日記×エッセイ...みち

 

 

近況 / ドメイン・フォーカシングのクラス受講2回目 / ACIM宿題自習 - 2018年01月28日(日)

まず最初に最近の事柄を。

雪、すごかった。
移動に車が必要な田舎暮らしなものですから、先週は雪かき、車の雪下ろしでへっとへとになりました。

そしてなんだか先週は定められた予定も多くてすごかった。職場の査察もあったし夜に必ずなにかしらするべきこと・予定がありました。
わたしはいつもそれほど事前に予定を入れずに生きているので、昨晩は久々に予定するものが途切れて「いいの?いいの?自由に時間を過ごしていいの?」と超開放的な気分になりました。
ありがとう!ありがとう!

最近、いろいろお誘いいただいてうれしいことが続いています。
鍼灸は、これまでは毎週2回というペースだったのですけど体調も安定してきて週1回になりまして、でも「遊びに来ませんか?」とお誘いしていただいて、結局週2回行っています。
遊びに行くというのはただで鍼を受けているのですけど(実験?)、短めの時間で、ということでお話をいただきますが、通常の時間をかけていただいているような気が。というか、うつ伏せになってお灸してもらったりという時間がなくてフルで鍼のみなので、むしろ鍼の時間は長いような気がします。

それから愛用している化粧品屋さんで新商品(まだ未告知の製品)の使用体験イベントをするらしく、お誘いいただきました。
わたしは化粧品はどちらかというと効果よりも使用感を重視するのですけど、それなので使用するときはいつも感覚しようとするのです。まあ観察も好きなので、効果も結果的に観測していて、同じ商品の2回目の購入動機を振り返ると効果のほうが重視されていますが、効果だけで購入を決めるということはないなって感じです。
化粧品屋さんで購入したものの感想を伝えるときも、そして店頭でお試しさせていただくときも、どちらも使用感に関するコメント、使用して気づいた変化をよく伝えるので、だからお誘いいただいたのかな?と思います。(以前は使ってみてくださいと非売品をいただいたこともあります)
そんなに頻繁に行くわけじゃなくて、2〜3か月に1回くらい行く感じですけど、行ったら濃く伝えてきます。(お店が忙しくなければ)
いやあ、ありがたいものです!





先日ドメイン・フォーカシング。2回目の受講をしました。
おもしろいよう〜。

初めにロバート・リーさんの講義があって、その後に受講者全員が順番にロバートさんに短くセッションしてもらう感じで進みます。少人数制なので毎回全員がセッションを受けられます。
セッションを受けていない時間は、ほかのメンバーはそのセッションを見守り、そこから学んでいき、セッションが終えたらそのセッションについての解説等があります。

他メンバーへのデモセッションを見ているだけでもおもしろいのですけど、自分が受けるのも大変おもしろいです。

先日のわたしは次のような感じで進みました。

「今、自分が望んでいる状態はどんなものか?」というところから始まりました。
わたしは、静かで安定している、と答えました。
それを体の感覚ではどのように感じるか問われたので、自分の体に意識を向けました。わたしの体の感覚は、腰に重みがあってどっしりしていて、そして胸の辺りは心地よく内側に空間があって広がっていました。
「その感覚で取り組みたい事柄が何かあるか」と問われたのでその心地よい感覚を感じながらその質問と共に居たら、ひとつ上がってきました。これができるようになりたい、というもの。
それについて明確にするやりとりがしばしあって、ロバートさんが「それを望むあなたに感謝の念を抱きます」とわたしに言いました。その言葉は普通に受け取りました。それはどうも、みたいな。

そしてその後に、
「あなたは自分自身に感謝の念を抱くことはできますか?」
と問われました。

その問いでわたしは「ああー・・・」と納得(?)しました。そうだよね、って感じ。

わたしは、わたしが望んでいると同じことをもしも誰かが望んでいるのを見たらうれしいなって思うと思います。だけどそういうことを自分自身が望んでやろうとしているにもかかわらず、わたしはわたし自身に感謝をしていないんだなって気づきました。

