日記×エッセイ...みち

 

 

ACIM Lesson82 (Lesson63と64の復習) - 2017年03月31日(金)

今日のACIMのワーク内容は赦し。

Lesson63 「この世界の光は、私の赦しを通してあらゆる心に平安をもたらす」
The light of the world bring peace to every mind through my forgiveness.

Lesson64 「私の役目を忘れないでおこう」
Let me not forget my function.

これらの復習の日です。

こういう内容なので、自分が赦す相手、対象となる人が必要です。

ぱっと思い浮かんだ人のことを考えていたのですが、わたしはその人を「鬱陶しい」と感じていました。
なんでそう感じるのかな?どういうところに鬱陶しさを感じるのかな?と自分に問うていったら、気づいたことがあって、
「お母さんにそっくりじゃん!」
という。
その人、男の人なんだけど、お母さん・・・と思って、個人的には無性におもしろくなりました。

母と同じようなところにその人の良さを感じて、母と同じようなところに鬱陶しさを感じていました。

さらに。
「幼稚園の頃に嫌だったあの状態も、同じような感覚をしてるじゃん!」
と、そのパターンにはなかなかの歴史があることに気づきました。

幼稚園児の頃も、その相手の子が嫌いなわけではなかったのですが、同じ現象が起きていました。相手の人が違うのに同じ現象を繰り返す。

同じ現象。
わたしの感情・感覚としても同じなのですが、驚いたのは、わたしの相手となったその3人の方たちの表現する行動がそれぞれ同じような振る舞いをしてたということです・・・。
なので、それに気づいたとき、なんじゃこりゃーと思いました。

同時に、
「わたしがどう振舞うことがそういう現象を成り立たせているんだろう?」
という疑問が出ました。

ダンスはお互い息を合わせて踊る、みたいな感じですよね。ずうっと成り立つということは、息が合っているわけですよねえ。

疑問自体がちゃんと出たら、わたし的にはそれで終わりです。そのあとは考えません。OK!みたいな感じになります。
今回の疑問に関しての答えはまだわかっていませんが、今回ひとつわかったのは、興味を惹かれない、という土台があるとわたしのダンスがいつまでも成り立つということですね。
本当、好奇心って大事だ。

幼稚園児のわたしは、〇〇ちゃんと一緒に遊びたいのに□□くんと二人で遊ぶようにさせられて遊ばせてもらえない、と思いました。
(わたしは□□くんに好かれていたので、多分良かれと思ったのか、恋愛ごっこみたいなのが良くてそうしてたのか、先生がそういう状況にしちゃうことが多かったのでした)
でもそれがわたしには、□□くんと遊ぶことに興味が惹かれない、という土台になりました。

今の場合は、興味を惹かれない土台が母の頃とまるきり同じで、今を見ていったら「ああ!そういうことか!」って感じで、母の頃の葛藤もわたしはよくわかっていなかったので(わかっていないこともわかってなかったので)、それも共にすっきり!みたいな感覚になりました。

ACIMのワークってすごいなって本当に思います。
わたしは持続するって類のことは良くも悪くも得意なので、ずっと持続して行っているACIMから得られることの価値がありがたいほどに感じられます。

皆、モクモクした雲でした。避ければいい、それだけでした。

最近、身についたのがそれです。
モクモクした雲の取り扱い。

モクモクした雲が出てきたら、これまでわたしははそれを、じいっと、ずうっと見てた感じでした。そして煙にまかれる(笑)
今は、あ、モクモクしてる、ってなったら団扇で仰ぐとかして、煙をよけて、煙の奥へ行くために通る、みたいな感じのことができるようになってきました。(以前比) 行動としてモクモクするものを回避するというよりも、心理的な動きとしてモクモクが出てきたら手で払ってよける、そういうことができるようになってきました。
別に、ずうっと煙を吸っていることはないのよね。

今日は鍼灸の日だったのですけど、やっぱりそうだなあって感じがしました。
やっぱりそうっていうのは、自分のセンシティブさにわたし自身が価値を置いていた、正しさを置いていたんだなあって。それが過剰だったとしても。
モクモクに気づける、そのモクモクの中で見ることができる、そういうものにたいする価値。

それがあったから、体を疲れさせていたのかもね。体が疲れる時点で何か間違っていることがわかりますが、逆に、「見てないからだ」「まだちゃんと見てないからだ」ってやってたんですよね。
見るのそこじゃない、というオチであります!

疲れると、アップダウンが激しいというか、好きなものにも嫌なものにも気づきやすくなる感じがありますけど、それってむしろ鈍感ですよね。
アップダウンのない、穏やかな場所で、気づける。そういう繊細さのがいいな。


今通っている治療院は、目に留まったから、行きやすいから、そういう理由でパッと決めたんですけど、そういうの直観的なのって大事だなーって思いました。
体が楽だ。気持ちも楽だ。
ほとんど会話らしい会話をしていない中で、絶対この人おもしろいぞ、とある時から確信を持っていたのですが、鍼灸師さんが人としておもしろいです。
自分の住んでる地域の鍼灸師さんからマインドフルネスって言葉を聞けると思わなかったのですが、施術や発言に押しつけがましさ、一方的な感覚を感じたことがなかったので、腑に落ちるってのはこういうことかなと思いました。


...

つらつら - 2017年03月29日(水)

昨日の朝と今日の朝、涙が出ました。
出勤のために車に乗って、職場の駐車場に着いて車から降りたら、ほろほろほろ、とこぼれるように出る。ハンカチを出さないわけにはいかないくらいにこぼれます。
感情的に何かあるわけでもなく、わたしは花粉症でもないので、なんだこれ?と思っているところです。
もしや今年から花粉症デビュー?と仮定してみても、別に目がかゆいわけでも痛いわけでもなく、鼻水も出ない。そういう花粉症もあるのかしら?
(そして日中は何事もない)
現在の謎です。



会社に行く前に頭に浮かんだこと。
お金のこと。
お金を使うということについて、浮かびました。
忘れないうちにメモったのを書きます。

お金は、お金を払う相手の人に、おいしいものを食べてもらうためのもの。

与えてもらったことに対して、「こんなにしてもらって何も返さないわけには・・・」ではなく、はたまた「欲しい物があるからそれと等価交換」ということでもなく、欲しかったこれを与えてくれた人に「おいしいものを食べてもらいたい」という与える気持ち。
別に食べ物限定ではないのですけど。その人が「美味しい」って感じるもの、映画でもいいし旅行でもいいしなんでもいいのですけど。
そういうふうに、使う。

ということが、ぱっと頭に浮かんだので書き留めました。
あー、なかったわ、そういう感覚、と書き留めました。
払ったから得られるものを楽しみにするということはあっても、払うこと自体からうれしいものを得られる感じはこれまでなかったかも、と思いました。

眠い!


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トイレのゴム栓交換 - 2017年03月27日(月)

しばらく前から、トイレから音が聞こえるようになっていました。
誰も流していないのに、トイレから水の流れる音が。
水が勝手に流れます。

ジャーって多く流れるわけではないのですけど、あ、今給水された、みたいなのがはっきりわかるくらいに流れます。

トイレのタンクのふたを開けてみて何かわかるかなと覗いてみたりしたのですが、よくわからない。
なんだか水がささやかに出ているのがわかるだけ。
うーん、なんだろうなあ。どこか緩んでいるのかな?と水の出てくる辺りをひねってみたり、浮きの位置を動かしてみたりして、で、またしばらく平気になって、あれーなんだったんだろう?直ったんならいいけど!と放っておいて、そうしたらまたしばらくしたらまたゴボゴボ言い出す、そんなことを繰り返しました。

2か月分の水道代の請求金額を見て、わお。これはどうにかせにゃならん、と思いました。いつもよりも2000円くらい高い。
でも、すぐには行動に出ませんでした。
わたしのいちばんの動機となったのは、水のゴボゴボという給水音が10分に一度くらいの間隔になって、それが気になって仕方がなかったからでした。
わたしはわずらわしさには耐えないのだな。

すぐに行動に出なかった理由にしてたひとつは、自分が休みの日で家にいる日じゃないと業者さんなり大家さんなり呼べなかったからです。
今電話をしたところですぐに来てもらうことが難しいんだよなあ、とか思ってゴボゴボを聞く日々。

ネットで症状と比べて調べたら、どうやらトイレの給水タンクにあるゴム栓の劣化のようでした。手を入れてゴム栓を触ってみると、黒く手につきました。それから、タンクの水の中にもとはゴム栓だったと見られる黒い破片が浮いています。
大体10年くらいで劣化するのだそうです。わたしここに20年近くいるから持ったほうですね、、、

ゴム栓の劣化の対処法はゴム栓の交換で、ゴム栓はホームセンターに売ってるとのことだし、交換自体も簡単そうだったので、自分で直そうかなとも思ったのが少し前のこと。
ですが、トイレの元栓をこれまで一度も開け閉めをしたことなかったのでドライバーでもびくともしません。
家(部屋)全体の水道栓もどこにあるのかわかりません。ありそうなところを覗いてみるも、これはガスのメーターだよね・・・とやっぱりよくわからない。

ネットで調べて自分でもできると思ってしまったばっかりに、業者を呼んでやってもらうことは考えにくくなりました。
えー、これに数千円払うことになるの?と。超簡単なのに。
でも水の元栓を閉じないといけないのなら呼ばないと交換できないのかな。。。と思っていました。

今日はとりあえずゴボゴボ音に耐え切れなくなったので、近くのホームセンターに行ってゴム栓を購入しました。
水の元栓を閉めずにささっと交換できまいか、と思ったのでした。

結果を先に言うとそれは無理な感じで、わたしの手は結構小さいのですが、それでもそんなことをできる隙間がタンク内にありません。
それに水の量が減ると横からドーっと勢いよく給水されるので、水を止めないままで交換するのはかなり厳しい。

で、「えー?業者呼ぶの?」モードになってるので、またもネットで調べます。
どこにあるの!うちの水の元栓!

