幸せな日々。 - 2017年02月27日(月) 先週の火曜からずうーっと続いていた多幸感、そろそろ落ち着く?もう落ち着いてもいいよ?という本日月曜日。 ずうーっと幸せな感覚。今も幸せな感覚。ちと疲れてきましたよ。 この多幸感は小沢健二さんの影響・・・というか、「発端が小沢さん」という感じです。 先週は、 「すごい!」 「おもしろい!」 「たのしい!」 と、思ってばかりの一週間でした。テレビもラジオも新聞も、リアルタイムで追いかけました。 SNSのタイムラインで、小沢さんについて話してるいろいろな人の言葉を見てたのですが、いろんな人に「その通り!」と思い続けました。たくさんの人にそれを感じました。 共感度としては様々で、わたしが100%自覚があることについて書かれていて「そうそう!」って思うような方もいれば、わたしは20%くらいの自覚だったけど「言われてみればその通り」と思うようなことを書かれてる方もいれば、はたまた、なんとなくそういうことを感じていて、でもそれはわたしが個人的に感じていることだよな、と思っていた同じことを感じている方もいて、きゃー!って感じ。きゃー!って。 小沢さんが、というより(?)、それらが、きゃー!って感じでした。 そういやそうだよねと勝手に納得したのは、小沢さんは言葉の人で、ファンの方々も言葉の感度がいい人が多そうだよね、って。 同じ好きなものについて、そういう方々が書かれている言葉、それがもうね、わたしにはすごい威力でした。 なにに対しての威力かというと。 わたしは「発想がおもしろい」と言われることがあるのですが、それはうれしい時ももちろんありますが、そう言われるとなんか寂しい気持ちがする時もありました。 というのは、おもしろいことを言おうとしてとか考えてとかで言ってる場合はそう言われるとうれしいのですが、自分にとってふつうのこと、当たり前のこと、思いついて言ったことに対して「発想がおもしろい」と言われてしまうと、あれ?みんなはそう思わないの?って、なんとなく「離された」ように感じてしまったり。 今回振り返ったら、そういえばそういうところが子供の頃からあったぞと思いました。 どこか、そのままで言わないようにする、みたいな気を付け方をしているな、ということも気づきました。 ところがどっこいですよ。 実際は世間に溢れてた! それが見えた! わたしだけじゃないじゃん!って。こんなにいるんじゃん!って。それが目で形として見える、それがすごい勢いで幸福感をわたしに与え続けています。 なーんだ、これまでこんな思い込んでてばかみたい!こんなにたくさんなんだよ!って。 気分としては、グランドキャニオンにいるような気分。ああ、ちっぽけで素晴らしい! 自分の傲慢さを、清々しさの中で見られるっていい。 いやはや今、なんかすごい期間です。 売る気になって戻ってきた小沢さんを見てると、クラスでジャックさんが言ってた「市場に出す」ということを思い出します。 学んだものを市場に出す。 勉強したものを使ってお金を得るのかな?勉強したものを仕事をするということかな?みたいにわたしはその時に受け取っていたのですが、そうではあるでしょうけれど、それがメインではない、ってのがなんかわかる。いや、クラスで聞いていた時もそれはわかったのですが、、、なんだろう、今との違い。 やってる人を他の業種で見た、ということか。 これはなんと魅力的なのか・・・。 (そしてまた胸がいっぱいになるのですよ・・・) それからそれをね、「テレビで見れてる」っていうのがわたしが、小沢さんすげえ!といちばん感じているところです。 日常とか俗とか、特別じゃない手触りのもの。 あとは、やっぱり歌詞とメロディーの組み合わせですね。 自分の選ぶ歌詞はああいう感じだけど、わたしのメロディーはもしかすると少し違うかもしれない。でも明るめの曲調で行きたい。そんなことも思ったり。 もちろん「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら」という一節がすごい好きです。 間違いに気づいた、と過去のことになっているところ。 そして、気づいている、気づく、ということが大事なんだなって改めて思いました。それに付随していろいろ考えたり言ったりするけど、そうではなくて。 「神の手の中にあるのなら その時どきにできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」 「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない」 一曲の中によくぞこんなに。と思うのでした。 いろいろ真似したい・・・ ... Mステ見ました。 - 2017年02月24日(金) それはもう、小沢さんが出るからです。 画面のなかには、お父さんという感じの、おざーさん。 ちらちらと画面に映るけど、まだかなーまだかなーと待ちました。 ああ、、、 そして、、、ああ、、、すごくよかったです。 またも、何に泣けるのかがわからないのですけど、泣く。キラキラしててね、泣く。おっさんなのに! とりあえず歌詞がもうすごく好きです。 「今、こういう歌を歌うんだ?」って思うと、いやー小沢さん本気出してきた!って思います。 それが、わたしに見えてるキラキラなのかもしれません。 覚えてカラオケで歌えるようになりたいけど、今のところ、好きすぎて泣いてしまうわー。 あの歌詞を、あんな明るいメロディで歌われてしまったら、もうねー。 フジロック出るということは、その前に何か出してくれるのかな? 楽しみです。 ちなみに今日のACIMワークはLesson47「神は力であり、私はその力のなかで信じる」。 