日記×エッセイ...みち

 

 

ACIMホームワーク - 2018年03月25日(日)

先週の宿題はこちら↓

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私たちは特別な関係性を求めていくことをプログラミングされていますが、じゃあ「特別な関係性でないなら、愛ってなんなのか?」ということを見ていきます。

コースでは、愛は私たちの理解を超えているものと記載されていますが、じゃあ「理解」というより「経験」として見ていくとどんななのか。

愛の代替物を自分が求めているということを認識していく。自分はどんなものを代わりにしようとしているのか?

「本当の愛を私はどうやって経験していくのかな?」と見ていく。
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さーてどんな経験でしたかね?ということで振り返りです。

友人と遊びました。
この友人は以前は、わたしにとってスピリチュアルな話題を気を遣わずに全力で話せる唯一の友人でした。今は唯一ではありませんし、その話題に拒否感があるような相手には話しませんが、そうでなければ、まあACIMは現実的というか乖離させないような内容なのであまり気にせず話しています。

友人と話して、わたしにとって以前は「特別な友人」だったのだなあ、と改めて思いました。
今は特別ではなく、友人、という感じがしています。


思い出したこと。
30過ぎくらいの頃にわたしは父親が亡くなりましたが、その時わたしは感情が止まらなくなりました。当時わたしはそれがとても新鮮に感じたというか、「こういうわたしもいたんだなあ」と思ったしうれしくなりました。わたしはいつもどちらかといえば冷静だからです。

でもこれをいま改めて振り返ると、「特別な関係性」から感情が出ていたのだなあ、と。わたしはその頃そういうことを「愛」と思っていたので、「特別な関係性」からの感情が出たときにうれしく感じたし、そうでない自分自身を愛がない、やさしくないと評価していました。
今のわたしから見るとこの頃のわたしは、愛がないというよりは「自分が参加していない」という感じが強いですかね。批評家的ポジションにいる感じで、まあ「特別な関係性」のほうが参加している感じがあります。

ちなみに2年半前に母が亡くなった時は「特別な関係性」からの感情もありましたが、それとは別の、祝福と感謝と愛としか言いようがない大きな感情を感じました。
これは今も思い出すことができます。インパクトとしては薄れてはいるけど。
特別な関係性からの感情と、祝福と感謝の感情、どちらかしか同じ時間に体験できなくて、違いがはっきり分かるものでした。

「特別な関係性でないなら、愛って何?」って自分に問うと、やっぱりこの母が亡くなった時に感じたこれなんだよな、って思うのです。



愛の代替品。
わたしはどういうものを代わりとしてるのかな?と一週間見ていったところ、次のような感じでした。

①寂しいと感じるもの、こと
そう感じられると、愛があると思える。

②体が心地よいもの、痛くないもの

③批判できるもの
守りたい、大切なものが愛である、と思うようだ。

で、興味深いのは、「逆もまた然り」という点でした。

①´寂しくないと感じられるもの、こと
②´体に痛みを生じること
③´応援したいもの

ということは、この振り子のような範囲はすべて同じもの、愛とは別のものをこの範囲では言っているのだな、と感じました。
(この範囲、すべてを愛というというアイディアもありますが、わたしはそれには同意してないというか、ある意味ではそうだと思うのですが、この範囲だけではなくてこれも包含したもっともっと大きいものが愛、と思っています)



「こういうものが愛なのかしら」と感じてメモったのはこちら。↓

・「あるから愛する」「ないから愛する」ではなくて、それ自体に敬意を払うということ

・介護など当事者には難しくなりがちなことであり、またそういう時期に触れられたときにはハッキリとわかるもの
松浦晋也さんの対談の記事を読んで、過去の自分と重ねて思いました。

・忘れること。いつも新しく臨んでいくこと。

・聖霊に聞いてから行わないと、疲労しかねないこと。

・愛する人の近くに私自身がいなくても、今後のその人の人生に私が関わらないとしても、自分を犠牲にすることなくその人の幸せを願うこと
anone最終話を見ても思ったし、わたしがはまりやすかったのもここだなあって感じです。



