2003年04月30日(水) |
ゴールデンウィークのたにま |
近頃、学校のサイトのことばかりを考えていて、この日記のこと忘れて寝てしまうことが続きました。学校のサイト(http://oisst.tripod.co.jo/)は、随分とできあがってきまして8割ぐらいの完成度でしょうか。志の高いサイトですので、末永くそして質を徐々に上げていければいいなあと考えています。
ゴールデンウィークに入りましたが、基本的に土日祝日はバイトです。ただ、30〜2日は、平日にも関わらず学校が休みなので、久しぶりに丸々フリーな日になります。特に何をするかは決めていませんが、勉強も含めてやりたいことをやるつもりでいます。今日(30日)は、外は雨です。せっかくの休みなのに...
昨晩は阪神巨人戦をテレビ観戦しました。このところの阪神は粘り強く、観ていてドキドキする試合が多いですね。(阪神ファン以外の方には逆の意味でドキドキなのでしょうけれど。)勉強そっちのけで、最初から最後まで観てしまいました。今日も良い試合が行われる事を願ってはいますが、いつもこんなエキサイティングな試合されると、国家試験に落ちてしまいます。
昨日、勉強方法に関する本を買ってきて読んでいます。なかなか面白い視点で勉強法に関する考え方が書いてあり、とても興味深く読んでいます。その中でも、一番印象に残っていることがあります。
まず、勉強は楽しくなければならないという前提があります。楽しくするためには、やらされる感覚ややらなければという感覚を捨て去る必要があるのです。そのために、自分を解放してやることが大事だとその本は説くのです。生き方、考え方まで勉強法に盛り込まれていることにびっくりしたのですが、昔、私が非常に勉強が楽しくて仕方無かった時のことを思い出すと、実際、私は自己統一感のようなものがありました。自分がする事、考える事が自分の思い通りだったし、無理せずにそれらを全面に押し出せていました。
昨日の日記にも書いたように、最近、勉強に対して充実感を得られないのは、こうした生活における自己統一感が少ないのではないか?と考えています。そう考えてふと周りを見まわしたときに、私自身をありのままにさらけ出せる環境が実はないのではないか?という現実に気が付きました。妙に気を使って生きているような感覚になっているのです。人間関係においてそれは顕著に表れているようで、自分の家族とさえうまくやれていないのです。
自分自身を解放して、自己統一感を導き出すためには、他人の目を気にせずにやりたい事をとにかくやっていくしかないようです。
ようやく学校のサイト製作も一段落しました。後はたくさんの人に活用してもらいたいなあと願うばかりです。このサイトは個人的にやってるサイトなので、アクセス数に関してはあまり関心はありませんが、学校のサイトはやはり多くの人に見てもらいたいと願っています。
最近、なかなか勉強が思うように進まないので、ちょっとなんとかならないかなあと思って勉強方法を見なおしています。集中力が続かないのが大きな問題としてあります。何が問題なのだろうと思っていくつか原因と考えられるものを挙げてみました。1)目が疲れている。 2)運動をしていない。 3)勉強方法に自信がない。
目が疲れているのは、恐らくパソコンのし過ぎだと思います。長時間パソコンに向かう事が多いので、これを改善していく必要があるでしょう。勉強の基礎は読書です。読書は目からの情報入力ですし、目が疲れているとやはり効率は悪くなると思うのです。目をいたわらなければいけません。
運動をしていない。これは非常に大きな要因のような気がしています。普段はそれほどストレスが溜まることはしていませんが、やはり運動をすることで違った刺激があるだろうし、気分的・肉体的なリフレッシュが大事なことに気がつきました。以前と同じような運動ができないかちょっと考えてみます。
勉強方法に自信がない。私の勉強は基本的に本を読むということだけの勉強です。それを紙に書いたり暗記をしたりということはしません。とにかく様々な本をランダムに読んでいくというやり方です。最近、この方法に不安を感じるようになってきました。というのもなかなか知識として定着しないからです。何らかの改善が必要だと思い、現在、違う方法を考え中です。
コンタクトレンズを付け始めました。友人には、「色気づいたか!?」と言われています。31歳にして色気づくのもありかなと思ってはいますが、実はまったく違う理由で付け始めました。
タイ・オーストラリアに行った際に、タイなどは始めての国なのでとにかくしっかりと視野を確保したいというのがあり、授業中くらいにしかかけないメガネを在タイ中ずっとしていました。日本に帰ってきて、これまで通り普段はメガネをかけない生活を送っていたのですが、旅行中にメガネをかけた生活に慣れてしまって、見えない事が非常に不安になってしまったのです。
