NY州在住 <旧『東京在住』・旧旧『NY在住』>
kiyo



 私とあなたのインターアクション

 この前、外資系花形企業に勤めたり、企業トップは色々大変かもよ、という話を書いたばかりですが(参照:http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=8669&pg=20080509)、ま、海外で生活していれば、日本で友達や同僚・クラスメートと飲みに出かけるのと同様に、職場や学校以外でのコミュニケーションを求められることもあるわけです

 つい先日、半年ほど早く卒業をした同じコースの人に再会した。聞けば、ネブラスカ州の大農場の息子らしく、馬・牛・羊のみならずリャマだの、アルパカなど色々飼育しているんだとか。その人がなんと20キロバッファロー肉のハンバーグパテとソーセージを土産に数日間だけ戻ってきたので、呼べるだけの人を呼んでパーティをすることになったという連絡をいただいた。そして私もその参加者の一人。

 ま、同級の同コースの人とそのお友達が呼ばれてるんだろう、と思ったらなんと結果的に60人以上集まった。(何度も言いますが、私も呼ばれた一人だから偉そうなことはいえないんですがね)まず、到着すると、手にしなければならないのがビールです。そう、なんとビールがポリバケツにすっぽりはいるくらいので用意されていて、空気圧をしゅこしゅこと送り込んで好き勝手にビールをつぐ仕組みになっている。


 っていうか誰がどこでこんなものを仕入れてくるんだろう。参加者の誰かが持ち込んでくるわけですが上手いことコンテンツというか持ち込むものがばらけるものです。ある人はフルーツの盛り合わせ、ある人は手作りサルサ、ある人はチップス、ある人はゴムボール・・・。ちなみに私はBBQ用のトウモロコシを20本ほど持参した。でも、ビール樽には叶わない。

 呼ばれた人も、恋人を連れてきたり、ルームメイトを連れてきたり、子供を連れてきたり、ペットをつれてきたり色々引き連れてきます。そりゃー60人以上になるわけだ。一番印象的だったのは、私のお友達がある人が現れたのを見て絶句している。ビールがそんなに苦いのか?

「おい、誰だよ。テリー=タッカーを呼んだのは・・・」

 そうです。彼のアドバイザー(担任の教授)でした。PhDの人や、リサーチャーなど外見や年齢だけでは中々その人のポジションがわからないものですが、先生も呼ばれていたんですね。アメリカの大学では先生と飲みに行くことはほとんどないと思いますが、学年末のこのときくらい集まって冗談を飛ばし合うのもいいのかもしれません。

 そこで展開されるのは、そこら中に人の輪ができて話に花を咲かせます。それはもう、5,6時間も延々と会話だけ入れ替わり立ち替わり輪の中の人が変わるとはいえ、なかなか何時間も会話だけで楽しむのも、ましてや相手を楽しませるように会話を続けるのも大変なんじゃないかと思います。というわけで、私は英語を話したり聞いたりするのが疲れるので偶に仲間はずれにされている犬さんと遊ぶわけです。犬さんはうらやましそうに、いい匂いだなーって見つめている。


 目の前に食べるものが続々と届いたり(居酒屋)、誰かが歌を歌ったり(カラオケ)など自分たち以外のコンテンツが提供されない状態で、相手との時間を楽しむのは本当にコミュニケーションをしているなという気分になりますね。(私は誰かの冗談を楽しんでいるだけの方が遙かに多いのですが)


 飲むのがメインなのか、話すのがメインなのかめりはりの聞いたコミュニケーションの方が、なんとなく連帯感をうむよりも、もっと具体的な仲間意識というのが生まれるんじゃないかと思います。(お、これこそ私の論文の主題のソーシャルキャピタルじゃないか!)相手がどんな考え方をしてるのか、どんなスタンスで普段過ごしているのか、そんなことがはっきり分かりますからね。

 お友達や同僚、彼女・彼氏とも、会っている時間のコンテンツ(おいしいレストランとか素敵な夜景とか)を色々考えるよりも、相手と自分だけでどんなインターアクションをしていくのか、を考えたほうがより長期的な関係を作ることが出来るのかもしれない。


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2008年05月22日(木)



 夢の海外での学士取得と現実

一度だけ、ブログでこういう「役に立ちそうな」情報を発信してみたかったんです。役に立ちそうな、というのは所詮ブログで書いた独り言のようなもので、ほんとにアカデミックだったりビジネスの現場の議論に耐えうるわけではありません。勘違いしないでね。
 
 実は、今まで一度も留学の相談を受けたことがありません。ありそうでしょ?ないんです。すこしバイトとして誰かの出願書類やエッセイをみたことはありましたが、そうした方はもうすでに行きたい学校や勉強したい分野が具体化している人でした。

「高校卒業後は、留学しても良いかなって思っているんですが、どんなもんでしょう?」

 なかなか難しい問題だと思います。つっけんどんに「何かそこでしか勉強できない内容があって、経済的に許されるなら他に決断の余地はないのでは?」と答えるのもどうかと思います。なかなか自分一人だけの力ではできないことだし、一人の力だとしても逸失利益といいますか、そもそもそれだけのコスト(時間とお金)をかけてどうするのか、という問題と向き合わなければいけないからです。

 留学の価値=プライスレス

 とご本人は考えていても、周囲の人はそう思わないかもしれませんし、そうしたプレッシャーにさらされる方も多いのじゃないかと思います。

 具体的に費用のことを考えてみましょう。

 17,447ドルが、アメリカの四年制大学の平均授業料らしいです。(参照[英語資料です]:http://www.infoplease.com/ipa/A0781878.html)日本円(1ドル=110円)にすると、190万円くらいでしょうか?これは私の勝手な観察によるものですが、四年制大学に留学をさせようとすると大体授業料の2.5倍くらいかかると思われますので、ざっくり計算して年間480万円。四年間だと2000万円弱くらいかかる計算です。

