日記×エッセイ...みち

 

 

小沢健二ライナーノーツと自分。 - 2017年04月29日(土)

相も変わらず愕然とする日々が続いております。
自分、自分よ、、、

昨日、オザケンのライナーノーツの録画を見たのですけど、、、昨日も書きましたが2度目視聴だったんですけど、、、
その影響だと思いますが、わたしは気づいてしまいました。

「わたし、生活することを楽しんでなかったわ」と。
それほど自分がそこに興味が向かないことには気づいてたのですけど、自分の興味が向く範囲で楽しんでいこう、そういうこともしてなかったということに気づいてしまいました。そして、自分が興味が向く範囲って、わたしがこれまで思っていたほどに狭くもないってことにも気づいてしまいました・・・。
いやー。なにこれ。

まさしく「別のものを共有するための代償」、その言葉がわたしに染み渡ります。
共有するものの大きさを忘れてた!って感じ。

これまでわたしにとって生活することって、「やらなきゃいけないこと」でした。
こうして言葉で書いても、これを過去のわたしが読んだとしても、そうだけど・・・?ってスルーする表現しかできていないなって思うんですけど。

はたしてこの今のわたしの「やっべー。気づいちゃった!」感はどこから来るんだろう・・・。

なんでそれに気づいちゃったかというと、小沢さんが「TVで言える範囲で、自分のしたわるいことを教えてください」って問いに返した話からかもしれません。
「きちんと生活をして、ご飯を作って、やっていく」というお話。

その辺りのお話を聞いていて、「・・・あー、多分わたしも同じ(わるい)ことをする」って思ったんですよね。同じように「おもしろがる」と思ったんですよね。
そして、小沢さんとは規模は違うけど、「自分は確かにそれをしていた」と思ったんですよね・・・。

今、小沢さんがどうか、っていうのを見たときに、くっきり見えました。
その差みたいなもの、実際に経験していることによる説得力、昔TVで見せていた姿と今TVで見せている姿によって見せてくれているもの。

わたしは小沢健二が好きですが、特別ガチなファンというわけではなく、ライブも行ったことはないし、ここ数年の活動も情報は入れていてCDも買っているのですけど、生身の自分が積極的に参加する感じはなかったので、間、流れをほとんど知りませんでした。

で。
久しぶりにTVで小沢さんを見て。
わたしには過去の小沢さんの記憶しかなくて。
その差を埋めるものは得てなくて。
だからどこか、過去の小沢さん経由で今の小沢さんを見る、みたいな感じがあって。

CDが発売された辺りに出演されていた番組は、どこかその視点で見ていたような気がします。
それが、先日のライナーノーツを見て、「今の小沢さんを見てる」って感覚に移行しました。昨日はその感覚に移行してから初めて、番組を見た、という感じです。2回目視聴だけど、初めて。
昔の映像が流れても、今の小沢さん経由で過去の小沢さんを見る、みたいな感覚、それは少し前まではそうではなかったのでした。

この差を、今、おもしろいなと思っています。
今の小沢さんの口から出る言葉、姿に、ぎゅって引かれたのだろうな。
だって、まさに今のわたしの聞きたかった言葉ばかりだったのだもの。


...

つらつら - 2017年04月28日(金)

自分がこっちに行きたい、というのは明らかにわかってるのだけど、ずうっとその方向を向いていることができない、そちらを向いて受け取るということがなかなかできないなあと自覚中。

ループになっていて、「自分がコントロールしたいというのが外せない」「その割に自分でコントロールしたことが上手くいった感はない」というのをぐるぐるしてるなーと思ったり。

で、これどうすればいいっすかねー、と尋ねたら思い出しました。

あ、そうそう。
「自分で何かをしよう」としてこれまでは煮詰まるだけだったけど、一見逆だけど「自分が相手から受け取ってみよう」としてみたら、それで結果的に自分は何かを自然に相手にしてあげられてたりすることあるじゃん? 最近それを感じられることあるじゃん? と思いました。

これをしたい!という時はもうまっしぐらにそこに行くけど、これをするために具体的に何をする?というのがわたしには難しい。
自分にとっての理想、目的ははっきりしてるんだけどねえ・・・。

具体的にどうするかっていうのをこれまで自分で考えようとしてたけど(そして基本的にわたしの興味がそこにないので、案の定何もいい案がでない)、それならここをみんな任せたらいいんじゃね?みたいな考えがちらほら出てきました。
外注外注!せいれいさんに外注ですよ。(正確に言えば「外」注ではないかもしれませんが)

そうしてたら、自分で考える、ということの、わたしにとっての変な価値の高さに気づきました。
あー。
なんかこれ、自我が、ひらめきとかさ、そういうお風呂に入ってたら降りてくる的なものを、自分の手柄にしたっぽい。
そういうふうに執着するのか。




あることに関して、久々に恐れが来ました。
それは、すんごくなじみがある恐れで。
今は体調がだいぶ回復してるので、恐れた時に相手の言動のせいにするというよりは、よし!これを見るぜ、ということが、それが起きたリアルタイム時にしやすいです。
体調がよくなかった時期も見ようとはしてたけど、リアルタイムではできなかったというか、体の感覚は味わわないようにして見ようとしていたなあということが、今振り返るとわかります。
(その時は、自分はできてると思ってやってます。「できてるつもり」とも思っていない。)

これの何が怖いんだ?と、その恐れの体感、ひやーっとした体感を感じながらその質問をしてみました。
一緒にその恐れと、同じ時間を過ごしてみます。

わたしに恐れが出たのは、
「先に忠告をした。自分はこの先それに関して何かが起きても参加をしない。」
というような意味合いの言葉を聞いた時でした。
なんてことない内容です。わたし個人に向けて言われたわけでもありませんが、それに対して恐れが出ました。

それの何に恐れたかというと、「他の意見は人でなし」みたいに聞こえた言葉の響きに対してでした。
その人は正しいことを言っているのだけど、そうしない人の人格を否定するような言い方をしていて、それに対してわたしは恐れたようでした。
自覚なく、警告することに人の恐れを使う、その感じに対してわたしは恐れました。
(たぶん、自覚がある人に対してはこの恐れは出ません。反発はしそうですが。)

ちなみに、その警告はその後に別の人を通して言葉にされたのですが、すんなりと「こうしましょう」とだけ翻訳されました。
そこから受ける印象の差にわたしは笑いたくなってしまいました。
そこには恐れがありません。

で。
改めて考えてみるとそれの何が怖いのかわからなくて、しばらくわたしはなんだろう?なんだろう?とやっていたのですが、どうやら、人格を否定されることに恐れたみたいだ、ということが段々わかってきました。

人格。
エゴが攻撃されたと受け取ってしまいやすい状況になってたってことかな。
にゃるほど。
ACIM的に言うなら、「わたしが攻撃されることはあり得ること、ということを信じていた」ってことですね。

ちなみに、今日のLessonは110でした。

I am as God created me.
His Son can suffer nothing.
And I am His Son.

これに気づいてたらどうなるか、観察します。



小沢健二のライナーノーツ(Love music)の録画を見返しました。
小沢健二について話している方々やそのVTRを受けて話す小沢健二の言葉、それから表情を見落としたくなくて、何かをしながら見るということができないことが1回見てわかったので2回目なかなか見られませんでした。

聞き手に恵まれている、って小沢さんが言ってたのがよく理解できた感じ。VTRで話している方々がまず素晴らしい。すごく当たり前のようにさらりと話してる、そういう、内容というより「そもそもこう思ってるからその言葉が出る」みたいな感じにわたしはとても栄養をもらいます。

2回目見て書き留めたのは、

・別のものを共有するための代償
・「しばし別れる」という歌詞からの死生観
・(上手いとか下手とかわからなくて、という言葉から続く)歌うことの目的
・マイク → とらえるもの

岡崎さんのことを話すときの言葉の選び方の繊細さとか、「さよならなんて云えないよ」「ある光」についてのこと、、、すべてにわたしが反応するのを感じます。

歌うことの目的については、わたしが今考えていることととても重なるのもあって、わたしの内側から動かされます。

1回目に番組を見た時はぼろぼろ泣いて、2回目見た今日は泣かなかったけど、こうして思い返しながら書いていると、じんわりじんわり、わたしの心にどんどん響くのがわかります。


...

つらつら - 2017年04月27日(木)

4月に書いた自分の日記をちらりと読み返していたのですが、4月といわずACIMのワークに取りかかり始めた1月辺りから読み返したいと思いました。
なんか流れがあるぞと。
流れ全体を見たいなと思いました。

今月に書いたばかりの日記なのに、うわあ・・・って自分のマインドに自分で引く感覚が出てきたりとか、「あ、そうか。このときはそう思ってた。」と今の自分はそう思っていないということに気づいたりとか、自分だけど自分ではない感じがありました。今のわたしと少し前のわたしとの間に空間がある感じ

なので、今の自分と少し前の自分は関係性として関われる、お互い交流ができる、と思いました。
同じだと、わたしはなにも疑わないなあって。

それから、腰と下腹部がまだ不調?というか、動きがある、痛みがあるという感じなのですが、それを感覚していたら、わたしはずっとお腹に、腰に、力みがあった、これは自分が望んで緊張させていたんだなって感じました。
(そして、あー、よく聞いたことあるーこういう言葉ー、これかーみたいなことを思いました)

うーん、お腹辺りを緊張させることで、感じたかったものを得ようとし、感じたくなかったものを感じないようにしてた、みたいな印象です。
もう緊張させなくていいんだなー、緊張させることで得ようとしてたもの、得ないようにしてたものに、もう興味ないやー、別のやり方を知ってるし、そういう感じもしています。

「これのこと!」「わたしはこれを感じたかった・感じたくなかった!」「別のやり方っていうのは、これ!」ってビシーッとわからないのですけど、あー自分がそうしてたなあ、そうしてるわ、という感覚を感じられます。

今も鍼灸に頻度よく通い続けていますが、体が楽になっていく感覚と、こうして自分のしていた考え方・やりかただったりに気づいていく感覚とが一緒に進んでいる、一緒のことを進めている、そんな感じがしていて興味深く感じています。
体の感覚の変化と、自分の考え方の変化とがマッチしてる感覚なので、体だけどうにかしようとしたりとか、理屈だけでどうにかしようとしたりとか、そういうところから離れていて、「記憶しておきやすい」「わかりやすい」「そうだなあって感じやすい」、そのような感じがします。

