歪腐
 僕は歪んだものや腐ったものが好きだ。歪んで腐ったものなら尚更で、生きてゐやうが、人間でなかろうか、文章だらうが、食物だらうが、何だらうと歪んで腐ったものを眺めて居ると何だか嬉しくなってくる。
 「だから、僕は貴方のしてゐる事が嫌いでは無い。」と誰かに云ってしまふと直ぐ顏を顰められてしまふが、だから僕はある特定の生き物達を好ましく思って觀察してゐる。

 先ず、詩を詠む連中が好きだ。腐って歪んだ文化をまるで違ふものであるかの樣に主張する連中が好きだ。腐って歪んだものだと認めずに美しく純粹なものとして謳い上げるからこそ、言葉に意味が出てくる。素直に其の歪みと腐臭を感じてしまったら目も當てられぬ。
 黴も好きだ。適度な濕度と氣温で生育された菌類は實に美しい姿を現すからだ。
 斜視や歪視の人間も好きだ。彼らの視點は何處か別の世界を見てゐる事がある。其の視線の先を追ふのが好きだ。
 己の愚かさを認めずに己を賢いものとして生きる連中も好きだ。自分を愚かではないといふからこそ眞に彼らは愚かなのだ。其の愚かさを見てゐると世の中に多種多樣の人間が存在するといふ事實に感謝し、笑顏で彼らを見守りたくなる。勿論、其の見守る僕も愚か者には違ひ無いのだが。

 好きでは在るのだが、其の理由を述べ連ねるとまるで嫌う理由の樣に他人には受け取られる。僕の述べるのは襃め言葉では無く厭味であらうと受け取る者も多い。
 嗚呼、何でそんなに他人の言葉を曲解して受け取るのだらう。僕は歪んだものが好きだと珍しく素直に告げてるのに。
 でも、そうやって歪んで受け取る類の人間もまた僕は嫌いでは無いのだ。
2004年03月27日(土)


 世祿侈富
 自分の中で考へを纏めてみた。

 親の金は親の金だ。何億あらうが、何兆あらうが、其の金は僕が費やすべき金では無い。
 親が持つ金は親が彼岸へ旅立つ迄は親のものであり、親の爲に費やされるべき資金だ。
 親が所持する財産が親より前の代から受け繼いだものであるとしても、先祖は子孫の爲に殘したのであっても、子孫が其の財産に頼って自活しない状態なんかを期待して殘した譯では無からう。

 僕は自分を露呈する氣は無い。記述は極力避けて書いてゐる。
 時折、書く事が無い時や自暴自棄になって一部を日記等に書いてゐる事がある。其の時はこれでいいと思っても必ず僕は後で己の愚行を悔やむ。
 弱い理由を曝け出しても強くはなれぬ。弱い自分を出すのも自分だからもう如何しようも無いが、僕は其の理由迄もを曝け出すのを可しとはしてゐない。
 僕は露呈してはいけぬのだ。

 判って居る事だ。他人の同情を引くやうな愚かな眞似をせず自活すべきなのだとは。
 けれども、親の援助を一切受けず實家の財産にも頼らずに働き續ける人を見るとそんなに努力し續けなくてもいいのでは無いのかと思ってしまふ。彼女の努力し續ける其の姿を僕は正視出來無い。
 彼女は己自身の力で財を築き上げる事が可能であると、亡き親の威光に縋り續ける親族達に自らをもって示して見せた。
 確かに彼女は親の七光りにも財産にも頼る事無く成功した。社會的には勝者であるとも云へやう。
 なのに、如何してこんなに僕の眼には彼女の姿が痛々しく見えるのだらうか。

 でも、だからこそ僕は彼女に是以上負擔を掛けぬ樣に自活せねば。
2004年03月26日(金)


 歪作品
 自分の歪みに合ったものを造り出さうとしてました。
 僕には變な拘りがありましたから、材料となる樹を選んで切り出すところから始めました。
 柔らかくて削り易さうな材質の樹を見付け出して、根元に少しずつ少しずつ鋸の齒を當てて刈り出し、やっと横倒しに倒れた樹の皮を剥ぎ取ったのです。
 柔らかい材質の樹でしたから、天日干しもろくにせずに僕はすぐさま材木を彫りに掛かりました。
 僕の歪みに合ふやうに、ああでもないこうでもないと、紆餘曲折を經ながらも僕に合ふ曲線に彫り上げたのです。
 出來上がつた彫刻の歪み具合はぴったりとはいきませんでしたが、それでも今迄彫り上げたものの中では中々の出來榮えでした。
 なのに、自分でも是以上のものは彫れぬだらうと思ふ程の其の彫刻に僕は今でも滿足出來ず、他人が彫り上げた作を手元に置きたくなってしまふのです。
 あの歪み具合こそ僕が求めてゐたものではなかろうか、いやこちらこそがぴったりなのではないだらうか、とあれこれ他の作を見るうちに僕は自分が求めてゐたものが創造だつたのか完成品であったのか判らなくなって行きました。
 ただ一つ判って居るのは、他人の作品は所詮他人の作品でしかなく自分の部屋に飾ってもいつかは飽きてまた別の作品に目移りしてしまふといふことだけ。自分の作であれば氣に入らなくなればまた手を加えればいい。だけれど、他人の作は弄れば弄るだけ僕の望んだ歪みから形が外れていくのです。

 柔らかい材質のものを最初から選んでゐたのは、僕の力量では堅い木材は上手く削れぬと既に知ってゐたから。僕の手が皮が薄い所爲か力の加減の所爲か、樫のやうな堅い材質のものを削ると手の皮が剥けてしまふし、堅さを克服しやうと力任せに彫ってゐては大怪我をするのは目に見えてゐたから。
 柔らかい材質であれば、それだけ早く僕の望む形を生み出す事が可能な筈でした。

 彫刻にせよ何にせよ、行ふ人間が同じだと同じ樣な結果しか齎せ無いみたいです。
2004年03月20日(土)


 優辛
 「若し貴方が心の底から優しい人に出会ったのなら、きっと其の人は心の底を抉られ続ける様な辛い目に遭った人でしょうね。」
 以前何處かの美人さんがさう仰つてましたよ。

 確かに其の通りなんだと、親友の過去の經驗を聞いて思ひました。
 自分の全てを否定して、毎日死ぬ事を考へて、毎日顏を上げて前に進まうと努力するのに其の顏に泥を投げ付けられる樣な日々。今は彼女が元氣で生きて居るからいい。笑つてよく我慢出來たもんだと口に出せるほど克服出來たからいい。
 でも、親友が苦しんでゐた其の時期に常に傍に居る譯にいかなかつた僕はいつも冷や冷やしながら親友を見てました。親友が怪我を負ふ度に、笑ひ方を忘れる度に彼女を追ひ詰める輩を憎く思つてました。
 なのに今の彼女はあの時期のお陰で精神的に自分は成長出來たのだからと、自分を苛めてゐた輩に禮を云ひたいくらいだと言ふのです。苛めた輩に出會はねば今の自分は無かつたからと、恨み言では無く禮を云ひたいのだと彼女は笑つて言ふのです。

 心底優しい人は心底辛い經驗をした人。
 そして、心底辛い經驗をした人は心底強い人になるのでせう。
2004年03月05日(金)
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