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仏 vs. 韓 - 2003年04月30日(水)
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水曜の朝は恒例、語学の時間。
月曜・火曜に録画しておいたフランス語講座・ハングル講座を立て続けに見る。
「D'accord」(賛成:仏)の直後に「カムサハムニダ」(ありがとうございます:ハ)。
でもそれほど混濁はしない。
きっと全く別の言語構造だからだと思う。

今は圧倒的にハングルの方が面白い。
初学だし、暗号を解読するみたいな楽しさがある。
韓国に行って全然ビビらずに焼肉を食べるのが夢。

フランス語は一応通算して1年半くらいはやってるので、
まだ退屈。
でも、今年のフランス語講座のVTRは、ネイティヴのフランス人が容赦のないスピードで話すので、
テキストを見ながらでも全く聞き取れない。
これが全部わかるようになりたい・・・


語学の時間を終えて、雨の中、自転車で市役所へ。
印鑑証明書が要りようだったので。

一旦家に戻って、学校へ。
カノジョとランチ。

4限から5限までほとんど木部先生の仕事しっぱなし。

18:00から久々に平日のブカツに出る。
ああ、打ちたいときに打つ気楽な太鼓って、やっぱり楽しいなあ・・・

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ミックスナッツ祭り - 2003年04月29日(火)
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おばあちゃんとお姉さん(修一の姉さん、つまり伯母)が来宅。

お客さんが来たから、と何故か昼間からビールを飲む修一。便乗する僕。
結局二人で350ml缶を4本開ける。
やりすぎ。
おまけに、昨日眞由美が買ってきたおつまみ(ミックスナッツとビーフジャーキー)、全滅。

そういえば最近、我が家ではミックスナッツが大流行。
週3〜4袋消費。
木の実大好き家族。

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近頃、何事にも集中できない気がする。
考えることが多い。
考えなくてはいけないことはもちろん、
考えなくてもいいことも考えている。
考えることが多すぎて、頭が汚されていくように感じる。
どうでもいいことほど忘れられない。
どうでもよくないことは忘れてしまう。
人間はそういうふうにできているのか。
それとも僕一人がそういうふうにできているのか。

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スモー部員 - 2003年04月26日(土)
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カノジョが家に来た。
二人で、僕のMDライブラリーからあれこれ引っぱり出して聴いてみる。
持っていることさえ忘れていたものが結構あった。
rumania montevideo「rumaniamania」
NiNa「NiNa」
ベルリオーズ「幻想交響曲」
椎名林檎「勝訴ストリップ」
pizzicato five「TYO」「JPN」
鬼束ちひろ「インソムニア」
Fayray
などなど

槇原敬之「印度式」(アルバム「such a lovely place」収録)でひととおり爆笑。

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僕は1995年から10年日記をつけ続けている。
ふと1995年4月26日を見ると、
「伊集院光のOh!デカナイト、最終回」とある。

懐かしい・・・
受験生の時(中学時代)、よく聴いてたなあ、この番組。
22:00から1:00までで、大体23:30くらいには寝ちゃったから、
それより後にどんなコーナーがあって、どんな面白いことが行われてるのか、
ずっと気にし続けた受験生活。

伊集院光のラジオって、最高なんだよね。
今聴いても間違いなく面白いと思う。
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アンニョン! - 2003年04月25日(金)
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朝一でバイト。

午後、ハングルの勉強、昼寝、木部先生の仕事。
そして科学哲学。

18:30、カノジョのパイプオルガンコンサート@チャペル。
やっぱり、チャペルの大きなオルガンはいいね。

帰り、リノとハングル談話。
きっと来年には二人はハングルだけで話しているはず。

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木木木木木木木木部部部部部部部部先先先先先先先先生生生生生生生生 - 2003年04月24日(木)
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10:00学校。
木部先生の仕事。

午前中、木部先生の仕事。

カノジョとランチ。

13:10、日本思想史の授業。

終わって、図書館で木部先生の仕事。

16:30、バイト。
バイト中も木部先生の仕事。

今日は活動時間の8割が木部先生の仕事。

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オトナの約束事 - 2003年04月23日(水)
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午前中、パルコでCD購入。
 一十三十一「360°」
 ROUND TABLE feat. NINO「APRIL」
 Miles Davis「Milestones」