Mステ見て、お風呂入って、そうして今日の最後の最後に、「力って、わたしの思ってたのと違うかも?」と思いました。 わたしの思っていたものよりももっと、優しいもので、キラキラしてるもので、静かで、なくならずにそこに確実にあるもの、、、 あ、そういうものなのかな?って、Mステの小沢さんのステージを見て感じたことから思いました。 あれはわたしの力になったから。 ... ACIM Lesson46 「神は愛であり、わたしはその愛のなかで赦す」 - 2017年02月23日(木) 夜中に目が覚めました。 暑くて(冬なのに)、そして心臓がバクバクして、息が苦しくて。 先日ニトリで温度調整する掛け布団を買ったのですけど、その布団でなかったらたぶん寝汗びっしょりだったかもしれません。 (春先にも使えるその布団でも暑かったので) 鍼灸に通い始める元々の症状が、夜間に目が覚めた時のものでした。呼吸、動悸。 で、そのドキドキは、今日は悪い夢を見て、でした。 もしかすると、覚えていないというだけでずっと悪い夢を見ていたのかもしれない、と思うくらい感覚が同じでした。 悪い夢は、過去に起きていたことでした。すっかり忘れていたけれど、家族のなかでは日常的だったことでした。 今日の夢のなかではこんな感じで展開していました。 わたしは高校生で、寝坊をしました。 今はもう8時20分を過ぎていて、そして電車通学なので確実に始業時間には遅れます。 確実に遅れるので、わたしは慌てることもなく遅れることを認めて制服に着替えています。 それを見つけた母が、着替えているわたしのそばでずっと、遅刻になったことに対して「先生に遅れることを電話しないといけない」「遅れていくのだから、他の人に見とがめられるかもしれないから注意しないといけない」というような、「〜しないといけない」という「アドバイス」をネガティブな口調でずうっと付きっ切りで言い続けていて、やるべきことを要求するのだけど、自身はわたしに起こったことに参加して何かをするわけでもなく、それで段々わたしはうんざりしてきて怒る、という、そういう流れ。 これをわたしは本当に何度も何度もやっていました。 それを今、夢で見て、「いやあ、これ、何度も練習(?)してきたよ!」って。同じことを、何度も何度も繰り返し。同じことを同じ反応で、何度も何度も繰り返し。 そしてそんな感じのやり取りはわたしだけではなく、父も兄もそんな感じで、だからもうそういう反応を自分がすることは「普通」に思えていました。 母は恐れていたのだろうと、その頃のわたしは思いやしないですね・・・。今、初めて思うなあ。 母の恐れから、わたしの恐れ、父の恐れ、兄たちの恐れが引き出されてたんだろうなあと、初めて思います。 わたしたちはなんで怒っていたんだろう? 母はなにを恐れていたんだろう? わたしたちは母の恐れからなにを恐れたんだろう? その答えは、今日のワークであるLesson46にあるような気がしました。 わたしはいつもそうです。疑問が生じたときには、もう答えが用意されています。答えが用意されている安心感から質問するんじゃない?って思うくらいです。 そして、あんのじょーでした。 「神は愛であり、その愛のなかで私は赦す」 「神は愛であり、その愛と共に私は自分を愛する」 「神は愛であり、その愛のなかで私は祝福されている」 「私は神の子だから、罪は不可能です」 「私はすでに赦されている」 「神に愛されているマインドに恐れはあり得ない」 「神に愛されているので、攻撃の必要はない」 朝一にワークをしてみて、ハイハイ・・・という感じ。 これらのことの、ぜーんぶ反対のことをわたしはやっていたんですよね。わーおー。 そりゃ怒るわーって感じ。全然離れちゃってんだもの、反対方向に向かって疾走してるんだものね。 ということで、悪夢も見てみるものだ、と思いました。 それから、今日の夢だけの話じゃなくて、実際に悪い夢のなかにいたんだなって腑に落ちました。 わかりやすくて助かります。 ちなみに夢の中でのその後の展開は、わたしは母に怒った後に髪がまだらにボロボロと抜けて、あああ・・・ひどい見た目、怒ったからだよ・・・、と思い、なんとかなるかしらと丁寧にブラッシングしたらロン毛の艶々したグレーの髪のおじいさんになって、ああマシになった、とホッとしました。 起きてから、いいんだ?とセルフ突っ込みしました(笑) ←首から下は女子高生・・・ 今日は鍼灸にも行きましたが、わたしには合うのか毎回心地いいです。らくちーん。 30分くらいの施術で頻度よく通うということが、「自分で」通っている、「自分で」そうしている、という感覚になれるなあ、とも思いました。「症状があるから通う」ではなく。 というか、変化するのがおもしろいので、今度はどうなるんだろう?って変化を楽しみに行ってる感が強いです。 あとは、何するんだろう?それに対するわたしの反応はどんな感覚なんだろう?という感じ。 変化するというのはわたしだけが感じているわけではなくて、「普通よりも変化が早いから、こうなるかもよということを先にお伝えしておきますね」と今後可能性のあることを鍼灸師さんに教えていただきました。 おもしろいです。 ... オザケン新譜購入 - 2017年02月22日(水) 昨日、わたしはとても幸せでした。そして、それがずうっと続いている感じの今日。なんということ! 小沢健二さんの新譜が出る、と知ったのが昨日のことでした。 そして、その広告であり小沢さんの文章がつづってあるものが載っていると知り、昨日の朝日新聞朝刊もコンビニで購入しました。 その広告は、小沢さんの言葉がまるで新聞記事の一部のような構成でつづられていて、その状態にも楽しくなりました。文章自体にももちろん楽しくなりました。いいなあ、好きだなあ。 で、昨日は夜勤だったので、今日、その帰り道に新譜を買ってきました。 