NY州在住 <旧『東京在住』・旧旧『NY在住』>
kiyo



 昨年のこの日

 実は昨年のこの日は私がNYに降り立った日なのです。一周年記念。万感の重いとは裏腹に、日本で応援してくださった友人など後ろ髪惹かれる思い出JFK空港からタクシーでマンハッタンに向かったのを覚えています。亮に到着し手続きを済ませると、実は何もない部屋で、急いでその日寝るための準備をしたものです。その日は確か、コートを二枚重ねて寝たのでした。(暖房も満足でなかった)翌日Kマートに布団とシーツを購入、しかも雨の中ずぶぬれなりながら帰ってきたものです。数日間はベーグルだけで過ごし、これで大丈夫なんだろうか?と不安だった気持ちは今も忘れません。
 一年がたち、日常生活習慣も英語での生活にもなれ、やはり私を支えてくれるかけがえのない人たちと出会うことが出来ました。それでもやっぱり日々連絡やメールを絶えず送ってくれた日本の人たちは、私にとってどれだけ支えになったことでしょう。そしてそんな大切な大切なつながりを一番支えていたのはこの携帯電話。j-phoneで唯一北米対応、第三世代・第二世代両方に対応し、テレビ電話も可能にしています。いずれにしても30年以上前に父がこの国に留学したときは隔世の感があるのでしょう。ちょっとこの携帯に感謝。だから一年目の記念に、この携帯電話の画像を。





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よくがんばってくれた。
これが私と日本を繋げていたボーダフォン。
(まるでボーダフォンのCMのようですな。東くん。)

2005年01月04日(火)



 クリスマスの残骸

 有名どころのツリーは延々と残っていますがいつ片付けるんでしょうか?(ロックフェラーセンターとか)ま、見に来る人がいるんだからそれでもいいかと思いますが・・・。新年四日あたりから大きなビルにあるツリーなども片付けられ始めていると聞きますが。
 去年お話したとおり、なぜかNY(というか、アメリカの人)は本物志向らしく、モミの木もわざわざ山から切り出してきた本物を露店で買っているようです。もったいないな、と思っていたら本当にもったいないことを。路上や公園に使い終わったモミの木がわらわら街にあふれております。それを回収するトラックにはまるでヤマアラシのように膨れ上がった荷台が・・・。。゜(゚´Д`゚)゜。ウァァァン
 一抹の悲しさと新年が始まる気分が入り混じります。





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毎日うずたかく積まれている。
まだ青々としているのが余計痛々しい。

2005年01月03日(月)



 そして新年へ

 NYの新年・クリスマスをぜひじかに見てみたい、と思ったことが年末年始に日本に帰らずにいた理由です。そして私はそれをつぶさに見ることが出来ました。ニューイヤーは私は予約した大好きなレストランで過ごすことに下のですが、カウントダウンを共にはじめようと、レストランもシャンパンを提供し、不思議な被り物やクラッカー、笛、おもちゃなどを用意してくれて、ジャズのバンドがその瞬間を盛り上げてくれました。アメリカらしいとてもいい新年を迎えられたと思います。
 日本のように「ゴーン、ゴーン」と除夜の鐘と共に静かに新年を祝うのも一つですが、カウントダウンを皆でして新年の到来を拍手で迎えるのもまた一つだと思いました。そしてそれを生でしかも、NYで過ごせたことはなかなか幸せなことだと思いました。
 2004年はHPを中心に本当にお世話になりました。2004年途中からはじめたこのコーナーも前回のコーナーより好評をいただいているようですし、(ところが、初代「おやすみICQ」よりは・・・(つд⊂)ま、気を取り直してもっと沢山の人が着てくださるよう更新を頑張ろう!来年は。)なにより、応援してくださる声が届くことだけでも私にとって一人この国で過ごすことの糧になっておりました。
 2005年、果たして私はNYに居続けるのか、それとも、この国にすらいないかも知れません。そんな先行きの不透明感は新年を迎えるに当たって、否、この数年間の新年を迎えるたびに私の心にまとわり着いた不安でもありますが、そもそもその年がどうなるか、どう終わることになるのか、なんていうのは不透明感の程度の差でしかなく、いずれにしても誰にも分からないわけです。ただ、目の前にある時間や責務をこなし、ふと顔を上げてみると友人との語らいが会ったり、心安らかにしてくれる芸術に触れたり、その連続の上で幸せと不幸が巡ってくるわけです。それでもやっぱり私は横を向けば私の大好きな友人が共に頑張っていてくれることを望んでやまないのです。そうすれば私だって頑張れそうな気になりますものね。
 2005年、いい年になりますように。