パルコから、久しぶりにかつてのルートで学校へ。
たかだか2ヶ月ぶりくらいなのに、家がつぶされてたりして、景色が変わっている。
文明は待ってくれない。

木部先生の仕事で15:00まで学校にいて、帰宅。

思い立ち、車で永山のブクオフへ。
3冊購入。

夜、tと呑み会。
tの●職決定祝い。
伏せてるのはいろいろとオトナの約束事があるから。
オトナって難しい。
呑み会の後は、ゲーセンでUFOキャッチャー狂い。
恒例行事。

23:50帰宅。

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「太鼓を叩くという行為」 - 2003年04月20日(日)
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タイトル、「たいこ」と入れて変換しようとしたら、
ATOKの自動変換機能で勝手に変換候補に挙がった。
なんかこのパソコンですごい太鼓関係の文章打ってるみたい。
そんなことないけど。


今日は久々に太鼓を叩きに行く。
よく叩いた。
ちょっと叩かないくらいですぐに腕はなまる。

そしてうちに帰ると早くも腕が重い。

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<これを見ているワダイコ部現4年生への暗号メッセージ>

卒業公演 謳歌 小太鼓 打ちたい


解読された方はぜひ打ち手表に反映させてください。
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非ユークリッド幾何学の発見が数学という学問自体を変えました - 2003年04月18日(金)
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我が大学の看板教授、村上陽一郎氏の名物授業「科学哲学」を、
在学7年目にして初めて聴いています。
本当に面白い。
猛烈に頭が良くて、壮絶な知識量を誇る村上氏が繰り出す知のスペクタクル。
逸脱・脱線当たり前。しかしちゃんと着地。

<例>
科学哲学の創始者たちは、自然科学の知識が他の知識に対して優越性を持っていることを、その有用性から実証しようとしました

でもまあ、当時(19世紀)の自然科学の知識で本当に有用だったものはなかったんですけどね

あ、でも有機化学だけは例外ですね

(以後15分、有機化学の成果たる薬、ダイナマイト、化学肥料の話を延々と続ける)

そこで、次に世界大戦の頃になると科学哲学者の第二世代が登場するわけですが、
(も、戻ってる・・・)


で、140分間ずっとこんな調子なので、
周りに座ってる学部生から、よく「意味わかんないよね」とか「話飛びすぎ」とかいう声が聞こえる。
だけどさ、いいかげん高校生じゃないんだから、
教科書みたいな系統立った授業を求めるのやめて、
もっと「知的刺激」ってものを純粋に楽しめばいいのに。

+++++
そういえば、最近「意味わかんない」って言葉よく聞くね。
「意味わかんない」ならこんな言葉をデカイ声で垂れ流す前に、
何がわかんないのか考えて、調べるなり質問するなりすればいい。
この言葉を吐く人々は、そういう努力を放棄していて、
しかも放棄したことを恥ずかしがりもしていない。
こういう前進性のない思考やそういう思考の持ち主は嫌いです。
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手当てろ - 2003年04月16日(水)
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午前中、木部先生の仕事でつぶれる。

今学期の授業は基礎科目なので履修者が大挙して押しよせる。
必然的に印刷物の量も増える。

今日は初回だから見物人の分も考慮に入れて全ての配布物を145部作った。
いつもの授業は多くても50人くらいだから、
単純に考えて3倍の時間がかかる。
これはツライ。

履修が100人越えたら「履修者たくさんで大変ねえ手当」でも出ないかね。
出ないな。

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サスケについて考えよう - 2003年04月15日(火)
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<今日の覆面レスラー>

みちのくプロレス主宰の覆面レスラー、グレート・サスケが、
岩手県議会議員選挙でトップ当選し、議会にマスクを着けたまま出るか否かでもめています。
はっきり言ってクダラナイです。
けれど、少し面白いことに気付いたので書こうと思います。

サスケが覆面をつけたまま議会に出ることに批判的な人々にその理由を聞いてみると、
だいたい以下の3通りに分かれるようです。

1)
「有権者に表情が見せられないようではいけない」
(岩手県知事ほか)

これが、3タイプの中では相対的に最もマシな理由です。
まあ、あくまでも「相対的に」であって、ほとんど説得力ゼロですけど。

かつて、議場での政治家の表情を注視することでその政治家の仕事を評価する人が、どれだけいる(た)でしょうか?
覆面をかぶっていないのに、あたかもかぶっているように表情一つ変えずウソをつけるような政治家もいらっしゃいます。

知事様は、政治家が行う苦渋の決断や喜びの表現が覆面によって隠される、
というような意味のことを仰っていました。
彼はどうやら総合的判断・認識・認知の能力が少し欠落しておられるようです。
それらのことを表現するシグナルは、顔の表情以外にもいくらでもございます。

あたりまえですが、覆面だけでウソや不正が暴かれるのを防ぐことはできません。
覆面をしていなければウソをついたり不正を行うことができないとも言えません。

覆面で「表情が見えない」ことによって、果たして有権者にどれだけのデメリットがあるのでしょうか?