お世話になっているのになんですが、「鍼灸が」いいというより、「体に適切にワークしながら体の変化を観察する」「マインドに適切に関わろうとしながらマインドを観察する」、そういったことを同時に進めることで現れているように感じます。

あと鍼灸を受けていて思うのは、少しの恐れ、を使ってるのかなって。
わたしは特に鍼が怖いというのはないのですが、鍼を置いたところにもよるのですけど、体の反応として少しの恐れの反応をするなあって観察していて(例えば、手足の温度が少し下がるとか)、そうしてその後その場で、あるいは家に帰って少し血流をよくして手足が温かい感じになって、ということをしていて。
だから、体から感じるそれらの感覚を使って、恐れに対応する練習をしているような感じでもいます。


数年前に購入した性格診断本を読み返しました。
購入した当初は、わたしISTP型だわーと思い、少し時間が経って読み返したら、あ、違うわ、INFP型だわーと思い、昨日読んだら、INFJ型だ・・・と思いました。
また変わるのかしら・・・。もともとの性格は変わらないと書かれていますが、わたしは一度自分がよくわからなくなったというのもあって、自分ではないものを身に着けていった感じかなと。だから前の診断とは変わってるというのはわかる気がします。
「これが正しい、こう思うもの」というのが剥がれてきた感じです。

診断テストがあるのですが、そこに書かれている言葉の意味の取り方をこれまでとは少し違った意味として捉えていることも感じます。
前に「わたしはAを重視する」と思っていたことが、実は「Bを重視してるからAのような行動になっていただけで、Aがわたしにとって変わらないものではないな」ということに気づいたり。

動かないのは「I」だけですね。
Iは内向型という意味です。
外向(E)か内向(I)、五感(S)か直観(N)、思考(T)か情緒(F)、決断(J)か柔軟(P)、こんな感じで分けられています。

内向型というのは、良くも悪くも疑いようがないのだけど・・・。
でもこれも「今のところ」だったりしたらおもしろいな、と思って外向型の診断テストの文章を読んでみましたが、あれ?と思ったところがあって(笑)やっぱり以前と言葉のとらえ方が変わっているなとここでも思いました。

わたしはいちばん最初に、自分はISTP型だ、と思いました。
今現在、自分はINFJ型だ、と思っています。
そう、I以外全部ひっくり返っているんです。真逆のものに。
そして、その最後のIも、確かにその表現をしているのだけど、今、自分が興味を惹かれているのは外向型のほうに書かれているようなことで、、、

いやあ、ちょっとおもしろくなってきましたよ、と思いました。

内向・外向の部分は、わたしは子供の頃から「おとなしい」と見られているし、外向的な人っていうとああいう感じの人でしょ?と思い浮かぶ人物像とわたしはかけ離れているので、そこは動かないと思いますが、性格タイプが自分の正反対のタイプの説明文に対しての自分の感覚、捉え方がほんとうに変化していることが感じられました。
単に、どちらかを足場にしてるってだけで、どちらも使うものだなあという。


...

ACIM Lesson108 「与えることと受け取ることは、真にひとつです。」 - 2017年04月26日(水)

To give and to receive are one in truth.

私がいま与えているものを、受け取ることになる。
I will receive what I am giving now.


今朝、このワークを始めたときにパッと思ったのは、「win-win ってこれか」ということでした。

先日、職場の人事考課があって上司と話し合いをする機会がありました。
わたしは自分のことを話すということが苦手なのと、それから物事の考える傾向が上司は現実的であり、一方わたしのほうは世俗のことに興味が向きにくいということで、自分が言いたいことが伝わるように話せるかどうかに不安がありました。

とにかく「上司の話に耳を傾けよう」と思って面談しました。うまく伝えようという考えはどこかへやりました。うまく伝えようとすると体がかたくなるのがわかるので。
面談の最中も、話を聞こう、耳を傾ける、と思いながらそこにいました。

自分の言いたいことが伝わりにくいところや、物事の受け取り方が異なるところも多く見ましたが、それだからこそというか、少なくともわたしにとってはとても有意義な時間となりました。
自分の不得意なところ、見えにくいところ、それらを、それが得意な人の眼鏡を借りて見せてもらえるみたいな感じです。マインドを借りるっていうのかな。
だから、自分のこれからを思うときに、とどまっていたものが除けられ、道が開けた感覚がとてもしました。

なので、「上司の話に耳を傾けよう」と聞いていたことは、自分が受け取った、自分のものとすることができた、もらえた、そういった感覚を得ていました。
そして、なんだかそれだけではなくて、それと同時に「相手に与えることができた!」という感覚もしました。

その時は、ただ「相手の話に耳を傾ける」ということしか思っていなくて、「受け取ることは与えることとなるよ〜」とか、「わたしは与えるぞー」とか、そういうことは考えていなかったのですが、感覚として、「あ、贈り物をあげられた」って感じました。
なんでそう感じたのかはわからないのですけど。

そういったことも今朝思い出しました。



「与えることと受け取ることは、真にひとつです」

今朝思ったことから、自分が与えたのに自分が得られたような感覚を感じることもあるし、受け取ろうとしたのに自分が相手に与えることができたように感じることもあるなあ、と確認したのですけれど。

おもしろいのは、与えようと思ってるのにお互いに減るばかりと感じることもあるし、受け取りたいと思っているのに全然手に入らない、むしろ減る感覚しかない、みたいなこともあるなあ、ということです。

さてと、何が違うのでしょうか?
言葉でいうと簡単すぎる答えだけど。

それぞれの感覚の違いにそれぞれの別なものを与えようとしたり受け取ろうとしたりしてる感じなんだなあ。

今日のワークの文面は、皆に平安とか優しさを「差し出す」「与える」、そういう感じだったのに、自分が「受け取ろう」としたことから感じられたことを思い出しました。

そしてその「受け取ろう」としたことから感じられた感覚が、「与えよう、差し出そう」とした時と同じ感覚がする、ということにさわれたというか、さわってみたら同じだった、とわかったというか、今日はそれらがおもしろかったです。


...

ACIMにっき - 2017年04月25日(火)

今日はLesson107「真実は私の心のなかの過ちをすべて訂正する」
Truth will correct all errors in my mind.

今日のワークをしていると、ああ、昨日はわたしは暴言でした、と思いました。
心地いいけど、イメージの産物ではないもの。
訂正いたします。

「錯覚を訂正できるのは真実だけではないだろうか。」
今日のワーク本文に書いてありますが、本当にわたしは錯覚を見ていたなと、ことごとくここ最近思っています。

相手の話を聞こう、何を言おうとしているのかを聞こうとしていると、だんだんとわかってきます。
相手が、相手の言おうとしていることが、ということもですが、「どうしてわたしが相手の話を聞けていないのか」ということもわかってくるなあ、と思います。

それは頭でわかることが最初なのではなくて、ふとした瞬間にお互いがつながって、お互いが同時に、あ、これか、ってわかる。
つながったことで、どうしてつながっていなかったかがわかる。

つながる前とつながった後。
本当にひっくり返ってしまう。
自分ひとりだけで学ぼう、瞑想しようとしていたのでは時間がかかる、と先日ジャックさんに教わりましたが、そのあと普通に日常を過ごしていても、それをとても実感します。

自分でね、行けないんですよ。
そこに行きたくても、どうして行けないんだろう、行こうとしないんだろうって考えたりしても、自分ひとりで行けないんですよ。もっと言うと、何が起きているかわかったとしても、行けないんですよ。こうすればいいってわかっていても。

それを、あっさり、あ、踏み出しちゃった、みたいなことになるのは、「誰かと一緒に」共有するからなんだなあ、って思います。

週の初めは、わたしにとって意外なところから、自分がどう思っているのか、何を望んでいるのかを気づかせてもらえました。
自分が何を望んでいるかって、当たり前だけどわたしは知っています。
だけど、忘れちゃうんですよ・・・もう紙に書き出して貼っておこうかと思うくらいです。

そして、そうした共有すること、誰かとのやりとりから生まれることを「真実」と呼ぶのなら。
そう思ったときに、今日のワークを読むと、それはとても腑に落ちるものでした。

「真実は私の心のなかの過ちをすべて訂正する」

わたしがこれまで持っていた、それに対する誤った考えがすべて訂正されていくのが感じられました。
今日、わたしにとってこの文は、それを認識できた言葉です。



「そして私は、私の真の自己に望みを託すことにする」
And I will rest in Him Who is my Self.

よろしくお願いしまーす。




今日わかったこと。

その1。
自分の本気さと行動とが合っていない!
8年前に言われて怒りが出たことを、別の人に先日言われました。あ、繰り返した、と思いました。
今回は怒りが出なくて(だから繰り返しに気づけたとも言えますが)、「ん?何を言ってるんだろう? そうか、わたしはそう考えていないんだなあ。なんでこの人はそう思うんだろう?」って思いました。

で。

わたしは考えていることと目に見える行動とがかみ合っていないことにも気づきました。
そこに葛藤はないのですが、どうもわたしの思い込みからそうなっているような気がします。
こうと思ったらそっちしか行かないもんなー。

ということで、思い込みに注意・・・してるつもりなんだけど、この有様なので、思い込んで訂正して、それを繰り返すしかないなというあきらめにいます。

そうしたら、「意気込みと作品は別」という記事が目に入りました。
あっ、ハイ、その通りで。
うーん。そういうのはどうすればいいので?
と尋ねてその記事を読んでみたら書かれてありました。

大切なのは、伝わるかどうか。(理解してもらえるか、ではなく)
心が動くかどうか。

ああ。
すごいわかる。
わかるし、そういう感じをまさに望むのだけど(そして理解してもらおうとする罠によくはまるのだけど)、それはどうすればいいので?
頭に浮かんだものを文字にしたら、わたしの言語化が適当でない感満載でした。仕方ないので、これもふわっと持っておこう・・・。
これまでわたしがやったこととおなじことを、違うようにやる。
(ヒントとして書いても、適当でない感満載だけど書いておかないと忘れる・・・)


その2。
自信がないわけではない。
ある面では確かな自信があり、ある面では自信がないのは当たり前であまり問題ではないので理由にしていません。
わたしが留まるのは、簡単にぶれるからなんだよなあ。それを恐れる。
本当に、紙に書き出して部屋の壁に貼っておくべきなのかもしれないと思っているところ。


...