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誰なの?この人たち?わからないけど、
ま、目出度そうだからこれで新年を祝うことにしました。

2004年12月31日(金)



 寒さ対策の一こま

 NYは寒くなるときは本当に想像を絶する。そりゃ氷点下なんてお手のものです。それがマイナス二十度とかになってしまうから凄い。ま、そこまでなることは稀ですが、それでも日中で氷点下五度なんてのは冬は普通です。夏の時分は、デリの店頭で売られている果物や野菜、花これらは腐らないように氷を常時張っておくのは大変なことだと思っていました。そして、冬になってみて思ったのです。これら普通に凍るよね?と。やっぱり私が心配する前に対策は採っていたみたいです。
 店先にビニール製の蚊帳を張り巡らせ、その内側にはヒーターを設置するというわけです。これで中は氷点下にはならずにすむ。つまり、商品を凍りつかせずにすむというわけです。なるほどね。その日の気温によってこの「蚊帳」をだしたり、ださなかったりするようです。これがお目見えするのもNYの冬の一こまなのかな、と思ってしまいました。





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まるでお店が外套を着ているよう。

2004年12月27日(月)



 カルガリーでの名写真

 ちょっと発見したので紹介させてください。
 私がカルガリーに行ってきたのはご存知のとおり。そこで写真を整理しているととても面白い写真を発見しました。
 後ろに移るのはオオカミです。イヌガミさまかもしれません。(イヌガミさまはもっと大きいし、モノノケヒメを乗っけているはず。)なんとなく写真を撮ってみようとしただけなのに、なんでしょうこのカメラ目線。カルガリーの動物園の動物は客もなく、豪華な環境でとても幸せな動物園の動物だ、と思っていたのですが、こんなところでファンサービスをしてくれるとは・・・。





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携帯で撮影したため画質はよくない。

2004年12月26日(日)



 クリスマスツリーの下で

 世界一有名なクリスマスツリーといえばロックフェラーセンターのクリスマスツリーですよね。本当は紹介使用かどうか迷ったのだけど紹介させてください。来年もし、この国にいるとすればこんなべたべたなことはしません。でも、世界一有名できれいで大きいだけあって、いろいろな人がこの木を見に訪れます。遠めで見ていると、いろいろな国の人がその木下に集って笑っています。なかなかほほえましい光景です。有名だからといってそっけないわけでも、派手派手しいだけのものでもなく、実は暖かな気分にもさせてくれるクリスマスツリーでした。
 





↑意外な秘密が明らかに

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電飾が何万個も取り付けられとてもきれい。

2004年12月25日(土)



 クリスマスイブ

 日本にいたときは、クリスマスイブに彼女・彼氏と過ごさないなんて、なんという寂しいことでしょう・・・、というプレッシャをひしひしとテレビをはじめメディアは人々に与え続けていたように思えますが、ここではなんだか、盛り上がりは見せているものの、それは一月以上まえからのことで、そこに変化は見られないようにも思えます。(日本にいたときから私はこれに意を解した覚えもありませんが・・・。)あと、日本ではイブのほうが本番よりも盛り上がりを見せていたように思えますがどうでしょう?
 本物志向なのか、NYの街角では、まるで正月の松飾が道端の仮説店舗で売られているのと全く、本当に全く同じ要領で、モミの木が売られていました。これにはびっくり。本物のモミの木だけに近くを通ると木のいい香りがしたものですが、売れ残りまくっていましたし、どうせ25日過ぎたら捨てられちゃうんですよね。ちょっともったいない気がします。
 ということで、我がアパートの玄関にあるツリーを紹介してイブは終わり。
 





↑意外な答えがあります。本当です。

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実は従業員の人じゃなくて、業者まで呼んで設置されたツリー。

2004年12月24日(金)



 馬と警官

 いままでずーっとNYにきたときから思っていたのですが、あれは、観光用だと思っていました。ところが、実際自分が群集となって、交通の妨げになるくらい道路にはみ出てみて、コレで交通整理をされてみると効果抜群なことが分かります。決してみな、近寄ろうとはしませんし、わらわらわらわらと、まるで光を当てられた団子虫のように群集はよけ始めます。( 私はデモっていたわけでもなんでもなく、ただ千秋楽でヒュー=ジャックマンの出待ちをしていただけなのですが・・・)
 そう、騎馬警官です。そこらの馬車を引く馬と違って小柄でスラリとしていて気品高い。そして糞をしない。警官のことを良くきく。他人がナデナデしてもあんまり気にしない。(その点、警察犬をなでさせてもらったときにはごろごろとまるで猫のようにタレておりました。)
 