2)
「神聖な議場に覆面をつけて入るとは」
「議会の品位がおとしめられる」
(自民党岩手県連ほか)

これは、僕の大嫌いな理由です。
こういうことを平気でのたまわれる政治家諸賢殿の良識を疑います。
特に前者。
どうして議会が「神聖」な場なんですかね?
くだらない連想かもしれませんが、大日本帝国憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を思い出してしまいます。
議場は庶民や女子供が近づける場所ではない。
(特に月経という血の穢れがある女は入ることを許されない!)
「品位」ある選ばれた一握りの者だけの「聖域」なのである、ってことですかね?

議会は、議場は、断じて特別な場ではありません。あるべきではありません。

僕はわりかし本気で、議場を、
議会で使っていないときは住民が会議室として利用したり、
近所の子供たちがかくれんぼや鬼ごっこのフィールドにしたりするような、
物理的に「開かれた」場にするのがいいと思っています。
政治は何かいかがわしく、密室で行われるもので、我々には関係がない、
という政治に対する心理的な距離は、物理的距離を縮めることから、徐々に縮めていけるのではないかと思うからです。
それなのに、当の議員様が「議場は神聖な場」などとのたまうのは非常に残念です。
閉ざされた神聖な場で隠密に政治を行う方が都合のよい方々が沢山いらっしゃるのでしょう。

仮に、「神聖」なることばを上に述べたような意味で使ったわけではない、というのであれば、
一体どのような意味で使われたのか、きちんと説明していただきたいものです。
無意識に「神聖」なんて言葉を振りかざされることほど危険なことはありませんから。


後者の「品位」云々の方には、今さら言う言葉もありません。
背広とネクタイを着用した「品位」の無い方々がどれだけはびこっていることか!
「服装」は品位の一つの決定要因かもしれませんが、全てではありません。
そして、それよりももっと重要な決定要因がいくらでもあるはずです。


3)
「覆面で議会に出席するなんて考えられない」
「なんかイヤ」
(街の年寄りほか)

こういう意見を出す人を、僕は理解できませんし、その気持ちも分かりません。
しかし、仕方ないだろうな、とは思います。
それは、こういう意見があくまで主観的で、自分の好き嫌いの感情に根ざしているからです。

実は、1や2の意見をタテマエとして出している連中も、
腹の中にあるホンネの理由は、3なのではないかと思います。


と、ここで、僕は興味深いことに気付きました。
1や2の理由を掲げる連中というのは、実は、
13日付の日記「言葉について考えよう」の中で述べた、
「乱れた日本語」論を振りかざす人間と、構造が同じなのです。
つまり、自分の主観的意見にすぎないものを、客観的・普遍的な概念・価値によって粉飾し、
「主観の責任」から逃れようとする卑怯さが、彼らにも同じように見られるのです。

人が「覆面で議会に出席するなんて常識的に考えられない!」と言った場合、
その「常識」に納得できない人たちが、どうして考えられないのか、その理由はどこにあるのかを問い、
両者が話し合う中で、「常識」と「常識」がぶつかり合い、新たな「常識」が弁証法的に創造される可能性があります。

しかし、「神聖な議場」「議会の品位」などというもっともらしい言葉が発せられたとき、
そこにそれ以上の議論の発展は望めません。
なにしろ、それを発した人間は、それらのもっともらしい言葉を普遍的なものとして、
そこで自分の思考を停止させてしまっているのです。
おそらくこういう言葉の裏に逃げ込んだ連中に対して「神聖」「品位」なる言葉の意味を聞いても、
返ってくるのは「神聖なんだから神聖なんだ」「品位ってのは品位だよ」といった感じの
「竹垣に竹立て掛けたのは竹立て掛けたかったから竹立て掛けたのだ」的なトートロジーだけでしょう。
それもそのはず、彼らは深く考えるために理由を挙げたのではなく、
考えない、議論しないでよくするために、逃げ出すために理由を挙げているからです。
(しかも質が悪いのは、ここには「逃げ出しながら攻撃する」という卑怯さがあることです)
ここには水掛け論以上のものは生まれません。

自分の主観以外の客観的・普遍的価値にすがることは容易です。
そしてそれは、自分をその価値と同一化させることによって、自分が「大きくなった」という妄想をも抱かせるため、
しばしば心地の良い選択肢となりがちです。