配信がなくCD販売なのですけど、普段音楽もそれほど購入するほうではないわたしは、もうCDを買うこと自体がいつぶりだ!って感じでした。どうやってCD聞くんだっけ?と思ったりして。 CDジャケットは昔のレコードのサイズだったりして、わたしはそれもとても楽しい。 こういうふうに楽しませてもらえた時、物質っておもしろいな、楽しいなって思います。 で、新譜をDVDレコーダーにセットして流して、一度目はすんなり普通に聞きました。楽しいね、きれいだね、って。 二度目、泣きました。なんと。 なんか、すごく浸透したんですよね。 ふわって、「あ、これ、今の小沢さんが歌ってるんだ」って思ったら、たーって泣けてきました。 わたしは学生の頃によく聞いていました。フリッパーズギターも、小沢さんも、小山田さんも。 そんなに追いかけてる感じではなかったですが、普通に好きだったのでポスターを友人からもらったり、出た番組を見たり記事を読んだりしていました。 そして思い出すのは、考え方とか好きだけど、わたしは好きなんだけど、という気持ちを持ちながら受け取っていたこと。 小沢さんが語ることは好きなことだしそうだなって思うんだけど、対談の相手の方は居心地がよくなさそうだなって感じたりとか。そして、その頃それを、仕方ないこと、と思っていたなということ。 今思うんだけど、これは自分を投影していたなと思います。 新譜を聞いてわたしに浸透して泣けてきたのは、その頃に感じたそれらのことが、全く!感じられなかったからです。 なんて今もこんなにキラキラしていて、今もこんなにキラキラした歌を歌っていて、そしてなんてやさしくなって!戻ってきたんだろう!って。 それから、過去の記憶が、過去の切り取ったものではなくて今に続くつながるものとして、わたしにぶわあっていっぺんにやってきて、あ!全部だった!って感じられて。 それで泣けてきました。(たぶんね) ほんとうにやばいです。 これもまた、単に自分の投影の場合もありますよね。小沢さんは初めからずっと変わってないよ、みたいな。だとしても、それはそれですてきなことです(笑) そうしたら、ぐっじょぶ!って自分に言います。(先に言っちゃおー) 幸せ気分でずっといたら、生まれてこの方ずっと自分が信じていたことに気づきました。 それは「責任を取る」ということについて。 わたしはずっと、もうずうっと、こう信じてきました。 「何かひどいことが起きたら、そうしてしまった自分はそれを受け止める責任がある」みたいなこと。取りたくないものを取るものだみたいな。 それからその上、わたしは「責任を取る」という言葉に、「自分を、自分の望むところへ連れていく責任がある」という意味を持たせていなかった、ということも気づきました。 あ!持っていなかった!と、それを幸せの中で気づきました。 いい意味で、これまでやってきたことの結果への責任を取ってる、そんな感じがしたからかもしれないですね。わかんないけど! (何かしら理由つけとこうというわたしの、でっち上げです!) やばい!幸せでやばい! 今週のMステも楽しみです。 タモリさん&オザケンとか、たまらんがな! ... 召喚(妄想) - 2017年02月19日(日) 治療の効果か、体がとても楽になっています。 その上で、心臓のあたりがなんか痛いぞ、と感じました。 そして、この痛い感じは遠い昔にも同じ記憶があって、子供の頃もこの痛みを感じたなあと思いました。 子供の頃は、心臓(のあたり)が痛いとか死んじゃうんじゃないか、とどうしていいかわからなかったのもあって、誰にも言いませんでした。で、そのままになったのだけど生きています。 で、その感覚を久々に感じたので、これはなんなのだろうな?と。 今は、自分を病院に連れていくとか、分別というか経済的にというか、子供の頃に比べたらそういったものがあるわけで、でも病院にかかろうと思うような痛みではないんですよね。 昔と変わらないし、年明けの健診での何も問題がなかったんだよなあ。コレステロールは高いけどいつもと同じくらいだし。 なので、ずっと前に手に入れてしばらく読んでなかったエネルギーワーク系書籍で、第四チャクラと心臓疾患のページを読んでみました。今のわたしとも過去のわたしとも、なにか共通点とかあるかなあとか。 読んでみて、すごいしっくりしました。 鍼灸に行きましたが、もともとは病院へ行く予定で自分の症状をすべてメモしていたのですけど、それも当てはまりました。 コレステロールの件も書いてありました。 そこには対処法に「犬を飼うといい」という記述もあったんですが、もうそこは理屈というより感覚としてしっくりしすぎて泣けて泣けて、でした。 確かにこういうことをわたしがトレーニングする相手は犬じゃないとダメだわ、と理屈でも思いますけども。 わたしは猫が好きです。 メロメロになるのは猫さんです。 だから、自分ではその発想すら出てこないですね。犬?!みたいな。 ということで(?)。 今、足元に二頭の犬が召喚(妄想)されています。 今は実際に自分で動物を飼いたいという気分はないので、妄想。 わたしの妄想劇場を書きますと、以下の通り。 犬たちの名前はそれぞれ、シロとクロといいます。名前は見た目の色のままです。 別にそれが本体というわけではなくて、犬として表現したらそんな感じになるというだけで、サイズを大きくしたり別の体(人間とか)になるということもできます。 シロさんは、ちょっと小さめの体で小回りが利く。問いかけるとよくしゃべる。(人の言葉を使えます) 軽快なイメージ。 クロさんは、少し大きめのスレンダーな体で、艶のある毛並みが美しい。ほとんどしゃべりません。(わたしの言ってることが伝わっているのは感じられる) 動きが犬らしいのはクロです。