で、なにかがほどけていく、溶けていく感じがして。
感謝できるよー、っていうか感謝したいことだよー、感謝してなかったよー、って思い、自分自身に感謝する時間を取りました。

そうしてしばしの間の後、ロバートさんが「今、何が起きてますか?」とわたしに聞きました。
わたしの体の感覚は変化していました。
最初の段階でわたしが「心地いい」としていた体の感覚はまるで変ってしまいました。
安定していてよい、と感じていた腰の重みはなくなっていました。胸にあった心地の良い空間と腰の感覚はひとつになっていました。軽く、広く、ひとつになっていて、だけど安定していました。

それに気づいて、理解しました。
本当に「自分がそれを望むということをしているんだな」「自分が選択しているんだな」と。
「心地いい」って思っていたんですよ。でもそれは、自分自身には感謝を与えていない、というのがベースにありました。

こうして文章にまとめていて少し興味が出たので、ちょっと次のことを試してみることにしました。
自分自身への感謝を保持したままで最初の感覚(腰に重みがあって胸は広がりがある)を思い出してみると、どうなるんだろう?

・・・むずかしい(笑)
むずかしいことがわかりました。自分への感謝を保持していると、わたしは腰に重みを持っていけない感じがありました。

そして興味深いのは、それはわたしの体や行動ともリンクしてるってことです。
(例えば、わたしは上半身とのバランスに比べてふくらはぎがだいぶ太いです)

変な話、ACIMを学んできて「聖霊さんに感謝する」とかはできるけど、同じ感謝を自分自身にするかっていうとしたことがないなーなんて気づきました。

こちらもこうして書いているうちに興味が出てきて「同じ感謝を自分自身に・・・ちょっとやってみようか」と思ったのですが、今のところはほいほいできる感じじゃないことがわかりました。

ちょっと意識しててみよう。

今週のACIM勉強会での宿題は、「肉体をコミュニケーションのためだけに使う(分離や攻撃などのエゴではない肉体の使い方をする)ってどうしたらいいのかを聖霊に聞いて教えてもらう」というものです。

この宿題を先週の土曜から始めて1週間やったのですけど、どうも「人」とのコミュニケーションって感じじゃないな・・・って感じがしました。
例えば大雪降って雪かきとかしても隣の駐車場の人も雪かきしてて、みたいな状況もないとか。どちらかというと、雪かきをして自然というものとやりとりしてる感じがしたりとか。スーパーに行ったら、コミュニケーションロボットのペッパー君に会ったりとか。人じゃないけどコミュニケーションのためだけに体を使ってる存在だなとか。
そして、フォーカシングから自分自身とのコミュニケーションのこれまでの仕方に気づいたりとか。

聖霊さんのわたしに対しての教えかたは、なんともわたしの擽りどころを知っているような感じで、いつもなかなかたまらないです。



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ドメイン・フォーカシングのクラス受講しはじめました - 2018年01月13日(土)

ドメイン・フォーカシングってどんなのか、みたいな内容は特に書いてないので、それを期待して開いたならご期待に沿えてません。よろしくです。



昨晩、ドメイン・フォーカシングのクラスに参加しました。フォーカシングを本格的に学ぶというのはわたしは今回が初めてです。
わたしはフォーカシングのテクニック自体を習いたいという感じではないので、ちゃんと学んでみたかったけどこれまで足を踏み出すことはありませんでした。

わたしって、「何を学べるか」ではなく、「この人から学びたいかどうか」でもなく、「学びたい人かどうか」というのを重視するようで、思い返すとわたしの人生そればかりです。しかもいつも自分ひとりではその人を見つけられません(笑) 誰かから紹介されてそれから調べる、みたいな感じ。(人に限らず動画や本などでもそうですけどもー) 「おもしろいものをどうやって見つけるの?」と聞かれることがよくありますが、わたし自身は見つけられないという・・・(笑) 人を見つけてると言えるかもしれないけど、、、うーん。自分からアクセスするぜ!って感じもないしな・・・(アクセスしてもらえるって感じ)。