ネットさまさまです。
同じようなつくりの画像が見つかり、この辺にあるらしいけど、、、と探したらカバーされてる水道のメーターを見つけ、これがメーターということはここに繋がってるこのレバーが元栓か?と試すことができました。
ということで、しっかり閉めることができました。

そして無事交換!

・・・

ただいま、新品のゴム栓の活躍を感じております。
ああ、なんて静か。
トイレのゴム栓の交換で、こんなに充実感を感じることができるとはあなどれません。


...

つらつら - 2017年03月25日(土)

ざっくりと、今日見た夢。
なんか信頼できるな、と感じた人。(現実には会ったことはありません) その人が大きなデパートみたいな超高層ビルに連れて行ってくれる。何階まであるのかよくわからない。
その人はこっちこっちとどんどん先に行ってしまって、周りに人もいっぱいで結構離れてしまって姿が見えなくなってて、ここを曲がったからこのエレベーターに乗ったと思う!と、バクチ的に確かめずに飛び込んだらハズレで、目的は上の階にあるのにエレベーターは下に降りていく。あー、ちがうー、いないしこれじゃないー、とエレベーターは下がっていく。

エレベーターは上に行くもの、下に行くもの、大きいエレベーターがいくつも並んであるのだけど、階を飛ばしたりして移動のパターンが訳が分からない。それなので、自分一人でその目的の場所に行ける気はしないようなものでした。
迷子になったので、とりあえず建物の入り口にまで戻ってきてみました。
そして外から眺めてみる。でっかい建物だなあと。

スマホは持っているのだけど、連れてきてくれた人とはまだ知り合ったばかりで、直接の連絡先もわからない。
だけど、もともと出会った場所に連絡をすれば、そこから聞くことができるのはわかっている。
でもわたしはそれを躊躇している。
直接につながることを躊躇している。スマホの中に、その人の名前がある状況、そこを押すとその人に直につながる、ということに躊躇している。
なんか躊躇しているなあ、と夢の中でも気がついている。でも辿り着けないから、つながらないといけないよなあと思っている。

でも、もう一回会ったら、はぐれないように手をつながなきゃいけなくなりそうで、それも嫌だなと思っている。
嫌いな人ではないし、むしろ好ましく思っている人だけれど、体温がわかるとか、スマホに出てる名前を押せばすぐにつながるとか、そういう距離が近くなるのが嫌だと思っている。

そんな夢でした。
なんでこういうものを夢に見たのか、なんかわかる気がします。


今日は鍼の日でもありました。
今日のACIMのワークは「私は神の法の下にのみある」(Lesson76:I am under no lows but God's.)なので、それも興味深く感じながら。
神以外の「掟」を、わたしは頭で信じているだけじゃなくて、もっと奥の部分で信じてるかもしれないな、みたいなことを探りながら、鍼を受けに行きました。

夜寝るときに枕を抱えて横寝で寝ると、わたしはどうやらみぞおちの痛み(コリ)は出てこないようでした。2日試してみましたが、どちらも驚くほど痛みが出てきません。(毎朝当たり前にコリが出ていたので驚くのでした)
だからもしかすると、仰向けに寝ていると腰や首に痛みや不具合を感じて、それをかばうためにみぞおちに力を入れてしまうのかな、と思いました。
幼い頃を思い出すと、首ということも気になってはいます。頭を2回打っていたりしますし。別に痛みはありませんが、固くこわばらせてはいるのでした。

今日鍼灸師さんも、リラックスを覚える(思い出す)のが難しいんだよね、みたいなことをおっしゃっていましたが。本当にそうだと思いました。

肩が上がって、肩が内巻きになって、それが癖になっているといわれましたが、それって思いきり恐れの反応だなあと、それを聞いていて思いました。
その肩に出てくる癖にわたしが自分で気づいたのはボディワークを習い始めてからになりますが、いっちばん初めにその現場(?)を見たのは実は高校の時で、自分の写っている写真を見て、あれ?と思ったことでした。
わたしが思ってる自分と違う、みたいなことをそこで思いました。

そんなわけで、もう20年以上ずっとやってきた癖・動作なので、その動作が癖になっていない頃の感覚など忘れているのです。

でも、思い出したい。

今わたしは、子供の頃や若い頃に諦めたことを、やっている感じがします。
わたしは、自分が体調を崩しやすい(お腹を壊しやすい)とか、体を緊張させやすいとかそういうことを、ある時からもう諦めていました。
「わたしは腸が弱いんだ」とか「強くならなきゃダメなんだ」とか思っていて、何かの基準にあっていないことを見ないようにして、諦めていました。

今、その諦めをやめています。
弱いなら弱いでどのくらいなのかを調査しよう、というか。
それはそれでいいや、というか。
その自分に合っていることをしよう、というか。
何回やっても埒が明かない、ではなくて、メンテナンスが必要なんならやろうぜ、みたいな。
ある意味ではこれも「諦め」って言いますよね。こちらの場合は、思っても仕方がないことを、諦めている。子供からの諦めは、それとは逆だった。同じ「諦め」なのに、それだから異なる感覚、それだからまるで正反対の感覚がするのかもしれません。

そんな感じの、調査と回復的な心持ちで鍼灸を受けているのですが(勝手に)、今日、鍼灸を受けて体が楽になって、首と腰かあ、と思いながら車を運転していたら、「怖い」「怖くて泣く」みたいな子供の頃に出てくるような感覚が出てきました。今現在のわたしが、この感覚で「怖い」と感じる機会はありません。
なんだろうなあ、何が怖いときにこの感じだったっけ?と思っているところです。


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ACIM Lesson75 「光は来た」 - 2017年03月24日(金)

The light has come.

春になると、スプリング ハズ カム というフレーズを耳にしたりするので、「The light has come.」という言葉で、わたしは春も一緒にぱっと思い浮かんできたりして、今日のワークはとても気持ちがよかったです。

長い実践時間から1日を始め、とても気持ちがよくて、そして職場に行ってもずっとずっと気持ちがよくて、

「あらららら? 人や物事を『許さない』ってどうやってするんでしたっけ? 人ってどういうことから『許さない』って思うものなんでしたっけ?」

という状態になっていました。

午後になって、「許さない」気持ちを少し思い出し(笑)、そうかそうか、わかるわあ〜みたいな感覚になったのですけど、あ、光が薄まった、みたいな感覚も同時にしました。
薄くなっても、光を感じていることはできました。
あー、こうして光を感じにくくするんだなあ、って思いました。
それと、「許さない」気持ちを思い出して、「気持ちがわかる」って思ったときの気持ち。感情。感覚。
わたしはこれをこれまで「当たり前のもの」と思っていたのですけど、「気持ちがわかること」ではなくて、「自分が気持ちがわかったときの、わかったことに対しての感情」みたいなのが見えて、それが少し気になりました。
気持ちがわかることに、うれしさを感じている。
それだけなんですけどね。


仕事が終わって家に帰り、読むのが途中になっていた本の続きを読み始めました。
そこに書いてあったのは、とても覚えのあることでした。
わたしのことを書いているのかしら?と思うくらい、とても覚えのあることでした。

こういう風に思って、
こういう風になって、
だからこういう風にしてきて、
その後はこうなって、、、
というような、心の流れと出来事の流れ、わたしにとても覚えがある流れが本に書いてあって。

そんなことを言っても、それはわかっていてもどうしたらいいかわからないんだってばー。

と思ってたことまでが書いてあったりとかしていて。

ずっとずっと知りたいと思ってきて、続きを読んだらその答えが書いてあるのかもしれなくて。

だけどわたしは本を閉じて、「カルテット」をもう一度6話から見始めました。

もう、知りたかったものに少し触れているような気はします。
でも、言葉で読むことにそうしてちょっと拒否をしてみました。
本での記述がそのくらい、まんまだ、と感じたのと、言葉で「読む」とわたしは読むことが好きな分、自然に違うところ?別腹?んー、なんというのかよくわかりませんが、そこの「違うところ」にするっと入ってきてしまうからです。
するっと入ってきてしまったら、もうわたしは何もすることができません。
だから、少し拒否ってみたのですけど、、、続きは読みますよねそれはね。書いてないかもしれないですけどね。
あー、でも「カルテット」9話だけ見てからにしよう。

ということで、明日。
甘いものとお茶を用意して、続きを読んでみたいと思います。

光が来ると、見える、見せてくれることになるみたいですね。


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ACIM Lesson74 「神のもの以外の意志はない」 - 2017年03月23日(木)

There is no will but God's.

最近は、田中さんの翻訳版を参考に英語を一緒に見て、自分にしっくりする言葉に直す、みたいな感じで読んでいます。もしくは、英語に日本語を添えるような感じで読んでいます。

わたしにとって英語は本当に不得意なものでわかっていないのだけど、それでも日本語に訳された文で読むのと英語そのままの文で読むのとでは受け取る感覚が違うのですよ。

「意志は一つもない。神のもの以外は。」
There is no will but God's.

