昨日は、パイレーツオブカリビアンを観てきました。HEROとどっちにしようか迷ったのですが、後悔。あまりおもしろくなかったです。途中で飽きてしまいました。その後、久しぶりに友達を外食し、ベトナム料理を満喫。そして、世界陸上。
今日は、朝から部屋を片付けて、3つのレポートの表紙を作ったり、沖縄の親父の知り合いに就職の件で手紙を書いたりと、雑用してました。しかし、普段は雑用を避けてしまっているので気がつかなかったのですが、雑用だけもそれなりに時間は経つものですね。雑用もやりようによっては楽しかったです。
夕方からマンガ喫茶へ行きました。いつもマンガ喫茶は一時間と決めています。一時間で2冊のマンガが読めるというペースですかね。結構、いい気分転換になります。飲み物が飲み放題なのですが、必ず飲むものがあります。カルピスとコーラのミックスです。カルピスとコーラを一対一の割合で混ぜると、これが美味。あ、もちろんカルピスは原液ではなくて、カルピスウォーターですよ。
女子のマラソンを観て、男子のリレー決勝を観て寝る予定です。明日は学校でお勉強の予定。
証明写真を撮るために朝からスーツ姿。久しぶりのスーツを着たらうれしくなって、鏡の前でにわか男前を見つめてしまいました。
いつも通り学校へ行きましたが、何だか今日は集中力がなくダラダラしてしまいました。今日は大勢のクラスメートが来ていたのですが、やっぱり一人じゃないと集中できないことに気がつきました。決して、周りの人が邪魔なわけではないけれど、やっぱり周りで話されると集中しようとしてもできません。そうすると、勉強している内容から心が離れていってしまう感じがします。一番いいのは、適度に人がいて寂しくなくて、でも、静かというのがいいですね。
今日は、必ず部屋を片付けます。どんなに遅くなっても片付けます。もう夏休みも終わりですし、気持ちを切り替えたいので、まずは部屋から手をつけます。
10:00起床 証明写真を撮りに行く 学校で勉強 マンガ喫茶でDr.コトーの6・7巻を読む 部屋の片付け
トップページに掲載している、「今月のお楽しみ」を書き換えてみて、「9月の楽しみあんまりないな...」と気づいて、かなりショックを受けています。
このところ部屋を片付けなければと思っていながら、まったく手をつけていない日が続いています。なんとも面倒くさいのです。誰か女の子が一人でも遊びに来てもらえれば、めちゃくちゃきれいになるんですけどね... 家にいるとどうしてもダラダラしてしまいます。パソコンでうだうだ遊んでいたり、テレビを観ていたりすると動くのが億劫になってくるんですよね。
どこかで、パッと気持ちを切り換える必要があるのでしょうけれど、そのタイミングが良く分からないのですよ。まあ、ゴミ屋敷になっていないだけましだと思っておきましょう。そのうち自然にきれいになる日がやってくるでしょう。
毎日、明け方3時ごろまで世界陸上を観てしまって、生活パターンが夜型です。夏休みですから、朝も特に大事な用事が詰まっているわKでもないし、変則ながらそれなりに規則正しい、健康的な生活を送っております。勉強も楽しいしねえ。
10:30起床 学校へ行く 帰りに本屋で本を物色(結局買わず) 阪神戦をテレビ観戦
今朝は甥っ子がぐずらなかったので、朝起きれず。
夏休み、学校で勉強するのを日課にしているからか、勉強が楽しくて仕方がない。どこから手をつけたら良いか分からなかった科目の全体的なイメージを掴み始めている。臨床で必要な事を想像しながら知識を取り込めるようになってきて、「俺は言語聴覚士になるんだ。」って気持ちがふつふつと湧いてきた。
やはりイメージする力というのは大事なようで、自分が沖縄の病院で、その病院には今まで無かった言語療法室を作り、頼られる先生として働く自分を想像すると、否応無し顔がにやけてくる。「そうなんだ、俺は人に必要とされたいんだ、そして、みんなが満足してくれるような療法ができるようになりたいんだ。」という初心がよみがえってくる。
そんな夢見て... と思う人もいるだろうけど、夢を見て何が悪い。夢を持たなければ、夢が現実になることはないし、現実にしたいと思う夢がなければ、生きていて何が楽しいのだ?「夢は実現できないから夢だ。」なんて知ったように言う人がいるけれど、そういうのを夢とは言わない。そういったことば遊びはたくさんだ。
沖縄に移住するぞ!という思いは、色々な相乗効果を生み出しているようだ。人間が、本当にやりたいと思ったことをやり始めると、色々な部分が影響されてうまく行き始める。不思議だが、事実だから仕方が無い。この調子でやりたいようにやろうっと。
10:30起床 快楽主義なのだ!を更新 学校で失語症の勉強 マンガ喫茶で「Dr.コトー」5、6巻を読む 阪神巨人戦をTV観戦
「実践!感想文」と「実践!やってみよ」をBlogの方に移しました。Blogの方は、とりあえず「快楽主義なのだ!」という怪しいタイトルにしてみました。Blogを使っていて、日記という形態にも限界あるし、Blogにすべて移してしまおうかどうか迷っています。でも、さんかくのしそうも残しておきたいのです。
Blogは主義・主張・思考を中心にして、さんかくのしそうは日常の出来事中心にしてもよいかななんて思っていますが、さて、ちゃんとした線引きが出来るかどうか...ちょっと時間かけて考えてみます。Blog止めてまた戻すかもしれませんし、まあ、気分次第です。
今日は、朝からギャ−ギャ−泣き叫んでいた甥っ子の声で目が覚めました。どうも母親(私の妹)が仕事に行った際に、「お母さん行かないで〜〜 ウギャ〜!!」という事だったようで、眠い目をこすりながら部屋の外に出ると、オムツ一丁で玄関先で泣き叫んでいる甥っ子を発見。「朝からまったく...」と思ったのですが、そんなに母親を追いかけたいのなら、納得いくまで追いかけさせてみればいいじゃんと思って、「お母さん、探しに行こうか?」と言ってみると、ピターッと静かになり、そそくさと洋服を着始めました。
で、もう近所にはいるはずのない母親を追いかけて、眠気まなこの私31歳と泣いた後で顔がぐちゃくちゃの甥っ子2歳が、通勤通学でごった返す駅前まで手をつないでテクテク歩いていったのです。ひとしきり歩いて気が紛れたのか、途中で買い与えた缶ジュースが嬉しかったのか、機嫌はすぐになおり帰宅したのでした。「俺ってなかなかこども扱いいけてるじゃん。」と思いながらも、変に疲れた朝でした。
7時半起床。 甥っ子の相手。 学校で嚥下障害勉強。 マンガ喫茶で「Dr.コトー」の3・4巻読む。
2003年08月25日(月) |
何が表現したいのか? |
10時に起床。 学校に行く。 自閉症のレポートを完成。 嚥下障害の勉強。 ヨドバシカメラでブラブラ。 マンガ喫茶で「Dr.コトー」を読み始める。(面白い!) Blogの使い道をダラダラと考える。 掲示板を探す。
言語聴覚士関連の掲示板を作り直そうと思って、レンタル掲示板を物色しましたが、なかなか思い通りのものがなくて断念。ログ保存が無制限で携帯からもアクセスできるものがいいなと思っていましたが、デザイン面や広告表示の仕方などで満足できませんでした。色々とやってみたいことはあるけれど、やっぱりCGIの扱い方勉強しないとやりたいようにはできませんね。