しかも、メガネは必要なのですが、これがうっとおしい。私は頭というか顔が意外と大きく、メガネのフレームが食い込むし、脂性なので時間の経過につれて、鼻緒の部分が滑ってメガネのずり落ちてくるのです。(こうやって書くと全然魅力的じゃありませんな...)コンタクトならうっとおしさもなく視野が確保できるのです。
もう一つ理由は、これから目指すSTになるにあたって、メガネはしない方針で行きたいのです。メガネをすると、よく「めちゃくちゃ頭がよさそうに見える。」とか、「すごく仕事ができる人に見える。」などと、現実からは程遠いことを良く言われます。虚栄心を満足させるぶんには、非常にすばらしいイメージなのですが、なんせこれから相手にする方々は障害をもった方々ですから、そんな構えられても困るのです。しかし、しっかりとした観察をするには視力が必要です。
今日でコンタクトにして二日目です。昔、使っていたこともあったので、まあ、こんな感じかという程度ですが、まだまだ慣れきってはいません。幅広い視野を手に入れて、精神的にも幅広くなれたらいいなあと思う今日この頃です。
自分のサイトそっちのけで、あるサイトの作成に没頭してしまっていました。 学校のサイトを作っていたのですが、こちらでやっている闘うSTの会もそちらと統合してしまおうかと考えています。
ホームページは様々な垣根を越えた交流媒体として本当にパワーを発揮しますね。まあ、パソコンがないとできないですけどね。最近は携帯でもホームページ見れるようになってきていますから、そのうち誰もが使える情報を得る手段になってくるのでしょう。ただ、インターネットの情報は真偽が曖昧なので、しっかりと自分で判断していかないといけません。
さて、今週はこの学校のサイトを完成させてしまいたいと思います。ちょっとこちらは手抜きになるかも。ちなみにhttp://oist.tripod.co.jp/が作っているサイトです。
春も訪れ、何だか恋人が欲しくてたまらないのです。最近、集団自殺が多いようですが、その遺書の中にあるのが「生きる理由がわからない。」というものです。くしくも、私が実習中に実習先の先生と一緒に考えていたことでした。生きる理由なんて答えのでない難問であることは承知なのですが、大変に興味のあるものです。こうした答えの出ない命題を考えすぎると、うつ状態に陥り、そしてうつ病になり、自殺願望が出て… という一つの悪循環に陥ることも良く理解できます。
私自身、仕事にも勉学にも趣味にも今のところ「生きる理由」というべきものは見付けられずに来ました。そんなもの見つかるのか?という根本的な問いはあるのでしょうが、私はあることを信じて生きています。生きる理由を探す事が、生きる理由というようなちょっとふざけた言い方もあながち間違いではないような気がします。
そうした中で、私はこれから出会うであろうパートナーとしての女性に「生きる理由」を見出す事ができるのではないか?という淡い期待を抱いているのです。生きる理由を探し始めると、権力や富などではどうしても満たされない部分が出てくるようです。行き着くところは「人」なのではないか?そう考えるわけです。人ととの関わりの中に生きる理由が見出せないかというのが、私の淡い期待を支えています。それは、子供のために全力をつくす母親が持つ「無条件の愛」を根拠としています。そうしたものがこの世に存在する以上、生きる理由として成り立つと考えるのです。
春が訪れ、生命の息吹を感じられる季節となると、やはり「生きる理由」を見つけたくなるのでしょう。
今日はついていない日でした。何をやってもうまく行かないし、普段おこらないような出来事が立て続けに起こるのです。細かいことなので、ここに書いても皆さん分からないようなことばかりなので、詳細は書きません。しかし、ずっと使っていたボールペンがなくなるとか、スイッチの切れるはずのないポケベルのスイッチが何かのはずみで切れていて、社員から連絡が取れなくて怒られたりと、まあ、なぜ、今日一日でこれだけのことが起きるの?ってくらい、多くのことが起こりました。
たぶん、私は今調子が良すぎるのです。いわゆる「調子に乗ってる。」ってやつです。気持ちはなんだかルンルンだし、体の調子もなかなか好調なのです。春だから生物として、気持ちが高ぶっているのかもしれません。ですから、陽気に人と話したりするのは良いのですが、細かいことをすっかり忘れてしまったりしています。m頭がボーっとしているのかもしれません。
運の悪さというのは、こうした人間の気持ちに左右されるのではないかと考えています。非常に非科学的な妄想なのですが、運と呼ばれるものは、生活のリズムやタイミングに多いに左右されたり、気持ちの浮き沈みのような精神的な動きと何らかの関係があるように思われるのです。だからなんだ?といわれても、そんな気がするとしか言いようがなく、別に新しい宗教を始める気もないのですが、そんなきがしませんか?