ACIM Lesson106 「静かにして、真実に耳を傾けることにしよう」 - 2017年04月24日(月)

現在、おとといからの続きで自分自身に対して怒りや悔しさを持っているからか、それとも体調回復のおかげかわかりませんが、「これと同じシチュエーションの時に、以前は相手の人にムカついてたよね?」なーんていうことに全く自分が反応していないことに気づきます。

今、それどころではない。
同じようなシチュエーションで怒りどころか、「物事ってそういう風に動くよね」と納得したりとか、むしろその人の思っているわたしのほうがある部分ですごく上等で、「そうだったらよいけどなあ」と思ったりとか、変な話そういうことしかなくて、興味がそちらに行かないというか。

わたし、自分に対して怒るってあまりないのですよね。一般的にはよくあることなのでしょうか。
罪悪感は持つことあっても、誰かに怒りを感じることはあっても、自分に対して怒り・・・ないんだよなあ。

自分を責めるとかでもないから、なんか怒っている時の熱い感じはあるのだけど気分としてはすっきりしてるし、体が痛くなるわけでもないし、なんか元気いっぱい!みたいな感じもあります。

で。
今日のACIMのワークはLesson106。
「静かにして、真実に耳を傾けることにしよう」
Let me be still and listen to the truth.

怒りでうるさい(?)のを静かにして耳を傾けて、また湧き上がってきたものを静かにして耳を傾けて、というように今日は進めました。

「今日、私は神の使者であり、私の声は私が受け取るものを与えるための神の声でもあります。」
I am the messenger of God today, My voice is His, to give what I receive.

別にこの文章について扱ったわけではないのですけど、一昨日にクラスを受けたことで、この文がこれまでとは別の感覚で読めます。

これまではもっと、「想像上のもの」じゃないけど、自分でその様をイメージをしてそこから心地よさを受け取る、みたいなそんな感じというのか。

今日はなんかもっと手に触れる感じが強いというか、
「それがいちばん近道なんでしょ!わかってるってば!やるって!」
と、まるきり八つ当たりで返すみたいな、そういう感覚でした。

それにすーっごい近い感覚はすぐ思い出されて、子供の時、やらないとなーとわかっているけど始めずに他のことをやっている、そういう時に親に「やったの?」と聞かれた時の反応です。
まんまだなー。

こういう状態のわたしをどう連れて行こうかね、子供の頃のわたしはどうだったっけ?と思ったので、ネットで検索してみました。
いくつか読んでいちばんしっくり来たのはこの記事。

「今やろうと思ってたのに」を聞いたら子どもの成長を逃したサイン

主体性の現れ・・・わかる気もします。
さて、自分を育てよう。


...

昨日の続き。 - 2017年04月23日(日)

昨日のクラス参加の影響は、今もまだ消化中ですがだいぶ進みました。
ずうっと謎だったことがわかった、ずうっと欠けてたピースがはまった、そんな感じがします。

たとえ、
心が優しくても、
知識を得ても、
経験があっても、
愛することから逃げていたり、愛することを馬鹿にしていたり蔑んでいたり、それでは何も意味がないと思いました。
いいえ、意味がないとかではなくて、それはもはや「私」ではない、と思いました。

わたしは知識を得て、それを経験で確かめるというやり方をします。
でもそれだけではダメだったんだなと。
そのやり方を特に今はやめる気はないけれど、これまでは忘れていたこと(愛するということ、自らそれを求める能動的な)を含めた状態でそれをしようって思います。
そういったことを、ACIMで知識を得て、経験することでわかりました。
すごいわ。寄り添うってすごいわ。ACIMに寄り添われている。

わたしは、フィジカル的な愛と「私」からの愛とが混ざり、フィジカル的な愛からの痛みを「私」からの愛の痛みのように思い、そうしてわたしは愛することをやめました。
やめてはいないか。でも、とてもとてもそれらを薄めました。

ある時にわたしは、「(愛することで)こうはなりたくない」「(愛されることで)面倒になりたくない」と思いました。
それは気づいていました。

で、今回、「愛することをなくして、つまりは本来の自己から外れていたこと」に気づいてから改めて「こうはなりたくない」「面倒になりたくない」それらの思ったことをみてみると、、、
ずうっと愛を忌避してきたわたしにとっては、たとえ間違った方向に行ったとしても、尊敬をもってそれらを見ることができると感じました。
なぜなら避けていたわたしにとって、そこは行くことすらできない場所だったからです。
間違えたいわけじゃないですけど、忌避感がなくなったって感じです。

興味がない。
それはこういう風に気づきがあっても変わらないのだけど、興味がないからといってそれを蔑む、分離する、そういうのはまた別のことだよね、と思いました。
逆のことも起こってたことも理解しました。放っておいてくれていいのに、なんで人のことにまで口出しするのかな?と過去に思うことがありましたが、それはその人にとってわたしの生き方は興味が出るものではなかったから、なのかなって思いました。
自分の見たいものを見たい。人にも自分の見たいものを見てほしい。自分の見たいものを見せてほしい。同じものに興味をもって共有したい。
そうだよなあ、と。
強要してはいけないとか、個人的なことだとか、そういったいろいろな考え・ルールみたいなものを考えるのだけど(全体が流れることを優先する思考回路なので)、それと同時に「そうだよなあ」って部分も持っていたいなと思いました。

愛は、得るもの、奪うもの、与えられたら相手は失うもの、与えたら自分からなくなるもの、自然にいつかはなくなるもの、、、
そう思っていたなあって、超自覚しました。
そうね、フィジカルなことのお話ね。

表現していること、表出していることだけを直そう、ただそうとしても、まあ直らないしすぐ戻るし、わたしのように本人に興味がなかったりします。
でも、その根本になるものを見ることができた、その時には、本当に話は別になるということもわかりました。

人に指摘されては、これを見ることはできない。
自分の言葉を聞けて(聞けるようにサポートしてもらって)、そうしてそれを自分で見つけるから、見ることができるんだなあ、、、と自分の経験を反芻しながらしみじみと消化中。

おもしろいのはですね、反応する体の部分ってのはちゃんと第2チャクラでねえ。お腹が張って仕方がない本日です(笑)
愛、関わり、関係性。
納得と共に感覚しています。


昨日、東京までの道中で読もうとkindleにDLしてた本がありました。それは「7人のシェイクスピア」というマンガでした。
超おもしろくて、これまでシェイクスピアを読んだことがなかった(愛とかだからね)のですが、言葉の美しさと心の機微の繊細さの言語化にメロっと来ました。
物語(ロミジュリとか)への興味はやっぱりないのだけど、ソネット集読んでみたい!とマンガを読んだことから思ったんですね。
で、その流れでこの感じなので、・・・予告?というか、同じテーマがいっぺんに来るね?って感覚です。
お見逃しなく!ってことか?
(kindleのおすすめに現れたときは、ACIMだからシェイクスピアなのかなー程度に受け取っていましたよっと)
相変わらず意味づけが好きなわたくしです。

ソネット集は今日買ってきまーす。


...

ACIM集中クラス「関係性とヒーリング」に参加してきました。 - 2017年04月22日(土)

久々にこの感覚を味わいました。
今回のクラスを受けている最中に、気が重くなりました。ずっしりです。
久々で、喜んでる自分もいますよ・・・
(自分だけではなかなか気づき難いことに気づけた、ということがわかるので)

わたしは自分を、もう少しマシだと思っていましたよと、そんな本日でございました。

今日は、他者との関係性ということでテーマがあって、それにそってお互いに傾聴しあうというワークをいくつかしました。
そこで、今まで全く認識してなかった・・・わけじゃなくて、確かにそういう部分を自分に感じていたし、そこが自分に対して気になっていたところではあったのですけど、それを目に見える形にして認識できたのは今日のワークが初めてでした。
(これは別に必要ないことですが、わたしは話を聞いていただく時に自分の状態をノートに図で書いて、自分で整理しながらお話ししたからです)

それでわかったことが、わたしの想定してた以上にひどかったと・・・
そういうことが、明らかになった本日でした。

どこか一部だけをそうするというのではなく、本当に全てに適用させてしまうのだなということもわかりました。
そしてそれをわたしは「他者」だけではなくて、自分自身、真の自己に対してもそうしてるんだなって思いまして、、、もうね、「こりゃだめだ!」って思いました。
なにが「こりゃだめだ!」なのかというと、わたしはこれまで「自分自身のため」にやってきたからです。
散々、一生懸命、自分自身のためにとやってきて、それがこれかよ!って思ったんですね。お話にならない。

今気づきましたが、講義中にスピリチュアルな学びのために行う3つの方法(やり方)というものも聞きまして、それの時間のかかるやり方というのをわたしはこれまで好きでやってきたんですけど、それがしたいから好きでやってきたけどさ、時間対効果でこれかと身をもって知りますとなかなかあほらしくなりますな。←若干すさんだ
納得!
ほんと、だめ!
(だいぶ時間は費やした)



これまでもジャックさんのクラスで傾聴するワークは何回も経験してるし、月1で仲間で傾聴し合う時間を取っているのですけど、そうなんですが、今回自分が傾聴する側の役をやって、自分がやりたいこと、今の自分が学びたいことがすごく見えました。

これまでもその学びたいことについては、ずっと持っていました。
それはこれまで全然ハッキリとはしていなくて、自分に対して「違う」って思ってたというか、それを誰かに指摘されたりしたことはないのですが、自分自身が「こうじゃない」ってずっと感じていました。
わたし自身が、これではだめだ、って感じてたんですね。

そういう感覚があるからずっと解決をしたくて、ジャックさんに質問をしたこともあったのですけれど(結構長く持っています)、質問の焦点が自分でつかめていなかったので別の答えが来るし、その答えはそれはそれで自分にとっては取り組むことでもあったから納得してやるわけで、でも本当に聞きたかったことの答えじゃないから、「違う」ってことをまた感じるということをしていました。

それが今日わかったんですよね。。。

いただいたテーマがあって、それに沿った自分の話に傾聴してもらって気づいたこと、それから相手の方の話を傾聴する時の自分に感じてること、そのふたつが合わさったから、わかったのかもなと思います。

どちらかだけの経験では、つながらなかっただろうなと思います。

そしてまたGW開催の参加クラスで「ヒーリング(他者)」だよ。
自分で申し込んでおいてなんですが、ハハハって感じー(白目)


...