今、ネット上で興味深々なのがBlog(ブロッグ)です。アメリカで爆発的に増えている個人情報発信サイトです。日記を中心にしたホームページと何が違うかと言うと、Blogを作る際にHTMLの知識が要らないということと、ビルダーのようなホームページ作成ソフトを必要としないことでしょう。それと、書いた記事にカテゴリーが振られて、半自動的にすべての記事がカテゴリー化されたり、他のBlogにある似た内容の記事にリンクが貼れる(Track Back)というすごい機能がついています。
まあ、これまであった個々の機能が一つの形にまとまったものと考えれば良いと思います。ちょっとこのBlogを何か活用できないかなと考えています。よく考えてみると、私が情報を発信できるような立場の人間ではないということが一番の問題です。言語聴覚関係のBlogをと思ったりしましたが、ん〜、何を書けば良いか分からない。沖縄について書いてみようかと思っても、実はあんまり良く知らない。ちなみにこんなの(→Blog)作っては見たものの思案中です。さんかくのしそうを丸々移管するのもありかな。
このサイトも含めて、ん?自分は一体何を表現したいんだろう??って考えてしまいます。
9時に起床、2度寝してしまい11時に完全起床。 部屋の片付けをぼちぼちする。 ギター、ジャグリングの練習をぼちぼちする。 4時ごろから近くのドトールで読書&勉強。 今日は嚥下障害の勉強。
なんとも怠けた週末でしたが、今までみたいに怠けたことに対しての罪悪感は感じませんでした。気持ちの盛り上がりは好調で、なんとなく生活自体に楽しさが出てきたよう気がします。
とにかく生活の瞬間瞬間を一つ一つ楽しもうと思うことがいいのかもしれません。努力というわけではなく、「いいじゃん。ありのままで。」とふと肩の力が抜ける瞬間が増えてきたということです。
まだまだ、もっと楽しくなる要素があると思いますし、貪欲に「快楽」を求めていきますよ。「快楽」を求めるための努力は怠りません!
TOPページにも書きましたが、アール・クルーのライブに行きます。一緒に行きたいという人がいれば、是非連絡して下さい。ちょっと高いですけどねえ。スムーズジャズギタリストの代表的なアーチストです。
9:30に起床。 起き抜けにテレビ(あさパラ!)を観る、というか眺める。 甥っ子と遊んだりして過ごす。 15:30頃に散歩がてら最寄の図書館に行く。 図書館では、自分で「あるがままの生き方」というテーマを設定し約20冊を選んで片っ端から斜め読みする。 ブラブラと散歩しながら帰宅。 なんとなくボーッとしながら過ごす。
斜め読みした本の中からオッと思ったことばが二つありました。
1、『Enjoy yourself!』
この本の筆者がアメリカに行った時に、ホテルのビーチサイドでボーッとしていたそうです。昔から祖母にギチギチの教育をされてきた筆者は、そういうボーッとしている自分に対して罪悪感を覚えたそうです。立ち上がって部屋に帰ろうとしたちょうどその時、アメリカ人のご婦人がやって来て筆者に「Feeling good?」と話しかけてきたそうです。英語のわからない筆者は、その後何を言われたのか分からなかったそうですが、ご婦人が最後に「Enjoy yourself!」と言って去っていったそうです。筆者は、なぜか涙が止まらなかったといいます。
Enjoy yourself!という表現。この筆者の心境において、このことばは深いなあって感じました。日本語に直訳すれば「楽しんでね!」ということばにしかならないのですが、実はyourselfがつくことによって意味がとても深まります。英語ならでは表現でしょう。「自分で楽しみを見つけてね!」というニュアンスも感じられるし、「自分自身を楽しんでね!」というニュアンスにも感じられます。どちらにしても、自分を飾らずに素のままであることが楽しみの条件であるというニュアンスです。私も、Enjoy myself!しよっと。
2、『快感』
脳に関する本を数種類読んだのですが、いくつかの本に「快感」ということばが出ていて興味が湧きました。いずれの本も、人間の脳は常に「快感」を求めているのだそうです。そして「快感」こそが生きる力なのだとまで言いきっていました。「快感」が感じられないと人間は生きる気力をなくすそうです。確かに、どんなことでも楽しくやりたいし、心地好さを感じながら生きたいですよね。我慢することで何かが得られるのも快感ではありますね。我慢して得られると思っていたものが得られないと、とても不快ですが。とにかく、人間は、というか人間の脳は常に「快感」を求めているそうです。
単純に「楽しく生きよう。」「気持ち良く生きよう。」って思いを深めましたね。あと、「生きる事は楽しい。」って生きるという前提を「快感」として脳に入力すれば、生きている間に起こる大抵の事は楽しいって思えるんじゃないでしょうかね。それと、すべては「自分のため」だと思うことが、「快感」を簡単に生み出す方法じゃないかとも思いました。みんな本当はすべて自分のためなんですよ。そう思うとなんだかすっきりしてくるんですよね。このすっきり感も「快感」なんでしょうかね。
7時半に起きて読書。 9時頃から洗濯。 10時過ぎに家を出て学校へ。 学校では自閉症のレポートをする。 4時ぐらいに学校を出て、スポーツクラブへ。
そんな感じ。 一日って短いなあ。 時間が足りないです。
明日は土曜日かあ。 毎日が日曜日みたいな夏休みだからあまり関係ないけど。 学校で勉強できないのは残念です。 サイトの更新でもしようかと思います。 晴れればデジカメ持って散歩でも。
昨日、ふと思いました。 患者さんにQOL(Quality Of Life)=「生活の質」の向上を促す前に、自分自身のQOLが高くないと言語聴覚士なんて偉そうに言ってられねえなと。
自分自身の生活の質を上げようっと。
夏休みに入ってからの普段の生活と変わることのない朝を迎えました。多少、いつもよりも早く起きたのが違うくらい。
学校へ行っていつものように勉強をしていたのですが、夕方にある先生がフラフラと私の勉強しているところにやってきました。「どうや、最近の調子は?」という質問から始まり、30分ぐらい話し込んでしまいました。先生が最近興味を持っている事、これから研究したい事などを話していたのですが、最後にひょんな事から私の沖縄移住の話しが出ました。先生はびっくりされていましたが、「お前、思いきったなあ。それもいい人生かもしれないな。頑張れよ。」と肩を叩いて去って行かれました。
これまで色々な人に沖縄移住の話しをしてきましたが、今日はなぜかとても嬉しく感じました。一番、私の意図していることを汲み取ってもらえたような気がしたのです。もちろん、ただ沖縄に行きますだけではなくて、そこに至った経緯なども話しました。その話しを聞いてもらった時に、今までにないうれしさを感じたのです。「ああ、この先生、俺の思ってることを理解してくれたな。」と。
他人の気持ちを推し量ることは容易なことではありません。今までも、完全に人の気持ちなんてわかるはずがないと思ってきました。それはそれで間違ってはいないと思います。しかし、問題は話している相手が、どう感じるかということなのです。先生が、完全に私の気持ちをわかったかどうかを確認する手段はありません。でも、私はこれまでにない「わかってもらえた感」を感じたのです。そして、それは喜びだったし、頑張るぞというモチベーションにもつながりました。