シロは二本足で歩いたりもするし、どこかキャラクターっぽい。 クロが足元にゆったりと寝そべっていると、すごい安心感と温かみを感じます。(あくまで妄想) わたしの行き先に先導してくれたり、そこに一緒に行ってくれたりというのはクロさんです。超安心、超信頼、超大丈夫みたいな印象。 どちらのわんこも、わたしの知らないことをたくさん知っています。 尊敬していて、でもわたしかわんこかのどちらかがボスという感じではなく対等な感じ。 先日、ACIMでいう聖霊との関係性というのを考えていて、自分から見ると聖霊はどんな印象があるだろうみたいなことを思っていました。 そのときは、具体的にこういう感じ、誰誰さんみたいな感じ、とかいうのがなくて、ぼんやりした感じだったのですけど。 この二頭のわんこが、とってもしっくりします。 (そもそも人型ではない!) 名前を呼ぶのも、呼び捨てでも、さん付けでも、ちゃん付けでも、気分によって何でもいいという・・・ああ、そう来たか、と自分から生まれる妄想を楽しんでおります。 ... ロンハーのカズレーザーの企画を見て思ったこと。 - 2017年02月18日(土) 昨日、ロンハーでカズレーザーを知ろうみたいなコーナーがありました。 わたしはあまり普段テレビを見ないので、カズレーザーはこういう人、という印象をあまり持っていないですが、時々偶然見かける映像や言葉からの印象は、人として見ておもしろい人だなあ、賢い人だなあ、という感じでした。 で、おもしろそうだったので番組を見て。 あー、おもしろい人だわー、と思いました。 カズレーザーは賢い方だけど、その賢さからわたしは嫌な感じを受けません。 一方で、賢いなあと思いながらも嫌な感じを受ける場合(人)もあるから、何が違うのかな?と思いました。 「嫌な感じ」は、もしかするとその人が持ってる恐れで、単にそれが見えて、そしてその上、わたし自身の持ってる恐れをそこに投影して、それで「嫌な感じ」と感じるのかもしれないな、と思いました。 「気をつけてね」 「いい人ばかりじゃないよ」 と心配して声をかける周りとカズレーザー、テレビの中で起こっていた全体を、なんか不思議な感じで見ました。 うまく言えないですが、カズレーザーが何も知らないように見える部分と、「恐れ」を持たない選択(行動)と、それはどういう関係でつながってるのかな、と思いまいた。 知らないから恐れてない、と受け取るのは、知ったら恐れる(ものだと思っている)からかなあ、とか。 カズレーザーは、たとえ騙されたとしてもこの人は大丈夫だ、ってなんか安心して見ていられる感じがあるんですよね。むしろ騙した人がカズレーザーを騙した後に変わらざるを得ないことになるんじゃないかな、みたいなワクワクもあります。 最後の、お金貸してほしい、と言われた時のやりとりなどを思い出すと、間違いなくそうだよなと思います。騙そうとしてるほうがびっくりしちゃう、みたいな。そしてみんなカズレーザーが大好きになっちゃう。(番組を思い返すと、仕掛け人のみなさん、みんなそうだったんじゃないかなと) 精神的にも物理的にも、この人は困ることにはならないだろうって。むしろ経験して、楽しんで、周りを驚かせていく、みたいな光景が浮かんで(妄想できて)楽しくなる感じがあるなあ。 愛があって、恐れがあって。 ... ACIM Lesson40 「私は神の子として祝福されている」 - 2017年02月17日(金) 今日のワークは10分ごとに、今日の想念を思い出すというもの。 わたしは10分ごとと思うと忘れるので、短い練習の日は、もうずーっとやってる感じになります。練習ラッシュ。今日は、お昼ご飯に夢中になったので1回忘れました。 「私は神の子として祝福されている。」 I am blessed as a Son of God. 「私は幸せで、平安で、愛に満ちていて、満足している。」 I am happy,peaceful,loving and contented. 「私は神の子として祝福されている。」 I am blessed as a Son of God. 「私は落ち着いていて、静寂で、穏やかで、安心していて、自信がある。」 I am calm,quiet,assured and confident. これらの短い言葉(大抵は初めの一行のみ)をひたすら繰り返しました。 練習をしている間、わたしの反応、わたしの感じたこととしてはいくつか種類がありました。 ひとつは、すごーく幸せな気持ちになって涙が潤むような感覚。これは今回は出勤前、出勤時に起きました。感謝しかない感覚。 ふと自分の名前が浮かんで、ほら、わたしは祝福されてるじゃない、と言われたような、そういう気分になりました。 もうひとつは、すーっごく否定的になる感覚。 「わたしは神の子として祝福されないわけですよねーこれねー!」「今の気分は幸せじゃないしさー、平安でもないしさー、満足してないしっ!」とひねくれました。 (仕事量が増える時間で、気持ちの中に忙しさや自分に対する疑念みたいなのが出てきた) 頭ではそういう意味ではないことは理解してるのにも拘らず、反抗的になりました。 それからまたもうひとつは、最近ずうっと抱えていた荷物が、自分が全く考えてもいない方向から取り外されて、自然と謙虚になる、そんな感覚。 祝福されているんだよ、という証明をされたような感覚を感じました。 方向が見えたというか、目が覚めたというか。 そのほかのほとんどの時間は、穏やかで落ち着いていて、平安な中にいる、そういうものでした。 わたしはまだ英語で通して読んだことはないので、英語から受ける感覚はどんな感じなのかに興味があります。練習のメモをわたしはいつもポケットに持っているのですが、だから今回のメモは英語と日本語とをどちらも書いています。 