日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2017年07月31日(月)

先日のACIM勉強会で感じた「軽さ」について考えていました。

わたしはいつもは「重さ」を感じています。
重いものだ、と思っているところもあります。
でも先日「軽さ」を感じたことで、あれ?重くなくていいのかしら?と思ったのでした。

重くなるというのは、「頑張る自分」というものが出ているときです。
頑張って、苦労して、努力をして、そうして得られる喜びみたいなものを求めるところがわたしにはあるなあと思うのですが(まさしくエゴちゃんの領域)、頑張ったり苦労したり努力をしないで得られる方法を見つけるそちらに労力を使ったらどうかしら?と思ったのでありました。
というか、自分が頑張っていることすら認識してないことも多いなと、「軽さ」を感じたことで思いました。

頑張って苦労して努力をしているとき、わたしにはそこに情熱があったりします。楽しい。できるようになるためにこんなにわたしは頑張ってる!みたいな悦。
でもそれだと体は疲れるなあと。
そして少し冷静に見てみると、労力の割にあまり効率は良くないなあと。
(悦のほうに重要さが偏っているっぽい)


それなので、

「我慢したり努力したりしないで自分の望む方向に行くには?」

しばらくこの問いを持ちながら過ごしてみたいと思います。


わたしはどちらかというと我慢できるほうというか、我慢の許容量が大きいほうで、例えば人の話を聞いたりすると「あー、わたしもそれ気にはなってるけどそこまで拒否感は出てこないなあ」と思うことがよくあります。
それがうまく働くと、相手に共感しながらも相手に出ていた角をとるみたいなことができるのですけれども。

これから我慢を使わない方向に工夫してみる、ということを思ってみると、正直ちょっと損したような気分になります。我慢できるというわたしの能力が生かされないじゃないかーみたいな。(あほ)

「我慢」ではなくてその能力を別のことに使うところが見たいなー。見せてくださいな。


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ACIM勉強会に参加しました。 - 2017年07月30日(日)

SkypeでのACIM勉強会に参加しました。
いやあ、やっぱりいいわあ。。。おもしろかったー。

予習をあまりしないまま参加した(復習か?)のですけど、しとけばよかった!と思いました。というのは、疑問に思うところがないわけないのにパッと出てこなかったからです。
考えをまとめていると、ほかの参加者の方々のお話が聞けなくなるし!

日常で、コースをしていない人、コースの概念に触れていない人が「ぐぬぬ・・・」ってなっているときに、コースで言ってるのはこんな感じだけどそのまま直に言っても微妙だし(「神」とか「聖霊」とかの言葉に強く反応しちゃうだろうし)、手伝ってあげたいけどいかにしたものか・・・と思ったりしますけど、そういうことを思う必要ないのだなと、今日参加して感じられた空気のおいしさから思いました。
今現在、Skype終えてから1時間くらい経ちますが、いまだ空気がうまい。

実際に取り組んでいる方々からどのような印象・感覚を得られるか、ということが体感できた感じです。
でも、うーん、それだけじゃないな。だってこれまでも実際に取り組んでる方と接することはあったわけで。

そしていつもは先生をしている方が生徒の立場にいたりして、そういうことも空気(というのかな?)が変わるのだなあって感じました。
相手の方が「先生」をされていると、これまで意識してなかったですけどわたしはなんか構えるものなんだなあと。「先生」とはなんだ?(哲学)

ある部分では見本を見せてもらおうと参加したのですが、その見本は思っていたものと違っていて、すごく軽やかで、わたしが思っていなかったものばかり、そしてわたしが感覚として好ましいものばかりに触れられたような感じです(笑)

ありがたい!



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つらつら - 2017年07月22日(土)

基礎化粧品を買うと、わたしは使うものと使わないものとがはっきりと分かれます。使うものに関しては着々となくなっていくのに対し、使わないものに関しては購入してから2年経っても容器の中にたくさん入っていたりします。
基本無駄を嫌う傾向があるのですけど、勝手に手が伸びる(あるいは伸びない)ので仕方ないなと、もうこの頃はわたしが使ってみたいものというよりも、わたしの手が伸びるかどうかに合わせてる感じがあります。
(時々わたしの実験くん魂のほうが打ち勝ちますが、次も購入するかというとしないのですよね〜)

クリームもそんな感じで、香りが好きかどうかというのはわたしにとって大きいのですが、それよりもわたしは感触のほうを重視しているようで、毛穴とか細かなしわとかにじんわり隅々と入り込むような、かといってべとべとしない質感のものが好きで、そういうものを好んでいます。