わかるわからないの問題ではなく、わかろうとする態度が人の心を動かすのかもしれません。
テレビからは「目覚ましテレビ」、ステレオからはAC/DCのハードロック、携帯電話からはサザンの着メロ、クーラーは冷気を吐き出す。
今日は、朝から介護老人保健施設に見学に行くために朝7:00に起床。でも、最近11時ぐらいまでガーガー爆睡している人間にとって、7:00はまだ夜中。という訳でタイマー設定ができるすべての機器を7:00に動き始めるようにセットしました。しかも、携帯を始め、テレビ、ステレオ、エアコンのリモコンを部屋の隅々に離して置いたので、一斉に機器がうるさく動き始めたら、機器を止めるのに部屋中をかけずりまわらなきゃいけないのです。一発で目が覚めました。これはお勧めの方法です。
介護老人保健施設、業界っぽくいうと「老健」、で言語聴覚士の仕事振りを見学してきました。言語聴覚士が働く場は他にもいくつかあります。病院、施設、学校、保健所、開業などといった場などですが、「老健」は、ここでいう施設にあたります。施設には他に、「特別養護老人ホーム」(特養)というものがあり、「老健」とはちょっと違う基準で老人が入所する施設になっています。その違いについてはこちらをご覧下さい。(all about japan:特養と老健の違い)
なんだろうなあ、とても不思議な空間でした。やはり痴呆老人の方が多くて、家族では面倒見きれないから施設に預けられているようで、ことばは悪いですが「現代の姥捨て山」そんな感じでした。施設の職員の方は本当に誠心誠意、こころを込めて働いていらっしゃるのはよくわかるのですが、やはりあれだけ老人がいるとどうしてもルーチンワークになってしまうんですよね。流れ作業のようにレクリエーション→訓練→お風呂→体操→食事と流れていく老人を見ると、個々の老人の方は何を感じているのだろう?って思いました。スケジュールが決まっている方が良いらしいとは言えです。特に痴呆が進んでしまった方々の考えていることは計り知れません。
言語聴覚士は、入所されている方の失語症の訓練、通所で来られる方の構音訓練や嚥下訓練を行われていました。「てんやわんやで忙しい。」と言語聴覚士の方は言われていましたが、私から見ると、とても余裕を持って訓練されていました。午前中だけで5人の方の訓練をされていました。やはり同じ言語障害をお持ちの方でも施設に入っている方は、あまり回復の可能性がないので現状維持の訓練になるようです。人と会話する機会も減りますし、とにかく刺激を与えることだけでも訓練としては大事なことなのでしょう。
このところの勉強の知識が、現場のイメージとピピッと繋がって、何だかワクワクしてきた一日でした。さて、明日も7:00起床をキープしよっと。できるかな...
一回書いた日記でしたが、なんとなくやっぱり素直に書いていないので書きなおします。
とは言っても、結局は同じ内容なんですけどね。朝起きて学校行って勉強したというのが大枠で、新しいノートパソコンでなんか楽しく勉強が進んで、行きと帰りの電車の中で沖縄関係の本を読んで面白い!みたいなおまけが付くぐらいかな。(沖縄ナンクル読本は沖縄に移住を考えている人には面白いエッセイ集ですよ!)
昨日の日記は文体が違うことに気付かれましたか?昨日は昨日で、あのような文体で書きたい気分だったので、ちょっと堅め?の文体で表現してみました。色々な文体というのがあって、その文体によって色々な個性の表現のし方ができるわけです。人に読ませる文章を書くならば、そうした文体を考えなければいけないのかもしれません。でも、私はあまりこだわらないことにしました。こだわった時点で、本当の自分の考えや気持ちを自由に書くことができなくなってしまうような気がしたからです。
こうして公に文章を書くからには、読者の視点を意識する責任があるという方もおられるでしょうけれど、ん〜、別にお金いただいているわけじゃないし、私のありのままの表現を愉しんでくれている方もおられるでしょう。じゃあ、今までと同じでいいじゃん。ということになったのです。今日の日記も、昨日の文体にならって書きましたが、全然素直な表現ができないのでこうして書きなおしています。
何か得体の知れない価値観に、無意識のうちに縛られてることってあると思います。文章ひとつ書くのをとっても、色々あるんでしょうね。私は、気にしないことにしました。
一度は八時半に目覚めたのに、「もう起きなきゃなあ。」と思ったのに、結局起きてみれば十一時半。爆睡。なぜ、遅く起きることに罪悪感を感じなければならないのか?夏休みだし、別に悪い事をしているわけではないのに。本当に早く起きたいと思えば起きるのだろうし、別に起きる必要性がなければ遅く起きればいいという単純な話だと思う。恐らく何か早く起きる事を美徳とする価値観に縛られているから罪悪感を感じるのだろう。
そうした罪悪感を感じながら起きた朝はさほどいい気分ではなかったが、それを振り払いたいのもあって、朝食(昼食?)も取らずにそそくさとシャワーを浴びて学校に向かった。電車の中では、むしゃくしゃしていた気分を振り払うためにメモ帳を取り出して前向き思考を呼び起こすためのことばを書き連ねて、むしゃくしゃした気分を振り払おうとしてみた。「今日も明るく行こう。」「楽しくやろう。」と自らに暗示をかけてみるが、そんなことをしている自分を客観的に見る自分がまた別のところにいて、「お前怪しい宗教家?」と頭の中で話しかけてきて暗示どころではない。
何が、そんなに気分を落ち込ませるのか?この日記でも自分を鼓舞するために色々ときれい事を並べてきたが、なぜそんなに必死になってきれい事にこだわるのだろうと考えると、意外とそれに対する答えはない。昔の調子の良かった自分に戻りたいという気持ちなのか?いずれにしろ必死になって自分の心をコントロールしようとして、まったく自分に無視されている自分が滑稽だ。
学校のラウンジで、宿題として出ているレポートをやり始めた。なんとなく方向性だけつけたが、後は喋ったり、食べたり、寝たり。「怠惰な人間」という立て看板つけて見世物にしたら意外と面白かったかもしれない。それぐらい典型的なだらけぶりだった。人間の本来の姿といえばそうなのかもしれないから、まあ、後悔はないけど。
帰りにまた本屋に寄った。「また」というのは、ここ最近毎日のように本屋に立ち寄るからだ。ずっと感じている生活上の閉塞感に対する特効薬が、本屋に行けばあるかもしれないと期待しているのだと思う。そんなの無いのわかっているのに。で、誘惑たっぷりのタイトルが並ぶ「自己啓発」「心理学」の書棚に向かってしまう。しばらく本を吟味するが、「やっぱり本じゃ本当の答えは見つかんねぇ。」と思いなおして本屋を出る始末。心は空虚。なんだか満たされない。その満たされない気持ちが、なぜか性欲に転化されてしまって、帰りの電車の中で女性を見ては「やりてー。」とか「彼女が欲しい。」とか、まるで動物のような気持ちになってしまう。まあ、動物だから仕方がないけど。
あるべき姿にとらわれている自分。自分で自分を首締めて苦しんでいる自分。それを1歩下がったところからみて嘲笑している自分。何だか滑稽な人生だな。
妹が次から次へとパソコンに関して質問をしてくる。英会話を学んでいる母親が、英語が喋れる私に英語のことを色々と聞いてくる。世の中、やたらと無神経な質問をしてくる人が多くないでしょうか?