それから昨日は職場の歓送会だったのですけど、ここでも自分の感覚に注目していました。特別な関係性を使っていないかな?みたいな。

食事もとてもおいしいし美しいし大満足で、そして楽しくないわけではなかったのだけど、意識していたからかもしれませんけど違う価値観の世界にいる感覚があるなと思いました。

うーん、なんというか、他者を見て「周りのニーズに応えて生きてきたんだな」と感じることが多かったというか。。。
例えばある価値観の中ではだけど、女性としてこういうことが望まれてるからって生きてきたんだなーとか、周りと馴染むようにするのがいいこととか、「わたしが決めたんじゃないから」と理由をつけたりとか、自分の体に対して奴隷のように扱っていることに気づいていないこととか、、、

なんか、、、素面だったのもあってたくさん見えてしまいました。

他者にそれを見たということはわたしにもあるということです。ちなみにその自分には少し気づいてはいて、その上で他者にそれを見る、他者にそれを見せてもらうという経験は、わたしにとってさらに冷静に自分自身を見るということにつながりました。とても興味深く感じます。

というのは、自分の中にそれを見る、もしくは他者にそれを見る、そのどちらかだけの時には味わわない感覚があったからです。
ただすごく、「わかりやすい」って感じるというか・・・、自分の中にある感覚を外から「これでしょ?」と見せてもらって、さらにくっきり見えますね!みたいな感じです。

自分自身だったりもしくはわたしが見た誰か(何か)を責めたりとか直したいとかそういう感覚もなくて、「これではわたしは満足しないんだよな」って確認した感じにもなりました。

確かにおもしろくはある。だけど、アドレナリンが上昇するあの感じをわたしは特に望んでいないというか、それを良しとしている中に良しとして入る感じじゃないなあというか、、、この感じは今のわたしにとって発見でした。


ACIM勉強会も昨日でした。
初めは歓送会に出て勉強会は欠席かな、と思っていたのですが、それってどこか自分に我慢した感じが出るというか「特別な関係性」の香りがしました。
なので、勉強会の後半に出席できるように歓送会は帰ろう、と思い、幹事に終わりの時間の確認をし、締めのあいさつを終えたら即退出しました。
(お料理がおいしいお店なので、デザートまですべて楽しみました)
歓送会の終わる時間によっては途中で帰ることにしよう、と思っていましたが、最後までいられました。

誰のせいにするでもなく自分でどうするかを決めて、周りが波立つ必要がないように前もって少し説明しておいたり、自分にも周りにも愛を持って行動できたかな?と思いました。


...

ドメイン・フォーカシングの練習そして明朝 - 2018年03月20日(火)

週一で練習があるのですけど、毎回おもしろく感じています。
昨日は練習日で、わたしは次のような感じで進みました。

肩こり・首こりがあったのでそこから入りました。

その感覚が体のどこにあるか感じていくと、左右の肩甲骨の間に木の根っこがいくつも張り巡らされているようにあって、質感もしっかりしてるけど鉄とかの硬さではなくて木の硬さって感じでした。

(ちなみに、体の感覚を感じて言葉にするということをあっさりできるようになっているんだな、とフォーカシングを学び始めて、初めて気づきました。感覚を感じるということがどれだけ助けになるのかということも。)

で、どのくらいの範囲にそれがあるのかな?って感じてみると、後頭部の真ん中辺から首の後ろ側、背骨に沿って降りてきて、腰まではいかない、胃の後ろの辺りまで伸びてるかな?という感じでした。

その感覚を保持したままで、関連する事柄が何か上がってくるか見てみました。
が、不発。

なので質問を変えて、「その感覚にやさしくなれるだろうか?」と自分に聞いてみました。
すると感覚に少し変化が起きて、頭の後ろや首の後ろ辺りの感覚は弱まり、逆に左右の肩甲骨の間の違和感が強まった、ぎゅっとした感覚が強まっていました。

そうしてわたしから「息苦しい」という言葉が出てきました。

それは体の感覚を表す言葉として言ったのですけど、自分が言ったその言葉が耳から入ってきて、数秒後に「わあ!」と思いました。自分の言った言葉を聞いて、ずっと精神的にそれを感じてたことに気づいたというかそれと符合したからです。
気づいた、というのだけでは正確ではない感じがあります。なぜかというと知ってはいたからです。だから、「符合した」がしっくりくる感じです。