つらつら - 2017年04月21日(金)

明日、ジャックさんのACIM集中クラスに参加してきます。
明日のテーマは、「関係性とヒーリング」。
たのしみー。



今日、仕事で10年振りにお会いした方がいました。
当時その方は営業さんだったのですが東京へ異動になってしまい、もうお会いする機会はないと思っていました。
だから、もう10年振りに今日お会いした時、とても驚きました。
(また部署が異動になって戻ってきたのだそうです)

その方に対する記憶と共に、10年前の自分も思い出しました。すごく新鮮です!
今日、今のわたしが接したわけですけど、10年前のわたしもわたしのどこかに保存されていて、その頃のわたしも今のその相手の方に接していました。
今の自分が被っているものが脱げたというか、、、10年前に着てなかったものを今着ていて、今着てないものを10年前には着ていたな、みたいなのがあったり、でも共通なものもあったり。それらが皆、「ご無沙汰しております!」ってあいさつした感じでした。



人に出会い、別れて、また出会い。
今出会っている方たちとも、過去に出会った方たちとも、将来で会う方たちとも、こうして繰り返しているのか、と思ったら、、、幸せだなあって思ったんですよ。

今日のコースのワークは、Lesson103。
「神は愛であり、そして幸福でもある。」
God,being Love, is also happiness,

God = being Love = happiness という式。

「その幸せを、わたしは今日求めている。失敗することは不可能。なぜなら私は真実を求めているから。」
And it is happiness I seek today.
I cannot fail, because I seek the truth.

今日はよくできました。
本当に、失敗しませんでした。幸せだなあって思いました。
いつも難しかったこともやってみたし(そして上手にできたし)、今日は本当によくできました。


...

ACIMにっき - 2017年04月20日(木)

今わたしはどんな感じか。

立て続けに同じような内容の情報が、全然別の方向からわたしの目に入ってくる感じがあります。
それらの情報を見て、わたしはこういうことを求めているのだよなあ、と思えるうれしさ。

今のところは残念なことに、それを言葉にしてしまうと全然違うものになってしまいます。というのは、解釈をわたしはちょっと間違うんですよね。
なので仕方がないから、ふわーっとさせたままで、でも忘れないように例えば「この記事を見た」とブックマークしておいています。
そして意味をつけずにその感覚だけ持っておく。

それらには、自分の求めていること、やりたいことの大元を見せてもらってる感じがしていて。
抽象的にさんさんと輝いています。
具体的にはそれはどういうことだ?とわたしはよく思いがちなのですが、試しに思わないでみようかなと、ちらっと思っています。というのは、意味づけしてずれることにはもう飽きてきた、というか、、、
抽象的な方向を見たまま、そこで思いつくこと、当てはまることをしてみるのもいいかもなーと思っているところです。

今日のワークはLesson102だったのですけど、朝はイキイキと始まり、だんだん失速をし、夕方には肩凝った・・・みたいになりました。
まだ難しい、ですね。
ですが最近、つい1人でおもしろくなっちゃって吹き出しちゃいそうになってごまかす、みたいな感じがよくあります。

例えば、嫌だなーモヤモヤ〜ってしたときに、その日のワークを思い出してみるわけです。
そうすると、、、なんなのかな、この感じ。
客観的っていうとその言葉はしっくりこないのですが、テレビ番組を見てるみたいな感じで自分と相手の様子を見てる、そんな感覚に似ています。

そして、
なんでわたしはこんなに嫌がってるんだろう!
っていうのと、
なんで相手の人はこんなにわたしに構うんだろう!
っていうのとが、疑問や不満からの「なんで?」ではなくて、それぞれがやりたいことをしていて、価値観があって、それがかみ合っていないのがすごく見えて「なんで?」になっています。

「なんで、かみ合ってないままで、お互いそれをしているの!」って。

そのゴリ押しで、なおかつなにも動かない様がすごく見えて、そういうことにおもしろくなって吹き出してしまいます。

その日のワークを思い出すと、そこをベースにしてもう一度同じものを見返す、みたいな感じになります。
そうすると嫌でモヤモヤしてたものがコメディーになる。。。
世界観って、物語には重要だなあってしみじみ思います。


わたしは漫画をよく読みますが、時に「うわあ・・・全然共感しない〜」みたいな漫画も「好んで」読みます。
それに似ているなーってとても思いました(笑)
ほんとに似ている・・・。好んで見てますよ、ほんと。


好きじゃないのにおもしろい。
わたしは、自分の好きなものに時間をかけたくて、「時間がない」とよく昔から思いがちでした。
それが、好きじゃないものもおもしろくなってきたら(完全におもしろいわけじゃないのに)、なんと!時間が増えました。

どうやら、その瞬間瞬間を感じていないから、モヤモヤの時間を自分の時間として感じていないから、「時間がない」って認識してたっぽいです。
(年を取ったら時間が早い、っていうのの仕組みってこれなのかしら、とか)


なんか最近おもしろくて、普通に生活してるだけで細かくいろいろ気づくことがあるのですけど、こうやって日記を書く頃には忘れてるので覚えているものだけ書き留めておきます。


...

ACIMにっき。 - 2017年04月17日(月)

紫のACIMを読んでいます。
英語なので、全くもって最初のほうです。

そこに、「些細なことは私に任せるように、あなたは私にそれを頼むことを忘れないように」というようなことが書いてありました。

ちょー忘れるんですけど!

それに、「些細なこと」って認識すらすっぽ抜けることも多いなあと思いました。
もう、わたしが抱きかかえているものって些細なことばかりだなあと。。。なんだかなあ。
せいれいさんに頼んだとしても、それを「些細なこと」って思ってなかったりするなあ。

ということがわかった、という日でした。


...

ACIM Lesson98 「私は、神の救いのためのプランの私のパートを受け入れます」 - 2017年04月16日(日)

I will accept my part in God's plan for salvation.

昨日付の日記からの流れで本日のこのワークなので、ちょっと重い!と感じました。

mjd?という。。。

わたしは理想が高く、自分ができもしないのに理想だけ高い、みたいなことを自嘲的によく思うことがあります。
「今の自分」ができないってだけなんですけどね。

単に今の自分ができていないことを認めて、どうありたいかを見て、そうしたら自然と今やることは見えてくるのかなって思いました。(難しいけども)
今できることで、今やってみたいこと。その先に続きたいのはあれ。それなら、今することは何かしら。自分に問う。そして、自分がやりたくないのは何だ?と問う。

「私は、神の救いのためのプランの私のパートを受け入れます」

時間をかけよう、と思いました。
本気でやるのだったら、やりたいことに関してはそれだけ時間をかけるものだ。というか、自然に時間はそれに使うことになるものだ。
目先の時間や見えることを見て焦らなくても、自分が望むことにつながることは自然にやっている。やってしまっている。大丈夫。

自分に甘いかもしれないけど、甘くないと絶望しかない(笑)ので甘々で行ってみよう。

まあ、甘くしても辛いような気もするしな。


...

(睡眠時に見た)夢とかの話。 - 2017年04月15日(土)

今日見た夢。

ベランダにわたしがいて、開けた戸を挟んで室内にいるAさん(男性)と話していました。
「こんなことをしゃべっていたら〇〇さんに呼び出しをされるんじゃない?」と笑っていたら、窓越しに〇〇さんのシルエットが見えて、あ、本当に来たよ、ってAさんに教えました。

「Aくん、みちさん(わたし)、ちょっといい?」と本当に呼び出されました。
Aさんとわたしという組み合わせで呼ばれるということに検討がつかず、もやーっとしながらついていくと、大きな部屋に小さなテーブルがいくつかある場所に連れられて行きました。

そうして、「みちさんですね、こちらにどうぞ。」と案内されました。(わたしの案内人のビジュアルは市村正親さんでした)
周りを見ると、ひとりずつひとつの小さなテーブルについています。わたしも、小さなテーブルを前にして椅子に座りました。
小さなテーブルの上に、スープが用意されています。これを試食してほしいのですよ、と言われました。

〇〇さんが現れたので、「それならそうと言ってから連れ出してくださいよー。なにかわからないからいらないドキドキしたじゃないですか。」とぶーぶー言うと、〇〇さんは笑っています。ずるいくらい憎めない笑顔。

ひとつの皿の中に、左側と右側とでそれぞれ違うスープが入っています。それぞれ味わいたいので混ぜないように気をつけて、まず左側のスープを飲みます。
腸詰状のお肉と、お野菜と、金柑よりも少し大きいサイズの見たことない柑橘が半分、カットされて入っています。
このスープが超うまい!やばい!

こ、これは、、、!と思って、右側も食べてみますが、、、右側はそれほど私の好みにはフィットしませんでした。
おいしくないわけではない、、、たぶん。これを好きな人はいるだろう、とは思えます。
アプリコットやとろとろピーマン、底には大きな切り身のサーモンが入っていて、材料のひとつひとつはおいしいのですが、スープなのか何なのか、後味が何というのか好きじゃない。
スープの見た目は、右側も左側もあまり変わらない感じなのに、こんなに違うのだなあ、と思いました。
(ちなみに、個々の材料としてだと左側のスープのほうはあまり味を覚えていません)

で、初めに話していたAさんと合流し(その頃のわたしやAさんのビジュアルは最初とまったく違っています)、なにかみんなでお話を聞くような場所で前を向いて椅子に座っています。
Aさんのお姉さんがその場に何人かいて、ひとりのお姉さんは旦那さんと来ています。とても疲れているみたい。

Aさんのお姉さん夫婦のお部屋に伺うと、到着したとたん旦那さんはベッドに倒れこんで眠ってしまいました。
お姉さんと3人で話していて、何かをお姉さんに話したときに、Aさんとお互いに「あ!私たち同じ夢を見てた!」って気づきました。「わあ!すごい!わたし、こういう経験したの初めて!」と喜びました。

お姉さんは、自分の顔に、自己治癒できるフィルムを薄い皮のように貼っていました。
それを見てAさんは、それは根本的には使えないよ、元のところは疲れたままだよ、と言い、わたしもそれに同意はするのですがAさんがそのまま言葉で説明を続けるのを聞いて、これはいけない、と思ったので部屋から連れ出しました。
わたしもよくそうなるのでやばいと思いました。
部屋から連れ出した理由は伝えませんが、Aさんもやばかったと認識しているようでした。

わたしたちの部屋に入ると、かわいいぬいぐるみ調の置時計を見つけました。
なにこれ!すごいかわいい〜!と裏を返すと、またそちらも時計になっていて、ぬいぐるみのつくりもまた別のものになっていて、きゃあー!こちらもかわいいっ!と興奮しました。



ここで目が覚めました。
目が覚めてから見た夢を反芻していたら、「同じ夢を見てたね!」ってところで涙が止まらなくなりました。
そのシーンを思い出してるだけで、30分くらい涙がたーたーと出ていました。

