♀つきなみ♀日記
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2005年04月16日(土) |
素晴らしき戦争・遠すぎた橋、そしてガンジー@私のアッテンボロー |
私はアッテンボローが好きだ。と言っても、銀河英雄伝説のことではない<=おい!
って、実はそっちも好きなんだけど、そっちだとやはり疾風ウォルフこと、ミッターマイヤーさまの方が好きかなぁ。なんちゃって。
それはともかく、サー・リチャード・アッテンボローは私が紹介するまでもなく、イギリスの大俳優兼監督で、アカデミー賞は1982年「ガンジー」で監督賞と作品賞をはじめ8部門で受賞している。もちろんこの作品は制作も彼だ。
1969年の監督デビュー作である「素晴らしき戦争」は、反戦を掲げたミュージカルで、興業としては決して成功したとは言えない。それどころか、一部からは痛烈な批判を浴び、ほぼ固まりつつあった、名優としての評価さえ危うくする、実験的な作品でもあった。
第一次世界大戦を舞台としたこの作品で、彼は戦場の狂気と、戦争を遂行する国家の狂気を炙り出す。
当時のイギリスは志願兵制度を採っていて、戦争を遂行するためには、まず志願者を確保する必要があった。正義を語り、国全体を祝祭の色に染めてゆくプロパガンダは多少誇張されてはいるものの、国家が何かの目的のために、全力を挙げて世論を誘導し形成していく一つの典型をみることができる。
そして熱狂に巻かれ、それに応募し、戦場に向かう人々を、後世の安穏な位置から、愚かだと責めることは容易い。しかし、彼らは愚かだっただけなのか?
この映画の原題は「OH What a Lovely War」という。
「遠すぎた橋(1977年)」は、第二次ヨーロッパ戦線における連合軍逆上陸後の、ドイツ軍が勝利を収めた、あるいは収めかけた二つの大きな作戦の一つ、「マーケットガーデン作戦」を題材に採る。
もう一つは、大戦末期の最期のドイツ軍の反抗である「アルデンヌ反攻戦」で、こちらは「バルジ大作戦」の題名で、大型戦車の攻防戦として、ケン・アナキン監督によって、1965年に映画化され、興業的にも成功を収める。結果としては、この作戦はドイツ軍の敗北に終わるのであるし。
「遠すぎた橋」は、ノルマンディー上陸作戦の3ヵ月後、空挺師団を投入し、無謀な敵陣深攻作戦を採ったために、連合国側の惨敗に終わった、ある意味忘れたい戦闘でもあった。しかし、アッテンボローはこれを監督する。
日本でこの映画が公開された時のキャッチは「世界8大スター競演!本格戦争巨編。史上最大の作戦を凌ぐ、制作費と迫力!」であった。確かに当時売り出し中で、人気沸騰のハリウッドきっての若手俳優、ロバート・レッドフォード、そして、ライアンオニール。円熟期にかかった、ジーン・ハックマンとショーン・コネリー、そして英国の至宝、ローレンス・オリビエ、ドイツからはマクシミリアン・シェルと、名前だけで充分集客が可能な俳優が並ぶ。
作品としての評価は、置く。
原作の中から、アッテンボローは敢えて、戦争の矛盾の部分を抽出していく。
現場の現実を見ようともしない司令部。作戦の遂行だけを督促し、変化に対応しようとさえしない、本国の総司令部。
あまりの無謀に呆れ、後方にある総司令部の無能を斟酌し、現地の指揮官に対して戦闘の無意味を説いて、停戦を勧めるドイツ軍司令官。
不利が歴然としてきたときにさえ、保身を考え、いかに見せかけの戦果を残せるかに呻吟し、無駄で無意味な戦闘を督促する後方司令官。
作戦は、わずか9日間の内に、連合軍側の戦死、戦傷、行方不明者は1万7000名以上を数え、戦闘地域で生き残った殆どの将兵は捕虜となって幕を閉じる。
そして、総指揮官のモンゴメリー将軍からの訓電は「この作戦は90%成功した」であり、題名にもなった
「我々は、少し遠すぎた橋にいっただけだ」
に帰結する。
「ガンジー(1982年)」は私が引くこともなく知られた映画だ。彼は、“偉大なる魂"と呼ばれ、暴力を否定し、徹底した無抵抗主義でインド独立運動を指導し成功させた、マハトマ・ガンジーの波瀾に満ちた生涯という難しい題材に、制作・監督として正面から取り組み、成果を残す。
それぞれの作品に、あたりまえだが様々な人々が登場する。
彼は、常に登場人物をステレオタイプ化することが無い。どんな、奇矯な偏狭な、敵役の人物にも背景があり、暮らしがあり、所属する場所がある。個人から描写することで、組織の意思が誤っていることや、尽くそうとするベストが誤っていることが、浮き彫りになっていく。そして、そのために翻弄されてしまう、同じ国に、同じ組織に属する多くの人々。
私は、「人」を集合名詞で語ることに疑問を感じることがある。ましてや、「○○人」国家としての「○○」を一括りにして、侮蔑や嘲笑を浴びせることに生理的な嫌悪感があるし、それをしてしまうと、本質からどんどん遠ざかってしまう気がしてならない。
そんな時、私はまたアッテンボローの映画を見る。
そこには、翻弄されながらも、自分であろうとし続ける、多くの人々がいるから。
テキスト庵
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