どのようなリズムとタイミング、そして、精神的な動きが良い運を運んできてくれるのか?私の人生を賭けた実験は続きます。大げさだけど。
模様替えもままならないまま、今日はアルバイトへ行きました。6月いっぱいでアルバイトを辞めます。今日、責任者の人にその旨を伝えました。本当は5月いっぱいで辞めたいのですが、人員不足の様子が見て取れるので、様子をみて6月にしました。ただ、話しの中でそれまでに人が育てば早まるかもしれません。
アルバイトを辞める理由はいくつかあります。実習と旅行のおかげで精神的にも肉体的にもかなりリフレッシュできたせいもあり、すべてにおいて調子が良いので、この勢いを違うことに使いたいという気持ちが一つ。自分の目指す言語聴覚士になるために今年は勝負の年にしたいというのが一つ。この二つが主な理由です。
働くことで社会への参加意識を持っていた私としては、とても悩みましたが、実は実習中になんとなく決めていました。なぜなら、これからも学校のない土曜日には実習先に行って、実習の時に出会った子供の訓練の進捗を実際に見たいと思ったからです。それには、アルバイトが邪魔になります。それと、やはり休息日も必要だということに旅行中に気がつきました。これまで止まるのが嫌で学校にアルバイトにと忙しくやってきましたが、肉体的に精神的に疲労がたまっていたのです。
バランスの取れた生活には、これだという決まったものはありません。平均台でバランスを取るときに、左右に動きながらバランスを取るように、今回は右に傾きかけた生活を、左に戻すための決断です。全体的にバランスを取るためにはまったく異なった方向性を求めることも大事なのかもしれません。
もうちょっと勉強できる部屋にしようと思って模様替えをし始めたのですが、考えていたようには行かなくて頓挫してしまいました。部屋の中は混乱状態です。どうしてよいのかも分からずにとりあえず明日の朝まで放っておくつもりです。夢の中で良い案が出てくれば良いのですが...
模様替えをしていると、片付けるってのは奥が深いなあと思うのです。ただ、なんとなく部屋がすっきりしている状態にするのなら、適当に片付ければ良いのですが、例えば今回のように勉強ができる部屋にしようという目的があると、簡単には行きません。例えば、今日はとにかく勉強に関わる本を一つの本棚にまとめてみようとと思い、テレビやステレオが載っていた棚をすべて本にしてみたのですが、これが行けてない。あんなに勉強用の本がずら〜っと並んでいると逆に圧迫感が強くて勉強する気にならないのです。
分類して整理するというのは実は正しいようで間違っているのかもしれません。物の属性を重視した整理をするのではなく、そこに住む人間にとって心理的または物理的にどのような整理をするべきなのか?ということを考えなければ良い片付けとは言えないのですね。
まだまだ勉強が足りません。模様替え一つをとってもです。
帰国しました。昨日の早朝に帰宅して、昨日の午後から授業に出ました。今日も学校に行きましたが、頭がまだタイ・オーストラリアモードです。まだ、始まったばかりなのでもうちょいこの状態が続いても支障はないとは思いますが、できるだけ早く立ち直れるように頑張ります。
帰国した際に思ったのですが、日本はやっぱり落ち着かない国です。常になんだかわからない緊張感が漂う国と言ったらいいのかな。なかなか表現しにくいのですが、タイに行った時に初めての国とは思えないほど親近感を感じました。住み慣れた日本に帰ってきたら妙に疎外感を感じてしまいました。ホリデー気分と、現実に戻ってきた気分という差があるのは分かりますが、それだけでは説明できない何かがあるような気がします。
日本は近代化や効率化が非常に進んだ国なのですが、そうした近代化や効率化を進めていく過程で、過度の標準化を行いすぎたのではないか?そういうことを関空から三ノ宮へのバスの中で考えていました。過度の標準化という視点で普段の生活を見てみると、タイとの差が見えてくるような気がします。日本はなんだかすべてにおいて「きれい」過ぎるのです。きれいなことは良い事なのでしょうけれど、「きれい事」ということばがあるようにきれい過ぎるものには何だか胡散臭さを感じるのが人間です。日本はなんだか胡散臭いのです。
比較の問題なのかもしれません。しかし、まあ、日常の生活を送る中でじっくりと見てみるとやはり何だか胡散臭さがあるのです。この感覚はなんなのか、まだ、上手くことばで表現することはできないのですが、これから考えていきたいと思っています。
