つらつら - 2017年12月23日(土) 昨日のMステの小沢健二氏が忘れられないわたくしです。どうやったらあの感じになれるのかな。 ターモ!リ! たのしー 「あの頃の僕らと言ったらいつもこんな調子だった 心のベストテン第一位はこんな曲だった」って歌詞が、「あの頃」のブギーバック、「あの頃」のオザケンとスチャダラを思い出しました。二度おいしい。なんなのかね、すごいね。 バブリーダンスも林檎ちゃんも堪能! わたしは朝起きてふと気づくということが多いわけですけど、最近気づいたこと。 「愛される」という期待があるぞと。わたしの年はいくつだ?と思いました。 年齢関係なくしても、これって逆だ。愛するんだよなー。愛される期待があるとしんどいけど、愛するのは愛それ自体しかないもんな。 同じことをするにしても、全く違う質になるのは興味深く感じます。 夢でこんなのも見ました。 その人が匂いが嫌、その人が寝言を言うのが嫌、その人がネガティブなことをいうのが嫌、それを「わたしにはどうしようもない」「その人に言ってもその人だってどうしようもない」(寝言が象徴してることがそれ)「それを言っても相手を傷つけるだけ」と思っている夢。 わたしの思考パターンでとても経験のある内容だったのですけど。 これをね、起きてからちょっと見直してみたわけです。 「この夢にあるわたしの恐れって何だろう?」って。 どうしてこの夢に恐れがあると思ったかというと、本当のコミュニケーションには恐れがない、とこの間のACIM勉強会で学んだばかりだったからです。この夢から感じられる感覚はもやーっとしていて、だからこれが本当のコミュニケーションができてるとは思えなかったんですね。 そんなわけで、この夢ってどうだろうな?何を恐れてるのかな?と思ったわけです。 わたしはすぐに答えを出そうとはしないのですけど、そう問いながら別のことを考えました。 「わたしにはどうしようもない」「言っても傷つけるだけ」という考え方について。 これってどういうときにこう考えるんだろうな?考えられるんだろうな?って。 ちょっと気づいたのは、相手のことを思いやっているようで相手のことを考えていないということ。いやん。 本当に相手のことを思うのだったら、例えば匂いのことだとしたら、体の調子は大丈夫かな?と思ってみたりとかさ、身に着けてるものが古くなって清潔さを保てなくなってるのかな?とかさ、その人自身では気づきにくくなってることに気づけるように手伝うというか、どうにかその人の助けになろうとするなあと。 (臭いなーと思ってるのは認めたままでできる) と、思ってたら気づいたのでした。その夢で見ることができる恐れ。 わたしは、相手に踏み込んでいくことが怖い。 なぜかはわからないのだけど、こうして何を怖がってたのかが一度わかってしまうと、どうやったらそれをもう一度怖がれるかがわからない、みたいな感じになったり、もしくは、怖いけどわかってて怖がってるみたいな感じになるのが興味深いです。 種がわかっている手品を見てもう驚くより技術に感心するとか、人気のあるホラー映画やゲームをきゃあきゃあ楽しむみたいな感じに似てるかもな。 ... つらつら - 2017年12月20日(水) エニアグラムを診断してみました。 1回目は5がいちばん多くて、次点が9。 2回目は5がいちばん多くて、次点が6でした。 1回目と2回目の違いは何かというと、1回目は主観的に答えた答え。20歳以下の自分というのをあまり意識せずに答えたもの。 2回目は、20歳以下の自分を映画で見てるように今の自分が眺めてみて、当てはまるというものを答えたものです。 (高校生の自分を思い出しながらやりました) それらの結果を併せて見て、改めて判断しようとする5のわたくしです。 6のタイプの人が参考にするといいのは9のタイプの人だそうで、それをわたしは自分ひとりでもそれを行ってるのかもなと少し思いました。 5についてはよい面とされるとこもわるい面とされるとこもどちらに対しても何も思わない(そうだなーくらい)のですが、6についてはえぐってくる感覚がありました。 それは、6の利点がわからないぞ、くらいのえぐりかたで、自分にとっては当たり前のことだわ、しかもそれを否定的にばかり見がちだわ、という感じ。 昔から不安があるものだったなあ、その不安が大きいというのは今の思考や行動にもよく出ているなあと、慣れすぎていて気づきにくくなってるそれらのことを認識できる感じで、エニアグラムやってみてよかったなあと思うのでした。