 なるほどね、安くないですね。ま、でも、公立校なら若干(ほんとに若干)ですが安くなると思いますし、さらに場所によってもさらに安くなる可能性があるというものです。しかも所詮SATなんて留学生の場合数学くらいしか考慮されないんじゃないかと思うことを考えれば(私見です!)普通の留学自体は、オカネだけの話に帰結しなくもない。また、お父さんは50代から60代と思われますから、その人の平均年収が650万円らしいですから(参照[日本語資料]:http://nensyu-labo.com/heikin_nenrei.htm)、高校入学したあたりから留学を志せばなんとかならなくはないんじゃないかと思います。

 この話、実はアイビーリーグなどトップ校にいこうとすると全く話は別物です。しかも悪い意味で。

 結論から言えば、学費だけじゃなくて、学力共に非常に大変なことになる。


 この図をみてみましょう。アメリカの一流大学の(右から)合格率、合格通知を受け手からの進学率、SAT(大学入試共通試験)のスコア、学費です。

 まず、SATですが、これ、満点じゃないと思われるかもしれませんが、SATIといわれる基本能力のテストは満点じゃなければほとんど入学は無理だそうです。私の大学でさえ、全学部生の73%は高校の頃主席か次席の卒業席次らしいです。そのうえ、高校のときの学力だけじゃないパフォーマンスも必要。ま、生徒会長やってSAT満点じゃないと願書を見てもらえないということでしょう。

 だから合格率がこんなに低い。そりゃ受験料もかかりますから、箸にも棒にも引っかからないような場合には受験しませんから、合格するかも、と思う人しか受験しないわけです。それで、この合格率ですから非常に狭い門かと思います。勉強の苦労も並々ならぬ者があるでしょう。

 さて、授業料。ざっと見たところ3000ドル(330万円)ですか?やはり勝手な私の法則、[全費用=授業料×2.5]を用いたところ、年間830万円、四年間で3300万円。フェラーリが買えます。

 気をつけなければいけないのは、これは留学生ということであって、アメリカ人がこのようなトップ校にいく場合には少し話は違うようです。カリフォルニアやミシガンなど素晴らしい州立大学(私の所も一部は州立大ですが)はありますし、そこはレガシー入学などありませんし、学費も安いし、また補助も多いようです。気をつけましょう。

 なかなかハードルはきついですね。私の息子や娘が、ハーバードの合格通知を持ってきたとら本当に困ってしまいます。それでも、留学生は増え続けているのです。


 ほら、この通り。確かに学部生を見ている限り、朝から晩まであんだけ勉強させられ、優秀なクラスメートと切磋琢磨できることは本当に素晴らしいことだと思います。短絡的な利益の話をすれば、途上国や韓国などでは、学歴だけで給料と周囲からの羨望の量が決まるようですし。(ワインの値段とラベルの相関みたいなものか?)


 教育を経済的な価値だけで算出するのはどうかとも思いますが、どれだけ優れた教育システムだとしても、学部教育にこれだけのハードルがあるのは少し二の足を踏んでしまうのが現実じゃないかと思います。留学を志す高校生諸氏には是非、そうした現実を踏まえて、周囲の説得に当たってほしいなと思います。
 トップ校じゃなくても、コストはご覧の通り莫大です。フェードアウトしたドキュソな高校生が親が裕福なのを良いことに、アメリカでなんとか卒業しようという例もバブル期は散見されたそうですが、もっと有効な使い方もあるかもしれません。

 学部生は学部生として得られるもの、と失うものとをきちんと見極めて、日本の大学に行く感覚では決して進学できるものではないと思いました。

 追伸1:これは学部生の話です。大学院は全く話は別です。学費についてもそのほかハードルについても一般化できません。そこを間違えないように!

 追伸2:これ、芸術系だともっとです。知り合いでバレーをしている人がいましたが、夏はモナコとイギリスの学校に、とか。あの先生の個人レッスンを、とかいう話になって、恐らくコストは果てしなくなることでしょう。ある人が言っていたんです。これで「私好きな人が出来たの♪結婚するわ♪」っていわれたら、私は娘を殺すかもしれないと。うん。そうかもしれない。


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2008年05月20日(火)



 NYU Commencement (開始)

 以前したいことの中に「NYを発つ友人の見送りに行く」ということがあったのを覚えておいででしょうか?(1月30日の記事参照:http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=8669&pg=20080130)
 いろいろ予定が合わず叶わなかったのだが、その彼が、ニューヨーク大学(NYU)の卒業式に出てみるために、戻ってきた。(ここで「でてみる」と、「try to attend」的な言い方をしたのは正確を期すためだ。めちゃくちゃでたいわけではないが、ま、でてみると面白いこともあるかもしれない、というあたりが彼の意図だと思うからだ)

 というわけで今回こそは万難を排して馳せ参じた。いざNY。いろいろ万難があったが本当にいってよかった。楽しゅうございました。

 一日目は、彼の学部(教育学部ですか?)Steinhardt Schoolの卒業式。なんとRADIO CITYで行われます。部屋を出て、RADIO CITYの近くのダイナーでNYUのスクールカラーである紫色のローブに身を包みます。「これで街中歩くのかよ」と言っていた割には、来てみると颯爽とRADIO CITYを目指して歩き出します。


