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死闘の果て、「自分らしさ」。 - 2003年09月30日(火)
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論文、いろいろ悩んだ末(9月28日付ニッキ参照)、
直すところは直し、残すところは残したまま提出。
結局、提出したのは第12稿。

最初と最後の部分にある「エッセイ」調の文章は、
数回の推敲で消えたり復活したりを繰り返し、結局95%残した。
昔、この論文のプロトタイプを読んで頂いた先生(僕の指導教授ね)に、
「ああ、あそこの文章、実にあなたらしくていいね」と言ってもらえたことがどうしても忘れられなかった。

とりあえず出しました。
あとは知りません。
おやすみなさい。

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学術論文≠エッセイ=創作物? - 2003年09月28日(日)
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今月の頭に、うちの大学の紀要に、修士論文の一部分を投稿しようと思い立ち、
今月中はかなりそれに力を入れていた。

まあ昔書いたものだしそんなに手間はかからないかな、とタカくくり状態だったんだけど、
やっぱり授業のレポートなんかとは違って一般に公表されるものだし、
何よりもし載ればこれが自分の処女作、研究生活のスタートとなるわけで、
手を入れてはプリントアウトし、読み返してみては赤ペンで推敲し、
また手を入れてはプリントアウトし、読み返してみては赤ペンで推敲。
そんなこんなで9月22日からこの日までで実に9稿。

今日は、2稿をお渡しして読んで頂いていたある先生からコメントが送られてくる。
その先生から当然来ることが予想されたダメ出しだったんだけど、
あらためて指摘されると、やっぱり凹む。

簡潔に言うと、「君の文章は学術論文ではなくて、エッセイです」ということ。

つまり、学術論文は形式が重要であり、
要らないことは一切盛り込んではならないし、くだらない比喩表現は削るべきです、
ということをその先生に指摘されたわけ。

実は、僕は相当程度、確信犯的にこういう文章を提出した。
あきらかにこれが学術論文というフォーマットから少なからず逸脱していることは十分自覚している。
それでも押し通したのは、何よりも、読み手を楽しませたかったからなのだ。

学術論文に楽しみ、娯楽性など要らないというのが常識的な考え方だろう。
けれど僕は、例えばエンデの『はてしない物語』と、自分の書いた論文が、
決定的に断絶した世界にあるものとは考えたくない。

もちろん『はてしない物語』は、想像力と創造力の産物であり、
学術論文は、議論の説得力を担保するための客観性を持たなければならないという点で、
両者が決定的に異なっているのはもちろんである。

しかし、両者は「創作物」であるという一点においては同じものだと思う。

だからこそ僕は、「誰が書いても同じ」ような、鋳型に嵌めたような窮屈な文章だけは絶対に書きたくない。
願わくば、ああ、これはあいつが書いたものだな、とまず分かってもらえるような文章が書きたいのだ。

学術論文であるのならば、当然それを発表するにふさわしい、
新しい事実の発見や理論の構築といった成果が盛り込まれている必要があるのはもちろんだ。
けれど、せっかくそれを見つけるなり思い付くなりしたんだから、
それをできるだけ多くの人に、できるだけ楽しく伝えようと考えて、
その方向で学術論文を「創作」するというのは、間違った考えなのだろうか?

その先生の指摘に沿って自分の書いた文章を潰していくのは、本当に辛くて、悲しくて、空しくて、
バカみたいな話だけど、キーボードが壊れそうな勢いでデリートキィを叩きながら、正直泣きそうになった。


「学術論文は、創作物である」
「学問とは、創作する行為である」


こんな考えは、浅はかなのだろうか?
「厳しい」学問の世界に生きている先生方から見れば、
未熟でモノを知らない若造の、噴飯至極の発想なのだろうか?

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語り得ることのみを語れ - 2003年09月24日(水)
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謎は存在しない。
そもそも問いが立てられるのであれば、それは答えられ得るのである。
(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン)


今日図書館で久しぶりに立ち読みした『論理哲学論考』の一節(六.五)。
今日この本を手に取ったのも、この節が目に止まったのも何かの縁。
僕の脆すぎる信念を補強してくれる言葉として受け取っておく。


(ただし、ヴィトゲンシュタインは、答えられないような問いを立てようとすることを戒めているのかもしれません。
確か授業で聞いた気がします。
ヴィトゲンシュタインは、そういう「ナンセンス」な問いを立てる「哲学」を終わらせようとしたのだ、と。
それが、有名な「語り得ないことについては、沈黙しなければならない」の意味である、と。)

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崩れていくバランス - 2003年09月16日(火)
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午前中、木部先生の仕事。
さすがに1年生のレポートは直し甲斐がある。
11人に2時間かかった。

午後は読書。
夕方→夜、バイト。
6時間ほとんど英語読みっぱなしだった。

帰って、風呂入って、ビールを飲む。
美味い。
いつもならこれで満足して寝るんだけど、
今日は、体がもっとアルコールが欲しいとわめいたので、
冷凍庫で冷やしたウォッカを飲む。