わたしは、わたしが見たい夢があって、わたしはそれを誰かと一緒に見たいんだろうな、誰とでも見られるけどその人や自分の状態によるもので、誰とでも見られると思っていない、そういう夢をわたしは一緒に見たいんだな、と思ったら、それ正解!というかのようにさらに涙があふれました。

どんな夢が見たいかは、「なんとなく」わかります。まだ言語化ができませんが。



昨日、ジャックさんからクラス参加のお誘いメールが届いて、それにさらりと書いてあったことがわたしの内側になにか刺激を与えました。化学変化のように何かが起きていることを感じました。
これまで全く気に留めたことはありませんでしたが、何年も前からわたしの部屋に置いてある本の帯文、棚から出しっぱなしにしてたのでそれがちょうど見えるように横たわっていて、わたしの目に入って、ジャックさんからのメールに書かれていることと重なる言葉があることに気づきました。
2回も目に入った、と思いました。

そうしてから眠りました。

否定的に受け取られがちな出来事の経験。
自分が興味を惹かれて得ようとして得た経験とは別の、経験。
それがわたしらしさ、わたしの方向性を生む。

わたしは母が生きていた頃に、ジャックさんの緩和ケアのクラスを受けに行きました。
母が亡くなって、緩和ケアはわたしの頭から離れました。
メールをいただいて、そういう自分に気が付いたのですよね。

経験をするということ。
あれ?これまでわたしの思っていた「経験」って、とても限定的なもので、つながりがなくて、自然なものではないっぽい、、、と思いました。
それはそれでおもしろいし役に立つしやりたいことだったりするわけだけど、、、あれ?って思いました。

困らなくなった時、困っていた時のわたしの経験は「思い出」にされることに気づきました。
そうじゃないなーというか、、、その経験を活かすとしたなら、活かすと考えるなら、「否定的に受け取られがちな出来事」のこれからの経験の仕方も全く別なものになるし、本当にオリジナルで即興な感じがあるなって思いました。
そして、ずうっと生き続ける。例えば、母は亡くなったけど、生前の母とわたしのやり取りはずうっと生き続ける。


あと、全然話が変わりますが、今受けている鍼灸師さんは感覚をしながら施術されるのですが、なにかに気づいた様子があっても特に説明されないので、わたしのほうが(受け手役だけど)何を感じたのかを問いかける、ってのもありかもなーと少し思いました。
思いましたが、「説明モード」になってお話しされそうな気もするので、どうしよっかなーと思っています。
そうじゃないんだ。わたしは、感覚してわかった理屈ではなくて、感覚を聞きたいんだ。
クライエントさんにはどう聞いてたっけ、と考えると思い浮かぶものはあるけど、わたしがクライエントだからなあ・・・。

せいれいさんにおまかせします。



あ、一応夢辞典も見ました。

ベランダは、自分の意識を拡大すること。

お肉は、恐れとか怒り。
(スープが最高においしかったけど、材料の肉の味はよく覚えていません。肉汁や食感は最高でした。)

お魚は、瞑想・精神の栄養。
(サーモン、超おいしかったです。骨に自分で気を付けないといけなかったけど、身とかほろほろでした。だけど、スープの後味がよくないのでは頼みたくないなあ。ちなみに夢辞典的に骨は、基盤、考え方や信念の持ち方。)

ぬいぐるみは、愛やはぐくみ。それが時計(一瞬一瞬)と一緒になっている。いいねえって思ったけど、プレゼンスまんまだな。



そしてもうひとつ。
ジャックさんの講義を受ける夢も見ました。

4〜6人くらいで受けてたかな。
始まりはみんなでお布団から起きるところから始まって、眠りたいときには自由に眠る、そんな感じで。
通訳のこいとさんはいなくて、代わりに生徒のひとりが受けながら通訳してくれてて(お会いしたことない方)。
外で、草の上に寝転んでわたしは受けていて。ジャックさんは座っていて、立って受けている人もいて。

で、ひとりが何か質問をして、それにジャックさんが答えて。

「皆で歌って、最後は静かになって、その静けさを感じて。フェスティバルってそういうものでしょ?」

みたいなことをおっしゃって。

そして、静けさがやってきて。
わたしは仰向けになって、涙が出てくるのに任せてその静けさの中にいました。
静けさがやってきて、、、ずうっとシーンとしてて。あれ?ジャックさん、お話しされないの?と思ったら、それは夢ではなくてもう目が覚めていました。

夢の中だけでなく、涙がわあって出てきました。最後の静けさを感じて、そしてそれが目が覚めた今につながっている、それに気づいたらわあって涙が出てきました。

夢から覚めた、それだけなんですけどね。


...

(睡眠時の)夢の話と、ACIM今日のワーク(Lesson96) - 2017年04月14日(金)

夢の話。

超逃げました。
逃げて逃げて逃げて、自分が間違ったことを自覚してるけどそれを言葉にして言えません。
自分が間違ったことをごまかそうとして逃げたのだけど、「今なら逃げたこともごまかせるから戻ろう」と思いました。(文章にしてみるとなんだかなあですが)
その戻る道すがらで、困っている人を見つけたり声をかけられたりして、ひとりひとり対応をして、そうしているうちに戻る時間は無くなりました。戻る時間が無くなったことで、そもそも逃げたものよりも、もっと大きな問題を作りました。
そして、主人公は「戻る」ということも忘れてしまいました。

そういう夢を見ました。
朝起きて、もやーっとしましたが、その感覚を受け止めよう、この感覚から逃げないでいてみよう、と思いました。

起きてからこの夢を思い返したときに、「逃げる」ことはそんなに大したことじゃないなあと思いました。
いちばん気になったのは、「ごまかそうとして」という部分。ごまかそうとして、逃げたり戻ろうとしたり。行動としては別のものだとしても、その土台が「ごまかそうとして」。
ごまかした結果、逃げることも戻ることもできなくなりました。
なぜかって、拠点、ホームポジションを見失ったからです。
拠点があるから、逃げたり戻ったりができるんだなあ、と思いました。拠点がなければ、逃げる、戻る、という表現のものにはならないですもんね。それはただ、ふわふわしているだけだなあって。

あー、、、そっかー。と納得したのがこの辺です。
自分をごまかすということは、そういうことなんだなあって思いました。



今日のACIM。
Lesson96 「救いは私の唯一の真の自己から来る」
Salvation comes from my one Self.

今日は、1日の途中ですごく幸せな気分になったのでした。確かそれが起こったのは午前中に仕事をしている時間なのですが。
この感覚にいちばん当てはまるのは、恋です。
わたしは「my one Self」に恋をした。そんな感じです。
絶対離れることはないし、自分でもあるし、・・・なに?この幸せなのは、と思いました。
っていうか、今もそうですけど。

それから、自分がうまく動けなくなるところを、さっと進めてもらえることが今日は何度もありました。たぶん、そんなことをわたしが思っているとは気づかないような、本当にささいなことです。

その方たちにとっては別になんでもないことなのかもしれないけど、さらっと進めてくれたそのおかげで、わたしは自分がどういうことで進めなかったのかが見えたし(自分が何にこだわっていたのか、何をすればよかったかということがわかった)、その人自身を尊敬したし、という感じです。

他者の「your one Self」もよく見えたってことなのかなあ。


...

ACIM Lesson95 「私はただ真の自己。創造主と共にひとつの、真の自己です。」 - 2017年04月13日(木)

I am one Self, united with my Creator.

ユナイテッド。
ぱっと思い浮かぶのは、USとかUKとかのUです。
たくさんの、いろいろなものの集合体。
神も、あの人の真の自己も、この人の真の自己も、そしてわたしの真の自己も、ひとつところにある。
限りない力、限りない平安。

日本語で「創造主」と読むよりも、「Creator」のほうがわたしはしっくりきます。
ACIMの著者的には「創造主」の言葉から受ける感覚(宗教的な)を通るほうを想定してるのかなと思ったけど、あまり限定もしなさそうな著者なので、日本人のわたしが感じる「Creator」の感覚でいっかーと思いました。

今日1日ワークをしてみて、難しいなと思う時間もあったし、自分に力を感じる時間もありました。

自分に力を感じる時間。
わたしは“one Self”と認識したり、with my Creator なんだよねーと思うと、恐れる必要が本当になくて、例えば「失敗して見下されるんじゃないか」とか「こうしたら喜ばれるだろう、そしてわたしは気に入られるだろう」とか、そういった恐れからの思考が全く必要がなくて、とどまることなく溢れがちなわたしとしてはとても楽です。
出てきたとしても、「ああ、with my Creator だから別にそんな躍起になる必要ないなあ」と、これまでに比べたらあっさり手放せます。

そして、だんだん本当に人のせいにできなくなってきてるなと感じています。
それは例えば「人のせいにしてはいけません」と思うとか、引き寄せの法則でそういう状況がわたしに云々とか(わたしはこの手の話は苦手ですが)、そういった意味ではなく、たとえ誰某のせいだ、わたしのせいだ、っていうような発言をしたとしても、それを本気で言えない感じになっているということです。
自分の口から出てるのに、冗談を言ってるとか、マネしてみたとか、そういう感覚があります。



ACIMのワークでは、わたしが「自分」とエゴを扱っていたところから、ずうっと寄り添ってもらってきて、じわじわ、じわじわと一緒に進んできてもらって、今日は、

「私はただ真の自己!それのみが私!」

という扱いで、それなので、ふおおお!と高まりました。
このじわじわとしたペースに優しさと知性、理解を感じます。


最近思うのは、問題だと思うことに関して自分の頭で考えようとしないほうが、あっさり答えが出るなあと。ずうっと長らく同じ問いを持ち続けていたのに、この間あっさりといくつかの問いに答えが出て、あ、あら?みたいな感じになりました。
具体的に何をすることがそれなのかというのはわからないのだけど、方向はこちらとわかったって感じ。


...

ACIM Lesson94 「私は神が創造したままの私です」 - 2017年04月12日(水)

「私は神が創造したままの私です」
I am as God created me.

「私は永遠に神の子です」
I am His Son eternally.