 かっこいいですね。すると、もう他の卒業生も同じ格好で集まっているじゃありませんか。同じく着飾った保護者のみなさまも誇らしげに卒業する自分の息子や娘を見上げています。さすがNYUだけあって、というかイサカの否かの学校と違ってみなさんおしゃれで、美人さんが多いこと。(イサカじゃハイヒールなんてありえませんからね)

 
 しばらくまって、中にはいってみると、威厳をもちつつ、シンプルにデザインされた式場がみえます。

 
 基本的に、中身は演説ですが、最後に、ミュージカルもどきが演じられたり、みんなで『New York New York』を歌って、壇上に居座る教授陣が踊っていたりするのをみると、さすがクールなイメージな大学だけありますね。去年みたコロンビアの卒業式(http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=8669&pg=20070608)は、「君たちはいずれの社会でも頂点にたつべき人物だ!心していけ。それが我がトップ校をでた人材だ」といわんばかりのスノッブで、宗教じみた感じでしたが、そこいくとNYUは洒脱感があふれていて素敵だ。

 そのあと、NYUの校舎が乱立するワシントンスクエアパーク周辺に移動する。するといくつかの道路をふさいで、お祭りが行われていました。入場券を首に下げると入場できます。


 DJが音楽をならし、屋台で食べ物が振る舞われ、多くの大道芸人が道行く人を楽しませている。出店ではゲームに挑戦もできるみたいです。特定のキャンパスのないNYUならではのお祭りですね。路上で祝うあたりで街と一体感がでています。


 マンハッタン全体が私たちのキャンパスなんだといわんばかりです。聞くところによると、エンパイアステートビルディングも、NYUカラーの紫になったとか。リベラルな校風がそんなところにもあらわれている。

 翌日。
 彼は朝早くから準備をしているじゃありませんか。そうです。前の日は、学部の卒業式でしたが、今日は学校全体。どうやら今年はワシントンスクエアパークが工事中だとかで、代わりになんとヤンキーススタジアム(!)で卒業式です。

 遅れて再び出席してみる。球場に着いてみると、一面紫でびっくりした。セカンドのあたりに特設テントが設置され、学長以下、主要ファカルティが居並んでいる。やっぱりメインコンテンツは演説ですが、歌あり踊りあり。学長が、最初から最後までヤンキースキャップをつけていのが面白かった。


 最後は学部長達が「学長、2008年卒業メンバーとして○○○人の卓越した学士号取得者、△△人の修士号取得者、□□人の博士号取得者を今年も得たことを喜ばしく報告します!」という紹介をしておわり。

 演説にしても、卒業式にしても、「これからがんばってね。ここで勉強したことを誇りに思ってね」ということがメッセージです。恐らく、いろいろなブログでいわれているでしょうが、英語で卒業式はCommencementといいます。「Commence(開始する)」という動詞の名詞形ですから、「開始」と訳してもOKかと思います。ま、開始なんですよ。これから始動ということ。(院生の場合は「再始動」といったかんじか?)

「『これからがんばれよ』って言われるための式に、『よくがんばったね』っていわれにきているから、違和感を感じるんだよ。ね、ベクトルが違うの、君と式との」といったら至極納得していた彼でしたが、実は来週は私の卒業式なんですね。

 私も、「いやーよくやったよ。少し休め」と言われたい気持ちで一杯ですが、恐らく背中を押されるんだろうと思うと少し憂鬱だ。

そう、25日は卒業式・・・。そろそろ色々終わりにしましょう。


2008年05月16日(金)



 教養とキャリアアップと巨人の行方

 多くの場合、アウトプットしているときは頭を使っていないと考えられる。当たり前かもしれない。インプットしているとき(本を読んだり、人の話を聞いたり、観察したりする)というのは、自分の中で理解する作業が必要なのでCPUも動かざる得ないが、その結果をしゃべるのは、データを印刷するのと同じように別にたいした容量はつかわない。せいぜい、見栄えくらいか?

 というわけで、論文を実際に書いている(文字通り、カタカタタイプをしているとき)は音楽を楽しんでいる。内訳は、大体25%ジャズ系、15%クラシック系、15%洋楽ヒット(過去現在)、15%サントラ、15%ネットラジオ、10%邦楽懐メロ、5%その他、のような構成になっていると思う。ジャズ「系」などと、「系」がついているのは、いわゆるビッグバンドとか、スカパンクとか、ジャズオーケストラとか、いろいろ私には境界がわからないのでファジー感をだすためだ。(ビートルズは、洋楽ヒット過去に入るの?それともクラシック?)


 ま、節操がなく色々聞いている。そんなときこんな記事に出会った。
外資系金融で20年以上世界中で活躍されている方のブログらしい。(参照:http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/e/fb24dd1927f54ba618126eb7dd02e5d9)
 曰く、政府の「金融士」という資格を創設して、金融の現場で働く人の質を高めるべきだ、という議論に対し、現場は非常に優秀だが、経営陣のアホさ加減が抜きんでているのが日本の金融機関なのだから、必要なのはマネージメントのための「金融機関経営士制度」の設立だ、ということを訴えていらっしゃる。そのための必要最低限の資格として以下のことをあげている。
 
1.金融工学
2.TOEICも必須にして900点以下の人はだめ。
3.西洋金融史(マックス・ウェーバーあたりからマンデル先生くらいまでね)
4.西洋美術史(この話題ができないとパーティーでは人間扱いされない)
5.クラシック音楽のイントロあてクイズ(オーケストラまであたったら点数は倍)
6.日本史及び日本美術史(必ず聞かれます。答えられないとばか扱い)
7.日本財政(日本でもSWFをなんてばかなことを言わないため)