自分がどういう人に学びたいと感じるのかというのは、今のところ基準もよくわかりません。その人からは一般的に感じることが多い何かを感じない(感じにくい)というのはわかるのですけど、その「何か」がわからないです。
もしかするとわたしは、その「何か」を持たないというのを学びたいのかもしれないなあ。


昨晩のクラスは、わたしのなかで消化をまだしていない、それどころか食べ終えたのに焼きたてのおいしい匂いは台所でまだしている、そういう感じに似ています。

クラスが始まる前、とても楽しみでした。いただいた資料もおもしろいし(理解はできていないけどおもしろいことはわかるという、ACIMでも感じたことのある類)、すっごくわくわくしていたんですけど。

クラスを受けてみたら、そのわくわくした感じがガラッと変わりました。
楽しみではあるのだけど、始める前に感じていたものよりももっと穏やかで落ち着いていて、まったく想定していなかったもの。これまで感じたことのある「わたしはずっとこれが知りたかったんだ!」という感覚もありません。もっとずっと、とても穏やかなものです。

半年間続くクラスの第1回目。
わたしがハッとしたのは、これまで自分が使っていた「繋がっている」「ひとつ」という言葉の意味合いに、クラスの流れの中で気づいたときです。
わたしはこれまで「別々のものが繋がっていることをひとつという」と思っていたな、と気づきます。ひとつのものを「この部分は」って分けられると思ってたし、そう思っているから出てくる言葉も使ってたなと気づきます。

例えばパソコンのモニターに埃がついている、と。(今まさにそれが目にとまったので例に使います)
それって「パソコンに埃がついてる」と言っても大体同じ感じで伝わりますよね。あまり区別なく言ったりもします。あ、パソコン汚れちゃったーみたいな。だけど、そういった感覚で人に関しては見ていなかったことに気づきました。(伝わりますか?)

書いてみてからもうひとつ気づきましたけど、分けて考えるというのと同時にぜーんぶ一緒!みたいに扱うこともありますね。
例えば何かをして怪我をして、そうしたら罪悪感(わたし全部が悪い)みたいな。
ひとつ、といってもそういう意味とは異なります。罪悪がない状態で区別がないって感じかな。
パソコンに埃がついていたところで、このパソコンのモニターめ!とはならない。そんな感じかなあ。(そうか?)


夜10時から始まったのですけど、なので終わりが0時を過ぎてすごく眠くなりました。
「いつも夜11時くらいに寝てるから眠いよね」と昨日は思ったのですけど、よく考えたら夜勤で眠らないで朝ということもよくあります。だから機能的に起きていられないことはない。だから、「いつもの寝る時間を過ぎたから」とかそういうことではないんだろうなと思いました。

すごく眠くなってすごくよく眠れるということ。それもわたしは久々だってことにも気づきました。

そうか、久々なのか。。。

睡眠欲はわたしにとって大きいし、普段も睡眠のために時間をとろうとしているので自分で書いてて驚きますが、目覚めの時の体の感覚が異なっていて「久々だ」と感じました。


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ACIM自習とACIM勉強会 - 2018年01月07日(日)

ACIM勉強会に参加しました。
今回は勉強会の内容とは別として、自分では大したことではないと思っている自分のしてる行動というものに気づきました。
前回の日記にも書きましたけど、宿題「人間関係の中で自分が恐れが出てくる状況を見る」というものをしてる期間に、わたしは自分から出てきたその恐れを一覧にしました。

自分としては、それらのたくさんの恐れをそれぞれではなくて全体を眺めたらどんな印象がするのかな?と思って、ざっと見てみたかったから一覧にしました。
見たいんです。全体ではどのように動いていて、細かな部分ではどう動いてるのか、というようなお互いの関わりみたいなものが。
だから別に労力ではなくわたしはこういうことをやるんだよなーということに気づきました。(よくやります)