私は、自分でパソコンをやってきました。あーじゃないか?こーじゃないか?と自分で試行錯誤しながら覚えてきました。英語に関しても自分の積極性や絶えぬ好奇心が会話力を高めてくれました。マニュアル見れば済むことや、辞書を調べればわかることを人に聞いたことなんてあまりありません。でも、自分で考えたり調べることを普通だと思っていない人が世の中にはたくさん居て、そういう人達と一緒に働いたり生きていかないといけないとはまったくもって面倒くさいのです。彼等が自分達ではどうにもできないんだという老人や子供とかだったら話しは異なりますけど。
質問すること自体はとても大事なことです。質問するには疑問を持たなければなりません。そして、疑問を持つとは、物事に対して深い関心を持っていなければできないことがほとんどです。そうした好奇心旺盛な人と話すのはとても楽しいし、質問される側だって色々な発見があるのではないでしょうか?しかし、質問にもレベルがあると思うのです。自分で考えた挙句の果てにやはりどうしてもわからなくなって人に聞くのならそれはとても価値のある質問でしょう。でも、何の調べもなしにいきなり質問してくるのはとても失礼に感じるのです。
たまに調べる手間も要らないようなことさえ聞かれたりしますが、そうなるともう開いた口がふさがりません。感情を顔に出すタイプの私は、如実に嫌な顔をします。汚いことばで申し訳ありませんが、「自分で考えろ、ボケ。」と思ってしまうのです。社会人の時には、新入社員にこれを言ってしまい、泣かしてしまったこともあります。こんなことで切れてしまってはいけないのでしょうけれど、自分の仕事が忙しい時や、自分の時間を楽しんでいるときに、本当に何の工夫の後も感じられない質問をされると切れてしまいます。
後、こちらが知っていて当たり前みたいな口調で質問されるのも困ります。こちらが答えられないと、「なんだ知らないのか。」みたいに言われるのがとても嫌ですね。またまた汚いことばで申し訳無いのですが、「俺はお前の辞典か、ボケ。」「俺の時間と労力をこんなことで無駄にしやがって、金払え、ボケ。」と思ってしまいます。加えて、「お前は一体何様じゃ?ボケ。」とも思います。本当に汚いことばの羅列で申し訳無いのですが、最近、こうして思ったことを口に出す事が多くなってきました。耐えられないのです。挙句の果てに、こういう質問をする人は言います。「冷たい。」「やさしくない。」
私が教える仕事をしているなら答えますよ。「あ〜、君にはこんなのもわからないのね。じゃあ、手取り足取り教えてあげますよ〜。」ってな感じで。
誰か特定の人に対してではありませんが、自分でパソコン買っておいてアホみたいな質問してくる妹と、たくさんの教材に囲まれて英語を勉強することに生きがいを見出そうとして、それを見せびらかすために私を使う母への愚痴でした。
「ご注文のLOOXが入荷されました。」との連絡を昨晩受けて、早速、引き取ってきました。
メタリックブラックのボディは、これまでのパソコンにはない格好良さで、そのパフォーマンスよりも見た目に惚れ惚れ。この小さなパソコンが、今使っている場所を取るパソコンよりスペックが高いというのが信じられません。本当に、パソコンが進化するのは早いです。
特にパソコンおたくでもない私が、これほどまでにデジタル化していくとは思っていませんでした。5年前にカナダでインターネットというものを自由に触れる機会を得て、Tripodで悪戦苦闘しながら初めて作ったホームページがきっかけで、どどどとネット関連にのめりこんでいったのを考えると不思議な感じです。それを履歴書の特技の欄に書いたが故に、花屋に就職したにも関わらずネット関連の仕事をさせられたわけですし...