 らしい。重ねて言いますが、私はこの大学で落ちこぼれ中の落ちこぼれなので例外ですが、他の生徒さん達は、未来のエグゼクティブですよ。ま、英語と金融工学は別にしても、このほかのこと、少なくとも20代後半から30代前半の人はなかなか3〜5に精通されている方は少ないんじゃないかと思います。経済でも学術系の院には、いらっしゃるかもしれませんが、MBA系は全然そんな感じじゃない。(MBAの校舎↓)


 ということは、卒業して、さらに30代を通して、キャリアアップするにつれて、こうしたことも「勉強」されるんでしょうね。そう、まさに「勉強」ですよ。好きも嫌いもあったものじゃない。エグゼクティブになるのも大変ですね。金融系に勤める方は、会社帰りに銀座を通るたびに、福家書店で、相武紗季の握手会参加券付写真集や、ヤンジャンを買うのを我慢して、山野楽器に向かいクラシックを買い求め、八重洲ブックセンターで上野でやってる美術展をチェックし、関連書籍を購入するわけですか。休日は酒屋でビールを我慢して、ワインを数本買って最適チョイスの勉強と。なるほど。

 大変ですなー。

 好きなら全く苦じゃないですが、好きじゃなければ苦行ですな。もっといえば、ステータスとして教養が求められるとしたら、なんか、本当に西洋美術が好きな人には失礼かという気もします

 もっといいましょう。本当に好きだとして、そんな素敵な時間が、たまたま自分のキャリアアップにつながっていることを知ってしまった瞬間興は冷めるでしょう。本当に彼女の品の良さに恋していたのに、たまたま結婚したら資産家令嬢だった、みたいな。多少萎える。というわけで、軽いクラシックファンとしては、こういう業界に行きたくないな、と思った、新橋の居酒屋で上司や同僚と、巨人の今年の行方と、『サラリーマンNEO』の原史奈の魅力について語り合って出世の糸口をつかむのとどっちが良いだろう?


 でも、確かに彼の言っていることは本当で、この前、NYにいくバスの中で隣になった75歳の元大使婦人の方が延々と4時間話かけてきましたが、オペラに関する造形は非常に深く、「魔笛とか、ずっしり重い感じのモーツァルトのオペラが好きかもしれません」といったら、やれウィーンでみたときだの、ベルリンでみたときだのと延々と知識を披露してくださった。

 ま、国際的なエスタブリッシュメントを目指すのは色々大変みたいです。好きであれば好きなりに悩みは尽きないし、嫌いであれば苦行が続くと。


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2008年05月09日(金)



 パブリックイメージ・資本・見合い戦略

 論文を書いていていかにページ数を稼ごうか?と考えていると(なんせ100ページもかけっていう指導教授がいうものですから)日々目の前におきたこととか、読んだり聞いたりした理論をこじつけたくなる。

 なるほどソーシャルキャピタルとは、共同体における信頼とか観念とか黙示的な了解事項の集積と考えていいのかな、なるほどね。ふむ・・・。

「どうして私とディナーなんて行きたいの?」
「ほら、共同体の生産性向上にはソーシャルキャピタルへの投資が必要だ。そのためには、私たちは分かり合わなければいけない・・・」

焼きそばに紅ショウガ、カレーに福神漬けはソーシャルキャピタルだろうか?韓国人はなんにでもキムチだがあれはなんだろう?

ビールをたのむのに、「とりあえず」と枕詞をつけない奴が出世できなかったらそれはソーシャルキャピタルの負の側面と考えて良いのだろうか?


 などなど。その思考の飛びようと言ったら自分がキチガイになったんじゃないかと思ってくる。(社会科学ならではか?)ところがちょっとおもしろいことを思いついたこともあった。
 前回のエントリーで、自分の世間のイメージは自分の本来的なものではないと思われている若者が私の部屋に乗り込んできた話をしました。そんなパブリックイメージでいいことを思いついたので、今日のエントリー。(前フリが長いね。だから瑠さんによんでもらえないんだろうか?)

 世間のイメージとは、いわゆる「パブリックイメージ」ですよね。それもやはり、個人や集団が他の個人や集団との継続的な相互作用の中で生まれてきたものといっても良い。例えば「いやー俺って10歳以下の少女しか愛せないんだよね」と一度や二度いったところで冗談か?と思われるが、それが数年にわたって言い続ければ立派に変態としてのパブリックイメージは構築できる。

 かなりソーシャルキャピタルだ。キャピタルとは、日本語でいうと資本でしょうか?生産活動を行う元手になるもののこと。つまり、活かしてなんぼ、ということですよ。パブリックイメージもそう。

 この間の若者は、自分のパブリックイメージが気に入らずに悩んでいましたが、キャピタル(資本)である以上活かした方が良いのかもしれない、と思った。

 電通やゴールドマンの社員だったらそのパブリックイメージを活かして、合コンでおいしい思いをしたほうがいいかもしれないし、お嬢様大学(そんなの今あるの?)出身だったり、成城に自宅を構えて居るたりしてるんだったらそのパブリックイメージを活かしてセレブ風清純路線で見合いを進める方がいいかもしれないし、入れ墨をほってるんだったらそのパブリックイメージを活かして、恫喝でもってセールスをのばした方が良いのかもしれない。この写真のようにしたり顔でちょっと手の込んだパワーポイントを使って話をすれば頭が良い、と思われるのかもしれない。