で、ちょっと話が横道にそれますが、わたしは最近、自分の下腹部に注目していて。
わたしはお腹が張りやすいのですけど、わたしのお腹は歴史が長くて、小学校に上がる前からお腹を壊すことが多かったのですね。
病院の先生にも「そういうお腹なんだ」と言われたのでそれを信じたしで、子供の頃から「そういうものだ」と思ってきたのでそのまま諦めて放っておいたのですが、鍼灸を続けて受けているうちにちゃんと取り組んでみようか、みたいな気持ちになったのでした。
(体のほかの個所がだいぶ楽になったぶん、気になるようになってしまった)

下腹部のケアのことについて調べてみると、食物繊維を摂るとか善玉の腸内細菌を増やすとかいうこと以前に、「お腹の中を一旦きれいにする」という作業が必要のようでした。
改めて考えてみればその通りだなあと思うのですけど、説明に書かれていることまんまのことが起こっていて、食物繊維を摂ってもヨーグルトやチーズを食べてみても、逆にお腹が苦しくなるしそんなに改善してるように感じないんだよなあという感じでした。

わたしは便秘症というわけではなく逆に下しやすいのですが、お腹を壊すからといってきれいになっているかというとそういう気はしなかった(お腹が張るので)わけで、それなのでお腹をきれいにするお薬にちょっと頼らせていただきました。薬用炭がガスや老廃物を吸着して排出を助ける、というタイプのもの。

・・・すごく楽!
お腹が張っていないこの感覚を覚えておかねば、と思いました。

で。
またクリームの話に戻るのですけど。
わたしはじんわり隅々まで行き渡る質感が好きなわけですよ。

そして少し学習したところ、食物繊維というものもそういうタイプとそうではないタイプがあるみたいで。
じんわり隅々までタイプは、ぬるぬる系。めかぶ、もずく、納豆。
そうではないタイプは、玄米とかゴボウとか。

ということで、めかぶやもずくをおやつに食べながら、腸の内側に意識を向ける感じになっております。
ほうら、わたしの好きなじんわり隅々タイプが今そちらに行きましたよう。

わたしもそれを腸と一緒に楽しみたいのですが、腸が動くところまでは感じられますが、もずくを腸の内部表面で感覚できるかというと・・・今のところわたしの想像力のようにしか思えないのと、想像を楽しみたい感じはないという現在です。



下腹部、つまりは第二チャクラのエリアにこうして関わっているからか、「関わる」ということに関して自然とフォーカスするというか、別に考えようとしているわけではないんですけどパッと気づいたりします。

例えば、人と関わるのが今よりも苦手だった頃を思い出して、「人と関わることが嫌い」というよりも、人と関わることで「自分の弱いところ・欠点になるところをさらすのが嫌」だったんだなあ、と思い。
いやいや、「自分の弱いところ・欠点になるところをさらすのが嫌」というより、「それに対していじわるを言われたり攻撃されたりすることが嫌」だったんだな、とか、そういう風にさらに下にあるものがふっと出てくるような感じのことが起きています。
以前はわたしがそれを知りたくていて、そうしてたらそういうのが出てきたみたいな感じだったのですけど、今は特に知ろうとしてないのに出てきます。

あとは、人と関わるときに、「この人には尊敬の念を抱く」「この人には自分が助ける」みたいに相手の人の自分から見たカテゴリを決めがちというか、相手の人をそういうふうに扱いがちだった自分にも気づきました。

1人の人の関係性の中で、年を取って立場が変わったからとかでもなく、同じ時期に、頼れて・頼られて・尊敬して・尊敬されて、といろんな役割をお互いに演じられるということを、・・・これまでも話としては聞いていたのだけど・・・。
「それはいいアイディアだ、と思ったからやってみた」という「わたしがそれをしました」みたいなことではなくて・・・。

これまた特に意識をしていないのだけど、そういう状態の自分の目にこれまで見えてなかった世界がさりげなくポンっと入ってきて、うわあ!って感じがするというか。
(どんな感じだ)

まあとにかく、わたしはわかってないなーみたいなことがすごくわかる感じを経験中です。

子供の頃でもこういうことってできることだとは思うのだけど、わたしにはなかなか難しかったし、20代や30代の頃よりも今のほうが状況的にやりやすい、腑に落ちやすいんだろうなと思います。

練習開始です。



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つらつら - 2017年07月21日(金)

今日のACIMレッスンは194。「私は未来を神の手にゆだねる」
I place the future in the Hands of God.