しかし、本当にそれでよいのでしょうか?
我々は、自分の主観をもっと大切にし、当然それに責任を持ち、
自分の主観を他の人々の主観とぶつけることで、新しく何かを創造し続けなければならないのではないでしょうか。

まして、「政治家」というのはそれが強く求められる職業のはずです。
そういう人たちが「主観の責任」を放棄することほどナサケナイものはなく、
人々を不幸にすることはありません。

++++++
おまけ:サスケが示した妥協案
より露出度の高いマスクを新調、そして、おでこの部分に品位の「品」と入れる。

これ最高。
「品位品位」ぬかすオッサンたちをちょっと小馬鹿にしすぎだけどね(笑)。
++++++

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わき目ふらない日 - 2003年04月14日(月)
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午前中、タカシ先生の授業。
なぜか全部英語。
英語だと思ったことの0.9%くらいしか話せないのでストレスがたまる。

授業終わってわき目もふらずに帰宅。
スーツに着替えて霞ヶ関へ。
久しぶりにUさんとお約束。
Uさんが去年の夏頃からしこしこ翻訳されていた本の仮訳をいただく。
博士論文のテーマと重なるところ大なので、とても参考になる。
ざっと目次を見ただけでも、かなりワクワク。

わき目もふらずに帰宅。

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言葉について考えよう - 2003年04月13日(日)
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<今日の投書批判>

語学講座の目的は?
 教育テレビの新年度の語学講座をひととおり見た。どの番組も、アシスタントとして新進の女優やモデルを起用し、目玉としているが、彼女たちの粗雑な日本語は聞くに堪えない。所かまわず「イエーイ」と叫んだり、「それでぇ、だからぁ」と語尾が伸びたり上がったり。30分聞いて神経がどっと疲れ、語学の学習どころではなかった。テレビだから見た目楽しくという趣旨なのかもしれないが、ショーアップよりも番組本来の目的を忘れないでほしい。そして、母国語も大切にしよう。
(東京都・斎藤すみこ・パート・38歳)

【朝日新聞、2003年4月17日 朝刊】
++++++

まあ、いかにもありそうなヒハン投書です。
すみこちゃんの論点は2つですね。
1)アシスタントの若い娘たちの日本語が「粗雑で」「大切に」されていない。
2)語学講座が「本来の目的を忘れ」、「ショーアップ」に走っている。

まず第2点から考えてみましょう。
僕もフランス語とハングルの講座を見ていますが、
僕には、「番組本来の目的」=語学学習が忘れられているようには思えません。
どちらの番組も、必要なことはしっかり教えているし、
興味を失わせないようにその国の文化紹介をしたり、歌を入れたり、
講師におもろいキャラの人を選んだりと、いろいろ工夫がされています。
語学講座としては、教えるべきことはきちんと教えていると思います。

そもそもすみこちゃんのヒハンの前提には、
「ショーアップ」と「本来の目的」は両立しない、という考えがあるようですが、
そんなことは全くないんじゃないでしょうかね。
「ショーアップ」された番組の中で楽しく語学を勉強する、という行き方は絶対にあるはずです。
まあ、すみこちゃんには無いのかもしれないですけど。
だったらより硬派なラジオ講座をおすすめします。

こう考えてみると、今や、別々に思えたすみこちゃんの2つの論点が、1つに収斂するわけです。

3)語学講座を「ショーアップ」するためにアシスタントとして使われている「新進の女優やモデル」の「粗雑な日本語」が「聞くに堪えない」から気にくわない。あんな「母国語を大切にし」ない連中は追い出せ!


「乱れた日本語」論。
結局ここに行き着くというわけですね。
(すみこちゃんは「粗雑な日本語」と言ってますが、本質的な意味はそう違わないでしょう)

「乱れた日本語」論で僕が一番嫌いなのは、
「自分の耳に心地の良い、慣れた言葉」と一般的な「日本語」を区別しない、
あるいは意図的に両者を混同するという姿勢です。

「母国語を大切にしよう」というすみこちゃんの言葉は、この文章の文脈から判断すれば、
私の「神経がどっと疲れ」るような「聞くに堪えない」日本語を使わないでくれ、というのと同義になりましょう。
つまり、「私にとって心地の良い日本語でしゃべれ」という主観的な意見なわけです。
それを、「母国語を大切にしよう」などといういかにも普遍的で客観的な主張にすり替えている。
はっきり言って卑怯ですね。
あるいはすみこちゃんがこのすり替えを意図的にやっていないのだとしたら、見識を疑います。
言葉は常に生み出され、作り替えられていくものである、
「日本語」なるスタティックな存在は観念の世界にしか存在し得ない、という当たり前のことすら知らない38歳として。