無料だし。 興味深いのは、不安になってもいいや、みたいな感覚になれたことです。これまでは「不安は嫌なもの・・・」みたいな感覚だったところが。 もしかすると、昨日の日記に書いた扉や鍵の夢はそういう感覚とつながっているのかもしれません。 で。 今朝、ふと思ったのが次のようなことでした。 「わたしは、自分の望まないことが起こることを恐れていたんだ」 改めて思ったのです。自分の望まないことが起こることなんてたくさんあるでしょうに、それを恐れていたんだなと。 なんというか、自分の望むことしか起きないで!とかなるほど傲慢だなという感じですし、それから、望んだり望まなかったりするだけではダメだわなとも思いました。 「望まない」ことと「望まないことが起こる恐れ」とが別々のものと仕分けできたのがよかったです。だいぶ。 「望まない」というものをそのまま持っていられる感じになったので。 話変わりますけど、先の戦争になる前、多くの日本の人が戦争を望んだから起きたわけではなくて、望まない人がたくさんいたにもかかわらずそうなった、という話を聞きました。 望まないけど起こることはある。ならどうするかという話。 今、起こっていない。ならどうするかという話。 自分の望まないことも、自分の望むことも、最近は自分の想定を軽く超えてきて、わたしは自分のマインドが変わること(自分が思い込んでいる何かがあるよと気づくこと)が好きなので、変な話どちらも根底ではとても興味深いですが、わたしの場合はですがあれですね、おもしろくなっちゃうことを優先しないように気を付けたいと思うのであります。 その上、望まないことが起こることを恐れるとか、、、客観的に見ると、ほんとお前は何をしたいんじゃという感じが満載で笑えます。 ... 今日の夢(単なる記録日記) - 2017年12月19日(火) 久々に、玄関の扉の鍵が壊れてる夢の続きを見ました。 家の玄関の扉がうまく閉まらない、鍵も壊れてる、というわたしの中でのシリーズものの夢。 今日見た内容は、玄関が壊れているので安心できないところから。 安心できずにいたら、隣の部屋に住んでる人(よく知らない男性)がうちに住んでいいよ、ということなので、少しの荷物を持って住むことになりました。扉が閉まるので安心していられます。でも隣の人はどういう人かわかりません。一緒に住んではいません。気配だけがあります。 そうして数ヶ月過ごしていたのですが、ふと思ったのでした。 「緊急時なら構わないかもしれないけど、もうここに来てしばらく経ってしまった。これに馴れてしまったままでいるのはなんか違うかも? こうしてなにもしようとせずにいるのはなんか違うかも?」 それで、隣の自分の部屋に帰ってきてみました。いくつかの荷物を隣の人の家に持っていってるので、少しばかりがらんとしてます。でも居心地がいいかも?と思いました。 そうしてたら、知らないおばさん二人がどやどやと入ってきました。隣の人にクリーニングを届けに来たそうです。それがいつもトラブるようで、今日はどうかな!とおばさんたちは隣の部屋の扉をノックしに行きました。 ノックをし声をかけると、中から男の人の声がします。姿を見せないようにしゃがみこみながら返事をしています。 「ここに隣の人は今いません。」 わたしは、なんでわたしのことを?と思いました。そして、隠れるようにしているその返事の仕方でやっと不審に思いました。 「クリーニングを届けに来ました」とおばさんたちが言っても、隣の人の家の結局扉は開きませんでした。 わたしはもう隣の人の家に住むつもりはなくなりました。 わたしの家の扉は壊れているけど、それにちゃんと取り組んでここに住もうと思いました。 預金通帳とかも隣に持っていっちゃってるのでそのうち取りに行こう、と思いました。 そして自分の家の扉を見ると静かに閉じられていて、鍵もかかっていました。ぷかぷか開いてもいないし、がっちり閉められてもいない。当たり前に扉があるという感じでした。 ... ACIM勉強会の宿題をするの巻 - 2017年12月11日(月) ACIM勉強会での前回、前々回の宿題は、次のようなものでした。 ・1日の中で何回「今」という瞬間を思い出せるでしょう? ・聖なる瞬間を取り出す際にあなたが担う小さな役割を今から練習し始める。