ACIMで「神」って出てきたときは、わたしはもうすごーくうれしいし、楽な感覚になります。
罰が当たらないように、というようなことを考えることはないし、普段いい子でいようとする自分が出ることはあるけど、神の前ではそういうことを考えないで済むので、わたしの中の「神」の意味は結構上書きされているのかも?と期待ができています。


今日は、一日中なんだか変な感じでした。
今日も昨日と同様に、1時間ごとに初めの5分間にワークをするのですが、一緒に妙な考えが頭をよぎってばかりいました。


「私は神が創造したままの私です」

産地直送!
もぎたて!
いつでも神が出荷したその時の風味そのまま!
という煽り。

わたしの真の自己は新鮮だなあ、と感じました。


「私は永遠に神の子です」

これって「一生、どうでしょうします」(水曜どうでしょう)みたいなもんだよな。違うか。宣言しなくても神の子なわけだしな。「一生」って生きるときから死ぬまでのことだしな。神の子は、体の生き死に関係ないもんな。でも、「一生」と「どうでしょう」って語感いいよなあ。神もそういうの持ってない?

と、なんかあほなことばかり考えてました。
そんな日もある。


...

ACIM Lesson93 「光と喜びと平安は、私の内にとどまる」 - 2017年04月11日(火)

今日、このワークをしていて思ったのは、
「わたしは誰かに罪があると思うことで、わたしには罪がないって、そう思おうとしてるんだな」
ということでした。

あの人に罪があるのが見えるから、わたしには罪がないってことだよね〜♪というそういう理論。

罪のバトンを、このバトンはあなたのものよ! キャーわたしに寄こさないでよ!、そんなふうにやりとりをするものだとわたしはずっと思っていたなあ、そう思いました。

「光と、喜びと、平安は、私の内にとどまる」
Light and joy and peace abide in me.

わたしは基本、ワークの時間を忘れません。今日は1時間ごとに1回のワークでした。
なぜわたしが忘れないかというと、気持ちがいいからです。ただそれだけです。
光、喜び、平安、自分の内にとどまっている、そう認識することから感じられる感覚を味わうことが心地がいい。
その上、これには保証もあるよ、と言われることもさらに心地いい。

私に罪はないということは、神に保証されている。
あなたに罪はないということは、神に保証されている。

それだけのこと。
ACIMを土台にして自分と接する、誰かと接することをするそれだけのことが、わたしにはそれだけでとても楽です。

今日の想念を土台にしていたら、自分が偉そうになってみたり、人の言動が鼻についたりということもない、、、いや、あったか。ありましたけど、それに対して少し間を持てて気づける感じでした。それから、その影響力が段違いに違いました。
影響力があるとそれをずっと考えているし、そうならないように、そうされないようにしなきゃ、挽回しなきゃ、誤魔化さなきゃ、弱みを見せちゃだめだ、、、そんな感じでエネルギーを使います。

そういうのがないんですよね。
今日の場合だと、不満がもやっと出た時に、まず「あ、不満が今出たな」って見て、そのあとは挽回もごまかしも隠すことも考えずに対応した感じ。
そうそう、もやっとしたとしてもその後はそれが引き続かずに爽やかな感じというのかしら。
おもしろいなあ。


話は変わりますが。
職場で人事考課があるので、半年を振り返ってみたり目標はなにかと考えてみました。普段わたしは感情的に主張をしないほうなので、こういうのは我慢できるけどこれだけは譲れない、これに対してのわたしの情熱はここまで、そういうものを珍しくハッキリ見れてよかったです。
これをやらないのであれば、やっていてもしょうがない、というものがわたしにある。
自分にそれがある、と自覚しただけで、とても楽です。


...

ACIM Lesson92 「奇跡は光の中で見え、そして光と強さはひとつのものです」 - 2017年04月10日(月)

今日のワークは、今日のわたしにとってはとてもやり難いものでした。

まったく心に響いてこなかったし、「あー!そうだよねー!」みたいな腑に落ちる感じもなく、そんな上滑りな感覚のまま、ひたすらに呪文のように今日の想念を唱えていました。
朝から夜までずっと腑に落ちなくて、ありゃー今日はそういう感じなのかー、って思いました。
そういう日もあるかーみたいな。

今日は体調もあまりよくなくて、鍼灸でからだ楽になってきたとすっかり思っていたのに、動悸はするわ、胸が痛いわ、意味不明の涙は出るわ、みぞおち痛いわ、お腹壊すわ、背中痛いわと、、、なかなかのフルコンボでした。

で。
仕事終わって家に帰ってきて、ご飯を食べたらだいぶ治りました。ご飯すごいと思いました。

でもワークは案の定、頭に、心に入ってきませんでした。
どうも「光と強さはひとつのもの」って思えなかったんですよね。

そして寝る前の、夜の長い時間の実践をしようと思って、Lesson92のページを読んだとたん、腑に落ちました。

「あなたは光を強さだとは思っていないし、闇を弱さだとは思っていない。」

今日1日、ずうっとそうだった、つまり、光を強さだと思えないし、闇を弱さだと思えない状態でわたしはずうっといたので、「あ!その通り!」ってとてもしっくりしました。
そうしたら腑に落ちました。

今日1日、ずうっと強いものと思えていた「闇」、それが弱さだと今日の最後に文章で読んだときに、本当にそれを弱さに、小さいものに感じました。

今日の日中、なぜか思い出していたのは、小学生の頃の教頭先生。
先生の思い込み、決めつけで勘違いされたまま超怒られた記憶です。
わたしは「目上の人にくちごたえをしてはいけない」と教わっていたり、大人の男性の大きな体、大きな声に慄いたりで、悔しいまま怒られて、その記憶を思い出しました。

それをずっとわたしは「強いもの」と思っていたんですけど。

あれ?って感じになりました。

教頭先生が小さくなって。
わたしの悔しがってる姿も小さくなって。

若干、どう扱っていいかわからない現在。


...

夢 (睡眠時に見るほう) - 2017年04月08日(土)

わたしはよく夢を見るので、なんでかなーと思って調べたのですけど、それは精神的に疲労があるからという情報に行き当たって、なんだかなあ、と思いました。
精神的な疲労でしんどい、と思っていたなら、そうなんだ!その通り!と喜ぶかもしれないのですけど、なんだかなあ、という感じ。
確かに疲れてないわけではないですが、なんだかなあ、って感じがしました。

というのは、わたしは夢を見ることが好きだからです。
楽しい夢はもちろんのこと、たとえ怖い夢であっても、起きるときに体が痛くなっていたりしても、好きなんですよね。
精神的疲労は望んでないけど、夢を見ることは望んでいる。 

怖い夢が好き、というのは、自分にとってそこに必ず気づきがあるからです。物語も好きだしね。
ああわたし、そういう心の動きをするわ、とか、自分が作っているのだからそれはそうなのですけど、自分の感覚にいちばんしっくりする映画を見てるような感じです。

そして、視聴者(夢を客観視してる自分)としては、「主人公はこう思ってとどまっちゃうけどさ、別にここでごめんなさいって言ったりさあ、相手の人と直接話してみたりすればいい話なんじゃない?」みたいに、夢のシナリオの出来の悪さに対して責任感なくぶーぶー言ったりして、そしてそれが逆に、夢を見る自分に「なるほど。。。」と思わせたりして、そういうのがおもしろい感じです。



体の感覚のことについて。
体の心地よい感覚に慣れてきました。うーん、特別視しなくなってきたような感じ?
痛みやらドキドキやらもあって完全に心地いいわけではないのですけど、ベースが心地よい、そこに痛みがあったりドキドキが出てきたりする、そんな感覚というのか、そういうものに対して慣れてきました。
気持ちいいぞーって楽しんでいます。



ボディワークについて。
自分で誰かに施術したい、誰かに何かをしてあげたいって感じは少ないのですけど、「わたしはこれが、ここがおもしろいと思っているんだ」「ここが好きなんだ」「わかる?これなの!」ということを伝えられないことが嫌なので、もう一度復習しないとなと思っている現在です。
相手の人が耳を傾けてくれる、相手の人が理解ができる、相手がそういう状態だと感じられるときに、単に言語化できずに伝えられないのは、とてももどかしく感じます。

現在のわたしのエサはこれですね。



紫のACIMについて。
CIRCLE OF ATONEMENT のACIM。
グーグル先生に手伝ってもらいながら、直訳日本語しはじめました。
「グーグル先生、その単語はそういう意味じゃないと思う!」と突っ込み入れながらできるのは、公式版の日本語訳を読んでるおかげですが、わたしに英語の素養がないのでへんちくりんな日本語訳は避けられません。
へんちくりんでも、とりあえずやってみています。早く読みたいんだもーん。
それから、今わたしは脱「完璧主義」主義なので、あえて完璧じゃなく自分をしていくことに快感を得てもいます。

そう、「あえて」やってるんです。
たのしい!
ACIMと英語という強力なタッグにより、やる気だけあるのですけどわたしはすぐに眠くなってしまうのでいつ読み終えるかわかりませんー。


...

鍼灸を受けましたにっき - 2017年04月07日(金)

昨日は夜勤でした。
時間が今日になって夜勤の合い間に少し仮眠ができたのですが、そこから目覚めたときにとても気持ちがよくて。体が。
息を吸ったり吐いたり、それだけのことでとても体が気持ちよくて。
なんだ?すごいぞ!と思って。
そうして仕事をして2時間くらい経ったら、あ、あ、あ、肩が痛くなってきた、みたいな風になって、通常体に感じることの多い馴染みある感覚になりました。何が起きたのかよくわかりませんけど、素晴らしかったです。

それから、夜勤明けで自宅に帰ってきて眠った時に気づいたのですけど、寝る時のわたしの姿勢。
仰向けとか横向きとか以前に、おかしな寝方をしていることに気づきました。
自分の体を敷布団に突き刺すようにして寝ている。船の碇を引っかけるように、というのか。
それに気づいて、布団の面に沿って、布団の面にちゃんと支えられるように体を置いてみると、慣れてない感覚はするけど楽、力を入れなくて済む、みたいな感じになりました。
これは寝起き疲れてるわなー、寝返りもうちにくいよなー、と納得しました。

体が気持ちよいということと、先日の高層ビルの上に連れて行ってくれる人の夢とがわたしの中でリンクしました。
連れて行ってもらおうって決めたら、本当に連れて行ってもらえました。
その人が何かをしたということではなく、わたしの内面でそこに進めた、という感じです。

変な話、わたしには好かれることへの恐れみたいなものがあります。子供の頃、自分が好かれることと面倒なことが起きることとをセットで認識していたことがあったので、そういうのが出てくるのかもしれません。本当のところはわかりませんが。

で、ずうっとわたしの「行動」だったりとか、「知識」だったりとか、「持ち物」とかそういうものを見てもらおうとして、「わたし」を見られることは避けていたんですけど、それに腹をくくりました。