「その言葉、好きじゃない」というのはフェアです。
それは自分の主観をストレイトに表現しているからです。
自分の主観を表現することは、自分の主観に責任を持つ(持たされる)ことに直結します。
それに対して、「その言葉は乱れた日本語だ」といって他人の言葉を排撃するのは本当に卑怯です。
自分の主観をあたかも客観的基準に照らして普遍のものであるかのように主張しているからです。
「日本語が乱れている」と人がいうとき、彼/彼女は「プチ権威者」となって、
「乱れた日本語」を使う人を見下ろし、審判をくだす気分になっています。
まったく厚顔無恥で恥ずかしいことです。
「乱れた」とはある望ましい状態からの逸脱を示す形容詞ですから、
そこにはかならず「正しい」=望ましい状態という基準点が存在します。
プチ権威者たちにとっての「正しい日本語」とは「自分が使っている、あるいは自分が正しいと思っている日本語」であり、
それは「権威」的でも普遍的でも客観的でもなんでもない。
あるのは主観的な判断だけなのです。
しかし「権威者」ぶって「日本語」なる幻想的な正統化概念を振りかざすことによって、
その背後にある主観的な好悪の感情が包み隠され、その人間の「主観の責任」が回避されてしまうのです。
本当に卑怯です。

それから、もう一つ気になるのはすみこちゃんがわざわざ「母国語」なる言葉を使っていること。
多分、語学講座の「外国語」との対照でなんとなく「母国語」って言ったんだろうけど、
実はこの「母国語」って、使い方を注意すべき言葉で、すみこちゃんはそのことを知らなかったのでしょう。

ある言語学者が、「母国語」と「母語」の混同に警告を発し、
前者を本来無関係のはずの言語と国家をあたかも密接に関係しているかのように見せるイカガワシイ言葉として批判しています。
母語とは、文字通り自分の母の言語で、幼少期の母との結びつきの中で獲得された言語のことです。
人間は誰でも母や、周りで生活している人々から言語を習得します。
そこには人間と人間の結びつきしかなく、「国家」なるものが介在する余地は全くありません。
その母語と「母国語」なる言葉が、いとも容易く混同されているのです。
この無神経さは、母国語と母語が一致して当然、という意識から生じてくるものに思われます。
実際、多くの日本人は、母国語と母語が何の疑問も葛藤もなく一致します。
そこに両者を厳密に区別しようとするインセンティヴは生まれようもないでしょう。

しかし。
自身のアイデンティティを日本人であるよりアイヌ人と捉えている人の母国語は?
アイヌが日本に「併合」されている以上、日本語でしょう。
翻って、彼/彼女の母語は?
おそらく「アイヌ語」なのです。

逆に、韓国語のできない在日韓国人2世の子供だったら?
母国語は韓国語なのに、母語は日本語でしょう。

母国語という言葉を安易に使い、それを母語と混同することは、
上に述べたような、国家の介在によって造り出された言語の「ねじれ」現象を無視し、
多くの場合、その「ねじれ」の中に落としこまれたマイノリティを無視することにつながるのです。

「母国語も大切にしよう」と結ぶすみこちゃんは、この意味でも見識が足りません。
(これはすみこちゃんに限らず、一般的に母国語と母語の決定的な違いについて多くの人は無神経すぎるように思えます)

後半は話がすみこちゃんの投書から随分と離れてしまいました。
しかし、以上の話を踏まえてまとめるならば、
本当の意味で「言葉を大切にする」ということは、
その多様性を大切にするということなのだと思います。
間違っても、言葉を一つの「正しい」方向に持っていくことではありませんし、
まして若いタレントの言葉が乱れているとヒハンすることではありません。


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「時間」について - 2003年04月12日(土)
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時間は流れている。
その「時間」なるものが一体なんなのかは
考えれば考えるほどよくわからなくなるけれど、
それでも時間は流れている。

例えば今これを書いているパソコンのデスクトップの右上には時計が付いていて秒単位で時間を前へ前へと絶え間なく流している。
地球が1回自転するに要する時間を24分割したものをさらに60分割してもう60分割した長さ。
いや現在ではセシウム133の基底近くの或る2準位間の放射の9,192,631,770倍の長さ。
自分で書いていても意味が分からない。
僕はこんな単位で「時間が流れている」と感じる。