精神的なそれ(息苦しさ)に気づいているだけだと、そのエネルギーは「文句、愚痴、不満を言う・思う」という感じになっていました。
一方で体から表現した言葉とそれが一致したとき、そこで初めて「そうか、わたしそう感じてたんだ!」って得られた感覚がありました。
わあ!知らなかった!みたいな。
知ってたはずなのに。

ドメイン・フォーカシングを新たに学びながらプレゼンシングソマティクスを復習する、みたいな感じによくわたしはなるのですが、今回もジャックさんの「体の痛みに文句は言えても、それがどのような痛みかを言う人はあまりいない」って言葉を思い出すことになりました。
わたし自身は「自分にある痛みがどんなものかを言葉にする」ということはもう慣れてきているわけですけど、なにかが今回わかったような感じがしています。これまではわからなかったもの。経験したことはあったけど、ちゃんと触れていなかったもの。
(そしてこれまた、言葉にして言えるほどはまだわかっていません)



話を戻しまして。
フォーカシングの続きとしては、そのぎゅっとしたところの真ん中に入ってみることにしました。
そうしたら、外から見るとぎゅっとしているのだけど真ん中には空間がある、中ではそんなにぎゅっとした感じを受けない、そういう感じでした。
木が籠みたいに編まれるように組み合わさって、外からは木漏れ日が入ってきてきれいだし、守られているし穏やかな空間、そんな印象。森の中、みたいな。

うーん。自分自身のフォーカシングだと流れや内容を覚えていられない感じがあるんですけど、この辺は記憶が抜けてます。

【思い出したので追記】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この穏やかな場所と、そこに至る大元になっている「息苦しさ」とが感覚としてつながらない感じがありました。その間にある「ぎゅっとした感じ」とは双方それぞれつながる感じがあるのだけど。

なので、その「穏やかな場所」から「息苦しさ」を見てみる、ということをしてみました。

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その穏やかな居心地のいい空間。わたしはそこにいること、選ぶことができる。だけど、それに抵抗する自分を感じました。その場所にい続けることを抵抗する、文句を言っていたい。文句を言うような状況は嫌なのに、文句を言っていたい。矛盾を見つけました。

で、講義でのデモを思い出してノートをカンニング。

どっちの質問がいいかなーと自分に試してみました。
「その感情に敬意を払って、感情を手放すことはできますか?」というものか、それとも「その感情に敬意を払って、そのまま保つことはできますか?」というもの。

手放すよりも保つというほうが今回はしっくり来たのでその質問をして様子を見てみました。

そして・・・練習内容の記憶がない笑

終わった直後のわたしのツイートを確認すると「おもしろい」しか書いていません。
もっと書いとけよー。ぶーぶー。とすっかり忘れているわたしは思うのでありました。

「これ、同じことができるな。できそうって感じがしてるというか、やってみたいな、試してみたいな、って感じ。自分自身にも、他者との関係性にもできる、これ。」
ともつぶやいてますね・・・。
「これ」ってなんだよー!

ちなみに今のわたしは記憶はなく、「感覚」だけあります。ま、いいか笑

【思い出したので追記】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

体にある「ぎゅっとした感じ」とか背中のこりとかは感じる、あるままなのだけど、文句、愚痴、不満を言いたがっているそういうもののフェルトセンスはなくなってしまいました。
というか、なくなったことで「文句、愚痴、不満を言いたがっているそういうもの」にフェルトセンスを感じてたんだ、ということに気づきました。
あ、なくなっちゃうんだ、みたいな感じ。

自分自身にも、他者との関係性にもできる、と書いているのは、その「文句、愚痴、不満を言いたがっているそういうもの」がないのであれば、何の問題もないなと感じて、です。
(ACIM的に言えば、もともと存在していないものについてのもので、あーほんとだー、なんも問題ないねーと、フォーカシング経由でも思うわたくしです。)

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そんな感じで練習が終わりまして。



で、今朝です。
目が覚めた時に胸に違和感がありました。なので、手を当てて感覚してみました。

そうしたら上がってきたものは、「信じていない自分」でした。
情報を得ることはわたしは好きなことなのですけど、「信じていない自分」がたくさん情報を得るのは、胸が苦しくなるし、緊張するし、息苦しくなるよなあ、そうだよなあ、、、と思いました。