 所詮、資本なのだから活かしてこその資本。その先のベネフィットは最大化した方が良いのではないかということですよ。

 さて、お気づきのことかと思います。
 自分のパブリックイメージは資本だから利益を最大化するために活用されることをおすすめしますが、逆に言えば、ゼロサムゲームな熾烈な駆け引きを求められるビジネスシーンでは、相手のパブリックイメージにだまされちゃいけないということですね。

 借金背負った外資系金融マンもいるかもしれない。その彼女は清純派AV女優かもしれない。田園調布の六畳一間のアパート(実際あるんですよ!)に住んでいるのかもしれないし、その入れ墨だって高校の頃のイジメの傷跡なのかもしれない。上の写真のお兄さんはタダの飲んだくれかもしれない。


 MBAの学生と話していると、二言目には、デューデリだ、デューデリだ、といってきますが、全くその通りだと思います。しかし、そんなパブリックイメージなどバイアスが世の中に蔓延してるからこそ、経済は古典経済学の予定する正規分布にならないわけで・・・。あんたの出身のその投資顧問事務所もサブプラで随分だまされたんじゃないのか?といいたくなる。

 あなたのパブリックイメージはなんですか?どう活かしていきましょう?
 ほら、今日はお後がよろしいですね。

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2008年04月27日(日)



 私とチャオズの関係性

 珍しい短期更新。(ええ、論文が行き詰まっているのでね。現実逃避ですよ)

 一般的にアメリカの大学学部生は寮生活が基本です。それは日本のように一極集中した形態を取っていないので、有力な大学が本当に散らばっているからですね。(マサチューセッツのような例外もあるようですが)さらに、この大学は山の中にあるもので誰もがみんなで一緒に小さな街に住んでいるようなものです。

 キッチンにて、ルームメイトと・・・。

ゴホゴホ。ゴホゴホ・・・。うー。
「まだ、咳続くね。大丈夫?」
「うん。どうしたもんかね。でも食欲はでてきたので今日は先々週に大量に作った餃子(チャオズ)をたべようかな。まだ冷凍庫にあるよね」
「そうしよう。私もそれでいいや」
「うん。じゃ、そうしよう。私が茹でるよ」
「ところで、どうしてチャオズなんて中国語知ってるの?まだ教えてないよ。」
「あー日本人なら誰でも知ってるんだよ。その単語はね。クリリンとかテンシンハンとかも必須単語だよ」
「え?なにそれ」
「こっちの話。」

 なんて会話をしていると、ドンドンドン!スチール製のやすっぽい我が家の戸をたたく音が。誰よこんな時間(夜九時頃)に。
 戸を開けるとなんと去年教えた生徒が立っているじゃありませんか!
 どうして私の住所を?あーそうだ。大学のポータルサイトから電話と住所がしらべられるようになってたんだ。飯時だってのに・・・。
どうやら相談があるそうです。何度も言うがいつからこの大学は高校の乗りになったんだ?大学のインストラクターに人生相談なんて。と心の中でつぶやく。突き放すわけにもいかないので、ルームメイトにお茶とお菓子を頼み、自室に案内する。(っていうか、こう思い返すとルームメイトが嫁みたいだね。本当にルーミィ以外なにものでもないのですが)


 その晩やってきたのは韓国からの留学生。「君、韓国語で話すのはだめだ。せめて英語にしてください。最近韓国語は使ってなくてね。・・・。まず聞きたい!学部の一年生は多くの授業を取っているはずだし、若いインストラクターなら他にもいるでしょ?日本人がいいなら、そうだな、もっと信頼できそうな樹本さんなんて良いんじゃないか?」
「いや、この前、ジョナサンが先生の部屋に行って相談にのってもらったってきいて。ほかにもタマラが日本に行ったときしゃぶしゃぶご馳走してくれたたって聞いたから。Kiyo先生ならプライベートがオープンかなって思って
 大いなる誤解だ。いずれの例も勝手に押しかけてきただけよ。あっちから。

 ともあれ、私が咳き込んでいるのを無視して自分の問題を語り出す。
内容は、あらゆるアメリカの大学で形成されてる韓国人社会の話。韓国からの留学生は、アメリカの有名大学に留学ができる頭がよくてお金があるエスタブリッシュメント(日本語だと「セレブ」というんでしょうか?)として、いわゆる「俺らは選ばれた人たちだよな。しょんぞそこらのソウルの大学や日本あたり留学してお茶を濁してる奴らと訳が違うよな」という仲間意識でもって接してくる。他方、アメリカ育ちの韓国人は、「このアメリカにおけるマイノリティとして一緒につるもうや。薄情な白人どもとは付き合いきれないぜ」という仲間意識でもって接してくる。どっちの仲間意識も自分を自分として見てくれていない気がする、どうしたものだろうか?俺個人を考えた上で友達を作っていきたいが、私の韓国人としての属性しかみてないんじゃないか?かといって、彼らは基本的にまぁまぁ良い奴もいるから、無碍に付き合わないのもどうかと思う。


 という内容でした。聞き終えた後に、「私が修論で忙しく、風邪を引いて、晩飯どきに、そのうえアポ無しで相談をしなくちゃいけないことだろうか?そういう空気の読めないところが半島出身者の証だからどっちのコミュニティでも上手くやっていけるんじゃないか?」と思った。思っただけ。桜の咲き誇る季節(そうです。今が満開です)につっけんどんなのもどうかと思ったので、何かいってみることに。