あるいは、僕の髪の毛は少しづつ伸びている。
3月の中旬に切ったからそろそろ1ヶ月になる。
(「3月」も「1ヶ月」もヒトが決めた時間を切り取る目安)
かなり色を明るくしてもらったので、その時から伸びた黒髪が目立つ。
この黒髪分だけ時間が流れたことになる。
例えば1cm伸びていたとすれば、髪を染めた瞬間から今現在までの時間tは

 t=髪1cm

と表すことができる。
今仮に美容院に行った日からちょうど28日だとすれば、

 t=28日=髪1cm

となり、時間と長さが等式で結ばれる。とても面白い。
(ただしこの「1cm」なるものもヒトが恣意的に決めた長さを決める目安。1cmとは1mの100分の1であるが、現在1mとは・・・めんどくさいから言わない。)

面白いのだが、じゃあ時間とは何か、時間の本質とは?と考え出すと上手くいかない。

よく言われることだけど、楽しい時間は早く過ぎる。苦痛な時間は遅く過ぎる。
あるいは何かに集中していると時間は早く過ぎ、ぼーっとしている時間は遅く過ぎる。
この時の時間経過の「早い」「遅い」というのは、
主観的な時間経過感覚と、機械的・恣意的な時間の経過のズレのことを意味している。

時間が二つに分かれてしまった。
「セシウム時間」と「自分時間」。
そして厄介なことに、上で言った「髪の毛時間」というのは
このどちらにも属していないのでは無かろうか、
つまり時間というのは三種類に分かれてしまうのではないかという考えまで頭をよぎる。
自分時間というのは自分の主観によって生み出されるものだからして、
そこには必ず「意識」なるものが介在しているはずである。
しかし、セシウム時間と髪の毛時間には「意識」が介在していない。
意識しなくても秒針は回るし、意識しなくても髪は伸びる。
(髪が無い人でもきっと髭やすね毛は伸びる)
どちらも、自分の意識とは全く無関係に表現される時間だと言える。
ということは、やはり時間は大まかには二つに分かれ、
その内の片方がさらに二つに分かれると言ってよいだろうか。
ただし、さっきも言ったように、意識介在型の時間は、
意識非介在型の時間との対照の中において初めて存在するものだと言える。
その意味で果たして両者が全く独立の二つのものとしてとらえられるかどうか。
ひとまず図式化。


    意識介在(自分時間)

 時間 
          有機的(髪の毛時間)
    意識非介在  
          無機的(セシウム時間)


こういうふうに概念を弄んで類型を作ったところで、
やっぱり時間とは何か、時間の本質とは?という問いに上手く答えた気にはならない。

考えの方向性を変えてみよう。

「時間がない」という表現がある。
これはどういうことだろうか。
おそらく時間はある。時間はあって、流れている。
省略されている部分を補って考えてみると、
 (大学を卒業するまでにたくさん遊んでおきたいのに十分に遊ぶ)時間がない
 (余命半年と宣告されたので残された)時間がない
 (もう少し考えれば答えが出そうなのにもう試験)時間がない
こうしてみると、「時間がない」という認識は、
何らかの制約が時間にはめられたことによって生ずることが分かる。
「何らかの制約」は非常に小さいこともあるし(クイズタイムショックの60秒)、
大きいこともある(大学生活のモラトリアム的な4年間)。

しかし、もっともっと大きく考えてみた場合、
いつも時間は本質的に「ない」のではないだろうか。
なぜなら、ヒトはやがて死ぬという制約をはめられているからだ。

その意味で、すでに時間は「切り取られている」。
僕の生と死という生理現象によって不可避に制約されているのである。
理論上は、僕が生まれるより前の時間(謙信が信玄に塩を送った)や、
僕が死んだ後の時間(猫型ロボットが生まれた)を想定することはできる。
しかしそれはあくまで想定で、僕とその時間は完全に切り離されている。
僕がその時間の中に在ることはできない。

時間は不可避に限定的なものとして僕を捕らえている。
自分で言っていても混乱しそうなフレーズだ。
とにかく、ここでは時間とはそこから逃げられない何かとして、
僕を限界づけるものとして想定される。

死は僕の時間を終わらせる。
その死とはあくまでも僕の死であり、他人が僕の死を体験したり、肩代わりしたりすることはできない。
死は僕固有の体験である。
それならば、その死によって制限された「僕の時間」とは
僕と切り離して存在し得ない「時間」である。
それ故に、他の誰とも決して共有することのできない時間である。

こういうふうに考えていくと、
「時間が流れる」というのは、死という限界に近づくということと同義になる。
そう考えるとデスクトップの右上の数字が動いていくのが少し恐ろしくなる。