自分の表現手段としては、パソコンが普及する前から、ワープロは使っていました。自分で新聞を作って、知り合いに送ったりしていましたから、今のホームページの基礎はその辺りから始まったと言っても過言ではないと思います。自らを表現することで、やはり考える癖がつきました。物事を様々な側面から見るようになりました。また、ことばそのものについて以前よりも考えるようになったかな。
今回の新しいパソコンは、そうした自己表現を続けていく道具として活用していくのはもちろんですが、今度は、人に役立つ使い方というものを考えていけたらなと考えています。私が目指す言語聴覚士の範囲で、パソコンを使った訓練などの可能性を広げていけたらなと思っています。そのために、コンパクトなノートを買ったわけですし。
道具は使い方によってその価値を変えるんですよね。要は、使う人次第なのです。高い買い物でしたが、活かすも殺すも自分次第ということですね。
昨日のテレビの話を実践し始めました。テレビ欄を確認し、見たいテレビは録画する。リアルタイムでのテレビは極力避ける。というものです。とりあえず、今日は探偵ナイトスクープぐらいかな。
午後から久しぶりに大学時代の後輩と会いました。好きなカフェ(Landscape Cafe)に行ってうだうだと喋って、三ノ宮をぶらぶらと散歩しました。昔の話をしてると、とても昔のことだと思ってたら、意外とまだ時間が経っていないんだなという事に気がつきました。この数年間で色々ありすぎたんですね。
色々あると時間は長く感じるのか... と改めて思いました。充実した時間を過ごすと、あっという間に時間は過ぎていくのだけれど、後で振りかえると長く感じることが多くありませんか?例えば、スキーに行った時とか、日中遊んでいる時間は短く感じるんだけど、帰宅して振りかえってみると一日が妙に長く感じたりします。
ボーッと過ごした日の夜は、なんだか不思議とやり残した感覚があって、一日が短く感じられて、なんか寝つけなかったりするものです。時間の感覚って面白いですね。時計に示された時間とは別に、自分の主観的な時間の流れがこの世にはあるのではないでしょうか?時計はあくまでも基準でしかないのでしょうね。
毎日、振り返ったときに「満足満足。」という気分になって眠りにつきたいものです。
サイトのリニューアルもひと段落着きそうです。
今日は朝から雨でずっと家で、テレビを観たり、パソコンをいじったりと何ともまあぐうたらな生活でした。先日読んだエッセイ集に、「テレビは本当に良くない影響しか及ぼさない。」と書いてありましたが、本当にそう思います。テレビだけでなくて、画面を持つ物のほとんどが思考力を失わせる何かを持っているのではないかと感じました。パソコンも携帯電話も、このサイトを作る際に必要不可欠なツールなのですが、やはり使用時間が延びると頭がボーっとしてきますし、目が疲れて肩も凝るのです。
本に書いてあることを鵜呑みにするのはどうかと思いますが、昔から私自身もテレビによる弊害を問題にしていました。でも、自分自身が、テレビやパソコンへの依存から抜け出せない状況で、あまり大きな事を言えるわけでもなくここまで来ました。しかし、そろそろ生活の中から受身になりがちなテレビなどの使い方をしっかりとコントロールする必要があるなと感じています。
1)無目的にスイッチを入れない。 寂しさしのぎにテレビや携帯を使用することが多いので、よくありません。その寂しさを家族との会話や、友達との会話に当てることが大事だと考えます。何かしないといけないという焦りから、パソコンなどを使用して、あたかも目的を持っているようにわざと錯覚させる事があります。本当にやるべき事から逃げないようにしなければいけません。
2)リアルタイムのテレビはできるだけ観ないで、ビデオに録画してから観る。 テレビに関しては、観たい番組があるのは避けられないことです。テレビを無くしてしまう事も一つの案なのでしょうが、ビデオが観られません。そこで、そのビデオを上手く利用してやればいいのです。録画することによって、民放の場合はCMを飛ばすことができます。多分、放送時間の1/3ぐらいカットできるのではないでしょうか?リアルタイムで観ると、スイッチの切るタイミングを失い、気がついたら夜中だったということも多々あります。時間を大切にするのを含めてビデオで録画してから観ることにします。
3)本当に必要か?と問う。 以前、私はテレビをまったく観ない生活を2年くらい過ごした事があります。テレビを観ない生活を送り始めると、別にテレビがなくても楽しいことはたくさんあるし、情報不足になることもまったくありませんでした。無ければ無いで困ることはないのです。どんなときも、「本当にこの番組を見る必要があるのか?」「本当にパソコンじゃないと出来ないのか?」「携帯を見る必要があるのか?」という事を問いたいと思います。
昔、自分がテレビで寂しさを紛らしていたときですが、「テレビは悪魔だ。」と思っていた時期がありました。心の隙間を華やかな笑いや感動で埋めてくれるのと引き換えに、考える力と時間を奪っていったと感じていたからです。本当は、現実の笑いや感動が必要だったのでしょう。自分がテレビやパソコンや携帯に費やす時間が増えてきたら、もしかしたら、生活において何か満足できていないことがあるのではないか?という自省を進めて、そして行動によって足りないものを埋めていく努力が必要でしょう。
にやけた自分の顔がブラウン管に反射し写ったのを見て、悪魔の笑いに見えたのは私だけではないはずです。
朝起きて、テレビでちょこっと高校野球見て、レンタルビデオ屋に行って、マクドナルドでちょっと勉強して、帰りに散歩がてら近所を歩き回って、帰ってきてからは部屋の片付けとビデオ鑑賞と、何も特筆すべきことの無い平凡な休みの日となってしまいました。
こうも何もないと何かしなくては...という気分に駆られてしまいますね。休みの日は自分なりに目的持って生活しないとだんだんと頭がボーッとなってしまいます。学校に行って勉強したいのですが、学校もお盆休みでしまっていますし、何か違う方法を考えないといけません。家で勉強できる方法を考えよっと。
今、「宝地図」というものを作っています。「夢を叶える宝地図」なるサイトに紹介されていて、なかなか面白そうだったので作ってみる事にしました。最初はなんか怪しいなと思いましたが、まあ、やる事はとてもシンプルで特別なお金がかかるわけではないのでとにかくやる事にします。方法はいたって簡単です。コルクボードに欲しいものや、将来こうなりたいといったイメージが表された写真・イラスト・メッセージ等をコルクボードに貼っていくだけなのです。自分の望む未来を視覚化していこうという事なんでしょう。
なぜに、この怪しげなものに対してすんなりと試してみよと思ったかというと、自閉症のこどもにはこうした視覚化による指導というのが実際に行われていて、しかも効果を上げているからです。ちなみに自閉症というのは、決してうつ病などの心理的な疾患ではなくて、先天的に脳に器質的な障害を持って生まれてきたために、社会的相互関係の障害、コミュニケーション能力の障害、反復常同的あるいは執着的行動という症状が表れる発達障害です。
自閉症の方には、視覚的な刺激が聴覚的な刺激よりも反応が得られるということが多く見られます。自閉症に限らず、人間にとって視覚的なイメージというのは、情報として入力されやすい特徴を持っているようなのです。そうしたことを考えると、確かに怪しげな「宝地図」ではありますが、人間の特性をうまく利用していると考えられるのです。
まあ、私の場合は「夢を叶える」なんて大げさな気持ちはなく、単に普段の生活における目標を明確化したいのです。例えば、最近話題にしている沖縄移住をもっと明確に視覚化すれば、沖縄の海・空・そして町並みなどをコルクボードに貼れば、よし、沖縄ライフを送るためにも頑張ろうというふうにモチベーションがグッと上がるわけです。あれしたい、これしたいという欲望を、実際の行動に移すことが人生において何より大事と思っていても、その欲望が曖昧なイメージでは行動への刺激としては不充分なこともあるでしょう。
そういったことより、写真とかイラストをベタベタコルクボードに貼ること自体が楽しそうなんですけどね。
今日「実践!フォトメモ」に掲載した「ダイヤ」ということばに代表されるように、私たちの周りには当たり前のように使われているけれど、実はその意味や本質がわかっていないということがたくさんあります。逆に、そうした人間の特性をうまく利用して人間をコントロールする人達もいるわけです。そうした当たり前に思っていることを改めて問い直す事は非常に大事なことだと思います。
でも、それを公に表現するのはとても勇気のいる事です。例えば、なぜ6歳になったら小学校に行かなければならないのか?私にはその根拠が良くわかりません。個人それぞれで発達の速度は違うわけですし、画一的に決めてしまうことに疑問を感じていて、もっと違う制度を考えるべきではないかと思っています。このように、世の中では当たり前、あるいは、常識として扱われている事柄に対して疑問の声を上げても、決して良い反応が得られない事の方が多いのです。
こうした当たり前の事について考えることについて、「無駄」と感じる方もおられるかもしれませんが、私は無駄とは思いません。こうした当たり前の価値観(当たり前と言われているに過ぎない。)に対して疑問を抱くことによって、より良いものが見つかる可能性があるからです。当たり前のものを当たり前のように受け入れて過ごすのは楽ですが、そうした楽な状態は人々の考える能力を衰えさせ、本来、間違っているものを無関心に正しいとしてしまう流れを生み出しているのではないでしょうか?