そして具体的な指示を受け取ることをしてみる。 まずひとつ目の宿題。 今という瞬間を思い出すためには体を使います。今の体の感覚は、今にしかないから。 わたしはこの期間、胃腸に違和感があったのでそれを利用しました。何気に今という瞬間を思い出すことはしやすかった気がします。 今、胃腸にあるどんな感覚をわたしは「違和感」と認識してるのか。 「ええと、なんか動かない感じがあって・・・お腹の表面のほうが固い感じで覆われてる感覚がしてるなあ・・・」とか。 そういうことを2週間ほどしていたら、過去の記憶がどんどん出てきました。 そしてその時にわたしがしていた思考の仕方をばっちり見ることができました。ああ、だからストレスにしていたんだな、だからお腹が緊張していたんだな、と腑に落ちる感じ。 その思考パターンは今もすごくわかるもので、よく使うわーと思うのですけれど、一旦「こういう思考パターンが作動してるんだな」と見えると、それが起こってる時に気づきやすくなるし選択しないという選択肢が表れてくれるので、よっしゃーという感じです。 種がわかってしまったら後戻りはできないー。 わたしは夜ぐっすりと眠れるほうですが(むしろ寝すぎてしまうほうですが)、今回そういうことをしてたせいなのか、一度頭がぐるぐると回って眠るモードにならないということが出ました。 その頭ぐるぐるのネタはかなり前の過去にあった出来事のことで、今のわたしには恐れる必要もないことに関してでした。 頭がぐるぐると回り、そうすると頭のぐるぐると伴うようにお腹が緊張していきました。 そういえば20代の頃、こういう頭ぐるぐるをさせてたなと思い出しました。(今もしてるのかとは思いますが、その頃ほどの高速回転ではないのです) 頭ぐるぐるのネタが今のわたしにあまり恐れを引き出さないものだというのがあるからか、わたしはその反応を「これはすごいぞ」と他人事のように見ていて、お腹に手を当てて感覚して(手を当てるとお腹が感覚しやすくなるから)、そうして眠りに落ちました。 興味深いことは、そうして体の感覚を感覚するだけで「理解すること」がぽろぽろと出てきていたことです。 物語としてはおもしろいですけど、わたしは理解すると興味を失うっぽくて、だから書きません。 ふたつめの宿題。 具体的な指示を受け取ることをしてみる、という宿題のほうは、まあ、宿題を受け取ったものの「小さな役割」が何なのかもよくわからないし、具体的な指示がどう来るのかもわからないなと思っていて。 まあ、前回の宿題の続きで体の感覚を使って「今」を意識してれば小さな役割ができやすいかも?と思ったので、指示が来てるか来てないかわからないまま体の感覚を意識していました。 聖霊さんは、わたしをすごく頑張らせようともしないだろうから、自分が自然にすることに意識を向けていよう、と思いました。 で、1週間過ごしてみたのですが、「これだ!これが具体的な指示だ!」みたいな感覚は起こりませんでした。 (そんな反応をする自分は電波っぽくて嫌だ、と思ってるからかもしれません) だけど、あれ?と思うことは何回かありました。 自分が「今」にいて、相手の言葉に素直にその「今」の価値観から反応して、そうしたときの相手の反応の変化だったりとか。 約束をした際の相手の反応が思い出されて、約束をした時の想定した今と「今」の状況が違うので電話をかけて伝えたら、わたしはそんなつもりじゃないと思う程度に相手の方が喜んでくれたりとか。 相手の方の反応から気づけるものを贈ってもらった、って感じです。 相手の方が鏡になって映し出してくれるから、初めて見ることができるもの。 勉強会でシェアしたら、「わたしはそんなつもりじゃない」という感情について、罪悪感の要素を見ることもできました。 わたしはよくやるのですよ。相手が喜んでいるのに「わたしはそういうつもりでやったのではなくて・・・」とか余計な説明をすること。 今回はそれをしなくて、ただ相手の方の感謝を受け取りました(自分の顔の左横辺りに自分の罪悪感を見ながら)。そうしたら、なんか不思議な感じがしました。悪くない感じでした。 ・・・ああ! 書いていて今気づいたのですが、わたしが「そういうつもりでやったのではなくて」と説明をしたくなるのって、そこに「何かをしたから喜ばれる・感謝される」という信念が見える・・・。 「そういうつもりでしたのではないから、次もそれが提供できるかわからない、期待されても困る」みたいなものとか。 