 やっぱりこの人も、この前相談にきた奴と同じことに気付いた。この前の男の子は「人と違った何かをしたい。大勢に流されず自分らしく生きていきたい」ということだったが、この人の場合も「自分をちゃんとみてくれ。おれはそんなカテゴリーには入ってないぞ」ということだった。自分と他人との関係性

彼らの期待を裏切るようなことをしながら付きあい続ければいいんじゃないかな?韓国から留学生に対しては、貧乏っぷりを見せつけたり、『いや、おれは卒業してもMBAやPhDには全く興味はない。料理人になる(そうなんです韓国社会では料理人の民度が低いのです)』と公言すればいいし、アメリカ育ちの奴らには『今日もジョンとバスケいってきたがすごい面白かったよ。今度飲みにいくんだ』といっていれば、彼らのあなたへの期待を裏切れる。」
「なるほど」
「そう、期待を裏切ることは大切だ。相手の前提をはずすことができるからね。前提が崩されたときに人はもう一度最初から認識をし直す。そのときには君のことを最初から考えてくれるはずだ。その上で君とつるみたい奴はつるんでくるだろう」


 なんて話をしたら帰って行った。アメリカで学部生活を送るとこんな悩みをもつのか。少なくとも私の知る限り、日本の学部生は他人との関係性なんてあんまり気にせず、葛藤はもっと内なるものにあったように思う。かわいくない自分とか、面接がうまくできな自分とか、浮気をされる自分とか。いずれにしても、講師に相談することなんてあり得なかった。この違いはどういうことだろう。

そう思って階下におり、夕食を食べた。私のチャオズは冷めていた。元気をくれ。

【追伸】写真は昨日撮ったもの。二枚目の写真で、木の上に少女がいるのがお気づきだろうか?


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2008年04月24日(木)



 風邪と不確実性のブラックスワン

 さて、季節もかわりはじめているイサカです。去年もそうだったように記憶していますが、春をスキップしているようです。いきなり暖かくなり、私も半袖で学校にキャンパスまで行くことが多くなりました。冬でも夏でも、太陽光がきらいな私はサングラスをしていますが、そのほか、すぐに帰ってくる予定の場合には(夜に帰宅が及ばない場合には)短パンでだってキャンパスに行きます。

 ところが、実はここ四日間風邪をひいて寝込んでおります。変だなと思ったのは金曜日の夕方(実は先週の木曜日・金曜日はまれに見る激務だった)すこし喉の痛みを感じたんですよ。そのときは危ないという認識はなかったのですが土曜日にはすでに寝込んでおりました。


 原因ははっきりしていてイレギュラーな予定が入ったんですよ。あーそこで無理をしたのか、と。無理が利かない体になったあたりを加齢のせいにしていいのでしょうか?それとも、季節の変化により体に感じないくらい徐々にストレスがかかっていたんでしょうか?

 何はともあれ、月曜日の朝一で病院にいって薬を処方してもらってそのまま部屋の中で倒れております。心配した中華ルームメイトは、右往左往してくれていますが、本当に気にしないでほしい、と思う。香港産の薬を持ち出されたときは命の危険を感じたので丁重にお断りしておきました。


 こういう生活(大学の中で本を読んだり考えたり書いたり、偶に人と議論をする)は一般的な商売に比べて別に楽じゃないと思うのですが、やっぱり「不確実性」を相手にすることはないですよね。ほとんど予想の範囲内。今日の話はそんな話。

 どうやら、大混乱祭り中のアメリカの金融業界ではヘッジ可能(予測可能)な「リスク」と予測不可能な「不確実性(uncertainty)」とをどう折り合いをつけるのか、というのが最もホットな話題らしく、『Black Swan』(Nassim Nicholas Taleb 2007)(参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Black_swan_theory)がめちゃくちゃなベストセラーらしいです。講義でも何度とりあげられたことか。

 つまるところ、日本のレストランで、店員がミスって客の頭にコーヒーをぶちまけても、せいぜい訴えられる、胸ぐら捕まれる、一週間程度のけがだろう、じゃ、その確率とコストを計算して、保険などでヘッジしよう、という話がリスクヘッジで、そのコーヒーかけられた客が店に自爆テロまで起こす、という突拍子もないことが不確実性ということですよね。そんな突拍子もないことがおきたときに我々の対処はどうあるべきか?ということらしいです。(例は私が作りましたので本当に適切かどうか分かりません。いま金融業界でおきているのはまさにその突拍子もないことなんだとか。)

 それはそうと、日々触れあう人が多くなればなるほど不確実性がおおくなるわけで中々ヘッジ出来なくなる。他方で、私の生活は、本や論文との対話が70%で、あとは少しの講義と、先生やグループとのミーティングです。だから、本の中の著者は私にウィルスを持ち込むことはないので、他人からうつる風邪なんて限りなく不確実性に近い、そういうことを前提として予定を組んでいるわけですね。(実働時間としては一般に働いている方と同じか、それより少し多いことかと思われます)

 そこにイレギュラーなお客様がいらっしゃると、途端に私の生活リズムが狂い色々不確実なものと向き合わなければいけないというわけです。するとこの論文提出を目前に控えたこの時期に風邪を引いたりするわけです。何も読めないくせに、頭は多少なりとも働き、なりやまない咳のせいで眠れないものでこんなことばかり考えていました。

 それでも、予定は動き続ける。スケジュールを一杯一杯に組み、余裕のないことをしていると、不確実性による混乱のダメージは乗数的にでかくなる典型を身をもって体験しております。ま、ありえないことを不確実性と定義しているのだから、そのための余裕などそもそもナンセンスなんですが、少し代替可能な予定を組んでおくべきだったと後悔しております。例えば、ゴルフのスケジュールを週三回入れておいて、万が一と言うときはそれを全て勉強に充てることが可能だとか。おお、まさに流動性の確保ということじゃないか!  