わたしのことを見破ってそう言ったのかはわからないし、どちらでも変わりはないのだけど、今日は「痛いところを突かれた」と思ったことがありました。

痛いところを突かれたし、それに関して思いを寄せてみると、わたしはこれまで小手先で何とかしようとしてきたよなあということがわかるし、それ以外の方法は知らないし、「それならいいよ。それ、いらない。」って不貞腐れるような感覚も出てきました。

なんなんだろうな、これは?

といつものように思いたいのだけど、それを思うとわたしは聖霊さんの声を聞けなくなるのでやめておきます。

ということで、だ。

「それならいいよ。それ、いらない。」
という、懐かしい、子供の頃によく感じた感覚を感じながら。

私は未来を神の手にゆだねる。

これまでやってきた方法はうまくいかない。そうだなあ、と思います。
かといって、ほかのやり方はわからないのでゆだねるしかないのでした。見せてもらおうじゃないの。

昔は、ぽーいぽーいと放り投げていました。ふーんだ、そんなのいらないもんね!と強がりながら。
でも今は、そうして放り投げたくないんだよなあ。というのは、放り投げないほうがおもしろいんじゃないかなって思うようになってるからです。

小型の蚊取り線香が売っていたので購入。
これもまた懐かしい、夏の香りがしてよろしいです。


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つらつら - 2017年07月19日(水)

夢を見て自己嫌悪になったというので、その夢の話を聞きました。
周りの要望や意見に「あ、はい」と流されていくという夢でした。
最後は、その夢を見た人の友人はしょんぼりしてしまっていて、夢を見た方自身は他者から誤解されて褒められているという感じ。
びしっと友人の力になれればよかった、と言っていました。

それを聞いて、なるほどなあと思う部分がありました。
(わたしから見ると、本人は望んでいなさそうだけどそうしてしまう、みたいなことがある方なので)
そしてその一方で、流されまくって主人公になるというのもおもしろそうな物語だなあと思うのでした。

「あ、はい」
って受け入れてどんどん進めるってそれはそれですごいことと思うのでした。
嫌だなとか間違ってるなとかそういう気持ちを、流されていくことを選ぶことでなかったことにしてしまわないなら、すごくおもしろいなと思いました。
(わたしは嘘が嫌いなので、自分自身につく嘘もダメージがくるのでそう思いました)



夢の話になったので、わたしの過去に見た夢を話しました。
見ていた時は超恐怖だった夢。ドアが壊れる夢。以前日記にも書いた夢です。
入ってこないでね、と言えば入ってこないのに、自分だけが超怖がっている夢。

やばいんだよー超怖いんだよー、とひとしきり話して満足して。

その後にわたしはお昼休みに入ったので、その時にACIM関連のサイトをスマホで見ていました。
そこで、自分が「ドア」となる、という文章を読みました。

ひとつ思ったのは、わたしは以前、それを「誰かのためのドア」になる、というように受け取っていたなということ。

今はそう受け取っていないなということ。

自分が「ドア」になる。
単に、際にいるんだなと。今はそんな感じです。
吸う息と吐く息の間、みたいな感じで、際にいるんだなという感じ。
それはとても落ち着く場所です。

その文章を読んで、自分が見た夢の話をふと思い返しました。

そして思ったのは、
「あ、ドアが壊れるって、ありえないわ」
ということ。

自分がドアになるのであれば、それはありえないなということ。
壊れない。

過去の夢の中で、壊れて恐怖したのは自分と何かの間に置いたドア。
それは壊れるものなんだなあ、と思いました。
恐れたけどね。
恐れることなかったね。


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鍼灸にっき - 2017年07月14日(金)

少し前のこと。
鍼灸師さんに「わたしはこんな感じのことを感じたのですけど、何か感じられました?」と問われ、え!その時に言ってよ!と思ったことがありました。(「わたしもそれを感覚したかったですよ!なんで教えてくれないの!」みたいな気持ち)
それなので、そこに言葉があったり手があったりすると意識が向けやすくなる、ということを伝えました。
言葉や手がないという場合、自分は北のほうをなんとなく向いていて、あの時に南の方角に何か見たかと後から言われてもわからない、そのような感じで、自分ひとりだけで気づくというのはなかなか難しいものです。

それを受けて、前回はそうして施術のナレーションをしてもらったのですけどそれは素晴らしくてですね・・・。どのくらい素晴らしいかというと、鍼灸目的なのかだいぶ怪しい、というくらい。
わたしの中で「治療」「治す」という目的とは別になってる感じがします。
少なくとも5月辺りと比べてもまるきり変わってしまいました。わたしの受け方が。メモ書きが残っているのですけど、それを読み返すと今の感覚と異なることがわかります。
5月末の段階では、現在に比べるとわたしは症状を見ていました。感覚としての違いというか。5月末のわたしは、自分が症状を見ているとは思っていなかった部分、「いやいや、あの頃症状を見ていたわね」と今感じられる部分。