↑くりっくしてみ。

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尻尾の先まで手入れが行き届き大変美しい。

2004年12月23日(木)



 極寒到来

 あれ、朝から雨かー、へー。
 そして夜になって雪になっている。
 そして朝になっていつもどおり、ネットで気温を見てみると・・・マイナス13度。

 キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
 
 極寒です。二十分以上野外活動ができない世界へと変わってきます。
 一番最初にすんでいたところは、ハドソン川が見渡せ、その氷具合でその日の気温を見ていたのですが・・・。Tシャツにトレーナ、ロングコート、マフラーそれだけでは明らかに不十分。さて、この上どうしろと?
 毎日着るものに気をつける季節です。それは人目をはばかってのことじゃありません。どのようにしたら凍えないですむか?ということです。
 





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自室の窓よりブロードウェイを撮影。
見るからに寒くなっている。

2004年12月20日(月)



 カルガリーの事の顛末 その4

 前日、朝のの九時までおきていたので、非常に眠い十一時の朝。二時間しか寝ていないのか・・・。色々準備をしていると十二時になる、荷物をまとめて、空港に向かうことにする。そう、いよいよカルガリーを出発してNYに帰ることにする。
 公共交通機関を使えば安く、空港までいけるかもしれない、と思ったのだけど、郊外まで延びていて田舎にしては充実している交通網も実は、ダウンタウンから空港までは延びていないことに気づく。参った。(これで何度目だ?)
 タクシーで向かうことにするのだけど、とてものんびりした運転手だった。途中、牛さんや馬さんが住宅街の中にある広大な(←変?)牧場でのんびりしている。初めて馬が寝転んでいるのをみた。大丈夫なのかな?
 ブリトニー=スピアーズのクリスマスソングにのりのりな運転手さんが、ついに空港に届けてくれる。空港のセキュリティを抜けるのに、いつもと勝手が全然違う。空港カウンターでチェックインを済ませると、預けるべき荷物をもったまま色々なコーナーを廻ることになった。というのも、合衆国の通関チェックをカルガリー空港内で済ませるシステムになっていたのです。ビザやI-20のチェックを受けるのにそれなりに時間がかかったけれども、なにしろ乗客の分母自体がすくないものだから、列にいる人数も二・三組しれたもの。さすがカナダ。これが成田やNYだったらこれだけで疲れるんだ。
 ところが!くじ運が悪く、ランダムセキュリティチェックという、飛行機に乗る際のチェックで厳重なものにあたってしまう。アメリカの係官と違ってカナダの係官の対応や言葉遣いが丁寧だったのでそれなりに悪い印象を持たなかったのですが、検査官二人、その証人一人、火薬探知犬一人(実は一匹だ)に取り囲まれる。でかでかとこの人は「くじ運が悪く訓練に参加させられているんですよ!」という趣旨のカードを持たされているので、みんなかわいそうに・・・という眼で見てくれていた、と思う。きっと、そう。
 いよいよ、またちっちゃい飛行機に乗ってカルガリー国際空港を離陸。上空から見るカルガリーの街は思ったよりも大きく、整然としていた。「あ、あの川の中州にある動物園にいったんだ!あのあたりがカナダ動物ゾーンで、あのあたりにアフリカ動物ゾーンの建物があって・・・、カバさんはあそこで泳いでいて、あの変のゲート前の檻に虎さんがネコネコしてて・・・」なんてことが想像されてちょっと寂しい。きっとこの次あの子達と会うのはひょっとしたら何十年後、いや一生ないかも知れない。(スキーが死ぬほど好きなのできっとあるね、この街に来ることは。そしたらまたあの動物園に行こう。25年目の誕生日を一人で動物さんたちと過ごしたあの動物園に。そのときは誰かと一緒かな?その人にその日のこと話したら笑ってくれるかな?)
 「ばいばい、動物さんたち」