私は制度によって無関心なまま「生かされる」のではなく、自らを「生かす」ために常に常識や当たり前にチャレンジしていきたいと思っています。
まあ、あくまでも私の生き方ですが。
夏休みに入ってから、コンテンツを一気に増やしましたが、これだけのコンテンツを今後も継続できるのかどうかなんてあまり考えていません。
昨日も友人と話していましたが、やはりやりたいと思ったことをどんどんやっていく事が大事なのです。やってみて性に合わなければ止めればいいし、性に合えば努力しなくても続くものなのです。これってすごく単純なことなのですが、実践するのはとても難しいのです。なぜ、こんな単純なことが難しいのか?個人的にも具体的にこうしたからこうなったというのは良くわかりません。
敢えて挙げてみるなら、二つの事がきっかけでした。一つは、自分自身の本当の欲に気付くということです。もう一つは、この今の瞬間はもう戻ってこないということですね。
人それぞれ価値観が違うので、これが正しいというのは無いのですが、確実にあるのはその人にとって何が人生で一番大事なことか?ということに気付くことではないでしょうか?お金の人もいるでしょうし、異性の人もいるでしょうし、勉強という人もいるでしょうし、仕事という人もいるでしょうし、名誉という人もいるでしょうし、自然という人もいるでしょうし、それは千差万別です。そうした自分が本来持っている欲を追求できれば、いい人生しかないはずなのです。ただ、それを見つけるためには色々なことにチャレンジしていく必要があるでしょう。チャレンジしていく過程で、「お?これは違うな。」と感じるときは変えればいいのです。
変えずに「初志貫徹」なんて意固地になっていると、今という時間がどんどん耐える時間になっていってしまいます。耐えることから学ぶことも確かに多いでしょうけれど、一体何を学ぶのでしょうね。私の場合、耐えることを学んだおかげで、人生の楽しみが少し減ったと感じました。やりたい事をやるために耐えているのであれば、確かに意味はありますが、耐えた先のやりたかったことが思っていたものと違ったら、耐えた時間は無駄な時間になります。やっぱり、できる限り耐えるなんてストイックな受身な姿勢は回避していくべきだと思うのです。
中には、耐えるのを楽しんでおられる方もいるでしょう。それは、あきらかに私の言っている「耐える」とは違う質のものなのです。それを楽しんでいる時点で、その人にとってやりたい事をやっているわけですからね。そういう人もいるでしょう。目的よりも過程に重きを置くならば。
決して、様々な価値観を否定するわけではありません。私の浅い人生経験と、浅い思考を基準すると、根本的に人間はしたいことをするために生まれてきたとしか思えないのです。そう考えれば、こんな楽しい人生はないわけです。楽しめるか、苦しむかは、それに対する意識というよりも、行動で決まるのです。やりたい事をして、やりたくない事は避ければいい。人生を楽しむ方法なんて、しごく単純な事なのだと私は考えます。
2003年08月10日(日) |
再考 さんかくとは? |
格闘技のPrideを観ました。すごい試合の連続でした。
私のサイトのタイトルはさんかくのしそうで、○か×という二元論というのを否定するところから入っているのですが、格闘技を始めとする競争の世界には、○か×しかないのです。彼等の仕事は○か×が必然的に出てしまう中で、できるだけ○を得る事なのです。で、試合を観ながら、私達も実は、無意識に○を目指して人生を過ごしているのではないのか?とふと思ったのです。
すなわち、すべての人は基本的に「自分にとっての○」を追い求めているのではないかということなのです。自分自身にとってやはり○でなければ、それは満足な気分にはならないですし、満足な気分の得られない状態で充実した人生は望めませんよね。私自身もやはり自分にとっての○を求めて人生を送っているわけです。そう考えると、さんかくのしそうという名前をつけた動機はなんなんだろう?と改めて考えざるを得なくなりました。
動機は単純なことだと気がつきました。自分ではない基準に「お前は○だ。」「お前は×だ。」とやられることに対する反発が、さんかくのしそうという名前には反映されているのです。それは、私自身がこれまで感じてきた他人や社会からの圧迫感への反発を表現したものなのです。「他人によって○か×かと審判される筋合いはないんだ。」「俺は○でも×でもないんだ。」という拒否の気持ちがさんかくという表現に置き換わったのでしょう。
他人の○×という基準から精神的に逃れた後には、やはり自分にとっての自分の人生を考えなければならない時がやってきます。今、私が追い求めるべきは自分にとっての○なのです。自分自身の人生は、やはり、「さんかくのしそう」ではなく、「まるのしそう」じゃないといけないのだろうなと、倒れる桜庭選手を見ながら感じました。俺は、倒れたくないもん。
2003年08月09日(土) |
ことばじゃなくて人にパワー |
朝から大リーグを観ました。イチローと松井が出てましたね。松井のホームランはリアルタイムでは見れませんでしたが、リプレイで見ました。弾丸ライナーでスタンドインって、すごいなあ。昔、テレビでやっていた話ですから、有名な話だと思いますが、イチローと松井の意識の違いというのが紹介されていました。
それはホームランに対する意識の違いです。イチローは、「ヒットの延長がホームラン。だから常にヒットを狙います。」松井は、「ホームランの出来損ないがヒット。だから常にホームランを狙います。」というのだそうです。これぞプロフェッショナルというコメント。このことばを聞いただけで、ワクワクした気持ちになりませんか?何かを突き詰めて、そして結果を出している人のことばにはパワーがありますね。ことば自体にパワーがあるのではなく、やはり、そのことばを言っている人にパワーがあるのでしょうね。
私もパワーのあることばが出せる人になりたい。
今日のカウンタがいつもより多いのは、管理者の私が更新しまくったからです。決して人気が急に出た訳ではありません。人気が出たといっても100ヒットも行ってないけど。
このところサイトの更新が楽しくて、毎日、どこかしらをいじったり、新しいコンテンツを入れたりと楽しんでおります。見ておられる方は、コロコロと変わるサイトをどう思われているのでしょうね。「いい加減に落ち着いたら?」「飽き易い奴だなあ。」と思われる方もいるでしょうし、「いつも変わって楽しいなあ。」「新しい発見があっていいなあ。」と思われる方もいるのでしょう。
本人は意外と前者でして、「いい加減に落ち着いたら?」「飽き易い奴だなあ。」と言いながらやっております。ホームページというのは、色々な表現の仕方を可能にするという点で優れています。色やレイアウトなども一つの「私」を表現する要素なのです。常連さんは、どこかで無意識のうちに、「おっ、何だかふっきれたな?」とか、「あらま、また無味乾燥な。」という管理者の気持ちの変化をサイトの雰囲気から読み取っておられるのではないでしょうか?