英語で出てくる順番で、その言葉を自分に入れたい感覚があります。直訳ばっちこい。
最初に来るものがいちばん重要、みたいなそういう感覚で、共に入れたい。


最近行っているワークは、チューニングする、みたいな感覚でわたしは受け取っていました。
その日の想念、それから提示されているワークの仕方に沿って進めた時に、自分の中に出てくる感覚を注意してみていく感じ。
そうして自分の内側に現れ出てきたものの中で、あ、これか、というもの、文章の中で説明されているものにピッタリ合う感覚のものに合わせていく、そういう感じ。


いきなり話を変えますが、昨日、エックハルト・トールのDVDブックを買いました。で、読んでいるのですけど。
そこにいつものエックハルト・トールのように、プレゼンスのことがいつものように書かれているのを、いつものように読んでいました。

でもそれを読んでいたら、あ!と思いました。
これまでの「いつも」にはなかった、あ!と思う感じが自分から出てきました。

最近、わたしがコースでやっているワーク、チューニングしてるみたいに感じてるこれらのワーク、この、チューニングしているみたいな感覚。

それって、「今」だ。

「プレゼンス」だ。

あ!プレゼンスだ!って。

って突然気づきました。


つまりは、例えば1時間に2回行うワークだったなら、

「30分ごとにプレゼンスになる。プレゼンスになる機会を30分ごとに作る。30分ごとにプレゼンスを求める。」

そういうことをしてた!って思いました。

あ、同じだ!って思ったんですね。
同じ感覚だ!って。

これまでわたしは違う方向からそれぞれをやってた、教えてもらってた、みたいな感じがあって、ACIMはプレゼンスで言ってる、プレゼンスのことを言ってる、そういうことを頭ではそうだなあと思っていたのですけど、実際のところ、感覚としてはプレゼンスとACIMがつながっていなかったんだな、ということもわかりました。
そのくらい今日は、通電!開通!って感覚がしたのでした。

今日もそんなわけで、「わかった!」みたいな感覚と共にいます。
ちゃんと通電してる。すげえ。


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「カルテット」最終話見ました。 - 2017年03月22日(水)

おもしろかったです。
人生っておもしろいって思いました。
このドラマの好きなことを並べるとたくさんあるのですが、そのひとつは心の流れを一緒に体感できること。
まきさんの、最終話の始まりの時期と、皆が夢を諦めた感じの発言をした後とでは、自分の置かれた状況の自分から見る見方が変化していて、とてもおもしろく感じました。
見方を変えようとしたというよりも、皆とそこにいて話をして、自然にそういう自分が出てきた、という感じがするところがわたしはとても好きです。

夢を追うか、趣味にするか。
わたし自身は夢を追うのはあまり好きではありません。夢を見るのは好きなのですが。
わたしはストイックになりがちで、しんどくなってくるのでした。それもおもしろいんですけどね。でももう充分かなって思ってるとこがある。そうやって、きゅうってさせるのが。
やろうとしなくても自動的にするから、しようとしなくていいかなって思う感じもある。

でも、叶えられる瞬間は気づいていたいなって思いました。
ずうっと追いかけ続けるのは嫌だけど(いつまでも追いつかないから)、すれ違い間際に「こんにちは」くらいは言いたいなあってドラマを見てて思いました。

わたしは職人好きでもあるので、趣味っていうと逃げてるみたいでやだな、みたいなことも思いがちなのですけど、わたしがやりたいことって「趣味」に似てるかもしれない、ということも今回ドラマを見ていて思ったことです。
路上でパフォーマンスを、構えることなく見ることが・見せることができたりとか、ふと出会える、みたいな、そういう感じのものでいたい。
やらされてるとか、仕事だからとか、そういうのではないことが明らかにわかるものでいたい。
それはなんだろうな。これも、今わたしが見つけたいものです。

ドラマの中に出てきた、自分は「正しい選択でした」と言いながらも手紙を書かざるを得なかった方。
「正しい」というのは価値、意味、将来、という目線で、なのだろうなって思いました。でも、それ以外のものにどこかで気づいていて、だから知りたいとか、もしかすると彼らに怒りを持ったりとかをしたのかもなと思いました。

こぼれたもの。
実際に行動した、しない、はあのセリフだけではわかりませんが、確実なのは、彼女はそれを望んだ、ということ。
そして、それを含めて、あるいは含めずにぐわーって流れていく感情。人生。その人自身。他の人たちとの関係性。
そういったことを連想するので、このシーンもワクワクして仕方がありませんでした。
まきさんは、それらを受け止めている。それも好きなところです。
その曲をいちばん最初にしたこと。「知ってほしい」って部分があったのかなって、そういう気持ちとかが連想されて、そしてまたなにか感情が動くのでした。

コンサートのシーン。
自分の期待したものと違っていた人たち。期待を超えたものを見た人たち。期待通りのものを得た人たち。いろんな人がいたのだろうなと思いました。
なので、憑きもの落としみたいな印象もしました。

昨日は当直しながら見てました。
今日、仕事から帰ってきてから録画を見たのですが、1回目はリスと名刺には気づきませんでした。

おもしろかったです!


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ACIM Lesson72 「不満を抱くことは、神の救いの計画に対する攻撃です」 - 2017年03月21日(火)

2日前の日記で、「モクモクを取るのを手伝ってくださいね」とお願いしてましたけど、そのモクモクを取ってもらえました。

今朝、起きて真っ先に思ったのは、「あー、わたしのやってること、お母さんもやってた!」ということでした。
別にそれについて考えてたというわけでもなく、ぽん!と記憶が出てきました。

最近鍼灸に通っていることから、自分でもお灸やりたーいと思い、火を使わないで貼るだけという簡単なお灸をドラッグストアで買いました。
で、せんねん灸のサイトでツボブックをふむふむと眺め、昨日とおとといとは体に触ってみて、その日に痛みを感じるツボ部分に、例えば腰やみぞおち、背中あたりのいくつかのツボにそれぞれ貼りました。
超気持ちいいー・・・と満喫。痛いところが温かいのは最高です。あー、温かさにならその場所に意識が向けられるー、と温かさを感じていました。

母もやってたわたしのやってること、というのは先日書いた上司の夢の話です。
聞いてくれるのになんか正直に言えない。言ったとしても伝わる気がしない、というもの。

今朝、ぱっと思い出したのは、小学1年の頃のわたしが書道を習いたい!と望んで、それを母に却下されたことでした。
書道じゃなくてそろばんにしたら?みたいなことを言われて、そろばんはわたしは興味を惹かれなかったので嫌ですと答え、でも、だからといって書道がOKされたかというとそうでもなかった。
結局はわたしの望みはかなって書道を習えるんですけど、お金は叔母が払うみたいな形になってたりして、子供の頃のわたしは、あれ?変なことになってる?と思いました。
(今、こうして書いてみると、別に望みがかなう形はその形でもいいんじゃない?とも思いますが、一方でやっぱり気になってもいます)

大人になってから、あの時なんで習うのダメって言ったの?と母に聞いたことがありますが、まだわたしの年齢では必要ないと思ったから、という答えだったかな。
でも、代わりにそろばんは勧めるわけで・・・「ええと?」とどこか納得しなかったのを覚えています。

で。
その感じが上司の夢とつながるのです。

わたしは母が好きだし、とても物事を言いやすい相手でした。
それなのに、伝わる気がしない。正直に言っても伝わらない、というか、「やりたい」ってだけでは伝わらないんだ、みたいな。

やりたいことをやるためにプレゼンして相手に伝わるように伝えて、みたいなことを今のわたしはふわっと思いますが、そういうことじゃない。これね。

重要部分は
「理由がないとやりたいことはしてはいけない、わたしは理由がないとやりたいことはできない」
そういう設定をしてた、ということ。

そして一緒に思い出したのが、母が自分自身のことについて言っていたことです。
これは母がおばあさんになっても言ってたのですが、小さい頃に自分の家のお店の手伝いをしていたと。重いお米を担いで仕事をしていたと。でも母のお姉さんは要領がよくて手伝わなくて自分の好きなことをしていて、親(わたしの祖父母)も姉に対して手伝わせようとしなくて、自分ばっかりが、みたいな内容でした。
いつだったかの日記にも書いたことありますね、これね。

あ!と思ったのが。
母も、自分のやりたいことができなかった、できないって思ってたんだなあということ。

これを追っていくと長くなりそうなので少しで止めておきますが、母の生前、介護が必要になった母にわたしは楽しく時間を過ごしてもらいたくて、やりたいこと、好きなことを聞いたことが何度かあったんですけど、のれんに腕押しみたいな感触で、「別にない」という感じで。

そこで感じた違和感とか。
思い出すわけでした。
なんでわたしが違和感を感じたのか、とか。

やりたいことが出てこなくなったのか、
それとも元々やりたいことがあったわけではなかったのか、
それとも体を使ってやることが母のやりたいことだったのか、、、
などなど、いろいろ推測はしようと思えばできるわけだけど、それらのどれであっても「別にない」ということに対して違和感はあるんだなあって振り返ります。

救いとはなんですかね。
今日のワークは、そうして神に尋ねることですけど。
救いとはなんですか? What is salvation, Father?