今日のシドニーは雨です。最後のオーストラリアなのに、雨です。ちょっと残念。16:15の飛行機でバンコクに向かいます。バンコクで二時間のトランジットを経て明日の早朝に日本に到着予定です。
短いようで長い旅になりました。バンコクではこれまでに体験したことの無いような体験をしました。タイ人の友達とも交友を深められて、大変に意義のある4日間でした。オーストラリアでは、八年前の記憶を刺激するような体験をして、懐かしさとともに自分自身の原点を再確認しました。
これから、一年間は国家試験のために猛烈に勉強するつもりです。今回の旅でフルに緩めた精神を、緩めた反動でビシッと締めて頑張るつもりです。
2003年04月13日(日) |
オーストラリアは快晴 |
オーストラリアは今日も快晴です。今日は、これからハーバーブリッジを歩いて渡り、ロックスのマーケットにいってお土産を買います。それからフィッシュマーケットにいって、おいしい魚料理でも食べる予定です。帰ってきたら、ファンだったブリスベンのラグビーの試合をテレビで観戦します。
オーストラリア生活満喫しています。なんだか、ずっとすんでいたみたいな感覚似さえ陥ります。昔の自分を思い出して、脳が活性化されているようです。明日、帰国の途につきます。明後日の朝に日本に到着の予定です。
皆さんお元気ですか?タイで4日間過ごし、今、オーストラリアで3日目をすごしています。
タイはとても面白い国でした。タイと言っても、結局はバンコクだけの4日間でしたが、町中を歩きまわり、タイ人の友達の家でごちそうになったりと刺激的な4日間を過ごしました。バンコクは近代化が進んでいるところで、高速道路は網の目のように走り、中心街にはスカイトレインという高架を走る電車も便利な交通手段としてありました。デパートも日本なみにたくさんありますし、日本の南国に来た印象さえ最初のうちはありました。
バンコクに居ると、日本がいかに奇麗かがよく分かります。タイが汚いというよりか、日本がきれい過ぎるのかなと感じるほどです。交通ルールもあってないようなもので、日本人から見るとめちゃくちゃです。でも、このめちゃくちゃ加減がとてもいい加減なようで機能しているのが不思議です。肩に力を入れずに気楽に生活できる感じがしました。
また、明日もインターネットカフェから書きますね。
今日で、1回目の実習が終了しました。これまで学校で消化不良だったものが、一気に消化できたような感じです。この調子で、今後も頑張っていきます。
明日から旅行に出ます。しばらく更新がないかもしれません。旅行先でパソコンを見つけたら更新を試みてみます。返ってきた写真を掲載する予定です。お楽しみに。
それでは行ってきます。
6日〜9日 タイ(バンコク) 10日〜14日 シドニー(オーストラリア)
患者さんのリハビリ意欲を向上させるものは何か?今回の実習で、先生が実行されているのは「笑い」でした。
こどもを笑わすためなら、ちょっとぐらい下品なことも平気でします。笑わす事でこどもの機嫌を取ることも大事な事なのですが、自閉症などの対人関係に障害を示すこどもでも、こうした「笑い」には敏感だったりするのです。決して自閉症のこどもが「笑う」とは限らないのですが、確実に笑いを含んだ行動に目を向けてくれます。不思議なものです。それが、体を使った笑いであるほどこちらを向いてくれます。変な顔、おならの音、変な動作。
こどもに限りません。大人の訓練にだった笑いは重要な役割を持ちます。言語の訓練は、傍から見ると意外と簡単なことをしているように見えます。例えば絵カードを見せて、「これは何ですか?」というような訓練を行います。当たり前のように感じるこうした行為が、言語に障害を持った人には困難なのです。しかし、大人の場合、精神的な遅れが起きているわけではないので、それがいかにこどもじみた訓練であるかがことばは出なくても理解できるのです。
そうした訓練を、まじめな顔してもくもくとやってしまうと、患者さんは飽きてしまいます。やる気を失った患者さん相手のリハビリほど意味のないものはありません。リハビリにおいて大事なのは患者さんの意欲なのです。そして、訓練を行う療法士は患者さんの意欲を盛り上げていく環境作りを行っていかなければなりません。「笑い」はそうした雰囲気作りに大きな役割を果たします。
明るく、楽しく、そして真剣に。そうした環境を作っていく事で、障害を持つ人々に限らず、私達健常者だって意欲満々の楽しい生活を送っていけるのです。