こんな文章を書いている場合ではない。

変な着地の仕方だな。

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コカコーラと両国予備校の共通点ってなーんだ - 2003年04月11日(金)
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みんな気付いてないかもしれないけど、
コカコーラの

「No Reason.
 ココロが求めてる」

ってコピー、矛盾してます。
「理由無い」って言いながら「ココロが求めてる」って理由つけてる。


「全寮制の両国予備校
 通学生も入学できます」

と同じ構造。

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岡本太郎に会えた日 - 2003年04月09日(水)
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岡本太郎リヴェンジ。
この3日で太郎のために使った熱量はかなりのもの。

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"C'est tous, tous, tous!"
(すべて、すべて、すべてだ!)

とあるインタビュー映画で岡本太郎は
狂ったように「tous」を繰り返したらしい。
すべてのことを知る、すべてのことをやる、全存在として生きる。


毎回この美術館に来るたびに、必ずこのことを思い出す。
思い出すのは多分、思考が止まったっきりになっているからだ。

「全存在として生きる」という言葉は言葉として理解できるし、
そうありたいとも思う。

ではどうすればいいのか。

あまり深く考えたことがない。
考えられないのか。考えるのが恐いのか。
考えてそんなの自分には無理だと思ってしまうのが恐いのか。

そもそも、分かった気になっているけれど
「全存在として生きる」っていうのはどういうことなんだ。
分かってないのだ。

僕がただこうして毎日目覚めたり食事したり博士論文のこと考えたり電車に乗ったり自転車に乗ったり読書したりテレビ見たり酒飲んだり凹んだり笑ったりしながら生きていることと、
「全存在として生きる」ってこと違うのか?
恐らく全く違う。では何が違う?
逆の言い方をすれば、何をすれば全存在として生きている実感を持てるのか?

岡本がよく口にする他の言葉に、
「瞬間、瞬間に[の]」というのがある。

これだってそうだ。
言葉としては分かった気になっている。
だけど、日常生活の瞬間瞬間を意識しながら生きることなんてできるのか?

さらに悪いことに岡本はこの二つを一緒に使う。

「瞬間、瞬間に、全存在として生きる」

こうなるとかなりお手上げ状態だ。
こんなふうに生きれる気がしない。

こういうわけで僕の思考は停止し、
岡本の作品を見るたびに岡本がtousと叫んでいたことを思い出しては、
自分が一歩も進んでいないことだけを再確認する。

でも、僕がこの岡本の思想に引っ掛かっているということは、
きっとそれこそが僕が求める生き方であり、死に方なのだろう。

相変わらず岡本は僕にとっては大きすぎる存在だ。

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ピンク新入生 - 2003年04月08日(火)
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ちょっと早めに学校。
図書館で博士論文リサーチ。
資料ある気がしない&書ける気がしない。
プレイバックPartII。
こう言いながら修論は書けたからといって博論が書けることを保証するものではありません。
冷静。

午後、若い子たちに交じって健康診断。
一応新入生扱いなのでね。
学部新入の若人たちは、健康診断カードがクリーム色なのに対して、
博士後期課程新入の24歳のカードはピンク色。
目立ちすぎ。
しかしさすがはベテランの貫禄。
あらゆる手続をスムースにこなし、すべて一番乗りで済ませる。
カッコイイ。
自己陶酔。

夕方、和太鼓部麻婆豆腐倶楽部第一回大会。
私が創設し総裁に就任した本倶楽部は、
その名の通り和太鼓部の麻婆豆腐好きが集まって麻婆豆腐を食べに行くという結社。
会場は当然、立川の陳健一麻婆豆腐店。
本日参加は総勢7名。
(行ったことある方は御存知の通り、狭い店内、当然7人で一緒に座れる席など無く、
いきおい3・2・2というフォーメーションで攻めることに。)
黙々と食べ、解散。
相変わらず美味かった。
その後、有志による珈琲大会。

第二回大会、あるのか?