手書きというのも、ただ自分で書いているだけだけど情報量が多いように感じて気に入っています。 英語のほうがぽんぽんぽんと単語からイメージが浮かびやすいので、覚えやすい、思い出しやすいです。 今日の想念を忘れたら、英語でなんて書いたかを思い出す感じでした。 「I am happy で、peaceful でしょ、それから calm、あとは quiet」みたいな感じなのがなんとも締まらないですけど。 ... 恐れからの感覚と、恐れなしでの感覚 - 2017年02月16日(木) 鍼灸2回目行ってきました〜 何なのかねー。超楽〜。 明らかに動悸がしなくなってきてるのと、あと根本的になにかが元気になってるんですよね。それがなんだかがわからないんだけど、そのわからないそれが全然違うのですよ。これが気というものなのか?(わからーん) まあ、それが元気なので、まだ手足とか冷たかったり症状はいくつかあるものの、「あっても結構平気」みたいな感じで。 初めて鍼灸予約した今週初めは今と比べるとどんな状態だったかというと、例えば手足が冷たかったらそのまま冷たさと共に動けなくなる、そして段々冷たさが増していく、みたいな感じ。 今は、自分の手足が冷たいことが、ある意味調子の悪かった時よりもハッキリわかるんですよね。 だけど、対処する気力があるし、前は対処しようとしてるんだけど後手後手になって追いつかないみたいな感じがあったんだけど、今はそれがない。 手足は冷たいけど、体幹はそれにつられて寒くならない、みたいな安心感。だから、より感じられるのかもしれないな。 すごいぜー そんなわけで、「感じる」ということの違いにも、ちょっと触れることができました。 具合の良くなかった、症状も今より強く出ていた先週のほうがセンシティブに感じていたと言えるんだけど、実際、体の感覚がより感じられているのは今週治療するようになってからのように思うんですよね。実感として。へえ〜って思いました。 (ちょうど過去の録音を聞いて、クラスで以前習ってたことを知りました) 先週のは、噂の「恐れから『感じる』感覚」だったのかもなーみたいな。 興味深いです。 精神的なことに取り組むときは、体を調えるって大事だなあということも思いました。 ... 体の不調と、体を感じること - 2017年02月15日(水) 最近、体の変調があったため、逆にその感覚を増大させるようなものに気づきやすくなって、あ、感覚が増えてきた、と感じたらその状況に対しての自分の思いを手放す、という感じになっています。 (持ってると体の反応がしんどいので、気づいたらすぐ手放す) 気づきやすくなったし、手放そうとする意欲が増した感じがあります。結果的に。 そんなわけでいいところもあるけど、戻ってほしくもある体調。(そりゃそうだ) 恐れと共に出てきていた体の感覚が今は恐れがない時にもあります。 ・・・うーん、ちょっと違うか。「今、目の前に恐れるものがない」とハッキリ見える状態で体の感覚が出ている、という感じか。恐れてはいるんだと思います。 なので、何かに関連付けないで、単に「今感じている体の感覚」と、それだけ見られる感じがしています。 これまでわたしがよくやってたのが、「この体の感覚は、今こういう感情が出たからなあ、、、こういう状況があったからなあ、、、」と体の感覚から導かれるものを見るということです。 それは自分の思考で理由を考え出しているわけではなくて、そういうことか、と導かれる、そこから理解することができることではありました。 盲点だったのは、わたしはなるほどと理解することに快感を感じるので、理解の快感を与えてくれたものに執着してたということ。 まずそこで意識がそれて単に体の感覚を感じる、ということがし難かった、ということ。 そして、こうして書いていて気づいたのですが、体の感覚から自分の思考(考え方)や感情につながったとして、それを手放さなかったんだな、ということ。「わかった!を与えてくれた良いもの」として執着してたんだなあって。 (同じ執着でも「自分の意見の正しさを与えてくれた良いもの」として執着してみたりとか、人によっていろいろありそうですね) なので、導かれたら次は手放すというわけか、と今わかります。 やってなかったということも、今わかります。 あと、しんどくなる時は大抵は次のどちらかだなということも。 ACIMで言うなら、自分が神に打ち勝とうとしてるみたいな態度の時か、あるいは神様に全部おまかせでわたしはなにもできませんみたいな態度の時。 エドガー・ケイシーさんは疲れただろうなーみたいなことも思って腑に落ちるの巻。 助けを求められるということと、自分にパワーを感じられるということが両立しているのが大事だなあ、とかも思いました。 行動する前に、自分の内側に変わらずに存在し続ける神聖な部分に問う、それから「わたしが」行動をする。 まだまだこれにも慣れてないなーというのもよく感じられます。 実際やってみると、これがいちばん楽なんですよね。 でもわたしはまだ、こんなんでいいのかなーとふうっと無意識に思ってしまうのです。 そう教育して(教育されて)きたから、これがいいぞとこれまで聞いてきたものをやらない、ということに不安が出てくるんだろうなあ。 これも執着する理由ですね。これを手放しちゃったらわたしはそれについて対処しないんじゃないかしら、って思うというか。 でも、まあ、慣れていないけど楽な方へ行こうとしています。 楽だけど楽じゃなさそうな方(笑) 明日は鍼治療の日〜。←楽しみな人 気が足りなくなってるっぽいので、気ってどうやって高めるんかなーとふと思ったら、ゲリーさんところで習ったものが思い出され、ああ久々にやってみるのもいいかもねーと。 で、あのワークを、体を感じることを意識しながらやってみたらどんなかね?