日記×エッセイ...みち

 

 

ACIM勉強会の宿題をするの巻 - 2018年02月25日(日)

先週の宿題はこちら ↓↓

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私はひとりではない。私が招いた賓客(聖霊)に過去を押し付けない。
私が彼を招いたので、彼はここにいる。
邪魔にならないようにする以外に、私は何もしなくてよい。

特に「耳を傾ける」ということを意識して行う。
私たちが他の人とコミュニケーションをしているときに、神や聖霊に包まれていることに気づく。
関係を見守り、それを癒しの翼の中に包み込んで静かに祝福する強さ。
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一週間やってみてどうだったかというと、わたしの今回のケースでは「できなかった」「難しかった」という感じでした。
全然他者の話を聞けてない感じというか、言葉だけ聞いてるけどちゃんと耳を傾けてないよねーみたいな自分を何度も見ました。
「今回できなかった」というよりは、いつもの自分がどのくらい耳を傾けていないのかというのが自分にとってあからさまになった、という感じが強いかもしれません。特別何かが起こるというよりは、いつものことだけど全然気にしてなかったよねー、できてないねー、みたいな感じ。

今回興味深いなって思うのは、この一週間「できなかった」自分をたくさん見たのだけど、質として「できてる」という感覚があるところです。
できてなかったのにナニコレ?みたいに思いました。起こったことと感覚とが合ってなくね?みたいな。
 
昨日勉強会があって宿題の経験のシェアリングをしましたが、その時点では自分の中にあるそれらの感覚が謎で、理解できなくて、言葉にできなくて、がんばって言おうとするのだけど不発、みたいな状況でした。

今ちょっとだけわかるのは、
「関係を見守り、それを癒しの翼の中に包み込んで静かに祝福する強さ」
自分の中でこれが機能してた、ということです。

「できなかった自分」も全部包み込んで、それも含めて変わったり変わらなかったりしながら進んでいく感じ。
だから、「自分はできなかったからできた人をうらやましく思う」「自分もできるようになりたいと思う」、そういう感覚になりませんでした。わたしは難しかった、彼女はできた、そんな感じ。それだけっていうか。

それに関してわたしは個人的に、これは自分を褒めたいと感じました。
なので、ほっぺをペチペチして「すごい、すごいぞ」と褒める。
わたしにとって、これはうれしいことでした。
これもうまく言葉にできませんけど。


もうひとつ。
「自分自身にも耳を傾けないと」とわたしは何年もずっと思っていました。今も思っているところはあります。
というのは、わたしはどちらかというと頭で考えがちというか、自分の声を聞くことをないがしろにしてしまいやすいからです。

でも昨日の勉強会で思ったのは、「自分の声」というものに関して。

ヒントをいただいたんですね。
先週の宿題をしていて、他の人に耳を傾けていることで自分のマインドに耳を傾けることになる機会がわたしにも多く起こっていました。
昨日の勉強会でのお話によると、その「自分に耳を傾ける」ということは通常過去からくるものに耳を傾けている、ということが多い、と。
わたしたちは聖霊よりも過去のことを信頼している、と。

それなのでわたしは「自分自身に耳を傾ける」という言葉の意味合いに少し修正を入れました。

過去を押し付けることをしないで、わたしはその自分に耳を傾けることができるだろうか?
今、何を経験しているかということを聞くことができるだろうか?
(そして、聞くことは聖霊にゆだねる・・・)

やー。難しいねー。(と言って、顔が笑っていますけど)



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久々にボディワークをしてきた。(施術者) - 2018年02月15日(木)

久々にプレゼンシングソマティクスを施術してきました。
施術するとね、やっぱりおもしろいなーと思うのですよねえ。

おもしろいし、やっていきたいと思っているのにも関わらず、なんかちゃんとスタートする感じになかなかならないわけですけど。
施術するとねー、少し火がつきますねー(笑)
火がつくのはなんでかっていうと、施術をすると自動的にわたしは一人反省会モードになるのですけど。
実際にわたしはどんなことをしたか。それを知っている今のわたしとしては何ができる感じか。みたいな感じで。
まあ反省会といっても、ただ何をしたか振り返って今どう感じるかを確認する感じでしょうか。

わたしの場合はですけど、一人反省会モードになると「次は何がしたいか」が見えやすくなります。だから火がつく感じですかね。
次に何がしたいか、できるようになりたいかが見えたので、もう一度2013年の分から復習を始めました。

これまではさらっと触れてきていたところです。好きだなあとか思いつつ。その感覚を自分で味わいつつ。それで満足していました。

わたしはこれまでそれを「自分が他者に対しても使えるように」という風には触れてきていなかったので、もう一度その視点でクラスの記録を見返したい、聞き返したい、そしてできるようになりたい、とやる気が出てきた感じです。

それができるためには自分の感覚もより使って、体験し、明確にしていかなければならないとも感じていて、自分自身がまずできるように、というのは本当にそうだなって、以前思っていたよりももっと重みをもって思います。

今回施術をさせていただいたクライエントさんの希望としては「マインドフルネスを体験したい」ということだったのでそれはできたかなーって感じなのですけど、今回の施術を通してわたしがもっとできるようになりたいと思ったのは、「相手の方に体を通じて何を感覚してもらうか」をわたしの側でもっと理解して行いたいということです。

ジャックさんは施術中言葉も使って、クライエントの体のいろんな部分にクライエント自身が感覚していく手助けをだいぶしているなあって、今頃すごく感じています。全身使って施術するってそういうことかって感じ。全身って、体だけじゃないかもね!