そう思ってから、今日のワーク部分の文章を読むと、体の奥、深い部分、みたいなところで、言葉にならない何かが、本当に少しだけ反応するのが感じられます。


今朝、朝一でこのワーク(長めの実践時間のほうのワーク)をしたときは、とても気分がよかった。
開かれた感じがして、わたしが10年以上前から思ってきた質問がこれだ、「救いとは何?」と「神さま」に聞くことだ、ということが今朝わかって、、、やっとわかった、みたいな感覚になったのでした。

わかったのは答えというよりも、自分がずっと求め続けていたことが何かということと、どのくらいの時間それを求め続けてきているかということと、質問するのに適した相手が誰かということと、それは本当はどういう質問だったかということなんですけど、それらがいっぺんにわかった感覚がして、すごくうれしい気持ちがしました。

わたしはこれを20代後半からずうっと求めてきていました。
それはACIMなんて全然知らない頃からでした。それも、今日わかりました。

長いな!
一瞬間に過ぎないのかもしれないけど、長いな!


...

ACIM Lesson71 「神の計画(救いのための計画)のみが上手くいく」 - 2017年03月20日(月)

今日のワークは71です。
ワークを読んでいて思い出したのは、またオザケンでしたよ。「流動体について」。

最近、何かが切り替わっている感じがわたしにあります。
わたしにはそれが上手く説明できないのですが、明らかに何かがこれまでと違っている感覚がしています。
物の受け取り方だったり、考え方だったり、それらは同じような感じがするんですよ。そう、それは同じような感じがするんですよ、違った感じではなくて。

だけど違う。

表面的に見えてるものは同じようなものなのだけど、土台が違う、そんな感じかなあ。何かが違うのです。
何かこれまで心からは信じてなかったことが信じられてきている、のかなあ。そういう「信じられない!」といううれしい出来事が、わたしは今年に入ってから多かったからなあ。そして、何を信じてたかもあまり自覚してなかったようにも思うし(笑)

何かが違うっていうのはわかるのに、説明ができないという。何が違うのか。どうして違うと感じる状態になったのか。その道筋が全く分からないのでした。

この感覚、これは今日の想念「神の(救いのための)計画のみが上手くいく」そのままなのかな、とも思います。

これまでわたしはずっと、自分を救うために使っていた計画は「神の計画」じゃないほうを使ってきました。だから、これまでと何が違っているのか、何を変えたのか、どのようにしてそういう状態にしたのか、それらが説明「できた」のです。
意志があったともいえるけど、それは「神の計画」の中で使っているわけじゃなくて、「自我の救いの計画」にせっかくのわたしの意志を使ってた、そんな感じだったっぽいなと振り返ります。

不平不満を抱くことを中心において計画をする「自我の救いの計画」。
昨日までのワークで、自分にどれだけ不満が発生するのか体感したので、これだけ不満が出てくるってことは、それに対してちょっと間を置くように不満を認識していないと、自動的に「自我の救いの計画」コースにご案内、って感じかもしれないなと思いました。そのほうが「たくさん不満が出る」ということに価値を見出せる、そういう自分に価値を見出せそうだし。

そしてそういうふうに学んでいる、というのもあります。
周りにそういうものがたくさん見えるし、信頼してる大人たちや好きな人が教えてくれたりするし、疑い持たないなあと。

わたしは不満を持っても基本、内側にためます。
誰かに言ってうっぷんを晴らす、とかそういうことをあまりしません。あまり晴れないとも言えますし、他の人をそのモードにさせたくない。
(そのモードにならずに聞いてもらうこともできますけど、それはその人にトレーニングが必要というか、ある部分で気を付けてもらう必要がでますし)

わたしには自分の理想みたいなものがあって、そこに反することをしたくないのでそうなっているんですけど。そして同時に我慢強くもあるので、内側にためやすい(結構ためておけるから)のですけど。
そういった感じなので、意識していないと外側に出さないことが多くなってしまって、だから自分の不満を自動的なものに任せていたら認識しづらいとも言えます。

まあ、こう書いていて思ったのですけど、だから今、体に出てるんだろうなあと思いました。
こうして外に出している。
方法としてはわるくないですね。わたしの望みと合っていると思いました。


不平不満を抱くということ。

「もし誰かがこうしてくれたらよかったのに。」
「もし○○さんがこう言ってくれたら、こう行動してくれたら。」
「もしこういう状況を選んでたなら。」
「出来事がいくつか変わりさえしてくれていたら。」

「そうしたら、わたしは救われたのに」


これ、まるっきり「流動体について」の歌詞の世界じゃないか(笑)
で、歌詞の主人公は、この後で「自我の救いの計画」から「神の救いの計画」に、ある地点から自分が参加する場所を変えたんだよなあ。

あー、それと。
同じように言葉としては「もしも」なんだけど、「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?」という歌詞の中での問いは、上記の「もしも」の感じとは少し違っているというところもおもしろいですね。
上記の「もしも」達は閉じていく感じがするし、流動体についての歌詞の中での「もしも」は広がっていく感じがするし。


やっぱりおもしろいなー、この歌詞。
人生のどこかの地点だけを切り取って書いているんじゃないっていうことに、わたしはこの歌詞におもしろさを感じてます。

わたしになにをさせてくれるの?
わたしをどこに行かせてくれるの?
何を誰に伝えさせてくれるの?
ねえ、神さま。

こんな感じで神に耳を傾ける。聴く態度になる。
そうして神の手の中にいる。自分から、いることを望む。
そうしたら、「宇宙の中でよいことを決意するくらい」だよね、やれることはね。

だってさ、
Lesson71「神の(救いのための)計画のみが上手くいく」
どういうことかって説明を読むと、そうだなあって思うし。上手くいかないほうをよく知ってるし。じゃあ上手くいくわな、と思うし。

何を成したか、誰と成したか、それに対する成功、失敗という評価。そういうことではないんだよね。

自分の内側で感じている感覚がどのようなものなのか。結局のところ、それしかない。

うーん、やっぱりいい曲だなあ、と思いました。


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ACIM Lesson70 「私の救いは私から来る」 - 2017年03月19日(日)

Lesson66辺りからでしょうか。
「なんか、わたしって余計な思考があるなあ」ってしみじみ思うことがいくつか出てきています。
反省とか罪悪感とかの感触でそう思うのではなく、レコードが傷のついた部分で針が飛んで何度も戻って繰り返している、まるでそれを聞いているような、、、あれれ?というか、これを聞き続けていても仕方がないな、というような感覚。
本当に、まったく意味が分からない!みたいな感じです。自分がそれを望んでないし強制されてすらないのに自らそれやってるの?みたいな。

こういう思考回路で展開していたな、そういう考え方はいらなかったな、いらないっていうか有効でもなかったな、と過去にあったことを思い出しています。
別に思い出そうとやってるわけではなく、ぱっと思い出したらそういう感想になる記憶が出てきている、と。

ACIMのこのところのワークは、不満をそっと脇に除ける、モクモクした雲ではなくその雲の奥にある光を見に行こうとする、みたいな感じのものですが。

モクモクどかすの、結構楽しいです。
自分がすぐにモクモクしだすのも気づきます。
そして、モクモクをどかした時の感覚が気持ちいい。
自覚がなかったのですが、わたしは何度も自分をモクモクさせる機会を持っていたので、モクモクを除ける、それだけでそのモクモクの機会分だけ何度も心地よさがやってきます。そして、ああ!こんなに何度もわたしは自分をモクモクさせてたのか!と気づく、という流れになっています。

これ、子供の頃に知りたかった、と正直なところ思いました。
わたしの人生が全く変わっていたことがわかるというか、わたしのこれまでの不満に振り回されてたことが全部なくなるんだよね、というか。
いろんな人への不満、まずはそうですよ、母に対しての不満というか、母自身が持ってた不満を幼い頃からずっとわたしは聞く役目みたいな感じだったんですけど、それらが、わたしにとってぜーんぶ! これまで「あった」ものが、ぜーんぶ!「存在しなくなる」わけで。
わたしは子供の頃からこれをずっと頑張ってきていたし、マネするつもりがなくても母の不満の持ち方をわたしもトレースしてたり、それらが「なくなる」というのは、なんと飛んでもないことが起きてるのかと!