と思っているところ。 ... はじめての鍼灸 - 2017年02月13日(月) 行って参りました。 以前はもう、新しいリラクゼーションサロン、行ったことのない整体には行く!くらいの勢いで様々なボディワークを受けていたわたくしでしたが、ジャックさんのところに通い始めてから全く行かなくなりました。 というのは、練習しあっているだけで心身が楽になるからです。 なので、もうすごく久しぶりです。ボディワークを受けたいと思うこと自体が。 今回なぜ受けようと思ったかといえば、最近体の調子がやばいぞと。(おいおい) 変調自体はもう少し前、去年の年末辺りからはあったのですけど、「今日はこんなことあったからなー」と強くストレスを感じたことが思い出せたりして、気持ちを新たにして!みたいな感じで過ごしていました。 なのですけど、最近は何も特に思い当たることもないのに、家に帰っても交感神経優位な感じで、朝起きた時にすごく疲れているし、心臓ドキドキしたり息が苦しい感じがしたりしていました。 もともと低血圧なのもあって朝はしんどいほうなので、ちょっと食事を血液を増やすようなものにしてみたりしていました。 そんな感じでいたところ、職場の人が、なんか体の調子がよくないんです、と。 今日受診しようかな、と言うので、そうなんだーわたしも最近ねーと自分の話をしたら、あれ?そうか、これわたしも受診したほうがいいんじゃね?とそこで初めて思いました。のんびりしてますな。 その日帰宅してネットで症状を調べたところ、自律神経失調症の症状がたくさん当てはまり、これは医者だな、と思いました。 脳の交感神経優位スイッチが癖になっちゃってて戻らないー!って状態なんだろうなーと思いました。 ということで、当初は病院受診予定だったのですけれど、でも病院行ったところで診断名をつけられてお薬もらうだけよね、、、とふと思いました。 1月に検診を受けていて、その時もデータ的に全く問題がなかったのもあって、今もひと月くらいしか経ってないし同じ感じだろうから診断もなー、様子見的な感じになるっぽいなーと。 (症状の程度も同じですし) わたしは実験くん性質なので、お薬を飲んで、それによる感覚の変化を体感するのは楽しみ(?)ではあるのですが、多分自分ではほぼ何もすることがないわけですよねー。 体に触れてもらえるわけでもないしー。 かといって、ジャックさんのところで慣れてしまったのもあって、ギュウギュウと体を強く押されたりしたいと思わないわけで。 ということで、鍼灸に行ってみることにしました。 行ったことないし! 予約をして入口に入ると、すぐにお灸の香りがしました。 お香の類が好きなので、もうそれだけでわたしはほっとします。 カウンセリングを受けて、脈をとってもらって、「あ、これ今、鍼を刺してるんだな」と思いながら鍼を打ってもらったり(つんと細い感触があるから鍼だなと思うだけで、全く痛くない)、それからお灸をすえてもらったりしました。 こ、これは・・・。 あったけえ〜・・・。 らくちーん・・・。 自分が今、体でどう感じているかの意識を向ける言葉をかけてもらって、今も胸に苦しい感じがあるなあって認識して、しばらくなにやら施術をしていただいて、あ、今緩んだな、とか自覚して。 そうしてまた胸に意識を持っていくような声掛けをしてもらうと、ああ、全然違うなー、と気づいたりして。 初診でカウンセリングや着替え込みで1時間くらいだったのですけど、すごいなって思いました。こんなにすぐに違いがわかるもんなんだ、って。 (東洋医学は、何度も受けていくうちにじわじわと効果が表れる、というようなイメージがあったので) 違いは分かりましたがまた戻ってきている感じはあるので、しばらく通う必要があるんだろうなとも思います。 (予約してきました) 鍼灸に関してはわたしは全く勉強をしていないので、どこにどんな意味があって何をされているのかなど全く知識がありませんが、なので久々に知識がないのを楽しみました。 何してっか、わっかんねー!みたいな。 知識を知るのもおもしろいんだけど、知識を入れないで経験をする、ダイレクトに感じることを楽しむみたいなのは、やっぱりおもしろいなと思いました。 本当に久々に「お客さん」を楽しみました。この感覚!懐かしい!楽しい! そしてわたしには、「お客さんのプロ」になりたい願望があるなというのも気づきました。 わたしのゴールはどこだー ... つらつら - 2017年02月12日(日) 最近内面的にですがいろいろ起こりすぎて、全部書こうとしたり全貌を書こうとすると途方に暮れるという感じなので、いちばん表面に今あるものを書こうと思います。 少し前にあったことですが。 わたしはその人(仮にAさん)が嘘をついている、とその時に思いました。 というのは、他の人から聞いていたAさんの言葉とまったく逆のことを、Aさんはわたしに言ったからです。 Aさん自身、その話をする前に、嘘をつく人に対して怒りを表現していました。そのように周りが見えているのだな、とわたしはその時聞いていたのですが、そのご自身が嘘をつくのを聞いて、なんだこの人は、とわたしは不信感でいっぱいになりました。 しばらくそのことが頭から離れませんでした。 でも今日ふと、Aさん自身は自分が嘘をついているという認識はないのかもしれない、と思いました。 わたしはその当時、わたしのことを試すためにAさんは嘘をついた、と捉えました。 わたしを信頼していないことを隠したまま、疑っていると感じました。 疑っているなら疑っているで構わないのですが、それを隠した状態でということがわたしが引っ掛かったところなのだと思います。 その時わたしは、なるべく正直に答えました。感情的になっている人を前にすると、逆にとても冷静になります。 