ちゃんと、人と人としてちゃんと向き合おうって。
自分の発生させているモクモクとした雲ではなくて、ちゃんと見ようって腹をくくりました。
しばらくはリハビリです。

思い返すと子供の頃はそうでもないのですが、いつからかわたしはこれをずっと避けてきてたし、そうならなくて済むような人と仲良くしようとしてることもあったんですよね。

それから、わたしが明け方に感じていた気持ちのよい体の感覚で思い出したのは、前にジャックさんのおっしゃっていた話です。
人のケアをする役割にいる人は相手の人を心地よくさせるから、クライエントに恋愛感情を持たれてしまうことがあるという例。そして残念なことになったお話とか。
実際は、自分自身の中にあるものを投影して相手に見ているに過ぎない、という内容。

わたしがひとりでは行けなかったところに行けた、というのはこれです。
わたしの今感じている心地の良い感覚は、「わたし自身が」創造しているもの、わたしが作り出し、わたしが感じているもの。
そう思えた。
そこに行けました。

「素晴らしい体の感覚を与えてくれる人のおかげ」と見てしまって、自分がその感覚を生み出していることは認識していない、自分の役割は見ていない、そういうところから少し脱しました。
何からそれを重ねたかというと、最近わたしは鍼灸師さんにケアをしていただいて、そしてわたしは体の感覚の変化を見ていて、ということをしているそのことです。
わたしの体の感覚というのはわたししか感じられないけれど、外側から鍼灸師さんも見てくれています。
だからこの感覚は両者で生み出しているものでもあって、ACIM的にはこれを奇跡というのかな、と思うし、わたしの体の感覚の変化からわたしの体の響き、人生を奏でる楽器としての体の響きが変化するかな、それはどんな感じのものなんだろうな、とも思っています。
自分ではわからないやつですね、これ。


これまで教えていただいてることを、自分の内側から「わかった!」って思うことがやっとこすっとこ出てきた、という感じです。
道のりが長いですが、確実に進んでいることはわかります。はい。


鍼灸を受けて、以前に比べると受けたその日の帰り道に「なにこれ!すっごい楽!」って感じる度合いは減っているのですけど、鍼灸を受ける日と受ける日との間に起きていることがおもしろいとか楽というのは今現在です。
いまだ、手足がかゆいです。涙は今でも意味不明ですが、あの時期だけのようです。


追記。
自分の日記を読み返していて、あー、、、と納得したのですけど。
「こんなに気分の良くない感覚を与えてくるのはあの人のせいだ」と見てしまうというのも、自分がその感覚を生み出していることは認識していない、自分の役割は見ていない、ということだなあと。
ACIMで最近ずっと、どちらかといえばこの「気分の良くないほう」をワークしてる感じですけど、あー、、、こういうふうにトレーニングの効果が表れる、全体として表れるのだなあ、と思いました。


...

つらつら&鍼灸にっき - 2017年04月04日(火)

最近、朝は自分が考えてもいなかったようなことに気づく時間になっています。
書かないでいると忘れてしまうので、ちゃんとそのために時間を取りたいなと思うようになっています。

昨日の朝の場合は、肌と肌とでのやりとりについて。
小学生だったか中学生だったかのある記憶が思い出されてきて、その時の自分の態度を思い出したことから、もうその頃には思い込んでいる、もう身についていた、と理解したり、またそれは、物心ついた時にはもうあったある感覚とどこかが同じだということにもつながったりしました。

今朝は今朝で、最近の出来事で、以前見た夢とまるきり同じような感情の動きと展開をしたことに気づいて、これは予知夢というのかなんというのか、、、みたいな感じになりました。
ちゃんと夢の終えたところで現実もそこまできたのでその続きはわかりませんが、まあ気持ちとしては「神のみぞ知る」です。神さまのシナリオ、演出、それに応じてわたしは演じるだけだなあという。
(自分のシナリオ、演出に取り換えてしまわないように気を付けないといけないけど)
夢を思い出すと、この後どうしたらいいかみたいなのもわかります。
わたしひとりでは行けないところへ連れてってくれるみたいなので、気持ちを改めてわたしはそれを望み、そうしてもらおう、って感じです。

うーん。おもしろいのは、よくぞまあこんなに過去が思い出されるものだ、という日々が続いていることです。なんだなんだ?
「あ、昔こんなことあったよね」と、現在から連想される過去のことが出てくるんですよね。
それ、今じゃないですからー。舞台もキャストも違いますからー。

あと、今朝もうひとつ思ったのは、近頃はACIMでひたすら「自分の内側の光を見る」みたいなワークをしてますけど、自分の内側の光って、好きな人の光とも、嫌いな人の光とも、同じものだっていうこと。
言葉的にはこれまで幾度となく聞いてはいるものであるし、よく言われていることだしで、こんなこと書いても今更なに?って感じがマインドにあるのですけど、実際のところ、自分の感覚として「あ、同じだ」と思ったのは今朝が初めてだなあって思います。

相手の中に光を見る、と言われたとき、わたしはその人の中の「いいところを見る」みたいな感じで受け取っていたのですけど、そうじゃあないんですよね。ある意味ではそうでないわけじゃないんだけど、そうじゃないんですよ。
変な話、好きな人の光を見るのも、嫌いな人の光を見るのも、なかなか難しいぞ?と思いました。こうしてほしい期待、してほしくない期待、それらがわたしから出てきやすいから、モクモク発煙しちゃうわけですよねー。
何でそれを思ったのか書き留めてなかったので案の定忘れたのですが、「嫌いな人の光を見ることが、好きな人の光を見ることの助けになる」「むしろ嫌いな人の光のほうが見やすい」みたいなことを、どういう思考の流れでそう導かれたのか忘れちゃいましたが、思いました。

忘れちゃうんだよー。
潤沢に、贅沢に、消費(?)している現在です。



鍼灸にっき。

段々と体の緊張がほぐれてきています。ほぐれてきているから、緊張しているのがわかるくらいにはほぐれてきました。こうして書いてみると、「とほほ」ですね。
最近は、血行がよくなってきているっぽくて、朝目覚めると手足の末端がかゆい。手のひらには赤みがさしています。しゅごい。

鍼に通うようになった時の状態がだいぶしんどかったので、なんか今はすごーくすごーく楽で、これ以上楽になるというのはいまだ想像できません。
今がすごく楽なので。コリがある、緊張がある、などもろもろのものもまだまだ見えるのですけど、それでもすごく楽なので想像できません。

体と心がつながっているというのはすごくわかる感じで、ACIMとかワークするにしてもとてもやりやすいです。
あ、これでいいの?って感じになります。
体がしんどい時には一生懸命頑張っていたのが頑張ろうと思っていたものが。なんかあっさりできるというか、そんなに負担じゃないというか。

精神的なことに取り組むことが好きな人は、体も取り組んだほうがさらに進めますよ!と言いたい感じです。精神的なことが好きな人は体をおろそかにしがちと聞きますけど、精神的なことが好きなら、好きならばこそ、体に取り組まないままで行うのはもったいないことですよと言いたい。
たぶん、優れたアスリートと同じことですよね。

なんでお勧めしたいかというと、体の感覚、感情や思考が内側に流れるときの体の感覚と共に理解しやすくなるからです。
単に「知識」としてわかるのではない感じというか。
例えると、体に緊張が今よりも多かった時期の場合は、初心者なのに上級者コースをやって頑張ってた、みたいな感じ。
今、緊張が緩和してきてみると、まず初心者コースをやって、できたーって自信がついたから初級者コースをやってみて、またできたよ!って自信をつけて、今度は中級者コース!ほら見てー、できるようになったんだ!、次は上級者コース、うーん、難しい!でもこれまでやってこれたから大丈夫だよねー、みたいな、こういう流れでできる感じというか、そういった楽さを感じます。

体の感覚と一緒に理解。わたしの現在のことでいうならば、手足の冷えです。
手足の末端に冷えがあるのですが、それはそれとするにしても、冷えは「恐れ」の体の表現のひとつでもあります。
これに今取り組んでいるわけですけど、手足の冷えがなくなっていっている変化している今、そしてなくなったとき、わたしの「恐れ」はどうなっているのか、どんな反応になっているのか、同時に観察をしています。
変化中の今としては、恐れるようなことに対して以前よりも驚かなくなった、反応してもいつまでもそれを持っていなくなった、って感じです。
鍼灸行く前の時期、冷えが今より強いときは、忘れたいのに、考えないほうがいいのはわかっているのに、ずっと考えてしまう、そんな状態に陥ってましたから、あー、体の緊張度が変わると結構違うのだなー、影響し合ってるなーみたいな感じがします。

鍼の先生が言ったことで気づいたのですけど、物理的な疲労よりも精神的なことでの疲労のほうがわたしには大きいなと思いました。
物理的な疲労もなんかしかの思考が関与してるわけでしょうけど(思い込みやこだわりがなければ、やりやすいように変えることもできるわけだから)、でもなんというのかな、「何に自分は理由づけをするか」みたいなものとして考えたときに、精神的なもののほうに今のところ意識が行きやすくて、これ、ちょっと気を付けてみていたいことだなと思いました。
この辺が、みんなわたしより上手だなあ、自然にバランスとるよなあ、と思うところです。

通常の鍼灸の受け方と違うような気がしますが、今更気にしませーん。


...

ACIM Lesson85(Lesson69と70の復習) - 2017年04月03日(月)

Lesson69 「私の不平不満は、私のうちにあるこの世界の光を隠す」
My grievances hide the light of the world in me.

Lesson70 「私の救いは、私から来る」
My salvation comes from me.