勝手に相手の人を、「期待する人」と見ている(笑) 勉強会で言っていただいたのは、「自分がその人の存在自体を感謝するような人にそれを表現できますか?」という問いでした。 時々言うといえば言っていると思うんです。相手の存在を感謝するような言葉。 ですが、改めて問われたときに瞬間的に出てきたわたしの反応は「難しい」でした。 そういうのともつながっているよなあ、と思うんです。 いきなり話を変えますけれど。 わたしは足が小さくて薄いので、靴を買うときは昔からどこか諦めていました。 靴は痛いものだ、中で滑ってしまうものだ、ちょうどいいものはないものだ、何かを、どこかを我慢するものだ、そういう思いを持っていました。 で、naotの靴に出会って。 それらが一新されているんですね。今、わたしの中では。 歩ける!歩ける!わたしの足!のびのびといられる指!支えてくれるぴったりとした靴!痛くない!むしろ、らくちん! naotの靴は現在2足持っているんですが、また欲しいなーと思っています。 足というベースになる体の部分でそういう感覚になるということは、わたしの中では「存在に感謝する」ということとも繋がっているように感じていて、「ああ、ずっと諦めていたもんなあ」ってしみじみと思うのです。 そして、もう諦めなくていいんだという喜び。 ということで。 わたし自身の存在に感謝して、naotの靴を新たに買うことになるような気がしてなりません。 (なんちて。でもある部分では本当。) ... 体の感覚を、感覚してみる - 2017年12月01日(金) この一週間は、体の感覚に意識を向けています。 仕事中やTVに夢中になったりしてると意識がそれて、ずっとそれを続けるというのは難しいですが、意識が離れてると気づいたら戻るということを繰り返しながらやっています。 どういう風にやっているかというと、例えば歩くとき。 歩くだけだけど、それで体のどこかを緊張させている感覚はあるかしら?と体をスキャンするように意識してみます。 そして、右の足の甲がなんか力入ってる感じがするなーとか、寒さが首から入らないように肩を上げて歩いているなーとか気づいてみます。 そういったことをしばらくやっていて、あるとき「感覚に名前を付けないでやってみようかな」と思いました。 例えば「肩こり」とか名前を付けない。 「気持ち悪い」とか名前を付けない。 なるべくその感覚の質を表現するような言葉以外は使わない。 というのは、体の不快感に気づいたとき、とっさに名前を付ける自分に気づいてたりしたからです。 名前を付ける前に、名前を付けないままに、その感覚を感覚することができるかなーというようなお試しです。 それってなんのために? なんのためって感じじゃないかもです。 ただ、何の気なしに名前をつけないままで感覚してみたら、なんだかそうしてみた感覚自体にいい感じがしました。「このほうがいいな」っていうか。 その「いい感じ」がお目当てになってる感じですかね。 とはいえ、真っ先に名前が出てくることもあります。 例えば感覚が強いものだったり、嫌だなあと思う感覚だったり、自分によく馴染みのある感覚だったりすると。 最近のわたしにとってそれは「気持ち悪い」でした。 気持ち悪いのはお腹で、胃の辺りが、痛いわけではないのだけど良い状態とは言えないなというような感じでした。 ちなみにここで「気持ち悪い」とわたしが認識していたのは、体の感覚のことでした。感情とかではなく。 (と思っていました) その気持ち悪い感じを、お腹で感覚してみました。 例えば形とか、大きさとか、どのくらいかなーとか。 その「気持ち悪さ」って胃だけにあるのかなー、それとももっと他のほうまでその感覚は続いてたりする?とか、自分に問いかけていきました。 そうして胃を感じていたら、ぽん!と出てきたもの。 「言葉にして言わなきゃわかってくれない!」 という怒りが思考に出てきました。 そういう怒りにつながりそうな記憶が出てきました。 そのままお腹を感覚し続けて、そしてその思考を一緒に眺めました。例えれば少し離れた場所で怒ってる誰かを見てる、そんな感覚で。 その怒りにつながりそうな記憶自体には、わたしは何も特別な思いがありませんでした。自覚がないだけかもしれませんけど、出てきた怒りとそれに関連しそうな記憶が自分から出てきたものの、「これってこじつけじゃないかな・・・」みたいな感じがありました。 