 というわけで、学期末ということもあり絶対に休むことが出来ない状況が続いておりますので私はマスクをして這ってでも予定をこなしているわけです。後悔先に立たず。


 今日は本当にマニアックな話になりましたね。今日はコメントもメールもないだろうな・・・。きっと最近拙宅にいらしたNさんあたりしかほくそ笑んでもらえないかもしれないネタでした。


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2008年04月23日(水)



 同居人との食生活

 実は、二月の終わりに引っ越しをした。なんか海外に来てからどんだけ引っ越しをしたのだろう、と思うほど何回も引っ越しをしたから随分手慣れてきた。日本にもし帰ることになっても、小金が貯まったらすぐ引っ越しを繰り返す生活をしてみたいと思ってきた。所詮、机とブロードバンドとノートと簡単な本棚があれば、どんなに狭くても構わないんだなって思った。最近は読む物も全部ハードドライブに詰まっているご時世だし。

 今回の目玉はルームメイトと二人暮らしということだ。ルームメイトは私より年上の中国人の女性で、入学以来同じコースで、しかも環境保護関連に興味があるということもあり仲良くしてきたので、すんなり話は進んだ。

 お互い、図書館ではなく自室で作業をするタイプということもあり、引きこもっている。隣同士で引きこもり、ご飯時や散歩時になるとMSNメッセンジャーで「何食べる?」とか「散歩に行くか?」などの会話をする。(ノックをしないあたりが、ヒッキー全開だ


 どちらともなく、私が作る、という話になるので、相手が主張したときには従うことにしているが、驚いたことはオール中華。中華料理店にあるような感じじゃなくて、とても素朴でおいしいので全く問題はない。その上、そこかしこに、今まで見たことないようなスパイスをブレンドしたり、甘い中華ハムが出てきたりと目と舌を楽しませてくれる。毎日楽しみだ。でも、毎晩中華。お昼ご飯を作れば、やっぱり中華風麺類。こんな感じ。おいしそうでしょう?


 ところが、しばらくして、驚いている私が驚かれなければいけないことに気付いた

「kiyoが作る食事はとてもおいしいけれど、どうして日本料理が少ないの?パスタとか、オニオングラタンスープとか。確かに、このサーモンの香草焼きとか、ご飯がついているけど日本食じゃない感じがする」

 なるほどね。日本人の食生活って典型的な日本食じゃないですね。ま、元をただせば天ぷらだって、すきやきだって外国の食べ物をまねた物なんでしょう?日本人は結構柔軟にできているんですね。

「子供の時からやっぱりこんな食事だった?」と聞かれて、やっぱりハンバーグとかミネストローネとか印象があるかなー、こういう私の料理より母の料理は遙かに雑だったけど・・・と答えると意外そうな顔の中にも微笑みがもれたのものです。


 ま、アジア食材のスーパーもほとんど行かないし。日本人は結構進歩的においしい物なら何でも食べていたんだな、と気付きました。というわけで、少しは日本的なものを食べてもらおうと、日本から届いた私の大好物「ちりめん山椒」を冷蔵庫から取り出してきて食べさせたら(いつもは私の夜食用だ)感激していた。韓国人には受けが非常に悪かったが、中国人は、あの甘くて偶にぴりっとくるちりめん山椒が好物らしい。

 と、思って一週間たったらタッパーの中のちりめん山椒が激減していた。勝手に食べたな・・・。腹いせに、マカオで買って持ってきたという肉の甘辛煮のおやつを沢山たべた。こういうのをチキンゲームというんだっけ・・・。

ま、共同生活も楽しみがいがありますね。今晩は一緒に作ろうか、餃子でも。

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2008年04月15日(火)



 散歩の目線

 イサカもいよいよ暖かい日が一週間に二度くらい訪れるようになってきました。すると、虫やリスさん達とさきを争うように、広場では学生がフリスビーやキャッチボール、テニス、サッカーに興じ、家族連れやカップルは、近くの州立公園の森に繰り出すわけです。ほほえましい。

 私も、そろそろ散歩やジョギングをしだすわけですね。腰の状態を確認するために長時間散歩をしてみました。延々と続く草原を一時間歩くとやっと林が見えてきたり。鹿にみつめられながら、さらに歩くと川にぶつかったり。なるほどね。これが冒険譚の世界な訳だ。(ちなみにこういうときにはi-podは不要だと思いませんか?)

 そんなことを考えていると、そういえば日本でもよく散歩してたけど何かが違うと思ったのです。なんだろう・・・。私が楽しかった散歩といえばなんといっても杉並だが、地方にいって一番楽しかったのは、盛岡だろうか?あのうっそうと茂る森の中を歩く気分は何ともいえない。蒸し暑くて歩くのが大変でも、何かが違う。こっちが良いとか悪いとかではないのですよ。

 ま、違いはたくさんあるんですけどね。土の色もちがうし、それにともなって植生もちがう。私は、環境保護と開発の関係を勉強している割には全く植物学について詳しくないので、ああー色が違うなー、とか、大学受験の時に選択科目にした地理の中で、○○気候だから、気温の変化がどうこうで、植生がこうなる、っていう暗記的なことしか思いつかないのが寂しい。