まあ、今「なくなる」のもなんも変わりはないです。本当にそう感じますし、気持ちいいですしね。
ということで、「今、わたしは人生が変わっている」ということを、不満を言いたがるわたしに証明された感じでもあります(笑)
「不満」がこうしてところどころ、ふいっと出てくるのに気づくのはおもしろいです。


いつだったかの日記に、わたしの20代は体のためのケアをしてきて、30代は精神中心でケアをしてきて、じゃあ40代は?みたいなことを書きましたが。
今の答えとしては、「どちらか」とか「両方を」とかのこだわりもなく、単に「体や心で“感じている”ことに気づく」ということをしていくのかもな、って思っています。

わたしはできていない!と、本当に思いました。
ジャックさんのところでプレゼンス習い始めて、ええと、わたしは5年でしたっけ?
あほかーって感じです。全然できていない。
特に、心で感じていることを感じること、ですね。できていないのは。
心で感じていることを自分の心から直ではなくて、「一般的にはどうか」というところに持って行って、その知識を知る、そういったことをしているな、と。これって、途中から、わたしから来ているものではない情報になっていますよね・・・。
そんな感じがするか?と自分に確認することに使うのだったら問題ないでしょうけどね。

自分に何が起きているかをこれまでの知識を使って変換する、もしくは知識ではなく自分の直感で超腑に落ちる感じでわかったとしても、そのわかった瞬間だけではなくその後もそれを使うことで、それを単なる知識にする、そういったことをわたしはよくしているなと。

知識。
わたしは外面的なことに見出そうとしていた自分の「救い」のひとつに知識を見ていたのだなあって今日のワークをしていて感じました。


ちなみに今日のワーク(Lesson70)は、こんな感じ。↓

「自分がこれまで救いを外面的なことに見出そうとしていた、そのいくつかを思い返してみる。例えば、他の人、財産、状況、出来事、自己概念など。」

「救いはそこにはないと認めて、次のように自分に言う。」

「私の救いはこうしたことのどれからも生じることはできない。」

「私の救いは私から、私からのみ来る。」





夢もまた頻繁に見るようになってるのですけど、今日のはこういった内容のものでした。↓

本社の上司(という設定。現実で見たことがない人物)が、気さくに声をかけてきてくれて、わたしも構えずに話していました。上司はとても人の話を聞くのが上手で、わたしはちゃんと聞いてもらえてる感じがするし、実際に望みを伝えると上司自らそれに関して行動してくれたり、あるいはわたしが受け入れられる形での助言をしてくれたりする、そういう信頼をわたしはその方に持っています。

なのに、夢の中のわたしはある部分を正直に言えないんですね。
言ったとしてもちゃんとは伝わらない、って無意識に思ってる感じがあって、だからそこをぼやかしていて、自分の希望してることは正直に言うのだけど、「わたしがしたいこととは別なことをできるゆとり」「それができるお膳立て」をしてくれるような流れになっていて、そうじゃない、それは困る、と思っているのに、何かに関してわたしは正直になれないでスタックしてる。
その「何か」というのは、夢の中のわたしも起きている今のわたしもわからないままなのですけど、正直になれない「それ」があるのは確か、という感覚はあります。

正直になれない「それ」。
わたしはそれを是非とも見たい。
モクモクを、取って、是非とも見たいです。
取るのをちょっと手伝ってくださいね。


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今日の鍼灸日記。 - 2017年03月17日(金)

行くたびに体が楽なのですけど、それプラス楽しくなっている今日この頃です(笑)

毎回セルフでプレゼンシングソマティクス、要は内側から体の感覚を感じて、感覚に気づいて、変化に気づきながら鍼を受けています。

足の指や手の指にチクチクと鍼をされ、背中側にお灸をされ、という感じで受けています。もみほぐされたりはされません。(希望すればできますが)

知識がないので、感覚を感じることしかできないのでそれを楽しんでいます。
例えば知識があったとしたら、この辺に作用してるんじゃないかな、どうかな、って探るように感覚していくということをわたしはすると想像するのですが、そういうヒントみたいなものがない状態で、ただ、今、自分の体で感じている、感覚を気づいていく、ということができるので楽しくて仕方がありません。

わたしは推理小説など子供の頃によく読んでいたので、「推測する」ということを自然にやってしまいます。初めから決めつけるようなことはしないですし、気になるなら確かめるわけですが、そうは言っても自分の考え方(好み)でおおよその形をつけてしまう感じはあります。
おおよその形すらないっていうのが、わたしにとってはとても楽しいんですよね。

体のここの感覚には気づく、こんな感覚がするけどそれってどこなのかよくわからない、お灸を置かれた場所でこの部分が熱く感じてきて、こっちが次に熱くなってきて、あれ?この部分は熱く感じなかったな、今熱い箇所ってどこだっけ?とか自分の感覚の変化に気づいていったり。
(数か所で同時に熱さを感じると、場所がよくわからなくなったりする)

今日、おお!と思ったのは、腰の収まる位置(角度)が変わったこと。
足の親指への鍼と、背中側にお灸をしただけです。
だけなのですが、あれ?!って思いました。
この位置、わたしはあまりなじみがないぞ!と。
そして、楽! なにこれ!という。

わたしはこれまで腰痛があったわけでもなかったので、腰は全く気にしていなかったのですが、え?この位置って変(感覚が)、変だけど楽だ、仙骨の平らなところは平らにベッドにくっつくんだ!みたいな。

いつもなら、次に待っているクライアントさんがいて、ちゃんとちゃんと時間で仕事している感じがされてる先生なので、症状と会計以外の会話はない感じだったのですが、今日はわたしが最後のクライアントだったので、少し質問をしたらすごく返ってきました。やっぱり興味深い話が聞けるもんだぜー。

そして、位置を直す、正しいとされている位置に動かす、みたいなやり方よりも、リラックスする、筋肉を緩める、そういうやり方のほうが、理にかなってるなあと改めて思ったのでした。

20代に整体等を受けていた時と異なるのは、ボディワークを「受けて学んでいる」ようにも感じている点です。
20代のわたしだったら、今の楽しみはできていません。

何が違うかなと考えてみると、20代のわたしは施術中の自分の体の感覚や変化を「自ら」感じようとはしていない。
筋肉の構造等にも興味を持っていない。
そして、施術を受けた直後は良くてもまた戻る、ということに意識が行っている。

今のわたしは、施術中に自分の体の感覚や変化を自ら感じようとしているし、施術者が「ここはどんな感じですか?」「今はどんな感じですか?」と聞いてきたら、そこに意識を向けられた!「今」の感覚に改めて意識を向けられた!と喜んでいる感じがあります。
(20代のわたしは、聞かれたら答えるけど答えたら終わり、言われたそのことだけで終わりで、感じようとしていない)
「施術を受けた直後は楽で、また次の日になると痛みが戻ってくる」ということは昔のように今もあるのですが、今のわたしは、「良くなって戻って良くなって戻って、、、で、総合的に良くなってる、ベースが上がってる感じがある」みたいに、全体で観察してる感じがします。この頃はこういう症状もあった、今は出てない、今はこの症状がある、前は気づいていなかった、など。
1回1回の施術で切り取って見ていないんだな、とこうして書いてみて気づきました。

ジャックさんのところで習ったこと、自分の20代のクライエントぶりを思い出すと、「ああー、そうだわねー!」と妙に腑に落ちます。
言葉をかけられ応答するときと、言葉をかけられない時間と、過去の自分がそれぞれどのような感じを受けていたか、そして施術が終わった後の自分の感じ、それらを思い出せるので、妙に腑に落ちます。

おもしろい。


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相澤いくえさん - 2017年03月14日(火)

今日はkindle端末に漫画を数点DLしました。
まだひとつも読んでないですけど、すべて読むことが楽しみな漫画たちです。

その中のひとつに、相澤いくえさんの「モディリアーニにお願い」という美大生を描いた漫画があります。まだ読んでいないので感想は書けないですけど、本の前にわたしはこの方のツイッターをバリバリと読みました。文ではなくて、ツイッター絵です。ツイッターまんが。
これが、わたしにとってすごい癒し効果で。。。

相澤さんは、3.11の震災の頃が高校生という若い作家さんです。
そもそもは、担当編集のキリンさんがわたしの好きな「BLUE GIANT」の編集者K氏と同じ人ということを知って、作家さんからの描かれ方の差異がおもしろくてツイッターを読み始めた、という流れでした。

で、読んでいると、担当編集のキリンさんが相澤さんを保護する感じがとてもわかるというか・・・。
このまま健やかに育ってほしい、と望むのがわかるというか。
キリンさんが、映画「この世界の片隅に」をこの漫画家さんに勧めるのも、そしてその理由を説明するのはあいまいな感じというのも、その「感じ」がなんかわかる、って思いました。

一方で、相澤さんの言動もよくわかるというか、自分に重ねることが多い・・・。今というより、過去の自分に重ねる感じですけど、結局それって今の自分につながってるのよね。
わたしもカッパ一族だよなこれな・・・。

今よりも若い頃、これじゃだめだ、とか自分がやってきた感覚を重ねてみたり。
でも、そうじゃなかったのかもね、そこじゃなかったのかもね、みたいなことを思ったり。

年を重ねてきて、キリンさんの感覚もわかるのでその視点から見たりとか、それに加えて自分の中にあるカッパ視点から見たりとか、助けてもらってるカッパさんを見て、わたしもそうして助けてもらってたなあとか思ったりして、もうそれらがマリアージュで、何この癒され方・・・という感じです。

その人のままで成長していく、というのは本当に他の人の助けになるなあ、と思いました。
漫画も読みますー。


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鍼灸とそこで気づいたこと。 - 2017年03月13日(月)

楽だ!

