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今日、池田小学校事件のタクマが死刑判決を受けた。
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前もどこかで書いたかもしれないけど、僕は死刑制度賛成論者です。
死刑制度の存廃をめぐる議論では、 死刑の憲法適合性・死刑の犯罪抑止力・冤罪の可能性といった論点が挙がることが多いようです。
憲法適合性に関しては、死刑が36条にある「残虐な刑罰」にあたるか否かが争われます。 これについては合憲論・違憲論どちらも一応もっともな理論を展開しているので、 正直言って僕には判断が付きません。 なので、死刑が憲法に適合しているか否かで、その制度の存廃を考えることは、少なくとも僕にはできません。
死刑の犯罪抑止力について。 死刑という刑があるからこそ、重大な犯罪が未然に防がれるのであるという論拠で死刑を擁護する考え方と、 いやいや、死刑制度がある国の方が凶悪犯罪の発生率が高いことだってあるんだから、 したがって死刑制度に犯罪抑止力はない、と反駁する死刑制度反対派の争いです。 この議論だけを見れば、僕にはどちらかというと後者に説得力があるように思われます。 犯罪抑止力があるからして死刑を残さなければならないという議論に、少なくとも僕は与しません。
冤罪の可能性について考えても、死刑は危険な制度であることは否定できません。 何の罪のない人間が、「合法的」に殺害されてしまう危険性は、 死刑という制度が存続する限りにおいて決してゼロにはならないでしょう。 この点においても、死刑は積極的に擁護できるような刑罰とは思えません。
また、一国の政府(ガヴァメント)が、人を殺害することを「違法」行為としながら、 もう一方において「合法的」に人の命を奪う権限を有していることには、 原理的な違和感を覚えることもまた事実です。 これは、個人レヴェルで言えば、「何物にも代え難い命」を奪われたことへの代償が「何物にも代え難い命」を奪うことであるという一種の矛盾にもつながるでしょう。
また、以前読んだ大塚公子『死刑執行人の苦悩』に書いてあったように、 死刑を実際に執行するのは、刑務官という国家公務員であり、 彼らを「合法的な(しかしれっきとした)殺人者」に仕立て上げることで死刑という制度は始めて成り立っているのです。 この点から死刑制度を批判することも可能ですし、僕もこれは死刑制度反対の有力な論拠になるものだと考えています。
さて、ここまでの議論を見る限り、僕が死刑制度に積極的に賛成する根拠はどこにもないように思えます。
しかし。 自分の中で突き詰めていったらおそらくたった一つかもしれませんが、 死刑制度に賛成する、あるいはせざるを得ない強力な論拠が、僕の中でくすぶり続けているのです。 そして、今日の朝日新聞の夕刊を見たとき、くすぶっていたその論拠が、 一気に発火するような感覚をおぼえたのでした。
そこには、当時2年生だった娘を事件で亡くした(つまりタクマに殺された)父親の手記が掲載されていました。 一部を抜粋します。
「娘がこんなにつらい思いをしているのに、なぜいまだに宅間は生きているのでしょうか?早くこの世から消えてほしい。それが率直な気持ちです。死刑廃止論を唱えている人に伺いたいことがあります。自分の子供が殺されても本当に廃止論を唱えることができるのでしょうか?それができなければ唱える資格などあるはずもありません。他人事だから言えるのだとあえて申し上げたい。」
もちろん、殺人被害者の遺族の中には、犯罪人が殺されても何も解決しない、 それよりは生きて罪を償ってほしい、と主張される方々もいます。 しかし。 このような思いを持つ遺族の方がたった一人でもいる限り、誰が死刑制度廃止!などと(それこそ「他人事」として)言えるのでしょうか。
罪のない子供たちを次々と殺し、「幼稚園だったらもっと殺せていた」などとのたまい、 人を殺したことに対する罪悪感も、ましてや悔悛の感情のひとかけらも持ち合わせていない、 まさに人間あらざる「物体」の「人」権を擁護するために、 このような遺族の剥き出しの感情、痛々しい叫びが封じられてもいいのでしょうか? 彼/彼女たちの権利は無視されてもいいのでしょうか? 僕は到底「いい」とは言えません。
この被害者の父は、仮に自分の手で死刑が執行できるとするならば、「喜んで」そうするのではないでしょうか。 刑務官の手を汚すことなく、むしろ進んで自らの手を「汚す」のではないでしょうか。 そうだとするならば、先の「刑務官の苦悩」云々からする死刑制度への抵抗感はあっけなく「クリア」されます。
僕が今のところ行き着いた究極の地点はここにある気がします。 つまり、被害者の遺族が、犯罪者が死をもって償うことを望んでおり、 なおかつその望みが、犯罪者の「死」のために自らの手を下しても構わないと考えるほど強く揺るぎのないものである場合においては、 (さらに言えば今回の事件のように容疑者が現行犯で逮捕されており、冤罪の可能性が極めて薄いという条件を付けて) 死刑は認められるし、認められなければならないと思うのです。
このような考えによれば、あえてセンセーショナルな言い方を選ぶと、 死刑を「被害者の遺族による報復の合法化」とみなすことになるでしょう。
おそらく近代刑法は「個人的報復」という考え方を否定したところに生まれたものなのだと思います。 その流れから言えば、こういう考えは到底「近代的」でないということになりましょう。 しかし、何でも「近代的」であればいいのでしょうか。 「近代」の中身を考証しないままにする「近代的じゃないから廃止するべきだ」という議論(「近代」フェティシズム!)には、 僕は到底与することができません。
このような議論は「感情的」でしょうか? いや、質問を変えましょう。 僕の議論や、先に引用した被害者の父親の手記は、あきらかに「感情的」なのでしょうから。 このような議論は「感情的」であるがゆえに無効なのでしょうか?
今回の手記を読んで、僕の死刑制度に対する意見は確固たるものになりました。
「理性」やら「理屈」やら「理論」やらよりも、 「感情」に最も重きを置くべき場面がある。 そして死刑制度はその一つの場面である。 僕はそう確信しています。 ++++++
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