で、前回の施術後、体感が素晴らしい!と短く感想を言って帰ったところ、今回もこの前と同じようにナレーション付きでやってみますか?とお話ししてくださったので、えへえへと今回(昨日)も喜んで受けてきたわたくしでございます。


どんな感じなのかというと、鍼灸師さんが今どんなことを感じられているのか、何をしているのかをずーっとナレーションをしながら施術してくださって。
で、わたしはそれをずうっと感覚していきます。
鍼灸師さんが施術されているその体の部位で、わたしは何を感じているだろう?
同じものを感覚してる?
感覚しているとしたらそれはどのくらいの強さ? どこに感じてる?
それとも別のものがある?
それともわたしはそこで何も感覚していないことを気づける?

少し時間が経ったら、改めて体全体を感覚してみます。何か変化したことはあるかな? 始める前はああだったけど、今はどんな感覚かな?と確認したり。

そうしてまた施術されている部位に意識を戻して。

施術が終わって違和感や痛みがあるかを鍼灸師さんに問われたときに、
「・・・違和感?いわかん・・・いわかん・・・」
と改めてサーチする感じになって気づいたのですが、瞑想してるみたいになってるなと。最後に体に戻るという作業をしてる、そんな感じがしました。
それは頭で考えてみると妙なことで、わたしはずうっと体を感覚し続けていたし意識もはっきり保ち続けていたのにもかかわらず、「体に戻る」という感じがしたのでした。
違和感を探しましたがそういったものはなく、心地よさだけをゆったりと体の中に感じました。

もうね、昨日は感想すら言いたくなかったですね(笑)
そのままそっとこの感覚を持ち帰ろうって、わたしの欲求はそれしかなかったです。で、わたしは無意識にそう欲求し、忠実にそのまま帰る、と。
明らかにプレゼンス、今にいること、それを施術を受けることでできていて、とても満たされた心地になったのでした。

施術中に肌の感覚の変化をおっしゃっていて、それはわたしは内側からはよくわからなかったので、帰宅してから自分の腕を触ってみたところ。
吸いつく肌!やっほう。
自分の肌にときめきました。

いやあ、この感覚にもっと慣れたい。


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つらつら - 2017年07月07日(金)

鍼灸に通い始めて5か月程度になります。
なんだか体のメンテナンスに通っているという感じでもなくなっています。わたしの中では。
まだ体が安定していないといえばそうなのですが、駆け込んだ頃と比べると「何の問題もない」気分になるくらいに回復しているので、現在は若干趣味と化している部分があります。体を感覚するトレーニングですね。
趣味と化してるというのは自分にとって餌でもあります。飽きちゃったら通わなくなっちゃいやすいもので。

わたしは体の感覚を感じながら施術を受けているのですが、前回の施術では「ええ!?」と思う感じのものでした。
それはわたしの感覚の部分のことで、「痛みがなくなった」とか「手汗をかかない」とかそういうものではなく、「あるべきところにそっと落ち着いた」そういう感覚を感じたのでした。

そういう感覚を感じたことは初めてで、というか気づいたことは初めてで、「そっと地面に足音も立てずに、すっと着地をした」という感覚でその日の施術が終わったので、え?なにこれ?すごいんだけど・・・と思いながら帰りました。
(次の患者さんも待ってたので感想は伝えませんでした)

わたしは他に鍼治療に通ったことがないのでその鍼灸師さんしか知らないようなものですが、間違いなくこの人は上手な人だわ、と思いました。

思いましたが、それらのことを言うことはしませんでした。
感想をメールしようかとも思いましたが、やめました。

で、今日その施術のあとの初めての施術日。
帰り際に鍼灸師さんが、「前回みたいな施術が毎回できたらいいんだけどね」とおっしゃったので、自分が前回感じたことを伝えました。喜んでくれました。わかってくれると思ったから言ってみた、とおっしゃっていて、わたしもうれしくなりました。

それで気づいたのですけど。
「これを感想として伝えたところで伝わるのかいな?」とわたしは思っていたことに気づきました。謎の言葉でしかない、とわたしは自己評価していました。
言ったところで相手を困らせるだけなんじゃないか、とか。
過去の経験から、そう思っていました。過去の経験からの思考。

それに気づけたし、伝えること・伝えられることでわかってもらえた感をお互いに感じられる、これはうれしいことだなあと思いました。
ありがてえ。。。


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ACIM集中クラスを受けてきました - 2017年07月03日(月)