ベースの自分の体調が楽になっているのはもちろんなのですが、楽になっているその上で鍼をしてもらってさらに楽!みたいな。
いやあ、どこまで楽になれるのよ!というワクワクでいっぱいです(^-^)
じゃあ、どこまで楽じゃなかったのよ、とマインドが言いますが、もちろんこちらはスルーさせていただきます。この思考の流れは、今は必要ないのよ。

鍼を受けてその結果、体のどこかの部分が力んでいない、というのは感じられるのだけど、それがどこだかは頭ではよくわからないし、緩んでいるのはこれまで意識もしていなかった場所だったりして、心境としては、こ、これは・・・!(ベタフラッシュ)って感じです。(どんなだ)

今日は胃の後ろ側の背中がコリが強いなーと感じていたので、鍼灸の先生にそれを伝えました。
で、先生が「別に食べ過ぎるってわけでもないですよね」ってわたしに確認して、「そうですねー。わたしは焦りやすいので、仕事がたくさん目の前に見えてくると凝ってくる感じになるんですよねー。」とか話したのですけど。

自分でそう言って気づいたのですけど、ああ!と思ったのは、わたしは目の前にたくさん見えてくる仕事を「どんどん食べよう」としているのと一緒だったんじゃないの?ということ。

ええ、自分の消化能力を超えて。

あー、そうだそうだ、と腑に落ちました。

それはわたしの行動全般に言えることであって、スーパーに行くとその日や明日以降も食べられるくらいの量の食品を買って、次に行った時もそういうことをして、ということをしがちだったり(そして、変に無駄も嫌いなのでしなびたカブを食べる羽目に自分をしてみたり、、、それ自体が無駄だが)、本も常に積読があるし、読まないうちに興味がなくなって売る、みたいなこともよくやります。
(しなびたカブは食べても、しなびた情報は食べない模様)

その時の自分に可能な分を、食べられる分を、読める分を、ということを意識してやってみたらどうだろうな、どうなるのかな、と思いました。

食事で考えてみると、わたしは別に量をたくさん食べたいわけではありません。
でも、いろいろなものを食べたいと思って、かといって、それだから調整する、ということはしてない、と。
だから、結果的に量が多くなってる、そういう感じがします。

調整する。
了解です。
わかったー、という感じの本日でした。


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つらつら - 2017年03月11日(土)

今日、ひとつわかったことがあって。

「え?これおかしいよね・・・」と思うことがあった、というAさんの話を聞いていました。
わたしにとってその内容は「とても感覚的にわかる」「それはおかしい」と同意する感じで、なのでそこからこの感覚はわたしは他の何人かの人と共有しているのだな、という感じを受けました。

その話は「そういった発想は出てこない。」という内容でした。
これって誰かを褒める時にも使いますけど、今回はそうではありませんでした。

その発想が出てくるためには恐れがないと出てこないようなもので。
相手を恐れさせてコントロールするのがよい、みたいな印象がする発言だったのですね。

その発想が出るということは、コントロールしようとしたその人自身がそういう恐れを持っている、ということを、たとえ本人は気づかなくても周りにはわかってしまうことになる、というか、そういうこともなんかざっくりと見えて、、、うわあ、すさまじいなと思いました。
容赦ないというか。うん。

恐れがあると、言動が一致しない、言っていることに統一性がない、という表現になるような印象がありましたが、そりゃそうだな、ってちょっと思いました。
恐れがあると信頼につながりにくくもなるのかもなあ。



わたしはそういった、相手を恐れさせてどうにかしよう、みたいな発言を聞くと、息ができなくなるような感覚が体に出てきます。今日、話だけ聞いていた時も、「おおお、軽ーく苦しいのが体に出現してきたぞー」みたいに感覚を感じながらいました。鍼治療でワークしてるのはここだよなーみたいな。
恐れさせられてコントロールされることが怖いのかな、それとも人をコントロールしてしまうことを恐れてるのかな、など思ってみたのですが、どうもそれはしっくりこなくて、なんか、その人に対して一生懸命になる感じがあるなあって思って。

わたしはそれを、「相手」でなくて自分自身に向けるべきなんだろうな、って感じました。

はっきりよくわからないなあ、って感じでこうして書いていたのですけど、書いていたら、幼い頃の記憶が出てきました。
ああそっか、それは一生懸命になるよなあ、みたいな風に思いました。


こういう体の反応、思考の反応についてはあんまり人と共有しないですよね。
ある部分、あ、ここは共有できないやって思ったというか、同じ反応をする感じがしないや、って気づいたっていうか。
そういったことを今日気づいたのですが。(前置きが長いです)

今日、本当にこういう部分は個人的なものなんだなあ、とハッキリ思えた感じがあります。
共有できないから孤独感を感じるとか、誰かと共有したいとか、そういうのではなく、共有できないというのがわかったから、自分でちゃんとやんなきゃ、って思えたというか。
だから、すごくすっきりした感じがあります。

うーん、まだうまく言えないのですけども。


今日のACIMのレッスンは62。
「赦しは、この世界の光としての私の役割です。」
Forgiveness is my function as the light of the world.

誰かを赦す、というのは見かけ上みたいな感じだなあって思ったし、自分を赦していない部分がこうして見えるなあとも思いました。

ただ、今どうなのかがわかる。


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つらつら - 2017年03月08日(水)

鍼灸に行くようになって、まもなくひと月。
息苦しさなどの体の反応がなくなる状態に戻る、ということが出てきました。(ひと月前までは、なにもなくても戻らなかったのでした)

息苦しさの反応はあるし(出るときが明確に見える)、息苦しさのない状態に戻ってもある部分は戻っていないまま、という感じはありますが、その行き来を感じられるくらいには回復しました。

それで、おお、すごいぜ!と思ってたんですけど、ふと昔の自分を思い出しました。
20代の、肩こりでマッサージや整体に通っていた頃の自分。
何度行ってもすぐにコリのある状態に戻っちゃうよー、と思ってた自分。

いやあ、ない状態にも戻れるってこと自体が素晴らしいですよ。
あるから駄目だ、ないから良い、というのではなくて、この行き来がある、というのが素晴らしいんだなあって感じました。

マッサージや整体という体のワークだけでは駄目だ、と思って、精神的な、心理的な側をワークする方向にわたしは行って、それはとても助けになっているのですが、精神的な側「だけ」でも駄目だということがわかりました(笑)
精神的・心理的な理解が体を助けてくれるのと同じように、体側へのワークがだいぶ、精神的な面、心の面を助けてくれるぞ、ということを感じた今年初めでございます。
このこともまた、どちらへも行き来がある、というのが素晴らしいんだな、とわかりました。

なんで今回こうなっているかというと、まあ、秋冬クラスでそれほど自分の体への施術(デモ)の機会を持っておかなかった、というのもあるでしょうし、それから他にもいろいろあります。

そのひとつは、今朝に夢で見て、ああ、って感じなんですけど。

1月頃に実際にあったこと(感じたこと)が、別キャストで演じられててそれを見た、みたいな夢でした。
「あ、わたしは舞台の中ではこう見ていたんだな」というのを舞台の外から見る、みたいなことができる夢でした。
あー、ここでわたしは悲しくなったんだな、とか。舞台の上にいて、そこまでは感じられてない、みたいなこと。あー、わたしはこれをそう受け取ってそれが悲しかったのか、って。

個人的におもしろく感じたのは、ある怒りでした。
「わたしが言った言葉(ACIM的に述べるなら、「神から離れた、罪悪感にまみれた言葉」)をそのまま鵜呑みにしやがって!」みたいな怒り。

なんだ?この怒り、、、超言いがかり・・・と怒りの奇妙さ対してに思いつつも。
あー。
あったわー。
みたいな。

わたしは、自分だけでは難しいと感じています。
後から考えて、なんですけど、わたしが「神と共にいられた」ときの言葉は信じてもらえない(もしくは軽く扱われる)のだ、とかも思っていたなあってのも見えました。

実際そうしているとき(「神と共にいられた」とき)は全然落ち着いていたわけですけど、あとからその出来事を振り返ったときに、わたしのエゴさんパートが、もやもやもや〜。「旦那〜、軽く扱われてますぜ。やっぱ、たいしたことじゃないんですぜ。」と語りかけてくる。

いやあ、実際は別段軽く扱われてないのですけど、、、
まんまとそのエゴさんの言葉を信じるわたしですよ。

まあ、これらを夢で見ましてですね。

で?どっちを選ぶの?

となったら、そうね、神よねー、怒りとか不信とか罪悪感とかそっち方面のものじゃないわねー、みたいな。

相手が無意識に要求している(ように受け取った)ことを、わたしは無意識に答えたところがあったんだなあ、とか。
それに意識的であったなら、こうなってないなとか。

そして、「感情的に、感覚的に嫌だから入らないようにしてた、避けてたのに入ることになって怒ってる」みたいなところもあるなと。

なので、「あ、なんだ。それなら、入っちゃってよかったんだわ」と思ってる現在です。

だけど、これらを体のケア、体からのアプローチなしにやろうとか無謀ですからー。

ケアするということに関して、20代は体だけ。
30代は精神中心。
じゃあ40代は?って感じです。

20代の時は、施術を受けて「あ!わたしの体のその部分が固い!動かないね。」と気づいて、あー気持ちいいー、って感じでした。
気が向いたらやってもらったのと同じところを押してみよう、みたいな。
押したら気持ちよくなるだろう、という機械的というか知性的な考え方。

今は鍼灸に行くと、
「あ!わたしの体のその部分が固い!動かないね。」
と気づいた後に、
「その部分は自分で意識したことないね。」
「え?これって解剖的には体のどこの部分だろう?」
「家に帰ったらどこの筋肉か、どことどこにつながってる筋肉か調べよう〜。」
「固さの感覚を感じられたところは、わたしの体の外から見るとどの辺りだっただろう。」(鏡で見る)
「自分で外から触って、その触られた筋肉の感覚が筋肉の構造と一致してるか感じてみるんだー。」
みたいな感じ。