実際に関連しているというよりは、「そういう怒りをしたいから、その出来事をそういう風に見ることに使った」、そういう感じ。 その出来事自体にわたしは実際怒りを感じたかというと・・・ええ?そうかなあ・・・みたいな感じしかなかったのですよ。ただ、「こじつけ」はできる状況。 そんなわけですごく他人事みたいに、でも自分の記憶と体感を使いながら見ていることをしていたら、自分の中に見えてきたものがありました。 わたしのその怒りの裏には、 「言わなくてもわかってくれる」 「言わなくてもわかってくれるって、それだけわたしを気にかけてくれてるってこと」 という論理(期待)があるなあと思いました。 それっていらないなーと思いました。 というか、「気持ち悪い」と思いました(笑) あ、期待すること自体が気持ち悪いという意味ではありません。 何に気持ち悪いと思ったかというと、他者がそういう期待からの言動をする姿をわたしに見せてくれた時に、わたしは自身のそういう部分には気づかないままに「そうして期待してるより提案したりお願いしてみたりしたほうがいいよね」なんておめおめと言ってしまうような、そのありさまが見えてしまって気持ち悪かったのでした。 ないわー。それはないわー。 自分のそういう部分を認識していないままに、他者に完全に他人事で話している自分というのはなかなかの気持ち悪さですね。格別でした。 「気持ち悪い」って体の症状もあるけど、本当に「気持ち悪」かったのってこれじゃね?と思った次第です。 自分の気づいてもいなかった部分だから、体が表現してくれなかったら意識しなかったな、という。 「言わなくてもわかってくれる」という価値観について話を戻してみると。 実際、相手に伝えてわかってくれるということの中に優しさは普通にありますよね。 それに、「わかる」「わからない」じゃなく、やりとりを交わすこと自体に価値ってあるよなあって最近のわたしはそう思うようになってきていたりもします。 わたしには、言う言わないに変なこだわりがあったのかもしれないですねー。 そのまま続けてお腹を感覚していたら、わたしがこういう内面の探求みたいなことをし始めたそもそものきっかけ、疑問の答えもこれだ、と思いました。 わたしは自分自身がよくわかりませんでした。今もわかりませんけど、その頃のわたしは今よりもずっとずっとわからなくなっていました。 その頃のわたしは、「理論的に行くならこうしたほうがいいということはわかっているけどそうしない自分」というものをよく見ていました。 自分がどうしてそうするのかわからない、と思っていました。 今だと、いろいろ間違ってたなーとすごくわかります。 「理論的に行くならこうしたほうがいいということがわかっているけど」。 この言い分にニヤニヤしてしまいます。 その頃のわたしが望んだものは、 「わたしは、わたしのことを知りたい」 でした。 「理論的に行くならこうしたほうがいいということはわかっているけど」、「言わなくてもわかってくれる」「それだけ気にかけてもらえてる」ってわたしは思いたかったから、「そうしない自分」をよく見ていたのだなあ、と思います。 その頃のわたしに言う答えとしたらこれですかね。 でも、もう一言伝えるのだったら、 「理論的に行くならこうしたほうがいいということがわかっている」という言葉の中の、「こうしたほうがいい」というものとか、「わかっている」というものに対して、今のわたしは「それって本当だと思う?」と聞きたくなるかもしれません。 それから、答えって返ってくるものだなあって信頼にもなりました。 自分が望んだことすら忘れるくらいの長い時間が経ってるんですよ。 わたしが忘れても、長い時間が経ったとしても、ちゃんと答えを渡してもらえるんだなって、そういう信頼を得ることができました。 わたし、結構気が長いと自覚しました。 それに、早く答えがもらえることよりも「長い時間が経っても関係がない」という信頼のほうがズシンとくる感じがある。 そういうことを知ることができました。 おさらいです。 えー。 わたしがやったことは、体の感覚を感覚してみただけです。しかも不調を感じていた場所で。 このおもしろさはもっと知られてほしいものです。 ...
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