なので、「そりゃそうだなあー」ってその感覚、「信じていない自分」と一緒にいてみることにしました。
ドメイン・フォーカシングを学び始めてわたしが得たもののひとつは自己共感ですが、それをしてみました。

そして質問をしました。
「信じていない自分、信じられなくなってる自分に敬意を払って、その感情、それから肉体的にも感じているフェルトセンスのその感覚を、わたしは手放すことはできますか?」

今朝は、手放すという方向で自分に問いかけてみました。昨日の練習の時と違って、「あれ?この質問もいけるかも?」と感じたからです。

でも手放す感じにはなりませんでした。手放せるけど、でもねって感じ。

それなので、「何を必要としていますか?」と聞いてみました。別に「手放すために」という意味ではなくて、わたしは何を必要としているのか?という意味で。

そうしたらいろいろつながりました。

先々週、「シェイプ・オブ・ウォーター」を映画館に見に行きました。そして最悪オブ最悪のストリックランドが気になりました。
先週、ずっと見ていたドラマ「アンナチュラル」が最終回を迎えました。最悪オブ最悪の高瀬が気になりました。

最悪オブ最悪なのもあって、二人ともにかわいそうと思わないですが、二人ともに「自分の信じてるそれを超えて来いよ!」と思いました。「もっとおもしろい物語を見せてくれよ!」と思いました。

それとつながりました。

わたしは、「信じていない自分」「信じられなくなってる自分」とその二人を重ねたようです。だから気になっていたのかもしれません。
ストリックランドも高瀬もわたしだ、信じられていないわたしだ、そう感じました。
そして同時にわたしは「これまで信じられてなかった人が信じられるようになった、その瞬間を見たい」そういうところがあるなとも。

そりゃ手放す感じにならないよね。
結果として「手放す」という表現にはなるのかもしれないけど、ただなくすのではなくてその変化をわたしは見たいんだな、と気づきます。

でもこうしてやりとりしていくと、どんどん「信じていない自分」が離れていきます。
うれしいし見たいものだけど、どこか寂しいという。正直なところ。

ううむ。
愛を持ってエゴを解放する、ということを思います。
うれしいし、見たいし、どこか寂しい、それらをすべての中に包含していよう。


...

ACIMホームワーク - 2018年03月18日(日)

先週の宿題はこちら↓

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幻想に惑わされないぞ!という意欲を持って、愛について新しく何かを発見していく。
エゴは安全性を求める。相手を安全のために使うのではなく、もっと参加していく。
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で。
先週一週間、この宿題と共にいてどんな感じだったかといいますと。

幻想に惑わされ続けました笑

ある意味では、宿題をとてもできました。もうバッチリですね。なぜなら、幻想に惑わされる度に「惑わされないぞう!」「惑わされないぞう!」と何度も意欲を持ち直すということをしていたので、ある意味ではだいぶ宿題ができたかな?と思います。

惑わされながら、自分のエゴを分別してる感じもありました。「これはエゴ、火曜のごみの日」みたいに、ひたすら認識するということをしました。

夢もたくさん見ました。夢はいつものように、わたしに気づかせてくれます。
ある夢では、積極的攻撃ではないけど攻撃的な思考をしていたりそういう思考に同調していたりする自分を見ました。
SNSでいろんな情報をずらずらとただ眺めている時にも、この夢での感覚と似たような感覚になることがあるなあ、と思いました。
そういうことを、ある意味ではわたしはもう知っていました。「これはわたしは必要としないもの」、どれを得るか自分で選択する、そういったことをこれまでもしてはいました。でも、それでもなお「惑わされてたなあ」って感じることができた、それも「宿題できたなあ」って感覚に繋がっています。

それから仕事について。
会社を辞めて個人で仕事を得ていくやり方をするとしたら、わたしはどう準備していこうか?と考えるようになってきたのですけど。
それがまたエゴ大活躍というか、安全を求めるエゴさん、生き残ろうと急くような感覚をたくさん感じることができたりして、いやあ、そういう基本的な自分の反応を変える時なのかもなあ、と思いました。