今その時を振り返って、単にAさんは、他の人と話している時とは気が変わった、わたしが嘘をついていると疑った、その反応から言葉が出たのであって、その反応に対して正直であるから、自分では、嘘をついているように聞こえることをしている、という自覚はないだろうな、と思いました。 結局のところ、わたしに向けてAさんは自身が言ったことを実行するわけでもなかったので、その言葉は「やっぱり嘘だった」とわたしには処理され、そのように言葉を使うAさんをわたしは信用していない、という状態が生まれました。 わたしは人を信用したいほうなので、そこで葛藤します。(^_^;) これまでの人生でわたしはAさんのような方と数人出会っていて、でもわたしはそういうところをなあなあにしがちで(そういう場合に、とっさに相手に怒れる人がうらやましいようなところがある)、で、それが平和的かといえばなあなあにすると関係性が悪化するだけということも、なあなあにしなかったら好転したということも経験してわかっているので、ちょっと気を付けているところです。 なあなあにしがちなのは、大抵そのような方がその直後に弱い部分を見せてくるので、それでわたしは「良い顔」を出すというか同情するというかをして、なかったことにしてしまう感じなのですけど、相手がどういう表現をされててもわたしは同じく接しないとだめよね、と。 わたしは、その役割のひとは大変だな、と他人事でこれまで思うことが多かったのですね。 例えば「店員さん」とか「上司」とか「経営者さん」とか。 でも、たとえ自分がその役割ではなくても、自分の思い描く「そういう役割の人が持っているはずのものを持ってる人」に自分がならないことには、見本(サンプル)のひとつにもなれないし、求めているものの提示にもならないので、わたしもがんばろうと思います。 あと、今日少しうれしかったのは、わたしの文章も役に立つのだなと思えたことです。 自分はその人にそうしてほしい、そう感じてほしいとか望んだわけではなく、でも自分自身としてはするには当然なこととしてやっていることを、文章から感じ取ってもらえたこと、それに感謝されたことが、とてもうれしいです。 そうか、わたしはそこを当然なこととしてやってる、と気づけてうれしいし、自分をそのまま受け止めてもらえたように感じて、うれしい。 真摯に聞いてくれてありがとうございますと言われたけど、その言葉に、真摯に聞いていることを感じられるその人自身に、感謝が沸きました。 ... 英語 - 2017年02月06日(月) わたしは英語が苦手です。 なぜ苦手かって、左脳を使ってなんとかしようとするので苦手なんだなあということが最近わかってきました。 英語って右脳言語なんだって。 どういうことかっていうと、こちらの記事が参考になります。↓ 「なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか?」 日本語の左脳的な言語感覚はわたしはとても好きなものだし、そしてそちらを頻繁に使ってるのもすごくわかります。 これまでをふと振り返ってみたんですけど、おもしろいことに、わたしが英語が苦手に感じるようになったのも、左脳的に英語に触れるようになってからでした。 左脳を使う時の感覚、右脳を使う時の感覚、どっちを使っていたかなって振り返ってみると、英語はわたしは左脳で覚えようとしていて、そして「できないー」って繰り返してる、と。 それから、英語の学び始めは右脳っぽいアクセスだったなあ、ということも思い出しました。 (だから初めはおもしろかったのか、みたいな) ジャックさんのクラスに行ってジャックさんの話す英語を聞くというときに、英語が苦手なわたしの感覚としては、英語が聞こえてきた段階でどこかシャットダウンするんです(苦笑しかない)。そして通訳の戀都さんの話しか聞いてない、みたいな。 冗談かと思いますけど、ジャックさんのクラスで傾聴のクラスとかあるわけで、、、なのでわたしは自分自身が初めからシャットダウンしてるのがよく感じられる、と。 この感じはなんなのかなー、この英語アレルギー的な自分の反応は何なのかなーとずっと思ってきました。英語に嫌な思い出も別にないぞ?みたいな。 その自分の感覚に気づいたので、クラスに通い始めの頃よりは意識的にジャックさんの言葉、音を聞こうとするようにはなったのですが、それでもなんだか難しさを感じていました。 今、西澤ロイさんの「頑張らない英語シリーズ」の本を読んでるところで、とても思い当たるなあ、これは対応できることなんだな、とほっとしている、というのが今の状態。 わたしには時々、ほんとうに時々、英語を学びたい波が来て、そして去る、という感じがあって、今まさに学びたい波にいるのですけど。 これって、「右脳も使いたいっ!」という発作だったのかもなあ、と思ってるところです。 そして左脳を使っては、これじゃない感それをしたいわけじゃない感を味わってたと。(^_^;) 今回の英語の波が来たのは、ACIMのUrtextを自分で読みたい欲求からでした。 言葉のひとつひとつに触れながら読み進んでいきたい、そういう欲求から導入してるから、なんというか、左脳的に読むだけでは限界を感じました。左脳も右脳も使って読みたい、みたいな。今思うと、ですけれど。 言葉(左脳)があって、そこから感じられる自分の感覚(右脳)を探りながら原書を味わいたい。 ということで、右脳も使ってやってるかな?と意識して、ちょっと今回は取り組んでみまっす。 ... 昨日の続き。 - 2017年02月05日(日) 昨日の日記に書いたことの中の、朝に思った疑問とその答えを思い出したので追記の日記です。 昨日の朝、運転中にふと出てきた疑問。 