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岡本太郎と会えなかった日 - 2003年04月07日(月)
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午前中、思い立って岡本太郎美術館へ。
自転車で颯爽と。
40分ほど漕ぎ、小田急線の向ヶ丘遊園駅(最寄り)についた辺りで気付く、
月曜は休館日だと。

倒置法で衝撃と落胆を表現。

一応、美術館の前まで行ってみる。
やっぱり閉まってた。
岡本はきっと僕に会いたかったに違いない。
僕が岡本に会いたいと思ったんだから。
閉まってるのは川崎市の都合だ。行政の都合だ。
行政は爆発だ。
勢いでモノ言ってスマン。


<今日の絶叫>




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今も昔も変わらぬモテ度 - 2003年04月05日(土)
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中学時代の同級生と吉祥寺で飲み会。

そのうちの一人は卒業以来だから10年ぶり。
こっちはすぐに分かったけど、向こうは分からなかったみたい。
あの頃は大きな眼鏡かけてうつむき加減に歩くモテない君だったからなあ。
(あたかも今はモテモテみたいな口ぶり)

かなり飲んだ。
焼酎をボトルで頼む暴挙。

でも正気で0時過ぎに帰宅。

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人見知りキラー - 2003年04月04日(金)
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入学式。
大学だけで3回目。

大学院の入学式は、礼拝堂じゃなくて、
事務棟の会議室というなんとも空しいセッティング。
ピチピチの学部生の入学式の翌日に、ひっそりと行われ、30分で終了。
もちろん特に面白いこともない。
強いて言えば木部先生が大学院副部長になっていたことと、
タカシ先生が行政学研究科長になっていたこと。
人事で面白がってるってのはどうなんだ。

相変わらずの人見知りキラー(意味不明)ぶりを発揮し、
周りの新入生とは全く言葉を交わさず。
本当に知らない人って恐いですねえ。
と向こうにも思われる悪循環。


夕方、知ってる人ばかりのワダイコ部新歓花見へ。
しかし当然、見学に来てくれた新入生(知らない人)とはノートーク。
ひたすら知ってる人と話し、ワンタンスープを食べ、
気ままに太鼓を叩き、あっという間に終了。


一年でこの時期が一番自分の欠点というか弱点を突きつけられるようで嫌です。
春という季節や雰囲気、空気の感じみたいなのは好きなんだけど。

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目黒川は最高! - 2003年04月02日(水)
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カノジョとデイト@目黒川。

東横線中目黒駅の近くを流れる目黒川は、知る人ぞ知る桜の名所。
毎年行ってみたいと思いつつ行っていなかったので、
今年はついに重い腰を上げました。

あいにくの雨。
でもとてもきれい。

  



こんな感じ。

これがずーーーっと続いている。
どこまで続いてるんだろうとひたすら歩き続けたら、
田園都市線の池尻大橋駅までたどり着いた。


川沿いにはおしゃれなお店が結構多い。
そして、おしゃれな俳句・短歌が手すりにくくりつけられていた。
主に地元の小学生たちが国語の時間に半強制的に作らされたものと思われる。

<金賞>

我が身から 桜吹雪を 汝らに

講評:
作品全体から満ちあふれるインパクトと、日本人の潜在的メンタリティに適合したモチーフ、そして何よりも近年死語となりつつあった二人称「なんじ」を蘇らせたという点において、日本的美学の再評価という作業を行ったこと、また、ヌーヴェル・ジャポネスクの一つの展開形を示したという観点から、選考委員の絶賛を浴びた。


その他にも、桜の木の下に張り出されているにもかかわらず、
堂々と「菜の花」「沈丁花」などを読んでいる句に対しても、高い評価の声があがった。



ユスリカ=人を刺さない、3〜5日の寿命、幼虫は役に立っている
 →成虫電撃殺虫機による電撃殺

人間は勝手だと思った。


雨の中、1時間ほど歩き、
ついでに代官山にも行こうかと思ってたんだけど、
雨だからねえ、ということで取りやめ。
渋谷に戻って、ティーカフェーに入る。
若い娘ばっかりで猛烈にうるさい。
オーケー、サンキューヤングパワー。

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jeudi jaune大忘年会 - 2003年04月01日(火)
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jeudi jauneコンサート(去る2月6日開催)の打ち上げを自宅で。

午前中、準備のためにパルコ。
ビールを買ったり、部屋に飾る小竹と入れ物のグラスを買ったり。
ここのところこういう小間物で出費が重なっている気がしてならない。

15:00すぎに原田メンバーと角メンバーが到着。
オーケー、リメンバー。
何故か、まず録画しておいたダンディ坂野のネタを見る。
8分で終了。自分の部屋にうつる。

昼間からビール。つまみはストリングチーズ。
いい身分。いい気分。
途中、バーミヤンにて晩飯。
食後、また部屋に戻る。
コンサートのMDを聴きながら、第2回の構想を話し合う。
6月開催決定。詳細未定。

22:00にお開き。

それから松ドラ。
1:30帰宅。
眠い。

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 マエ    ツギ    モクジ



∴オキニイリニツイカ∵
























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