別の夢では祖母の葬式を見ました。
タロットでも死のカードは悪いものじゃないわけですけど、夢のシンボルとしても死は悪いものではなくて、わたしの愛用している夢辞典では「古いものが終焉を迎えている」とか「新しく始まるものに道を開けましょう」とか書かれています。
なので、応援されている気持ちにもなりました。

「個人で仕事をする場合の準備」もそうだし、今の仕事での自分の人間関係を振り返ってもそうなのですけど、どちらも「安全のための関係性」がマインドの中にするりと入って来るのでした。本当に自然でびっくりします。
そしてそれに気づくたびに、「いやいや、今週はそれではない関係性を選びますよ」と意識すると、不思議なことにわたしの中のどこかがすごーく楽になるのを感じられたのでした。
(今のところ、どこかはわかりません)


また、明らかに「安全のための関係性」ではない関わりもさらりと見せてもらいました。

先週、彼岸前なので平日休みの日にお墓掃除に行ってきたんですね。その時に他のご家族(知らない方々です)もお墓にきて掃除をされていました。

わたしはそれが意味もなくうれしくなりました。
あちらの人もお墓掃除に来てるのねーって、単に、その人たちがいることがうれしい。

目が合ったのでこんにちはを言い、しばらくした後で「燃やせるものあればもらうよ」と声をかけていただいて草を捨ててもらったり、袋が破けちゃったおばあさんに持ってきていたごみ袋を差し上げたり、破けた袋から散らばったものを片づけたり、、、そういう、本当に何でもないやりとりがとても幸せに感じました。
(何でもないようなことが~♪と、悲壮感なしに歌えるねと思いました)


こうしてわたしに経験させてくれます。


また、ある別の夢では、わたしは「自分を直されたくないから」「自由が欲しいから」だからわたしは親や先生がいうような言葉や本で読んだことを、あたかも「わたしはやってますよ」というかのように使っていた、ということに気づかせてくれました。
これはわたしは全くこれまで気づいていないことでした。なんか優等生だよなー無理してるよなー、みたいなことは自分で思ってたのですけど、「どうしてそれをしてるのか?」ということに関して腑に落ちたことはこれまでありませんでした。

ちなみにその夢はどんな内容だったかというと。
わたしの友人が娘さんが休日の日にいつまでも寝巻のまま着替えない、と不満を漏らしていて、わたしは「起きてすぐに着替えていたほうが行動したいときにすぐに取り掛かれるねー」みたいに言っていました。でもわたし自身は、寝巻で過ごしたいし過ごしてる、でもそれは言わない、みたいな。言うと「自分を直されるから」、だから先に優等生でバリアを作っておけば「自由を守れる」と思っていた・・・。

この思考パターン、すーごく馴染みがあるんですよねえ。。。馴染みがありすぎて、夢で見るまで全く気づきませんでした。

正直さを自分に与え、そして自分を自由にしよう、と思いました。

そして、それを勉強会でシェアしたときにお話ししていただいたのは、修道院などは安全に守られている、安全に隔離されている、ということ。
以前にその話を聞いた時には、「そうだよねー、そういう守られた場よりも、普通の市井で生活してるほうが経験して覚えていくよねー」というようなことを思ったのでしたが、今回は「すごくわかる!」と思いました。
わたし、精神的に修道院を建設してた!みたいな感じです笑


フォーカシングの練習の時間には、次のような洞察が上がってきました。
わたしのエゴ、誰かを嫌いだ、分離していたい、そうしてぎゅっと心に固めておいているもの。
その固めているものが、大きな青い海、ディズニーのリトルマーメイドみたいな楽しい雰囲気もある広い広い海に、ばあーって散らばっていく感じ。

わたしは散らばっていくそれを、また一生懸命集めて、ぎゅうっとさせています。でもどこか拾いきれない。
そしてまたしばらくすると、海にばあーって散らばってしまう。

散らばって、海に持っていかれて、もうどこかわからなくなってしまって、、、その感覚はとても心地がいいものでした。
なのにわたしは一生懸命散らばったものを集めて、全ては拾えなかったと罪悪感を感じる、そういうことをしてたなーって、そういった洞察が上がってきました。
その、心地のいい感覚のほうでいいじゃん。