少し回復してきた今、それをいちばん楽しめそうです。
もっと回復したら、気づくこと自体が職人技になりそうでそれもまた楽しみですが・・・まずは今。


あ、病院でも検査済です。
今回、病院の良さも感じられました。
わたしの場合はですが、数値で表してもらえると落ち着くということがわかりました。それから、今後どういう風に進めることが可能か、ということを提示していただけるので、だだっ広い海の真ん中でぽつーん、みたいな感覚になりやすいわたしとしてはそれがとてもありがたい。
あっちもあるし、こっちもあるんだ、みたいなのがわかるだけでとても楽。
それから、先生が落ち着いていて、フレンドリーで、というそれだけのことがとても重要と感じました。
わたしは緊急性がなかったからというのもありますけど、いろいろを決めつけずに、どうしたい?これはやっておきたいって感じある?と聞いてもらえるのもありがたかったことのひとつでした。

ほかの方々はどうなのか知りたいところですが、わたしは感覚だけに頼ってると妄想が出てきます。
それなので病院で話をする、検査をするということで妄想が止まるし、こっちでいいんだな、こっちがいいなって確信することに使えて、変な話、病院っていいなと思いました。


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「流動体について」について。その4 - 2017年03月06日(月)

後半ですー。



後半は、意識が一段切り替わって、上昇して心地よさ抜群!みたいなことが2回起きてる感じ。「意思は言葉を変え」の部分で。
1回目に一段ギアチェンジして、2回目もさらに上がるみたいな。

どちらもですけど、問いかけた後にこれが起きているなあと。不思議を問いかけ、現状を問いかけ。その後にギアチェンジ。

なにかの意思があって、「意思が言葉を変え」、それに同意したりあるいはしなかったり、そうしたことを通じて人と人の間にやりとりがあって、そうして都市全体が生き物のように変わっていく。

「躍動する流動体」の辺りは、わたしはもう心地いい!しかないですね。どんどん上がって上がって高まって昇華してく感じが。

「夜の芝生に舞い降りる時に」の辺りは、その昇華したものが夜露のように静かに降りていって、それをわたしは思考が静かになる感じと重ねていて、物語の中ではその静寂さの中で主人公が自分自身に問いかけている。
そこには、そこには体温を感じる近さの子どもたちの存在が自分の欠かせないものとしてあって、そこから現状を問いかけている。

それから2回目のギアチェンジがあって、また思考が静かになって。
その静寂さの中で、保証があるわけでも計画通りにやっていけるわけでもないような、無限の海の前に立つ。でもそれほど怖さはない。それは確かな約束が見えるから。心の中でもう確信がある、という感じ。
「それほどの怖さはない」っていいですよね。人間の言葉というか、経験者の言葉という感じで。その人がやってくれるわけじゃなくても、その人が一緒にいてくれるわけじゃなくても、それでも「添う」って感じがする。

(恐れるな、恐れるものはない、って言われて頭ではそうかって思ったとしても、感覚としては怖くなるのは、「添うてもらってない」と感じているのかもしれないな)

2回目の「神の手の中にあるのなら」。
言葉としては、ほぼ前半に出てきたときと同じフレーズだけど、受け取った感じとしては1回目の時は頭で考えていたというか、理詰めで「それはよいことだな」「そういうものだな」とか理解していたという感覚で、2回目の場合は、「もうそれしかない」「感覚としてそうだなってわかる」みたいな違いをもって、この物語を見ました。
なんでそういった違いに感じるのかな?と思ってみると、前半の歌詞の経験と、後半の歌詞の経験の違いからです。

だから、最後の「無限の海」の辺りも、先に出ていたのとは違ったものになっている感じ。
先に出てきたほうは「約束が見えるから」それほどの怖さはない、だったけど、ここに来ると、ただもう「宇宙の中でよいことを決意すること」自体が「怖さ」とは全く逆のものを自分に与えてくれる、それを信頼している感じに主人公がなっているなって。



歌詞の物語としてはそのように読みました。

でも、通しで、あまり何も考えずに聴くと、ぽん!と切り抜いたように気になって聞こえるフレーズがあって、それが楽しいです。
サビの「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?」は、聞き始めの頃にわたしを泣かせましたが、それに泣かなくなったら他のフレーズが気になったりとか、聴く時々で異なったりします。
情報が多い歌詞だからかもしれないですけど。

どこを見ても、とにかく気持ちがいいですねー。


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「流動体について」について。その3 - 2017年03月05日(日)

わたしがこの曲から感じられるものをつらつらと書いてみます。
お手元にCDの歌詞カードを用意して、合わせてお読みいただけることをお勧めします。


今回は、前半の水色表記の歌詞の部分について思うこと。



●「羽田沖」から「しばし窓の外を見る」までの部分

目に見える光景。旅から戻ってきたという実感。いったん外に出て、戻ってきた。そういう人物の視点。
近所のスーパーに買い物に行って戻ってきた、というものとの感覚の違い。スーパーに行くことであってもやろうと思えばできるのかもしれないけども。
過去の自分が見たものと同じ場所のものを見ているけれど、見え方が変わっている。そしてそれを認識できている。ここではそんな感じを受けます。



●「もしも〜?」

この問いはこの曲にもう一度出てくるけれど、歌詞カードにはここの「もしも〜?」だけが違う風に書かれています。
単にデザイン?
わたしは深読みして、ここの一文だけ、他の部分とはまったく質の違ったものだったりして?と、チラッと思って放っておいています。

「もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?」
今はもう、間違いに気づいたときから時が経っていて、それを振り返っている、というときに使う言葉。今はその間違いの中にいないときに使う言葉。
そしてそれが、明るいメロディーと共に。
今現在、物語の主人公の心が満たされていることがわかります。



●「並行する世界の」から「隅まで見てみるけど」までの部分

もしこうしていたら? あの時あのままだったら?
たくさんの考えられる人生のパターン。
地図を開いてみてもよくわからない、って続くのかな。



●「神の手の中に」から「良いことを決意するくらい」までの部分

「神」。いろんな神の定義があると思うのですけれど、わたしが用いているものを前提として示しますと、

1、罰を与えない
2、災害や、病気や、死とは全く別のところにある
3、パワーがある
4、愛そのもの

こんな感じです。もちろんこれらを信じられない時もありますが、それはわたしの勝手でやってる、という感じでいます。
「神様を信じる強さを僕に」ってやつですね。まだまだ弱っちいものでたくさん助けが必要です。

と、前提を説明したところで、歌詞の方に話を戻します。
先に説明した通り、わたしの中で意味する神さまは「いい存在」なんですけど、わたしの思考が望む通りにしてくれるというわけではありません。なので、個人的には葛藤したり怒ったりとかするわけですが。
で、信じてもいい善きものだけど、自分の都合にいいようにしてくれるわけでもない、そういう神の手の中に自分があるのだったら、自分にとって本当によい方向に導いてくれる、それを信頼して、「よいこと」を決意していく、できることはそのくらいしかないよ。みたいな感じです。
ここは、人によって神さまの意味が異なると思うので、いろんな感覚の違いが出てくる部分だろうなあと思っています。

自分にできること。
人間である自分に唯一できること。
「そのくらいしかできることはない」と言ってるけど、でもそれは「たいしたことじゃないこと」という意味ではなくて、むしろ逆にとても力のあること。自分ひとりだけに影響がとどまるものではない、それってとても力があるということ。
そういうことを、この物語の主人公はこれまでしてきている、ということ。



●「雨上がり」から「感情が振り子振る」までの部分

「日曜の夜は静か」の「か」の発音を練習したくなるところですね。
ここでは実際に足を踏み入れている、というシーンですね。
その中に実際に身を置いたことで感じられる感情や、感情からくる体の感覚を感じている部分ですね。想像ではなく、実際にそこにいる、ということから感じられているもの。
自分が久々に見るように感じてる風景の中で、感覚している時間。

「君」とどのように過ごしていたのか、「君」は主人公にとってどんな人物だったのか、どんな関係性を作っていたのか、旅立つときにどんなふうにお別れをしたのか、などによっていろいろ違うと思うのですけど、どうあってもいろんな感情がそこでは感じられてるだろうなあと思います。



●2回目の「もしも」から「不思議を問いかける」までの部分

今の自分とは別ルート。別の登場人物が出てくる物語。
今の自分と子どもたちとの関係性。それはとてもいいものなのだろうなあ、と感じさせます。
どんどん他の「並行する世界」に対する思いから離れていっている感じがします。それとも離れていっているのではなくて、包含しているのかな。執着みたいなものがどんどん薄れていっている、そんな感じがします。
歌詞の中でも「並行する世界」が出てくるのはここが最後なんですよね。

ほの甘いカルピスの味。そこにわたしはやさしさ、微笑み、柔らかさ、みたいなものを感じます。子どもたちと過ごしているときの感じが、このような甘くてどこか懐かしくほっとさせるような、そういうものと感じてるのかなと。
まるで子供を包み込むようなやさしさ。その感覚に自分自身も共に包まれている。
そのやさしい場所から、不思議を問いかける。人の知性ではわからない部分、わからなかった部分、それを問いかける、そんな感じでしょうか。



つづきます。


...