わたしは「ひどい世界」「悲しい世界」を信じてるところがあるよなあ。 そして、それがそういうものだと諦めている。 何もしないという種類の諦めではなくて、知的に理解しちゃってるから諦めていて、でも悔しくて、ぎぎぎ、、、と歯を食いしばる感じ。 この「諦めの感じ」「諦めの感覚」、これってどうにかならないのかなあ。 あまり楽しい感覚ではないし。 という感じのものでした。 ね? 考えてもわかんなそうな疑問でしょ。 そして、日中ワークをしていて経験したことから出てきた、それに対しての答え。わかったこと。 「ひどい世界」「悲しい世界」を信じてるところが、その人はわたしと一緒だということ。 わたしは諦めていて、その人は諦めていないということ。 わたしは諦めているから、そこに文句を言っていても仕方がないと思っているし、文句を言うことでもわたしは自分が消耗する感覚がするので、だから「聞きたくないこと」と知覚する。 それだけの違いだったということ。 つまりは、根本的なところは同じだということ。 それがわかっていなかったということ。 諦めていない、そのパワフルさに触れること、触れて感覚を得ることは、そこに向き合わないと得られないということ。 その人が間違っているわけでも、わたしが間違っているわけでもない、ということ。 そして、その「根本的なところ」が異なるのが、避けていたものの「奥にあるもの」だということ。 避けていたものを通して「奥にあるもの」が重要なのに、その手前にある「避けたい」ものを重要視してしまいがちなんだな、ということ。 これらのことがわかりました。 書いてみると、答えが多いですね。 まとめてみると、それほど居心地がよくない「諦めの感じ」を感じるのは、フォーカスしてるところの違いからなのよ、という感じか。 奥にあるもの。 わたしはそれを、何よりも見たいと望んでいる。 また忘れると思うので言語化しておきます。 こうして書いてみて気づいたのですけど、知的な理解は助けにもなるけど邪魔もするなあと。 ふむふむ。 ... ACIM Lesson27 「何よりも自分は見たいと望んでいる」 - 2017年02月04日(土) ACIM。今日のワークはLesson27でした。 15分ごとに今日の想念を使う、というワークです。 今日の想念は、「何よりも自分は見たいと望んでいる」(Above all else I want to see.) わたしは単語帳にメモして今日のワークをポケットに持っています。15分ごとに今日の想念を使うというのも時間自体は意外にそんなに忘れないのだけど(何回かは忘れる)、今回はやっていてすんごくしんどかったです。 朝、家を出る前にこのワークを開始して、職場まで車を運転しているときにふとわたしに疑問が上がってきました。 その疑問は今思い出せないのだけど、それはわたしは初めて思った疑問で、まあ考えてもわからなそうなので、これってどうすればいいの?と問いかけて放っておきました。 問いかけておくとその内に答えがやってくる、それは読んでた本の続きに書いてあるときもあるし、誰かがそれを話してくれることもあるのですが、何かしらの形で答えがやってくる、そういった信頼をわたしは持っているのでそうしました。 そして、それは答えが来ました。 このワークをしているある時間に、わたしには聞きたくない内容の話し声が聞こえてきました。 今日のワークの想念は、「何よりも自分は見たいと望んでいる」なので、そのワークの想念を胸の中で読み上げると自然と、意識が積極的にその「私の聞きたくない内容の話し声」に向かう感覚になりました。それがわたしにはしんどかった。 でもそれが今日のワークなので、わたしはその聞きたくない話を耳を澄ませて聞いていました。 いつもならわたしは、ああ嫌だ、こういう考え方好きじゃない・・・と聞かないように、聞こえないふり、そういった心の動きをさせます。 好きな話ではないので、今日も特にそこに参加はしないのですが、聞こえてくる言葉をちゃんと聞くことにしました。 そうしたら胸が痛くて、胸が苦しくて、しんどい! いやまじで、しんどい! こんな風にこういった言葉を聞いていたら、わたしは死んでしまうがな! この先ずっとこうして「見たいと望んで」いたら死んでしまう!と思いました。 そう叫びだす一方で、わたしの中のどこかで「まあ、苦しくても死なないか」とふっと思いました。 それと、「その、今見えているものの向こうに、わたしが見たいと望んでるものがある」とも思いました。 それで、そうか、苦しくても死ぬわけじゃないか、とどこか安心したので、その胸が痛い、胸が苦しい体の感覚を積極的に感じてみることにしました。 感覚していたら、次第にその苦しい体感覚はなくなっていきました。 その上、いつものような、逃げるような耳をふさごうとしているような、そういった感覚も使っていなかったからありませんでした。 そして、 「ああそうだ、わたしの見たいものはそれを避けていては見れないんだ」 「見たいものは、その避けているものを通り抜けたその奥にある」 「避けているもの自体は望んでるものとは別のものだけど、それで見えなくしているだけでそこの奥にある」 そう感じました。 それが朝のわたしの疑問の答えとなりました。 あ、答えだ、というのは感覚としてわかるのですけど、そもそもどんな疑問だったか内容を忘れているので、どんな疑問にどんな答えだったのかというように言葉で説明ができないという・・・。 お風呂とか運転中とかってひらめきやすいですけど、メモが取りにくい・・・。 次に「見たくない」「聞きたくない」ような状況が来たとして、そのときどうなるかまた試してみたいなあと思っています。 ...
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