先週の宿題の「幻想」がまさにそれだな、と思いました。海に散らばって、持っていかれることに抵抗して一生懸命集めて、みたいなその一連が幻想だなあって。

先週の宿題の「愛について新しく何かを発見していく」。その、海。ただもう、持って行ってくれてしまう大きなもの。大きすぎて把握ができないもの。
わたしが先週、愛について新しく発見したことは、そういう感覚です。
穏やかで、抵抗しきれなくて、果てしない。



ACIM目当てでこの日記を読んでくれている方もいるのかも?ということで、今週の宿題を書いてみます。
よろしければ、ご一緒にやってみませんかね?

今週の宿題。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは特別な関係性を求めていくことをプログラミングされていますが、じゃあ「特別な関係性でないなら、愛ってなんなのか?」ということを見ていきます。

コースでは、愛は私たちの理解を超えているものと記載されていますが、じゃあ「理解」というより「経験」として見ていくとどんななのか。

愛の代替物を自分が求めているということを認識していく。自分はどんなものを代わりにしようとしているのか?

「本当の愛を私はどうやって経験していくのかな?」と見ていく。
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ではまた来週~



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先週のACIMホームワーク - 2018年03月13日(火)

先週の宿題はこういう内容でした。↓

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① 聖霊に私たちを通して教えてもらう。

② エゴは先に口を開く。テキストに「エゴの教えは即座に結果を生み出すが、その理由はエゴの決断があなたの選択として即座に受け入れられるからである。」とあるが、聖霊が原因結果を用いるとどういう違いがあるかそれに気づいていく。
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で、一週間過ごしました。

どうなったかというと、宿題① のほうはよくわかりませんでした。
体の感覚を通して自分自身に教えてもらう、という感じのことは結構あったのですけど、今回の宿題の内容は自分自身に教えてもらうというよりか、わたし自身を通して聖霊さんが周りに教えるという感じなのですよね。。。

宿題期間中に「勉強になります」と言われたりはありましたが、何かを教えた気がしない・・・そんな勉強になるようなこと言ったっけ?あなたにとってなにが勉強になったのだ?と思う感じでした。

・・・と、書いていたら気づきましたけど、宿題できてましたね(苦笑)
あー、エゴが関与してないわ。そうだわ。と気づきました。

勉強会の中で聞いてたのは、誰しもがいつであっても教えている、ということ。
他の人たちに教えていることをその人自身は認識していないということが起こってくる、ということ。

それを改めて振り返ると、そうだねって感じですけど・・・自分が何かした感じが全然ないな。
そうして「わたしがこれをした」と思いたい、わたしのエゴさんを感じるのでした。


宿題② としては、エゴと空間を空けて接することが何度か起きてました。
例えば、夜勤中にイライラして体が痛くなってきたとき。持っていたローズのマスクスプレーをつけたら気持ちがやさしくなって、おおらかな感覚に変わりました。ローズの香りでイライラも体の痛みも和らいだ感じになりました。
そこからわたしは「マインドが自分にも他者にもやさしくなくなると、わたしの体に痛みが出るのだな」と思いまして。

「じゃあさ、わたしに怒られないようにしてみたらどうかしら?」とふと考えが上がりました。
その「わたし」はどういうことで怒る?
どうすれば「わたし」に怒られない?
いたずらっぽい感覚でその考えが上がってきました。

これを優先すれば「わたし」は怒らない。それはやれなくてもこちらをやっていれば怒らない、というのがあったので、それを踏まえて行動したらすごく楽でした。気持ちも作業もすごく楽でした。

でもいつもはわたしはそういうことはしません。わたしがわたしに判断してきて怒ってきても、怒られてるわたしは罪悪感を感じてみたりとか、罪悪感をケアしよう、罪悪感にワークしようとするだけで、わたしが望むやり方をやろうとは思ったことがありませんでした。
(「わたし」のゲシュタルト崩壊)

怒るわたしが勧めるやり方が良いとか悪いとかは別として、それをするのはとても楽でした。わたしはこれまで自分の「罪悪感」ばかり見ていて聞いていなかったし、「それをやってあげる」なんて考えてもいなかったのでした。

