♀つきなみ♀日記
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2005年04月21日(木) 今日は天一坊さまの命日ですね@歴史認識など

ってことで、連休に、なんの予定も無いつきなみ♀です。って草鞋の一足が重くて、せっかくの美しい足が太くなっちゃうよ<=前からです。

それはともかく、1729年(享保14年)の4月21日、将軍吉宗の御落胤(ざっぱに言えば隠し子みたいなもの)として、天一坊を名乗っていた人物が、偽者と断定されて、処刑されたんだよね。

と言っても、時代劇に興味の無いひとはピンと来ないかも知れないけど、

てんいちぼう〔テンイチバウ〕【天一坊】
[(?〜一七二九)]江戸中期の僧。通称、改行。源氏坊天一と名のり、徳川家の一族と称して世間を騒がせて処刑された。大岡政談と結びつき戯曲・講談などに脚色された。

Yahoo!辞書 大辞泉

講談・歌舞伎などの登場人物。徳川吉宗の落胤(らくいん)と偽って捕らえられ、獄門に処せられる。山伏、源氏坊天一の同様の事件を大岡政談に付会したもの。のち、歌舞伎「扇音々大岡政談(おおぎびようしおおおかせいだん)」などに脚色される。

Yahoo!辞書 大辞林

ってぐらいで、辞書にも載っていて(説明の正誤は別にして)、河竹黙阿弥の通し狂言「天一坊大岡政談」(明治8年新富座初演。 5代目菊五郎が天一坊を演じる)は、歌舞伎の演目としても名高い。

現在も版を重ねる本としては、柴田 錬三郎さんの「徳川太平記―吉宗と天一坊/集英社文庫 ISBN: 4087475999 )があるし、TVドラマだと大岡越前物のクライマックスとして必ずと言っていいほど登場する。

えがき方は色々なんだけど、徳川吉宗-大岡越前-天一坊は、大衆演劇では当たり前のように一対になっていて、ごく普通に暮らしている、時代劇ファンのお年寄りは、歴史の事実を基に作られた話しだと思っていて不思議はないんだよね。

じゃ、実体はどうかと言えば、少なくても天一坊の捌きをしたのは、大岡越前さんじゃなくて、勘定奉行時代(1723-1731在任)の、稲生正武(下野守)なんだよね。

じゃぁ大岡越前は当時何だったかと言えば、南町奉行(1717-1736在任)なんだけど、直接裁いたのは、稲生正武なんだよね。何故かといえば、天一坊が腰を据えていたのがは品川で、当時はこの場所を管轄していたのは、関東郡代所で、江戸町奉行じゃないんだよね。そして郡代の上級役が勘定奉行だ。

ちょっと話しは逸れるけど、勘定奉行っていうと時代劇では、なんか賄賂をもらってばかりいる悪人のポストで、「勘定」って語感から、今の経理部長って言うか、銭の元締めみたいな印象ばっかりなんだけど、江戸時代の「勘定奉行職」は幕領の貢租の徴収、訴訟の取扱、幕府財政の運営に当たっていた。

そして、1721(享保6)年の享保の改革からは、勝手方と公事方に分離され勘定所の職制が確立したわけで、正式に「奉行」となったのは享保8年、つまり稲生正武からなんだよね。ちなみに、これ以降勘定奉行は、勝手方・公事方各2名が月番で執務するから、常時4人の体制になって、そうそう越後屋に、「お前も悪じゃのぉ、ふっふっふ」なんて汚職してる訳にはいかない(奉行名は元禄説あり)<=おい!

天一坊の御落胤としての真贋はともかく、史実としては評定所で大岡越前が耳にした可能性はあっても、裁定は勘定奉行⇒関東郡代で、処刑された。

じゃぁ、なんで大岡政談になったかと言えば、演劇と講談で庶民に伝播したのは勿論だけど、明治29年に発行された「帝国文庫」に収録された16編の大岡政談に因る処が大きい。

有名なところでは、正直者同士が落として拾った一両の金を、どちらも譲って受け取らないので、越前さんが一両足して、二人に持たせ「三方一両損」とか、どちらも本当の母親だと言い張る二人に、子供の手を引っ張らして勝った方が母親だと言い渡し、痛がる子供に思わず手を離してしまった方に、軍配を上げる話しなんかがある。これは落語の「大岡政談」としても有名だ。

ただこの大岡政談の中で、史実や記録を追う限り、実際に大岡越前守さんが裁いたのは、「白子屋お熊」と題された一件だけというのは、ほぼ定説になっている。

大岡越前さんの場合は、いい話なのであんまり弊害は無いんだけど、捌きを取られたのが歴然としている、稲生正武の名前を知る人はあまりいない。

小説、大衆演劇、現在であれば映画やTVで繰り返し刷り込まれる、そして、それが別の話でも、背景が共通していれば、あたかもそれを事実や史実のように思い込んでしまうのは、過去から繰り返されてきた、誤りのような気がしてならない。

歴史は、一つの事実があっても、それをどのような視点で見るかで、一秒後には視点の数だけの捕らえ方が生まれる。

ましてや事実が確定できない場合には、立ち居地によって、数え切れない解釈と憶測に立脚する促らえ方が無限に増殖してしまう。

一つ一つを丹念に掘り起こし、事実は事実として、考えは考えとして積み重ねるところから、歴史認識は始まるのだと私は思っている。

なんちゃって<=おい!

天一坊さんの実体が残るのは、「享保14年酉四月二十五日御沙汰書」と言う幕府の公式記録で、傍証としては「徳川実記」や「享保日録」が上げられるが、それは幕府側からみた記録であって、今の私が断言できるのは、大岡越前守が裁いた事件ではないと言うことだけだ。

本当に稀代の詐欺師であれば、今でも名前が残るだけで満足しているかもしれないとは思うのだけれど。

ってことで、じゃ、またね。


テキスト庵

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