つまみは韓国海苔。
美味い。
やめられなく止まらなくなって一パックあける。
あいたパックを見て後悔。

さらに下を見ると、Tシャツに海苔の破片がボロボロこぼれている。
やれやれ。
そのまま水平移動して、ベランダで豪快にはらう。
はらわれた海苔のクズを全部集めたら一枚分くらいに・・・ならないか。

で、つまみがなくなったのにさらに焼酎を飲む。
いい加減にしておいた方がいいと頭の中で僕が言っている。

こういう暴飲暴食をしたのはもしかしたら生まれて初めてかもしれない。
なんだこれは。
直接的な原因がわからないだけに怖い。

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大きくなるなよ〜(丸大ハム) - 2003年09月07日(日)
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大きくなりすぎ、ペット店が半額返還(毎日新聞)

 ミニチュア・ダックスフンドを買ったのに、大きくなった――。この犬を買った男性が自らペットショップと交渉し、半額の7万円を返してもらうことなどで決着した。犬種登録機関の社団法人ジャパンケネルクラブは「ミニチュア犬は交配で小さくしてきた。何代も前の形状が現れ、大きく育つことはありうる」と話している。

 この人は神奈川県内の40代の男性。男性から相談を受けた日本消費者協会(東京都千代田区)によると、男性は昨年3月、血統書付きのミニチュア・ダックスフンドを県内のペットショップで14万円で買った。ところが1年後、ミニチュアにしてはかなり大きくなったという。

 ジャパンケネルクラブによると、ミニチュア・ダックスフンドの理想体重は4.5〜4.8キロ、スタンダード犬は9〜12キロという。ところが、購入した犬は13キロでスタンダード犬の大きさだった。

 同協会が調べたところ、犬の兄弟と親、祖父母の代まではミニチュア犬であることが確認できた。男性は「1年も飼っているので手放せない」と、協会と相談しながら解決策を模索。ペットショップと交渉し、半年分のペットフードとともに7万円を返してもらったという。

 国民生活センターにも「トイ・プードルを買ったのに、半年で体重が標準の倍以上になった。これ以上大きくなるとマンションの規則で飼えなくなる」などの相談が時々、寄せられるという。

 ジャパンケネルクラブでは「犬は工業製品ではないので、こういうこともある。どのように成長するかも含めて、楽しみながら育ててほしい」と話している。

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まず言えること。
ペットブームに乗って適当に犬を交配させてカネを儲けようとしてる奴は問題外。
ペットショップが「絶対に大きくなりませんよー」みたいに適当なこといって売りつけてたらこれも問題外。

で、売りつけられて大きくなったからってカネ返してもらってる飼い主は、浅はか。
「両親が小さいのに子供は大きい」なんてこと、ヒトでも普通にあるでしょうに。
同じような繁殖メカニズムを持つ哺乳類の犬でも同じようなことが起こる可能性は十分ある。
こういう想像力は未成年のうちに養っておくべきものです。
7万返してもらって云々って、寒気がしますね。
それともミニチュアダックスはのっけからああいうもんだと思ってたんでしょうかね。
そんなことも知らないで/調べないで、よく犬飼おうと思いますね。

てめえの子供が理想より大きくなりすぎたからって文句たれる親がいますか?
これって極論に思えるかもしれないけど、
結局ヒトの場合は文句言わないで、イヌだったら文句言うってのは、
どこかでイヌをモノ(「工業製品」)扱いしてるってことじゃないんですかね?
で、そんな浅はかなヒトはイヌを飼う資格なんてないと思うんですけどね。

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immaturity - 2003年09月03日(水)
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wtg(新曲)を練習していると、いつも余裕がない自分・どっしり構えられない自分・些細なことでイライラする自分・そのイライラを露わにしてしまう自分・何でも人の所為にしようとしてしまう自分が心底嫌になる。

全くもって、未熟さは犯罪です。
関係者の皆様、本当にごめんなさい。

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過剰で冷たい醒めることのない現実 - 2003年09月01日(月)
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渋谷の街は、全てが過剰である。もし、「余計なもの」だけを消滅させる新型爆弾が投下されたら、おそらくここには何も残りはしないのだろうなどと考えながら、誰もいない街を行き交うヒトを避けながら歩いていると、本当に寒気がしてくる。

昔この街が好きだったこともあった。けれど、今はここにひたすら愚かでひたすら過剰な表象以外の何かを見出すことはできない。変わってしまったのはおそらくこの街ではなく、僕の方なのだろうと考えると、また寒気がしてくる。

電車から吐き出されてくるヒトの群れと電車に吸い込まれるヒトの群れが相互に浸潤して一瞬ひとつになったかと思うと次の瞬間にそこにあるのはもう粉々になった分子だけ。安易に反復される交換可能なシーン。今まででもっとも強烈な寒気。

必然性を欲して釣り革にしがみついた僕を押しつぶす重力と質量。また寒気。密着した男の背中から漂う異臭。寒気。サカリがついたような声で垂れ流されるアナウンス。寒気。中吊り広告の下品な見出し。寒気。

「夢なら醒めろ」とウソみたいな願いを唱える自分。寒気。

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 マエ    ツギ    モクジ



∴オキニイリニツイカ∵
























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