この日は自分が自分に判断する、という形でしたけど、別の日には他者に自分が判断される、という形の経験をしました。

その時は、過去の記憶から自分の恐れがわあって出てきて、「ああ、これはわたしが作り出してるストーリーだな」「わたしがこの恐れを作り出してるな」って感じました。それを感じ切ってから恐れていたことをやってみました。

そうしたら、わたしが過去の記憶から作り出していた恐れストーリーと同じことが起きました。想像してたのと同じことが起きたんですけど、その時わたしはもう恐れと共にいなくて、だからそのストーリー展開をとてもおもしろく感じてしまいました。「すごい!わたしがさっき想像してたものと同じものが起こってる!」みたいな感じ。なので、とても落ち着いて対応できました。


これらを書いていて今気づいたんですけど、自分自身へのジャッジも、他者からのジャッジも、わたしは同じもの、共通項を持っているぞということに気づきます。

というのは、なんでわたしは「わたしに怒られないような方法をとらなかったか」ということがわかったからです。
わたしは自由を求めていた。ああ、それでだ、とすとんと腑に落ちました。
わたしは自由を求めていたから、望まれる方法をとらなかったようです。言うなりにやるなんてとんでもない、みたいなね。「ええー、望んでるのが自分でも!?」って感じですが、でもその感覚がいちばん近いです。そしてそれは他の人との関係性とも重なってたなあってすごく見えてきます。


勉強会のシェアで、親として娘さんが自由になれるようなことを今している、とおっしゃっていた方がいました。自分たちが死んじゃう前に娘を自由にしてあげたいんだ、と。
それを聞いて、わたしはボロボロと泣きました。
その方の言葉から自分と親との関係性も思いましたし、両親が亡くなっている今、自分は自分を自由になれるようにしてるだろうか?とかも思いました。亡くなっている親からわたしが今望まれているもの、というようにも聞こえましたし、それから「子供の自由を望む親がいる」「安全からの関係性ではなく、愛から関係性を持とうとする人がいる」ということにわたしは打ちのめされました。

先週わたしは、肩こり、背中の凝りなど体に痛みがあったのですが、それらが一気になくなりました。病は気からってレベルじゃないです。
すごいね。もうわけわかんねーよってとこが正直あります(*゚ェ゚*)

宿題からの自分の経験、そして他の方々からのシェア、それらを経由して今の気づきって感じで、そして時間軸に沿ってどんどんわかっていくというよりは、ザッピングするような感じで過去の出来事と今の出来事がやりとりするようにわかっていったので、宿題のテーマだけでなく起こっていること全体がすごくおもしろいです。



...

先週のACIM宿題 - 2018年03月05日(月)

先週の宿題はこういった内容でした。↓

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私たちが一緒に聖霊と取り組んでいく中で「証人たち」ってなんなのか。どういう風に見せてくれるのか。
証拠として証人たちがやってきてくれる。証人がいることで私たちはわかっていく。じゃあ「証人」とはなんなのか?
どういう風にして私たちはこれを証拠としてわかっていくのかな?

テキストP444の7の最初の部分も含めて宿題を行う。
「今年は喜びの年。あなたがもっとよく聞くようになり・・・(略)」(公式テキストP444より抜粋)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この宿題とともに一週間を過ごしました。
そうした一週間が今のわたしにとってどんな経験になったかを書いてみます。

「どういう風に見せてくれるんだろう?」「これでわたしは何をわかっていくのかな?」
そう問いかけながら、人と話したり状況の中に入ったりしていたわけですが。それによって起こったことというのは、「わたしが作り出したもの、過去の経験からマインドで作り出したものから聞いたり見たりをしない」ということでした。わたしがそこから興味深く感じるのは、そうしようって思ってたわけじゃない、というところです。

これまでも「投影しないようにしよう」とワークしたことはあるのですけど、今回の場合は自動的に投影にならない感じがしました。
(自分では投影しないようにとか意識していないけど、結果というか現象的にはそうなっているという感じ)