「流動体について」について。その2 - 2017年03月04日(土)

難しい歌詞。軽快な旋律。
わたしはそれが嫌いではない(むしろ好き)ですが、ネットを眺めていて思うのは、もうなにが正しいとかないんだなあ、と。
だから、わたしはわたしの「好き」をちゃんと言わないといけないなあ、持ったままでいないとだなあ、ととても感じることができています。
自分の好きなものは好きと。それを大切にしないとなあって思っています。
これをとてもありがたいと感じています。

というのは、そこをぶれさせると、自分を大切にしなくなったり自分自身に対しての価値もどっかにいってしまうって、それがはっきり見えたから。
残念ながらそういった、自分に対しての価値観を感じられなくするような心の動きをわたしはこれまでしてきていたので、だからこの曲に惹かれている、とも言えます。
立ち止まり、これまで辿ってきた自分の道のりがよく眺められるから。あ、見えるようになってる、って気づけるから。

言葉も音も美しく、音に関してはまったくわたしは詳しくないのでどういうものに美しさを感じているのか頭ではわかっていません。
(音に関しては、文章で説明されても感覚に入らず、難しい・・・と拒否されてる感じが自分にあります)

わたしは「美しいもの」に惹かれてこの曲が好きなんだなあ。難しさに惹かれている、ではないなあって。思考の遊びとかそういうものとして受け取っているわけではないんだなあって、感じています。
自分のこれまでの経験と重ねてみて、そして惹かれてるのかなって。
(本当はわかんないですけどね)

数年後、またこの曲を聴いたときには別の感覚を得るのかもしれません。わたしの経験が追加された分だけ。
子供の頃にテレビから聞こえて、なんとなく耳に入って聞いていた曲で、メロディーは覚えてる、そういう曲を大人になってカラオケで自分で歌ったりしたときに、その曲の言葉の美しさに気づく曲があります。そこで初めて、その曲を作った方、歌った方に注目する、なんてことあります。
だから、この曲も意味とかじゃなくて、旋律や言葉を音としてとか、なんとなく聞こえてればいいんだよなー、と思ってるところがあります。むしろそちらの方が、自分の経験が歌詞に加味される。

なのですが。
現時点のわたしは、詩から受ける意味の部分(わたしにとっての)を見ちゃったので、次回はそれを書こうと思います。

つづきます。



追記。↓

数年後、またこの曲を聴いたときには別の感覚を得るのかも、と先ほど書きましたけど。

まったく「年」単位じゃなかった!と気づきました。

ワクワクと「流動体について」のCDを買って初めて流して聴いたとき。
いいねーともう一度流して、2回目に聴いたとき。
TVを通して聴いたとき。
出演したTVやラジオに噛りついていたとき。
歌詞に意識が集中したとき。
そして今。

それぞれの今、それぞれのそのとき毎に、曲から受けているものがすでに異なっていたことに気づく。

おもろい。


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「流動体について」について。 - 2017年03月02日(木)

今回の小沢健二さんの新曲に関して、および発言等に関して書かれているブログをいくつか読ませていただいてるのですけど、いやあ、文章が上手な方が多くて、厚手の本を見ると燃えてくるような文章読みのわたしとしては個人的に超うれしいです。しかも、押しつけがましくない表現の仕方の人が多いように感じます。
(そういうブログしか読んでいないのかしら)

もちろん自分とは違う意見の方もいますが、あー、そこをそう見るのか、みたいな発見ができるのは、やっぱりおもしろいです。

「流動体について」の曲を自分はどう受け取ってるか、について、いいなーわたしも書きたいなーと思っていて、でも異常に長くなりそうで(その割にわかりにくい文章になりそうで)二の足を踏んでいました。

なのですが、書きたーい。

なので、わかりにくいままですがちょこちょこと書いてみます。
全部書こうとして、そしてちゃんとした文章にしようとして途方に暮れるので、ちょこちょこっとだけ。
(現在のところ、力が不足しております)


小沢さんが、この曲を短編小説みたいなものと先日表現されてましたけど、この曲を聴くとわたしは、歌詞の中のひとつの言葉や音のなりたちから、ある印象や体の感覚がそこから生まれてきて、それらがどんどんつながって物語ができる、みたいに感じています。


例えばここの部分。

「躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼」

すうがくてきっ、びてきっ、にさくれつするしんきろー!
声に出して言いたい日本語の部分です。

上昇してー(数学的)上昇してー(美的)、パーン!(炸裂する蜃気楼)

数学=美しさ。
美しさと美しさが重なってどんどん増していって、そうして上昇するのと共に弾ける「蜃気楼」。
「蜃気楼」は「幻想」のことかな?と受け取っています。
あるように見えるけど、ないもの。「神」の属性、例えば愛とか静けさとか、そういったものではない、これまで持っていた幻想が弾ける、「あ、わたしを苦しめていたものは、蜃気楼のように、あるように見えていただけのもので、実はなかったんだ」って気づく。


「彗星のように昇り」では、もう自分では何もしていないけど、慣性の法則みたいな感じで自然に昇って行く感じになっていて。

そしてその心地よい感覚をキープしたままで「起きている君の部屋までも届く」。
起きている、つまり、もう気づいている君(二人称。直に呼びかけられているということ。)の部屋、本当に身近な空間にまで届く。もう、遠くにあるものではなくて、すぐそばに。

自分の手元にある地上に降りたそれが、「もしも」と、また音階が上がって続いていくのだけど、音が上がりますがわたしの受けている印象では、そこからはぶわあって周りに草花が咲き広がっていく、みたいなものになります。
(知ってる方にしか伝わらないですが、「大神」というゲームの大神おろしのような感じで広がる印象)

これまでは荒野だった地上が、自分のいる地点からぶわあって花が咲き広がっていく。
それは気づいたから、それから、気づいたことから感謝が広がるから。


たぶん続きます。


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今朝の「スッキリ」見ました。 - 2017年03月01日(水)

今朝の「スッキリ」を録画したものを、仕事から帰ってきて視聴。正座視聴。正座しなければ、ではなく、気づいたら正座してた。
こんなにちゃんと「テレビを見よう!」としてるのって、久々の感覚。10代とかにはあったけど。
もちろん今回も小沢健二氏を見るための録画です。つまりはまだ引き続き、幸せの中にいます。
(疲れてきた・・・と思ったせいか、少し落ち着きました。それとも幸せになじんできた?)

小沢さんが言った「インプットが好き」という言葉。
反射的に、え!と思いました。
そして、それを考えていなかった自分に驚きました。
そりゃあ歌詞からも音楽からもインプット好きな人じゃないとできないものってわかるでしょうに、、、ここにわたしはズレがあったままで小沢さんを見てたんだなあって思いました。


超好きな今日の小沢さんの発言は、「勉強はすごく続いています、今も続いていますし。人間って自分だけで出来るものじゃなくて、周りの影響で出来るじゃないですか。」
ティク・ナット・ハンの言葉を連想しました。花は花だけで出来ているんではなくて、土があって、太陽があって、空気があって、そうして花になるんだよ、というような。

ひとつひとつ、小沢さんが話す言葉を聞くだけで、わかることがある。
番組内で「今の自分には不安がない」って言ってたけど、ほんとそうだよな、ってわかる。小沢さんが自分自身をどういう存在だとみているかが、わかる。それから、「今」を生きている人だなあって、わかる。そして、わからないってことがわかってる人だって、わかる。

小沢さんの使う言葉のひとつひとつから、本当にそれを証明しているように感じられるというか、もし仮にそうでなかったらあんな風に言葉を使わないし、不安がもしあったなら別の言葉を使うだろうし、それに、本当に心からそう思っているから自分の言葉になってる、とわたしには感じました。
思想や思いを語るという感じではなく、自然な、他愛ない言葉のやりとりでそれを感じられる、、、というか、他愛ない言葉のやり取りだからこそ感じられたのかもしれないです。
それらのことに、わあ、この人すごい!って、わたしは感じています。なにがすごいって、「テレビ」で見られてるのがすごい。一般に、大衆が触れるところにある。それがすごい。

ああ、いいな。

いいな、っていうのは、「わたしも、いつも、そうでいたい、そうなりたい」っていう意味の、いいな、です。
本当にはわたしは心からそう思っていないなって、小沢さんの話しているのを聞いていて感じました。小沢さんの話している言葉のようなところに行こうとはしているのだけど。
小沢さんの言葉は、小沢さんの言葉になっている。

番組の中で「聞き手に恵まれてる」って小沢さんが言っていて。
それに対しても、すごいって思ったんですよね。
人に聞いてもらうことのありがたさだったり、素晴らしさだったり、人が聞こうとしてくれる、耳を傾けてくれる、それってすごーく素敵なことで、感謝で包まれることなわけだけど。
あー、小沢さんはその感謝を持っているんだなー、しかも小沢さんの曲だったり歌詞だったりの「恵まれてる」と感じさせるような聞き手って・・・すごくない?すごく大きくない?すごくたくさんいない?などと思ったりしたので、意識がちょっと宇宙に行ってしまいました。

先日の日記に、わたしにとってはメロディーは少し違うものになるかもしれない、と書きましたが、「流動体について」についてのお話で、小沢さんが「このテーマはもっとゆっくりで酒場で歌うような曲かもしれないけれど、それをアップテンポにした」というようなことを言っていて、ああ、それそれ!ってしっくりしました。
こういう感覚の重なりがちょっと楽しいです。同じものを見てるみたいだなあって感じられて。

小沢さんの今回の一連を追っているうちに、わたしは自分が見たいものがどういうものなのかがさらにわかってきました。
ありがたいものです。

おかげさまで、まだまだ幸せは続きそうです。

今朝の「スッキリ」で、加藤さんって話を聞くの上手だなあと知ったのと、それから日テレのイメージがわたしの中で上がりました。


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