そういった意味で、今回のリニューアルは個人的に非常に良いリニューアルとなりました。以前は、色気のかけらもなかったサイトが青々としてきたでしょ?ただ、背景に模様がついただけだって?いやあ、そうなんですけど、それは恐らく実際に私を取り巻く環境に色がついたからだと思うのです。これまで私が見ようとしてこなかった色が見えてきたとも言えるかもしれません。
「ベルリン天使の詩」という映画で、天使が人間の女性に恋をして、人間になる決心をし天使の永遠の命と引き換えに人間世界に下りてきた時、それまで白黒だった世界に色がつきます。高校生だった私は、映画館でそのシーンを観た時、はっと息を呑みました。そのシーンを思い出しながら、「やっと、私も人間らしくなったのか。」と、元々天使でもなんでもないのにつぶやくのです。
夏休みということで、ゆっくりとした生活を送っています。ゆっくりしすぎて、お腹のお肉もゆるみぎみです。ぼよよ〜ん。
日記を書きながら今日一日を振りかえってみると、何をしていたかが思い出せないことってありますね。あ、やばい。記憶障害かな?って焦ったりします。ところが、夏休みに入って自分でやりたいことを好きなようにやり始めると、一つ一つのことを鮮明に覚えているのです。不思議です。夏休みに入ってから変わったことといえば、やらされる生活からやりたいことをやる生活になったということでしょうか。やはり、やらされるのとやりたいと思ってやるのとでは、時間の感じ方や内容の濃さに雲泥の差があるのですね。記憶にも関係してくるのですよ。
さて、時間もあるということで、トップページのプチリニューアルと、新しいコーナー「気楽に生きます」を追加しました。夏休みに入ってからというもの、何か一つ吹っ切れた感じがあります。沖縄の件も含めて、なんだか順調なのです。ちょっとした意識の変化もあり(何でも感想文の書籍のところに少し書きました。)近頃、気持ちが非常に楽チンです。
なかなか楽しい毎日だぁ
ちょっと絵を始めたいと思っています。そんな難しい事をしようというのではなく、ちょっとしたペンを使った線画です。
なぜそう思ったかというと、最近、パソコンにかじりつく時間や、テレビを見る時間、それから意外と携帯を見ている時間が長いのです。よくよく考えて、すべて画面を眺めているということに気がつきました。本を読む時は大体電車の中なのですが、しばらく字面を追っていて疲れてくると外の景色を見ます。テレビ・パソコン・携帯の場合は、夢中になると画面を見っぱなしなることが多いのです。
もっと外の景色を良く見てようという気持ちもありますし、趣味を増やしていきたいという気持ちもあります。あわよくば、将来仕事でこうした趣味が役に立てばいいなとも思います。始めたけどなかなか練習が続かないギターに次いで、ホンマに続くんかいな!?という不安もあります。が、そんな事を言っていたら何も始められませんから、とりあえずやってみようと思っています。
こうやって色々なものに不安を無視してチャレンジしていけば、そのうちしっくりくるものが見つかるとも思うのです。それに、何かのきっかけで3日坊主で終わってしまったものでも、後で夢中になる可能性だってないとは言い切れないのです。人生、何があるかわかりませんからね。とにかくチャレンジこそが人生だと思って楽しむしかないのです。始めなきゃ始まらないですからね。
2003年08月05日(火) |
あるべきところにあれば... |
散らかすのが得意です。片付けても2日で、元の散らかり状態に戻ります。
散らかすには原因があるはずだとずっと考えていますが、いまだに答えは出ません。もちろん、私のぐうたら加減が主な要因ではありますが、それにしてもぐうたらならばぐうたらなりに散らからない方法があるはずです。人間の生理に合わして機械の仕組みを合わせることをコンパティビリティーと呼ぶそうです。例えば、押して出るドアには取っ手をつけずに、引いてあけるドアにだけ取っ手をつけると、「押す」とか「引く」ってドアに書かなくて済みます。
聞いた話しですが、どこかの外国で市街地のど真ん中に芝生が美しい公園を作ったそうなのですが、1ヶ月もすると芝生を斜めに横断するように芝生がはげて獣道ができてきたのだそうです。どうも公園を斜めに横断した方が便利に感じる市民が大勢いたようなのです。そこで、その町の公園担当者は、その獣道をレンガで舗装して歩道に変えたそうです。これもコンパティビリティーの一つの例でしょう。
そんな例を出して、私が部屋を散らかすのとどんな関係があるかっていうと、部屋の中に置かれている物たちも、コンパティビリティーを念頭に入れて整理されていれば、片付ける努力をしなくても、散らかる事はないのではないか?ということなのです。例えば、私はCDをかけた後、必ずコンポの前にCDを積み上げてしまい、後で元々置いてあったラックの中に一斉に片付ける作業を行いますが、良く考えたらコンポの前に積み上げておくのが一番散らからない片付け方なのです。
そう考えると、部屋の中にある様々な物たちのあるべき場所というのがあるはずなのです。ということがわかっていながらそれを実践できないのはなぜなのか?そこが不思議なんですよね。やっぱり私のものぐさな性格が最大の原因なのでしょうか。
ふと思ったんですけど、「働」という漢字を分解してみると「人」が「動く」に成るんですね。
正直なところ、私は働くのが嫌いです。その理由は、恐らく働くということが多かれ少なかれ、自分らしさでいる事を犠牲にしなければならないというイメージを持っているためです。私のイメージですけれど。何の為に働くかと考えると、まず思いつくのが大人として自立するためという理由ですかね。経済的に自立すること、社会的責任を負うという意味で社会的に自立することでしょう。しかし、こうした自立という言葉の裏には、なんとなく社会に組み込まれて歯車として働くという意味が見え隠れしているのです。
恐らく、人それぞれ感じ方は違うのでしょう。育ってきた環境や、働いている環境で大きくことなるので、一概に私の持つ働くということへのイメージが他の人と共通したものだとは思いません。とにかく、私にはそうしたイメージしかありません。少なくとも以前のサラリーマン時代には、働く事に何の意味も見出せませんでした。まあ、気がついたら銀行の口座に大金があったという意味はありましたが。