▼楽しい生活のアイディア No.1
上を向いて微笑みながら「楽しいなあ。」と10回言うと、ホントに楽しくなってくる。
今日は、これまでの実習の一つの成果を見せる機会として、自閉症の男の子との訓練を任されました。訓練とは言っても、まだ実習生ですのでまずは初めて会う男の子との信頼関係を築くところから入ります。今日は、そした信頼関係を築く遊び、そしてその遊びの中でそのこどもの発達レベルを読み取ることができました。
ことばの訓練をする言語聴覚士がなぜに「遊び」か?といいますと、大人の人に訓練するみたいに椅子に座って机に向かってきっちりとした訓練をするほどの忍耐力が子供にはないということが一つの理由です。ましてや、私たちが診る子供は障害を持って生まれてきており、健常児よりも発達が遅れていますから、そんな簡単に訓練はできません。そこで、遊びを通して信頼関係を築いたり、遊びの中でその子供の発達の段階をみたりします。
遊びと一口に言っても、私達が生まれてから物心つくまでの間に、様々な遊びがあります。たとえば、赤ん坊はブラブラと揺れるものに興味を示し、それを掴もうとします。少し大きくなると、お父さんに高い高いをしてもらってとても喜んだりします。もう少し大きくなると、おもちゃで色々想像遊びをしたりします。このように遊びにも様々な段階があるのです。
発達の遅れている子供の場合、どこの発達のレベルに居るかを診る指針として、こうした遊びのレベルを見ることになります。実際の年齢は5歳でも、発達のレベルは2歳だったりするわけです。5歳というと、もうすぐ小学校ですから、何かと文字の練習とかに目が行きがちですが、子供によっては高い高いを喜ぶレベルにしか達していない場合があるのです。その場合、文字の訓練よりも、まずは体を使った遊びを行わないと文字どころではありません。
ことばの訓練をと一口に言っても、実は、人間のことばの発達というのは赤ん坊のときからの運動や感覚の発達、モノを見分けていく認知の発達などを経てこないといけないのです。ですから、言語聴覚士はことばを訓練するためにこどものすべてを診ていく事になります。
人間の発達と同じように、問題の解決や改善に取組む際も、目先の事を表面的に解決しようとするのではなく、しっかりと全体像や全体の流れを押さえた上で問題を捉えるということが必要になってくるでしょう。その場しのぎの解決は、根本の解決には結びつかない事が多いようです。
障害を持って生まれてくる子供達を毎日見ていると、非常に複雑な気持ちになることがあります。自分が結婚して、子供を授かった際に障害を持って生まれてきたらどうしよう。と考えてしまうのです。もし、お腹の中に居る胎児が、自閉症や精神遅滞を持って生まれてくると分かっていたら生みますか?
私はこうした子供を訓練する立場にこれから向かおうとしていますが、明確な答えを出す事はできません。あなたならどうしますか?
障害があるかないかを決めるポイントの一つに、本人がそれによって日常生活に不便さを感じるかどうか?ということがあります。もし、日本の社会が、自閉症や精神遅滞を初めてとした種々の障害を受容して、こうした障害を持つ子供や大人が不便なく暮らせる仕組みを確立したとしたら、障害なんて概念さえなくなるのです。
私が外国で見た光景は、まさに社会に障害者の方が溶け込んでいる風景でした。バリアフリーはもちろん、様々な障害に対して社会が対応しているおかげで、障害者が居ても特に不自然さを感じないのです。カナダでは、路線バスが車椅子で乗車する人のために15分ぐらいを平気でかけます。また、そうしたリフトが全部のバスに設置されていて、ドライバー一人で対応できるようになっています。
設備を揃える事がすばらしいとは限りませんが、そうした社会の受容の姿勢が普段何も気付かない健常者の人の障害者への気持ちを日常的なものに変えていくのです。私が目指す言語聴覚士という仕事が、当たり前のように社会に認められる日がくれば、自閉症や精神遅滞の子供本人、そしてその家族はいまよりずっと暮らしやすくなるのになあと思うのです。
こうした話しはイデオロギーや思想の話しになりがちですが、環境が変われば意識が変わるという人間の特性を考えれば、それほど難しい話しではないと思うのです。年度末の無駄な工事はやめて、こうした環境作りに目を向けて欲しいものですね。
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