 この写真のように、川の中州の大きな島に動物園が作られていた。
 そんな哀愁を漂わせながら飛行機の窓から去り行くカルガリーの街を眺めていたら案の定睡眠不足からすぐに寝てしまった。となりには、やっぱりブリトニーそっくりな格好をした若々しい高校生か中学生くらいの姉妹を連れた(あと、典型的なデブ息子)ダンディで細みなお父さんだった。ちょっと話したけどとても気のいい人だった。あの人はどこに行くんだろう?っていうか娘たちに慕われまくっていた。お父さん冥利に尽きていることでしょう。
 (たしか、私だって高校三年生の女の子から「kiyoくん」呼ばわりされた。先生冥利に尽きた、気分でいられる。あの時はまだ24だったから、もう無理なのか?)
 行きより遥かにつらくない空のたび。所要時間を知ってちゃんと覚悟しているとかくも楽なものか。とりあえず、『Φ(ファイ)は壊れたね(森博嗣、2004年)』を一冊。約三時間の旅。
 ミネアポリスに着く。行きは、深夜だったせいか、閑散としていたけど、到着したのが六時ころ。結構賑わいを見せている。いずれの店も、ハンバーガーしか売っていない。羽田空港に蕎麦屋は何十軒もないぞ、なのに、どうしてアメリカはハンバーガとサンドイッチ屋が軒を連ねているのだろう。
 飛行機の中で、カルガリーの空港で買ったアンガスビーフハンバーガを食べていたので、全然空腹じゃない。(「ハナドアンペコッパー!」@韓国語)

 このような店しかないのが不思議だ。選択の余地がない。
 次のゲートは・・・、「C1」。空港でこの名前を聞くと輸送機か?と思われるかもしれませんが決してそんなことなく、ただのポート番号です。
 アメリカでもそうなのか。ちょっとがっくりきましたよ。覚えていますか?行きにカルガリーに乗ったときはポートは「C28」で行くのに空港内列車に乗り、延々歩き、二十分かけてたどり着いたことを。
 それがどうでしょう。NY行きとなるとC1ですよ。中央玄関から徒歩五分。大都市と地方都市を差別することを君はここでもしているのか・・・、とちょっと憤る。
 羽田よりあからさまじゃないし、苦労が少ないのがまだ救いがあるといえるでしょう。伊丹・関空・千歳・博多行き以外はすべて沖止めか、最果てのポートに回される。長崎・香川に行くことが多かったのだけど、いままで沖止めじゃなかったことなど一度もなかった。
 ターミナルが増設されたということですが、到着便はまだまだバス移動らしいですよ。アメリカは料金でしわ寄せしていないっぽい感じがするので、はるかにましといえるかもしれませんが・・・。

 やっぱり乗り込む飛行機を撮影してしまった。
 雪かなにかの影響と、滑走路の混雑で出発遅れるも、NYに向け出発。超満員。まいったね。乗客層がNYっぽくなってきた。つまりはNYでの役割といえば、ゴキブリとも奴隷ともつかない中国人・ヒスパニックの割合が俄然増えた(殖えた)ってところでしょうか。白人は細くなり、ちょっとおしゃれになり、偉そうになる。もしくは、偉そうぶって、実は全く会社で偉くないことがその外見から分かるような白人が増える。
 おー、NYに帰ってくるのかなーって思った。
 となりの席に座った外人と話に花が咲く。なんでも、来月日本に行くから教えてほしいとのこと。(ほかにも色々話したけど。)本当はお勧めレストランもっとあったが、見つけるのは難しいと思い、しゃぶしゃぶの「瀬里奈」、寿司「松風」、会席料理「吉兆」を教えておく。きっと、従業員も英語を話せるでしょう。逆にNYのお勧めイタリアンで知らない店を教えてもらう。なるほど。袖刷りあった。
 二時間半くらいのフライトの後、ラガーディア空港に到着。

 うーん、一応マンハッタンの夜景なんだけど良く見えないね。ごめんなさい。
 帰りはバスで、と意気込んでいたが、もはやその気力もなし。迷うことなく、タクシー乗り場へ。タクシーの中で日本に到着の報告の電話。
 自宅に着くと、誕生日プレゼントやカードを届けてくださった人が多くいることに気づく。多謝。感激極まりない。
 すぐにでも会える人は、プレゼントをあけずにそのままとっておくことにしよう、と思いとりあえず記念撮影。

 私のこと少しでも覚えていてくれる人がいるのはやはりありがたい限りです。
 そんな幸せ感と疲労感につつまれながらすぐにシャワーに入り寝る。本当に良く眠れた。なにせ、起きたら日が暮れていた。OTZ
 というわけで、カルガリー事の顛末シリーズはおしまいおしまい。





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2004年12月16日(木)
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