「どういう手技がどういった感覚を生む可能性があるのか」
「どういう助けがどういった役割を果たすことができるのか」
こういったことを、言葉を使って意識を向けてもらうことでクライエントが自身の体を通して感じるということ、それをガイドできるようになりたいです。

あちらに見えますのは〜って、あちらに何があるのかわかっていないと言えない。
あちらに見えますのは〜って意識を向けてもらうことで、その人はそれを初めて見るかもしれない。以前来て見たことがある人だったとしても、ガイドさんの言葉で解像度が上がって自分だけで見たのとは別の見え方がするかもしれない。
バスガイドさんを思い出すとそんな感じがします。

いやあ、プレゼンシングソマティクスに惚れ直しております。施術をしたことで(笑)
もっとやればいいじゃなーい。


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ACIM勉強会に参加しました。 - 2018年02月11日(日)

前回の宿題は、ワークブックのレッスン361でした。

「聖霊に聖なる瞬間を捧げる。聖霊に主導してもらう。聖霊の指示は私に平安をもたらすと確信しつつ、私は聖霊の後についていく。必要な言葉や考え、静けさ、開かれたマインド、それらはすべて聖霊から受け取れる。聖霊が導くのは私がそれを要請したから。」

というものですね。

これを意識して一週間を過ごしました。
今回は特になにがあったということもなく、本当に穏やかに過ごしました。
わたしが今週の宿題をして気づいたのは、自分が結構「聖霊に主導してもらう」ということに慣れてきてるということでした。
以前だったら、困った!!ピンチ!というときにだけ、「聖霊さん!!」って助けを求めたり、あるいは助けを求めることすら思いつかなくていろいろが済んだ後に「あ、聞こうとするの忘れた」と思ったりという感じが多かったのですが(聞こうとはしているのにも関わらず)、先週はなんか目に見えたものや起こったことを隣にいるからずっとしゃべりあってるような、そんな感じでいつもいられました。

以前わたしは「その人のために」とか「自分の望むようにいくために」とかを、こうしようかああしようかと自分のマインドでぐるぐると考えるということをよくしていたのですけど、なんか他者がそういうことをしていることに気付けるようになりましたかね。少しだけ。というか、自分がぐるぐる考えてどうにかしようとしてると他者が同じようにやっていても全然気づかないものだなあと思ったり。
それからわたしのことを思って考えてくれているのだろうけどコントロールしようとしてるよなあ、そして本人はその自覚ないよなあ、わたしもそうだったもんなあ、みたいに、見せてもらえることで「理解」ができています。考えてるときは気づかなくても、相手の反応から「ああ、なにかを計算していたんだな」ってわかったり。
それで相手のことを嫌いになるとかはないんですけど、そういうことを含めて「わたしはその人にどういうことを信頼をするか」に影響してるっぽいなあと自分の感覚を確認して思いました。



勉強会のメンバーのお一人が体調不良でお休みしました。その方が体調を崩すことは珍しいことのようでした。それで他のメンバーのわたしたちで瞑想をしました。宿題だったレッスン361のように、体調を崩され欠席したメンバーと共に「聖なる瞬間を過ごす」ということをしました。聖なる瞬間を実践するとは、他の人と自分がひとつになるということを意味するそうですけど、それを意識しながら時間を過ごしました。

その方の人生の主導権はその人自身にあって、わたしたちはその後についていく。
その方の選択はわたしたちに平安をもたらすと確信しつつ。

次回はお顔を拝見できるとよいです。


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つらつら - 2018年02月10日(土)

やりたいことがたくさんあって、なかなか文章を書くことができないでいます。
読みたい本はたくさんあるし、学びたいものはたくさんあるし、編み物もしたいし、今季ドラマの「anone」も「アンナチュラル」もおもしろいし、その上たくさん眠りたいしで時間がありません。(睡眠を削る気はない)
これは外せない、興味はあるけどこれは外す、というように優先順位をきっちりつける練習かね。

小沢健二の新曲「アルペジオ」DLしました。大好きです。
歌詞だけ読んだときはぎょっとしたのですが、これがメロディーと合わせて聞こえた時の感覚は「愛だな」としか思えなくて、この人はすごいなとまたも思うのでした。
赤裸々さがあのメロディーで紡がれる、その関係性、空気、世界の捉え方にすごいなって。
そして赤裸々さにぎょっとした自分から、まだまだだなと気づくのでした。

男女の愛というときに性的なものをよく見ますし、人によっては男女で友達とかありえないという考えの方もいます。
わたしが今いちばん惹かれるのは「男女の友愛」で、しばらくずっとそれを考えています。「相手を思う」という意味では、なんかこれがいちばん強いもののように感じてるのかもしれない。うーん、正確に言うと違うか。いちばんわかりやすくできる、という感じか?
親子や家族の愛というのもありますが、「自分で選択するものかどうか」というところがわたしの中のポイントで、親子や家族でもそれはあり得るし、また無いこともある、みたいな感じがあります。
小沢健二と満島ひかりの「ラブリー」について“「完全な恋」とはもしかして親が子供が生まれて初めて恋に落ちるみたいな「愛」賛歌になってる”と書かれているものをSNSで見てしびれました。

これまでも男性の友達がいないことはなかったのですけど、本気で相手のことを思うということを考えてはいなかったなあって思ったり。期待という意味ではなくて、その人のどういう姿を見たいかというのを本気では見てなかったなあと思っています。



ドメイン・フォーカシングを学び始めてから、ジャックさんのプレゼンシングソマティクスのクラスの録画を見返してみたら、ジャックさんの施術でわたしが惹かれ続けてきたもの、そしてそれがなにかよくわからなくて、見せてはもらえるけどできなかったもの、どうやってるのかもわからなかったもの、それがちょっとだけ「わかるぞ」という感じになれました。というか、これを練習していきたいというのがわかった、という感じか。

ということで、学びたいものがたくさんです。


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