一覧を作るまでしない、という周りの反応を見て逆に、あ、そうなの?と思うのですよね。自分にとっては自然なことなので。


勉強会での話の中で「こういう恐れを自分が持っている、ということを誰かに知られること」を恐れることもある、ということを聞いて、ああそういうところわかるなあと思ったのですけど、その言葉を聞いてむしろわたしは、、、と気づいたことがありました。

知られたくないというより、むしろわたしは「こんなことを伝えたところで相手にとってはつまらないだろう」と思ってることに気づきました。
今回のことで言えば、わたしがまとめた恐れ一覧を見られたところで怖くはありません。
別におもしろさはないだろうから見せる感じがないというだけで。

ここでの「おもしろいこと」って、ワイドショー的な意味合いなんですよね。つまりは「周りはそういうものを求めている」「そういうネタの手持ちはないからおもしろくはない」と思っているんだよな、わたしは。
(ワイドショー的案件を自分に求めていないのに、そういう自己を否定してるというわけのわからなさ)

なので、そっか、「つまらないこと」としてるのか、と気づいたのでした。
よく考えてみればわたしも本を読んで、わたしはどうかな、ここは著者と少し違うかな、ここはとてもわかるな、と自分自身を見ていくことをよくするのですよね。そういうことを自分がよくしているのにもかかわらず、「つまらないこと」としていることに気づいたのでした。
「おもしろい」っていろんな種類がありますよねえ。。。いまさらですけど。

気づいていなかったので、「そういうのを書いて本にして出すといい」と言われて、「え!」と思ったのでした。

自分が欲しかったから作っておいて「つまらないもの」って妙な話で・・・。
わたしは自分の欲するものの価値を、ほんとうにほんとうに低いものにしていたんだなということに気づくのです。
つまりは自分自身に対してもそういう価値観で見ていたということを気づくのです。

だから、自分がこれまで好きになったものに対しても随分失礼だったよなこれは、と思っているところ。
これもある種の「特別な関係性」なのかも?


こうして勉強会みたいな形で共に学べるということ自体、とてもありがたいです。
気づけるから。
「こういう生活をしている人は、自分とは違う」と自分がこれまで無意識に設定してたことに気づいたりとか、わたしの両親はもう他界してますけど、他の方たちの親御さんとのやり取りを伺って、自分と親とのやり取りで好きだった事柄について今のわたしとして改めて見てみたら、以前とはまた別の視点が加わって深みを増したその「好き」を感じられたりとか。

今回の勉強会だと、こういったシェアがありました。
当時は良かれと思って親はそれを行って、でも子供としてそれを受けた自分としてはそうではなかった、という事柄があって、それについて親を責めたり糾弾したりせず普段の何気ない会話でそれを伝えられた、相手にも自分にも罪悪感を感じることなくそれができた、そういうシェアがありました。

わたしはそれを聞いて、自分の母とのやり取りを思い出しました。
わたしが母にされて嫌だったことを伝え、それを聞いた母は無邪気にけらけらーと笑う、というやり取り。

この、けらけらと笑う母がわたしはとても好きでした。
子供みたいな表情で「ほんとうだ!」って楽しそうに笑うのを見て、わたしも自分が単に漫才のツッコミ役をしてるみたいな感じで伝えられてて、それってとても楽しいやり取りの記憶なのですけど。
ごめんねとかそういうのもなしで、単に発見の驚きと笑いがあるみたいなそういうやり取りを、罪悪感がどうのだの恐れがどうのだの執着がどうのだの、こうしていろいろ学んできた今改めてそれを思い出すと、なかなかパワフルなものだったなあってことを感じざるを得ないのです。

そういうきっかけをいただけています。
そして今年はまたそういった参加するグループがひとつ増えます・・・すげえ。


...

