを隠し白人として人生を送り、有名大学の学部長にまでなった男性が、授業中黒人学生にに差別的な発言をしたと言うことで解雇された、その晩年を描くお話です。
出演者は豪華です。主人公コールマンにアンソニー・ホプキンス、彼の最後の恋のお相手にニコール・キッドマン、暴力的なその元夫にエド・ハリス、コールマンから彼の不当解雇を書いてくれと言われる作家にゲイリー・シニーズ。これだけすごい面子なら、どんな演技合戦が観られるか期待しますよね?あぁ、それなのに・・・。無駄に豪華に終わってしまいました。
主軸は自分の出自を親兄弟と縁を切ってまで偽った、コールマンの苦悩のはずなのですが、その演出が緩いのです。彼が白人として生きようと誓ったのは、立身出世もありますが、直接の理由は黒人と言う事で破れた、若き日の白人との恋でした。何回も挿入される回想シーンで、45年程前の彼の苦悩を見せるのですが、その後が空白で、45年間での葛藤の描写が一度もないのです。妻にまで隠したこの事を、告白してしまいたい、心が解放されたいと言う描写がないことで、中々この年寄りの心に寄り添うことが出来ません。
冒頭コールマンと小説家・ネイサンの交流が描かれますが、どういう風に晩年の失意のコールマンが、彼の友情を心の拠りどころにしていたか、一緒にジョギングしたり、ダンスをしたり(このシーンは観ていて恥ずかしい)で、終わらせてしまうので、消化不良が残ります。
娘ほどの年の掃除婦・フォーニアと恋に落ちるのですが、何故彼女が必要か、彼女でなければいけないのか、それを「最高ではないが最後の恋なのだ」と言うセリフだけで説明してしまうので、無意味にセックスシーンやその前後を匂わすシーンが多いので、正直色ボケしたのかと思ってしまいます。
フォーニアは、義父の性的虐待で14歳で家出、夫には暴力で悩み、夫から子供を連れて逃げ出し、別の男と会っている時、自宅が火事になり子供を亡くしてしまい、今では人生をあきらめてしまった女性です。観客の同情と共感を呼ばなければならないのに、あまり知らない老人のコールマンを誘い、裸でベッドで待つ様子はほとんどあばずれ。彼に甘えたい、頼りたいと言う 心の結びつきは積極的に拒否、ならばセックスで渇いた心を潤わせえたいと思っているなら、何故自分を委ねる相手に老人のコールマンを選んだのか、鍵になるような演出はなく、これまた不明なのです。
せめて別の男と会っている時子供を亡くした、と言う設定は夜に仕事に出かけていてとかには出来なかったのでしょうか?フォーニアの環境に同情する前に、人としての幼稚さを先に感じてしまいました。
執拗に元夫に追いかけられているのですが、これを演じるエド・ハリスが意味なく見事な老けっぷりで、そうか、フォーニアはジジイ転がしなのか、と別方向に思考回路が回ります。おまけにこの夫、ベトナム帰りなのですが、 そのPTSDに悩んでいる設定です。この作品の時代設定は1998年。80年代が設定ならいざ知らず、この時代にベトナム帰還兵の苦悩を挿入したは見当違いだと感じました。何故エド・ハリスをキャストしたのか、本当に意味不明。まるで見せ場がなく、あぁもったいない・・・。
それ以外にも人種差別の言葉狩りに、近しい今を感じますが、それ以外はとんでもなく古臭い景色、ファッション、演出で、回想シーンに1944年と挿入されなければ、ずっと同じ時代だと勘違いしてしまいそうです。
人種差別がテーマのはずが、老いらくの恋、性的虐待、ドメスティックバイオレンス、ベトナム帰還兵の後遺症など、枝葉になることを盛り込みすぎ、全てに散漫な印象がぬぐえません。登場人物の心模様を全て説明する必要はないし、観る側の感性や知性が要求されても良いと思いますが、あまりの見応えのなさに、こちらの好意なしには、それも叶いません。こちらの感性に訴えたいのなら、もっと想像をかきたてる力強い演出が必要だと感じました。
この作品の監督は名匠ロバート・ベントンと言うこともあり、在日の多い大阪に暮らし、今まで自分の出自を隠さず生きてきた私でも、きっとコールマンの心は理解出来るはず、と期待して観た作品だったのですが、若き日のールマンに彼の母が、「もっと自分の人種に誇りを持って生きなさい」と諭す場面が唯一の見所でしたねぇ。もっとコールマンの卑屈で怯えても、しかし黒人としての怒りとプライドとの葛藤に生きた姿を、深く掘り下げて欲しかったです。
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