「どういう風に見せてくれるんだろう?」「これでわたしは何をわかっていくんだろう?」
そうやって人や物事を見ていると、わたしのマインドで作り出したAさんとかBさんとかではなく相手の方に接するので、どこか常にワクワクしていました。Aさんどう見せてくれるのかな!みたいな。
(・・・ということは、わたしが作り出した「その人」として接することはワクワクしないということなんですよねえ。なんでわざわざそんな楽しくもないようにわざわざしてるのかという・・・。)

この宿題をしていたら、相手の行動に期待しなかったんですよね。Aさんはこうするに違いない、Bさんはいつもこうするから、みたいな期待が自分から出てきませんでした。たとえいつもよく見る行動を見せてくれたとしても、「いつも見る行動と同じ」とは受け取らないのも興味深い点です。なんでそう受け取らないのか、なにが違ってそうなのかはわからないのですけど、興味深いなと思いました。

「どういう風に見せてくれるか」と臨んでいると、固定した意味合いとして物事を受け取らなくなっていました。時々、宿題のことを忘れて固定した意味合いで受け取っていることもありましたけど、そうすると自分の中に自然にイライラした気持ちが出てきたりするので、おっと離れてるぜ、と気づけました。

「どういう風に見せてくれるんだろう?」「これでわたしは何をわかっていくんだろう?」
この姿勢は、自分の周りへの関係の仕方だけではなくて自分自身に対する接し方にも関わってきました。これも振り返るとそうだなという感じで、その時は気づきませんでしたしそうしようともしてませんでした。

わたしは以前から、わたしってこういう行動をするよなあ、こういう思考回路で動くパターンがあるなあ、とか自分自身を見つめることが多いのですけど。
今回、「わたしってそういう風にふるまうパターンがあるなあ」とパターンに気づいた後に、あれ?何かが違う・・・と感じました。何かの「感じ」が違う。

勉強会でのシェアの時にはこれもまた全く説明ができないものでしたけど、今振り返って感覚しなおしてみると少しずつわかってきます。
例えてみると、まるで「わたしってそういう風にふるまうパターンがあるなあ」と思った自分自身に、「パターンがあるなあって思った自分は、わたしに何をどういう風に見せてくれるんだろう?」「この自分から、わたしは何をわかっていくんだろう?」って関係していく感じ?

これまでは「自分のパターンに気づくわたし」が終着点でした。パターンに気づいてそこから学ぶ、みたいな。でも今回は、パターンに気づくわたしが見せてくれるものは何?と更に範囲が広くなっていました。

なので、何かがいつもと違う、と感じてもそれが何なのか全くわかりませんでした。「自分のパターンに気づくわたし」しか知らなかったからです。そこから見ても全く分からなかったんですよね。
数日経って今、ああ、そっか、そうだわ、、、みたいな感じで理解しています。

この宿題をしていたら、自分の経験が、見方がどこか変わる、これが「わかる」ってことか、「理解」ってこれか、という感覚もしてきました。ここももう少し詳しく書きたいものではあるのですけど、、、まだわからん!

それから、自分の行動から自分が学ぶ、ということも宿題期間には起こりました。
わたし自身の口から言ってるのに、自分が話している言葉を聞くわたしは「へえ~、そういう風に話すのね。そういう風に聞くんだねえ。そうやるのかあ。」と他人事みたいに思うことがありました。わたし自身がやってみせてくれた(?)のだけど、同じようにできる気が今のところしないという、、、なにそれ?(^_^;)
あ、頭で考えて頭で理解して「こうすると良いから」とかそういう風にして同じようにはまだできないって意味です。そうでない意味でなら、またできる気はします(笑)
でもわたしは頭でも理解したいんですよねえー。こういうことが起こってるんだなあって、肌にもしっくりするものを。

宿題である「証人たちってなんなのか」というのはまだよくわかりませんけど、この宿題をしたことでこれまで感じたことがない感覚を経験できました。一週間のほとんどの時間その感覚はあって、それってなんかほんのり甘くて、でも決意してるみたいなぴしっとした感じもある、そういう感覚でした。今もそれはあります。

なので、この感覚はなんなのか?どういうことなのか?という疑問が出てきています。
投影をしない感覚がこの感覚なのか。
それとも、聖霊が私たちを通して教えてくれている時の感覚がこの感覚なのか。
それとも?

おしーえてーおじいーさんー



...




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