昨日はACIM集中クラスを受けました。
今回のテーマは「共創造性」。

いやあ・・・今季のクラスは毎回なんかしら、自分に対して「ぎゃー」とか「おおー」とか強い気持ちで思います。
「ぎゃー」に関しては、良かれと思ってやる場合も行動する前に聖霊さんに尋ねてみてはいかがか、わたしよ・・・と思い。
「おおー」に関しては、「あ、あれ?これ、そうなんだ?」と初めて気づいたという感じに。

共創造性。
今の自分を振り返って見てみて、共創造性を「やることを決めているけど、やろうとしていない」ということに気づきました。いい意味で。
意識的ではないので、自分がそれをやっていることをまったく気付いていませんでした。

少し前のわたしだと、「やることを決めているつもりで、やろうとしている」感じ。
やったほうがいい、やらないといけない、やることが正しい、そういう思考でいたからかもしれませんが以前はどこか決めかねていました。
それが今は「やる以外にない」って感じで、いつの間にかそうなっていたことに気づきました。
共にクラスに参加した方の言葉から、あ、あの時から変わったんだ、ということに気づくこともできました。あほかー!やってられるかー!とちゃぶ台引っ繰り返しの心境になったときから変わったんだなーって。

ほんの些細なことをやっている自分に気づきました。些細だけど、以前は全くやっていなかったことです。
まったくやっていなかったので、今それはとてもわたしにとって新鮮で楽しいことです。

「自分に参加しようとしてくれてるように感じてうれしい」
クラスを終えての帰り道にクラスメイトからその言葉を聞いて、あ、って思ったのは、この間「なぜかわからないけど楽しい」と職場の人に言われた時のことでした。ああ、これかも?と思いました。わからないですけれど。

それからその言葉を聞いて同時に興味深いなと思ったのは、今のほうがある意味「参加しよう!」としていないというか・・・。うーん、頑張っていないんだよなあって。参加しようってわたしは頑張っていない。
そして、今のほうが確かに行動とか結果、感覚として参加しているっていうのが自分でも感じられる・・・。
(参加したくないときも、それに自覚がしやすくなりました。単に感情が出るのではなくて。)

なんだこれは。

あと、クラスの中でまた傾聴のワークをしましたが、、、
自分の言葉をわたしはどれだけ聞いていないんだろうな?と思うことができました。
なぜかというと、自分が話す番の時よりも相手の話に耳を傾けるときのほうが、ぐうっとわたしの心が静かになって集中(というのか?)ができたからです。
いやあ、ひとつ箱が開いたらその中に開けていない箱が入ってるのを見つけた、そんな感じですな。


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クラス「癒されていないヒーラー」に参加してきました - 2017年07月01日(土)

ジャックさんのクラスに参加してきました。今回のクラスタイトルは「癒されていないヒーラー」。

わたしは本当にゆっくりだなあと思いました。
花のつぼみがゆっくりと開いていく、その柔らかなものを楽しんでいるのかもしれない。
花屋さんに行って、もう開いている花をあまり買わないなあとか、じわーっとした繊細な変化に気づいていくのとか好きだなあとか思ったりして。

会場へ向かう道の途中の花屋さんで、バラを買っていきました。
もう開いている花だったし、わたしはその日に欲しかったしで、花屋のおじさんは超安くしてくれました。
まさに「今」、このバラは見るときなんだなと思いました。

今回クラスを受けて、そうするしかもう道はないのだなと確認しました。
どうしてとどまっているのかもわかりました。
わたしが望むことのためには離れないといけなかった。新たに自分が何かをするには、という意味ではなくて、今自分が「周りに対して」やっていることが周りのためにならない、と思いました。それをわたしは望んでいない。
それから、まったく気づいていなかったけど、そうしてわたしは権威者のように見られたかったところがあったかもなと。

どうしてとどまっていたか。
準備の進行中には降りません。
ちゃんと列車がホームに入って停車してから降りる。そうだよなあ。
これはクラスのなかで言ってたことではなくて、個人的に読んでいた内容ですが、「なにが準備中だったか」がわかったのは昨日のクラスを受けてです。
準備中のものはまだあるのかもしれないけど。

あと。
わたしの場合はやりたいことがなくなるということはなさげですが、歳を重ねておばあさんになったときに、「これからこれをやりたいけど、実際問題残りの時間が足りないし、今それをする体力もないなー」みたいに思うようなことになりそうな気がするので、今のうちにできるだけ進みたいなあとは思う。
そしてそのバトンを受けとる人がいるなら渡したい。

阿吽の新刊を読みました。
登場人物の、ぐいっと前に進んでいくあの感じにも助けられます。


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