ACIM自習 - 2018年01月02日(火)

明けましておめでとうございます。
のんびりと年始を迎えました。今年の年始は「計画しない」でその時にやりたいことを素直にやる、ということで、読みたかった本を読んでみたり、年末年始に再放送してるTVドラマを見てみたり、掃除してみたり、あまり時間のことは考えずに超のびのびとすごしております。

で。
年末年始関係なく、ACIM宿題をしています。
今回の宿題は、人間関係の中でどういったときに恐れが出てくるかを見ていく、というものでした。

先週から行ってるのですが、先週は「まるで恐れのデパートメントや〜」くらいあらゆる状況で自分が恐れていることに気づきました。
あまりにもたくさん出てくるので、一覧にもしました。(眺めやすいように)

そうして先週気づいたことは、何かに恐れている人をわたしは恐れてるぞ?ということでした。
それにポカーンとしたのですけど、アドヴァイスとして「恐れている人といると自分の恐れも出てきやすくなることを知っておく」というものをいただいて、また再びポカーンとしました。
なんでポカーンとするのかしら?と思ってみたら、どうやらわたしは恐れを自分のアイデンティティにしてるっぽいのでした。この恐れを感じられたわたしは特別!この恐れを感じられたからこその相手との関係性!みたいな。
それを取り上げられて、ポカーン(笑)

そのあと本を読んでいたら、こんな文章が書かれていました。

「私のしたことを好きな人はいても、私自身を好きになってくれる人は誰もいなかった。私は愛するに値しない人間で、自分は劣っているのに前面に立たされていた。」

カール・ロジャーズが過去に言った言葉らしいんですけど。
それを読んだときに雷に打たれたような気分がしました。

これまで、わたし自身を好きになってくれた人はいました。
ですが、そうであってもわたしはどこか「私のしたことを好きな人はいても・・・」というその感じをしっかりと信じていたことに気づきました。すごいな。

ちなみになぜ「自分もそういう信念を持っている」と気づいたかというと、宿題をして一覧に並べた様々な恐れがすべてこの信念ありきだったからです。
すべてです。
まさか!と思ってひとつ目の恐れと照合し、そして二つ目、三つ目、もう照合することができなくなりました。しんどくなって。

で。
しばし打ちのめされ、落ち着いてからまた照合し始めて、そしてすべてがその信念に繋がっていることを確認しました。

大本を知った、という感じです。

かといって、先に本を読んでいたとしたらこの感覚にはなっていなかっただろうなとも思います。先に宿題をして自分なりの認識をした後だったから今の感覚があるのかなと思います。

今後わたしに恐れが出てきたとしてもこの信念を信じてるのかな?って確認すればいいんだなって思って、どこか「もう大丈夫」って感じになっています。

ここで終わりかなと思ったのですが、さらに続きがありました。

今日は年末に送られてきたビデオを見ました。ウェルスダイナミクスのビデオで、性格のプロファイルごとにインタビューされた映像です。今回はトレーダーの方。

年末は見る気がなくて、そして今日は見たくなったので開いたところ、ゲストのトレーダーの方のお話を聞いてたら「あれ!わたしの感覚と同じ!」と感じました。
その方がご自身を理解して話されている言葉がわたしにとってとてもわかりやすいもので、するすると入ってきました。

そして自分が自分を否定しやすかったいくつかのことが「自分はなぜそれを否定するか」がわかったし、否定せずに済む方法や不得意なことを不安な感覚を含まずに取り組めるヒントももらったし、なんじゃこりゃー!という・・・。
お年玉、たくさんいただきましたー。


わたしは小さなことが好きなのですよ。よく惹かれるのは細かなことをしっかりやっているものに対して。

だから人がわたしのした何かに気づいてくれるってときに、「こんな小さなことも気づいてくれた!」「喜んでくれた!」ってすごくうれしくなるし、それでやる気になるってこともよくあるのですけど。
それと同時に小さいことが好きゆえに、「わたしは大したことはできない」「私のしたことを好きになってくれたとしても、それはすごく小さなこと」「愛するに値しない劣ってる人」と無意識に思ってたと。

興味深いですのう。



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