 それでも、一歩一歩踏みしめながら歩くと、「あーそういえば、この前の『生物多様性』についての講義で、土の中にある目に見えない『多様性』について考えるために顕微鏡で色々覗いたんだよね・・・。私の足の下にもそんな多様性が潜んでいる訳か」なんぞ思い出して、学費を取り返した気分になる。(費用対効果の無駄としか言いようがない)

 そんなこんなで、ま、日本の散歩とここでの散歩との違いに気付いたわけですよ。

 それは視線。

 日本の散歩だと半径一メートル範囲内の小さなことがきになってしょうがない。一本一本の木や、それこそ木の根っこが楽しい。それぞれの木に「威」があるような気がするのは、八百万の国だからだろうか?(変換していて気付いたが「異」でも良いだろうか?)霧に抱かれると眠くなりそうだし、根っこからはヌラヌラとした魂が呼びかけてきそうだ。そんな森でピクニックをしようものなら、弁当を取られかねない。

 そこいくと、ここの散歩ははるか何キロ先の地平線を眺めながら歩いている。(ま、それでも「威」がある奴(木)にでくわすが、その木のウロからは、毒リンゴを食べると助けてくれるような小人か、奇妙な花粉を飛ばす妖精がでてくる気分だ。いずれも人型だ。)是非とも弁当を分け合いたい。

 ま、そういうことだ。この人里離れた場所にいると、つねに世界平和とか、地球環境とかそんなことばかりで、自分の足下は見落としがちだということだよ。


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2008年04月08日(火)



 夜に集う人々

実は今週一週間は春休みでした。日本の大学にはないシステムかと思いますが、学期の真ん中に一週間休みがあるわけです。修論を全く進めようとしない私にアドバイザーも愛想をつかしていますが、それでも私の足はスキー場に向いてしまう。もうこの冬でスキーは引退しようという決意の表れなのか、単に勉強がしたくないだけなのか・・・。(前にも書きましたが骨折を押してまでスノボをし続けるマイミクさんに触発されたことは否めない)
 
 私の住んでいるところから車で約30分。スキー場はあります。高速フード付きクワッドリフトなんてあるわけもない、鈍行のペアリフトだけの小さなスキー場ですが、自前の道具とシーズンパスで楽しんでいるのはこの前書いたとおりです。

 3月も終わりだというのに吹雪きだったので喜びいさんで新雪の上をすべっていると8時間も連続して滑っておりました。スキー場だと何を食べてもおいしいですね。こういうときは、カロリーとか健康とか忘れて、めちゃくちゃに食べるのがコツです。でっかいチーズバーガーと、超高温であげたカリカリのポテトフライを食べまくる。外の吹雪をみて、早く外に出たくなる衝動に駆られるのはもう狂っている証拠です。一人で食べてると、平日の昼間ということもあってか、話かけられたりして・・・。
「コーネルの学生だろ?いいのか?こんなことしていて」
「あ、そうか。スプリングブレイクか・・・。あの学校は大変らしいからな。せいぜい楽しむんだな」
 ってひげ面のおっさんに言われた。
 心の中でスプリングブレイクだろうと、私はスキーを楽しんでいる場合じゃないんだけどね・・・と心の中でつぶやく。


 そうなんですよ。この国の人の特性なのか、この町の人がいい人なのか知らないけど、ペアリフトで隣になろうものなら話しかけられるんですよね。英語嫌いなのに、毎回毎回いろんなこと聞いたりしてくるんですよ。

 そんなこんなであっというまに夕方になり、日は落ちる。ナイターに。

 ナイターって、スキーが好きな人じゃないとしないんですよね。ちょっと冬に楽しみを、というわけじゃなくて本気で好きな人が多い。考えてみれば、晩年の「ザウス」(覚えていますか?幕張にあった奴ですよ)も上級者しかいなかった。


 というわけで、滑りながらも色々人のこと観察してる人が多い。そんな中、ある日、リフトで一緒になった女の子に
「あなたって上手いのね。さっき見てたの。教えてよ」
って言われたんですよ!お。ついにアメリカ人の彼女が出来るチャンスか? (゚∀゚) と思いましたよ。ところが、よくよく聞いてみると、地元の中学生の女の子。私のこといくつだと・・・。そもそもゲレンデだと、かわいさもかっこよさも三割り増しだっていうし。きっと何か勘違いしてるんだろうな・・・。っていうかそもそも中学生とか犯罪じゃね?(確か、バーモントで韓国人留学生が中学生襲って大変なことになったニュースがあったし)なんか、話口調からすると少し変わった娘みたいだし・・・。不思議なこともあるもんだなー。これなら、また隣になったおじいさんに「君のスキーはカービングスキーを理解していない。20年前のスキーを見ているようだ」って説教された前のリフトの方が良かったな。

 なんて心の中でまたつぶやくわけです。夜のスキー場は面白い人が集まってるものだなー。やっぱり好きな人しか集わないものだからお互い「戦友」感を共有するんですよね。厳しい寒さと疲労感もそういう感覚を増幅させるのかもしれない。


 登山中に挨拶を交わすようなものか?マラソンで併走した人と走り終わって和むようなもんか?フライトのキャンセルをアナウンスされ航空会社にホテルをあてがわれ、手持ちぶさたで行ってみた階下のバーで出会った人と途端に恋に落ちるようなものか?(結構あるんですって!)就職試験の帰りになぜか友達ができる人も多いし。

 ま、いずれにしても皆さんフレンドリーになる。氷点下の雪山で夜の中黙々と憑かれたように滑るのもまた一興なのですよ。憑かれた人同士ね。

 私は会話を交わすのは人見知りして、厭なんですが・・・。


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2008年03月22日(土)
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