しかしですね、今日、ふと「働」という漢字を分解したら「人」が「動く」という風になるじゃんと思った瞬間に、働くという言葉がこれまでの暗いイメージから開放されたんです。人が動くということは、人が生きているということそのもではないか!と思ったわけです。生きているということは、人が動くことそのものですからね。そう考えた瞬間に、働くという言葉を、経済的自立とか社会的自立に関連付ける思考が、実は、働くという言葉が本来持っていた意味を制限してしまっているのではないか?と考えたわけです。
すなわち、人が動くことは働くことなんではないか?もっと言えば、生きている事自体が働きなのだということです。生きている事だけで、何らかの役割を果たしているとは考えられないでしょうか?ただですね、人が動くという見方と同時に、人に動かされているとも分解の解釈はあるわけです。働くとは、人に動かされることなのか?それとも、人が動くことなのか?働いている本人が、どう感じているかで決まるのかもしれませんね。
私は、働くとは人が動くこと、その立場でこれからも働いていきますよ。こうやってホームページを作るのも、私の働きなのです。
いやー、今日は暑かったですね。汗だくです。今日は、ゴンチチのコンサートに行き、その帰りに淀川の花火大会に行き、夏休みの一日を堪能しました。
ゴンチチのコンサートの感想は、何でも感想文に譲ります。淀川の花火大会ですが、感想は「人、人、人。」もう、人だらけの花火大会でした。花火はとてもきれいに見えたし、内容もすばらしいものでしたが、それ以上に印象に残ったのは人の多さですね。どこから湧いてくるのか?まあ、私達もその湧いてくる人達の一部なのですが、これだけの人が同じように生きているということ、当たり前だけど、気持ち悪くなりました。
ネズミがチューチューと山のように出てきたら気持ち悪いですよね。でも、人間だとあまりその気持ち悪さが感じられないのは、やはり同種だからでしょうか。空を飛んでいる鳥は、人だかりを見て「うわぁ、きしょい。」なんて思っているのかもしれません。今日は、十三から淀川にかかる橋の上から見たのですが、河川敷に見える人の頭は気持ち悪かったです。
これだけの人が同じように生活しているという現実は、逆に考えると自分一人の意味の無さに繋がったりして、ちょっと寂しい気持ちになったりもします。あれだけいる人間の中で、どれだけの人が自分なりの人生を楽しんでいるのだろう?一瞬の内に華やかさを表現し消えて無くなってしまう花火を見ながら、自分の人生にダブらせる夜でした。俺は、人生を楽しむ。
今日は一日を振り返ると何もしていない一日でした。こういう日があってもいいでしょう。
午前中はゲームをしたり、音楽を聴きながら管理しているいくつかのホームページを更新したりして過ごしました。これまでやろうと思ってできていなかった事がいくつかできて気分すっきりです。午後は、パソコンのお気に入りを整理しなおしたり、部屋を片付けたり、フットバッグの練習、ギターの練習などをして過ごしました。夕方から出かけて、ビデオを借りて、マクドでマックシェイクをすすりながら読書と、まったくもってリラックス。夜は阪神戦を観て、借りてきたビデオを観て、今、日記を書いている次第です。
こんなにゆっくりできたのは久しぶりで、逆に「何かしなければ。」と思ってしまうほどでした。で、思ったのですが、「何かしなければ。」と思ってしまう気持ちが、時間の進みを早く感じさせている原因ではないかと思いました。本当に、心がゆったりしていれば、そんなに時間の流れは気にならないものなのに、「ああ、もう11時。あれせなあかん。」とか、「ああ、もう5時。これやってない。」とか考えると、本当に時間とやることに追われる感覚になり、時間はいくらあっても足りなく感じてしまいます。
世の中、どんなにあがいてもやらなければならない事ってあるものです。ただ、それをどのような気持ちでやっていくかで、時間の進み方が変わるのかもしれません。良くビジネスマン向けの自己啓発本にありますが、仕事を楽しんでいる人は周りから見て多忙そうでも、本人は全然忙しさを感じていないそうなのです。楽しんでいるのでしょうね。楽しい時間は、後から振りかえるととても長い時間に感じます。心がしっかりとその瞬間瞬間の楽しみを感じているからでしょう。焦ると、瞬間瞬間のことではなく、「もし…」のことしか考えられなくなりますもんねえ。
今日は、岡山にある難聴幼児通園施設「岡山かなりや学園」という施設に見学に行ってきました。難聴の新生児スクリーニング検査など、難聴教育では珍しい試みを行っているところで、色々とためになるお話も聞けました。
難聴というと、恐らく皆さんは「耳が聞えない。」ということをとっさに思い浮かべられるでしょう。その次に来るのが「手話」や「補聴器」などのキーワードでしょう。しかし、生まれながらにして難聴がある場合、ただ聞えないという問題以上に大きな問題を抱えているのです。どういうことかと言うと、こどもは五感のすべてを使って外の世界を感じ取り、それを栄養にして様々な発達を遂げていくのです。知的な発達、体力的な発達などです。
耳が聞えないということは、一つの感覚を奪われたわけですから、聞えるこどもとはやはり違う成長の仕方をしていきます。例えば、音が聞えないことから、発音がうまく習得できなかったりします。ことばだけの問題ではありません。やはり、五感の一つが弱いために、社会性を獲得していく段階でバランスを失う事もあり得ます。社会で生活していくために、様々な特別な教育をしていく必要があるのです。
言語聴覚士は、こうした聴覚障害やこどもの発達を総合的に観ながら、医療との連携によってこどもの療育(医療+教育)を行っていきます。今回は、こどもの施設でしたが、様々な部分で大人へのリハビリテーションとも絡んでいて、大変ためになった見学でした。ちなみにこどもへのリハビリテーション(Rehabilitation)は、ハビリテーション(Habilitation)と言われます。大人は一度獲得した能力を再度(Re)回復させていこうという意図がありますが、こどもの場合は生まれながら障害を持って生まれてくるわけですから再度(Re)という考え方が無いのです。
なかなか世間一般にこうしたリハビリの世界を知ってもらう機会がないんですよね。このホームページで少しずつ紹介して行きます。
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