今日も、モクモクが自分の中に発生した時に気づいて掃って掃って掃いました。
(出てきても、それを選んだり更に火をくべたりしない)

なんて楽なんでしょう〜。
なにかでふいに落ち込んだ気分が自分の中に現れた時に、「あ、この落ち込んでるその気分は掃える」と思い出して、掃ってモクモクを終えると、全然楽です。
なんだったんだこれまでのわたしの生き方、というくらい楽です。

というか、これまでわたしはモクモクの中で煙に巻かれるわ、吸い込んでさらに吸い込もうとするわ(そして「やっぱり煙い!」とかイラつく)、その上「あの人はこういう人なんだわ」「前もそういうことあった!」と更に燃料追加してモクモク増量延長してたなあと思いました。

いやあ、楽で! ほんとに!
会う人、周りの人、みんなすごくいい人になっちゃった感じです。
実際、人と話すのも楽です。

最近、自分の体のメンテに継続して積極的に取り組んでいるので、体の感覚で「懐かしい」「昔こうだった」っていうものが出てきています。
そして、その感覚から連想されるのか「昔の思い出」みたいなものもぽんっと浮かんできています。

若い頃の恋愛していた感覚や思考も出てきたもののそのひとつですが、いやあ、、、その頃を思い出して、それはだめだ!と思いました。
・・・よかった、これ、わかるようになって。
なんというか、、、まさにLesson70でした。

「私の救いは私の中にある。」
「私自身の外側に探すつもりはない。外側で見つけてから中へ持ってくるのではない。それはただ自分の内面から出てくるし、自分の目にするものは何もかもすべて、私の中でそれ自体輝いている光を反映しているに過ぎない。」

その頃のわたしは相手に探してましたからね!
ああ、今考えるとこれは怖い! 全然見ていないんだ、自分の中の光を。
そして今もうっかりとそういうことをしそう(笑)
見えるようになった分、気をつけることはできるようになった!かも!と自分を励まします。
いやあ、怖いわー。

こういうことも、ジャックさんのところで聞いていた記憶はあるのだけど、、、思い切り他人事のように聞いてたんだなあ、、、と思い出すのでした。
いやはやいやはや。


...

つらつら - 2017年04月02日(日)

今日の夢は、地震の夢でした。

夢の中でわたしは誰か(覚えてない)とともに自宅の床に座っていたのですけど、めまいみたいに頭の中がぐらって引っくり返るような地震が起きました。
ぐらっと引っくり返る感覚は今感じられるけど、それだから考えることができない、考えることをあきらめる、みたいな、そういう体感がある地震を夢の中で経験しました。
ぐらぐらと揺れるわけじゃなくて、ぐらあっぐにゃあって感じで、だから周りにある物とかも落ちたり倒れたりとかがありません。
怖いというよりも、「こんな地震、初めてだ」とまず最初に思ったのと、この揺れの反動が必ずあるな、もっと大きい地震がまた来る前兆かもしれないな、と思いました。
そう思ったときに、ふわっと怖さがやってきて、「その時わたしはどこにいたらいいんだろう?」「生きていられるためにはどこにいたらいいんだろう?」と思考が働き始めました。
が、結局どこが安全かわたしにはわからないのだから(安全と思っていたらそうではなかったとかあるし)、考えてもしょうがないし実際大丈夫じゃない?と思いました。


起きてから、夢辞典で「地震」を調べました。
突然の、大きな、日常の変化って感じ。
自分の夢の感覚を思い出すと、「これまでに経験したことはない」「怖さを選ばずに経験できる(選ぶこともできる)」というのがそこに付随する感じですかね。

何が起きるのかなーっていうよりは、もうね、なんかね、ある部分それは経験している感じがあります。

今朝起きて、細胞のひとつ一つがふるふると振動して動いているように感じました。
まだ体に痛みはあるのだけど、わあって動いている感覚がそれと同時にあって、動いている感覚はとても気持ちいいのだけど、試しにその動いている感覚と体の痛みとを一緒に意識して感じてみると、さらに気持ちがいいと感じました。
セルフでやっているので、すぐにそこから意識は離れてしまいますが、気持ちいいです。
この感覚に似ているのは、エネルギーを感じるワーク、重心をゆっくりと動かして重力を横切る感覚を感じる、そういうワークで感じられた感覚。手から出てくるように感じる、もぞもぞじわじわした感覚が手だけではなく、体のどこでも感じられる、そんな感じです。日中、普通に活動し始めるとわからなくなっちゃいますけど。

寝入りばなに、体の力がぐにゃーって抜けてアメーバーのようになってるのもおととい経験して。あ、こうやって眠るんだっけ?と思いました。今日は戻ってましたけど。



わたしは「受け手」として全うしたい、そういう視点があります。これ、言葉にするとしっくり来ていませんが、なんと言っていいか今のところわからない。
ジャックさんのところでボディワークを習っていて、自分が施術をするという経験をし、わたしも誰かの施術ができるようになってはいるわけですけど、やっぱり基本のところは「わたしは受け手として全うしたい」という感じがあります。

人にできるようになってるし、この施術がこんなに好きなのに、わたしはなんでやらないんだろう?って思って、若干自分を責めるような気持ちも出たりしましたけど、そうじゃないんだ、という気持ちも同時にありました。
受け手の役割が好きなんだよう〜。

なので、誰かにやってあげたいという欲求はわたしにはあまり出てきません。
なのに、やってあげたいという欲求があります。
言葉にすると矛盾していますけど、全然別のものに対して焦点が合っている感覚がそれぞれあって、「やってあげたい欲求」が「何を」やってあげたいのかが、まだわたしにはわかっていないという感じです。
やっとここまでわかった(笑)

ジャックさんに習いに行くまで、わたしはリラクゼーションサロンや整体などにお店に行くとき、「一方的に受けるもの」という感覚でいました。施術者にやってもらうもの、みたいな。
そういった、施術を受ける側の持つスタックがクラスに参加していくうちにどんどんほぐされていきました。

痛みがあって拒絶したり攻撃したりしやすくなる部分に、好奇心を持っていくその感じとか、「自分を一方的に直してもらう」のではなくて、そこに受け手の役割として一緒に参加するというのはどんな感じなのかとか、気負わない感じ、やり取りを楽しむ感じ、そういう感覚を経験をしてきました。

で、そうなってからお店に行ってみると、今度は施術する側のスタックがよく見えるようになりました。
その人がわるいのではないことも、よく見えます。
むしろ、施術者はそれができる人だったり勉強してきている人だったりするのがよくわかったりもします。なのにその機会がない。
迎えに行く、誘いかける、ナンパをする、それはわたしも結構難しく感じるので、そうだなあって思ったりもします。
でも、「もったいない」ともとても感じます。できるのに、それを望んでいるのに、できない、というのがもったいないと感じます。
ここの答えが知りたいです。


同時に、結局は「自分」なんだなあとも思いました。
わたしはこれをしたい。これが好きだ。
ただ正直にそれを選ぶ。
相手に押し付けることもなく、正直に、ただ選んだり、選ばなかったりをする。
そうすると、たまーに気づく人もいる。あれ?って。
誰かの反応だったりとかはある部分では関係ないんだ。賛同されるされないとか、そういうことではない。でも、賛同されるとすごく力になるなあって思いました。

あ!
わたしのしたいこと、「賛同」なのかもしれない。

もう一声かな?

・・・

と、思っていたら、すうっとある思考が表れて、それはすぐに忘れてしまったのだけど、地震の夢じゃないけどすべてが本当に引っくり返ったように感じました。
逆だ、と。
そうなんだけど、そうじゃない、という感じ。
それでいいんだけど、それじゃない、という感じ。
その思考はこうして書こうとしてるうちにすぐに忘れてしまったので、感覚だけが残っていて、、、

そうしてしばらく過ごしていたら、わかったこと。
「やろうとしない」もそうだし、「機会がない」もそうだし、それらを信じる、そのこと自体が間違っているということ。

ああ、その通り。間違ってたわー。こりゃあかんわー。
軌道修正しまーす。

それから、以前も見たことあるクトゥルフTRPG動画【APヘタリア】菊とアーサーで「カリプソの島」6【ゆっくりクトゥルフ】をもう一回見て、どうでもいいことを気づいたのだけど、夢の地震の感覚と、SANチェック時の描写とがとても似ている・・・。

そしてこれらの描写が素敵で。↓

「不安なら、心細いなら、迷いがあるならーーー、一番大切なものに手を伸ばしなさい」
ゆったりと誰かの落ち着いた声が、菊の鼓膜の内側で静かに反響していた。
その幻聴に素直に従い、菊は何かに向かって手を伸ばす。
戻れなくなってもかまわない。この暗闇の先にある、自分にとって一番大切なものを見失ってしまうくらいなら。



ネタばれありなので、読まれる場合は反転してください。↓

最初は何も知らずに同じ一日を繰り返させられていた。
やがて同じ一日をループしているという事実にたどりついた。
そしてそこからは、その事実を知ってなお、何度も何度も自ら繰り返すことを望み続け・・・
「菊はどうせこの島から去ることを選ぶ。」そんな諦めがアーサーの中にあるというなら、自分がそれを覆して見せよう。
そう心に決めたのだ。



案の定、ACIMとつなげてしまうおいらです。
多分またそのうち見ます。この動画。


...

ACIM Lesson83(Lesson65とLesson66の復習) - 2017年04月01日(土)

今日は以下のワークの復習の日でした。

Lesson65 「私の唯一の役割は、神が私に与えた役割です」
My only function is the one God gave me.

Lesson66 「私の幸せと私の役割は、ひとつのものです」
My happiness and my function are one.


唯一の役割が、なんだか自分がまるで捲れ上がるように感じるというか、そのくらいすごく難しく感じることもあったし、唯一の役割と思ったときにとても頭が冴えるというか、迷いのなさ、喜び、落ち着きを感じる時間もありました。

「これに関する私の理解は、私の役割を変えない」
わたしがこの人を、この物事をどう理解しているかによらない、ということ。この想念に、そんなこと言っても!と抵抗することもあったし、どう理解しても変わらないんだとほっとする時間もありました。

わたしの役割を果たすことがわたしの幸せ。わたしの幸せはわたしの役割を果たすこと。
って書いてたら、「市民、あなたは幸福ですか?」と某ゲームが頭によぎりましたが、これとの感覚の違いも比較します。

時々わからなくなりました。
今感じているこの幸せな感覚は、わたしの役割をしてるのかな。これのことでいいのかな。
それとも、エゴが満たされて幸せに感じてる感覚なのかなあ。
まだこの辺りの境があいまいです。

なので、その幸せの前提が欠乏からなのか(過去から来ているのか)、何もなくても満たされてることからなのか(今見ていることなのか)に注意して、もう一度それらを改めてみてみました。

そうしたら物事によっては、あ、期待があるなあ、とか、ちょっとズレてたなあ、とか気づいて、同じことに対して幸せを感じているのだけど、こっちのほうがいいな、と少し修正したりしました。
物事によっては、意識を向けただけで、これで行こう、これがいい、このまま行こう、そんな確信がある、軽やかでしっかりした感覚があるものもありました。

RPG好きだからかもしれませんけど、ACIMが楽しくてね。
どうしましょう。


...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

MAIL