くどいようですが、岡本太郎本、最高です。
これまで私は自分の性格として「論理的」という事を自負してきました。しかし、最近、この論理的な自分が薄らいでいまして、こうした文章を書いていると最初に言っていることと、最後に言っていることのつじつまが合わないことが頻繁に起こるようになってきました。同じ文章に限らず、1週間前と1週間後では丸っきり言っている事が逆だったりすることもあります。
今まで、その非論理的な自分が自分らしくないと感じていて、なんでだろう?と考えてしまう事もたびたびありました。しかし、岡本の太郎さんの本を読んでいるうちに「矛盾」があっても良いのだと思えてきたのです。矛盾を恐れずに、この瞬間に感じている事、思ったことをその場で表現していけばいいやと思えるようになりました。コロコロと考え方が変わる人は一貫性がなくて信用に値しないと思われるかもしれません。でも、そうではないのです。
例えば、国民の前では良い事言うけれど、国会に行くと利権に目がくらんで公約なんてどうでも良くなるような政治家に代表されるような、外部の影響で自分自身を偽ってしまうような気持ちの変化、言動の矛盾と言うのはいただけません。でも、自分が持っている考えが本当に変わったのなら、変わったことを表明するのはまったく悪い事ではありません。昨日まではそうだったが、今日は違うということがあっても良いのです。昔の自分の言動に縛られてしまって今の自分が生きないのなら、それは矛盾を恐れるが故に自身の成長を阻害してしまっていることになるでしょう。
だから、これからは昔言ったことに縛られず、今の自分がどう感じるかをどんどん素直に出していきたいと考えています。ただし、打算的にならないようにです。自分自身をさらけ出していく一つのステップでしょうね。
今日から学校では国家試験対策が始まりました。言語聴覚士の国家試験は全部で200問の5択問題です。科目は、基礎医学、臨床医学、臨床歯科医学、音声・言語・難聴医学、心理学、音声・言語学、社会福祉・教育、言語聴覚障害学総論、失語・高次脳機能障害学、言語発達障害学、発生発語・嚥下障害学、聴覚障害学と多岐にわたります。初回の今日は、通常、午前中に行われる一般科目(言語聴覚障害関係以外の科目)の100問を模擬試験しました。
初回の模擬試験ですので、何とも言いがたいのですが、個人的にはこれまでの私の勉強の量から考えると、意外と点数取れるものだなと感じました。これは普通に勉強していれば難しい試験ではないと感じています。明確にこれはこれだとわかった問題もあれば、消去法で選んでいった問題もありますし、あてずっぽうで正答だった問題もあります。間違えた問題はもちろんですが、確信を持って回答できなかった問題を減らしていく勉強をしたいと思います。ま、試験のために勉強するわけではないのですが、試験をきっかけに波に乗れて行ければいいなと思っています。
最近、岡本太郎氏の本のことを良く書いていますが、2度目を読み終わりました。「自分の中に毒をもて」という本ですが、本当にこれまでに出会った自己啓発書がかすむくらい、私にとってはこれまでで一番心に響く本です。何度読んでも心が激しく揺り動かされる本です。人によっては拒否反応を起こすようなある意味偏った内容ですが、もし人生について悩みが尽きないという方がおられたら、心理学とか哲学とか難しいこと言う前に是非この芸術家の本をお勧めします。
生姜せんべいにはまっています。
ずっと勉強したくない状態でしたが、今日は不思議と勉強したくなりまして、ちょっと勉強する方針を考えて行動に移しました。まず、なぜ勉強したいという気持ちにならないのか?ということを考えてみたのですが、どうも初心を忘れているような気がしました。それともう一つ、膨大な量の科目を前に何から始めたら良いのかが良くわからない状態になっていました。そこで、勉強への入り口を一つへ定めたのです。
まずは、言語聴覚障害の総論から攻めてみようと考えました。例えば、企業のホームページのように大きすぎてどこから何を見たら良いかがわからないときに、サイトマップというものを見ますよね。それと同じように、まず、これからどのような分野を勉強していくのか?という俯瞰図を自分の頭の中に作っていこうと考えています。まず、自分がなぜこの道を目指す事になったのか?という動機付けを再確認していきます。そして、全体の概略を頭にしっかりいれていこうと考えています。
これまでに学校の悪口は散々書いてきましたが、私が通う学校に欠けていたもの、それはこのあらゆる概要の呈示の欠落だったのではないかと考えます。この2年間のコースで何をどのように学んでいくのか?そして、各科目はどのようなスケジュールで進んでいくのか?最後にはどのようなSTを輩出していきたいのか?そうした部分が欠落していたように感じます。もちろん、私自身がそうした視点をもち、自己研鑚していく必要もあったのでしょう。その辺の気付きの遅さが今回のやる気の無さを産んだような気がしてなりません。
何事も、フレームワークが大切ですね。計画の段階で結果のほとんどは決まっていくのでしょうね。家の建築では設計図がすべてですしね。そうしたしっかりとした準備を、遅れ馳せながら今からやっていくつもりです。始めるのに遅すぎることはありません。
たいしたことはありませんが、ホームページのリニューアルを行いました。気分転換です。日記はよっぽどの事が無い限りやめる事はないと思いますが、その他については突然無くなる可能性もあります。さて、今回が2度目の携帯の写真を使ったギャラリーがどれほど続くかお楽しみに。
先週の後半は精神的にかなり参っていました。牛の反芻のように悩みはグチャグチャと何度も味を噛み締めるような習慣によって引き起こされるようです。さっさと飲みこめば苦い味など味わうことなく過ごせるのに。しかしなんとか、友人との楽しい時間を過ごしたり、本を読んだり、バイトで汗を流して過ごすうちに気分は晴れてきました。
現在、セリグマンという人の書いた心理学の本を読んでいますが、その本の中で「楽観的思考」の持ち主と、「悲観的思考」の持ち主とでは、うつ状態あるいはうつ病になる割合が異なるとありました。もちろん、悲観的思考の持ち主がうつ状態あるいはうつ病になる確率が高いそうです。
悲観的思考の持ち主は、良い事が起きたときにその出来事を個人的ではなく一般的な視点で見る傾向、そしてそれが一時的なものであると考える傾向があるそうです。(今回はたまたま運が良かっただけさ的な思考)しかも、悪い事が起きたときには、まったく正反対に、その出来事を個人的に、しかも永続性のあるものとして見てしまうのだそうです。(いつもこんな悪い事が起きるのは私の能力がダメだからだからだ的思考)
自分自身でこのように追いこんでいって、自分の力ではどうにもならないと思いこむような環境を心の中に生み出してしまうことで、うつ状態は引き起こされ挙句の果てには重度のうつ病になってしまうのだ。とセリグマンは言っています。
人間は考える葦とは言われるけれど、それゆえに自らを苦しめる存在でもあるようです。しかし、腐った葦が土に返り、その他の葦の肥料になるように、決して考えて苦しむ事は無駄な事ではないとは思います。
苦しさに耐えられればの話しですけれど。
阪急梅田駅の茶屋町口にあるブックファーストで、岡本太郎氏の「強く生きる言葉」という本に偶然出会ってから、僕の中で岡本太郎氏の言葉がムクムクと勢力を広げています。今回、出会った本「自分の中に毒を持て」は、僕の心を突き動かし始めています。再び読み始めています。今度は一つ一つの言葉を噛み締めながら。
岡本太郎というと、「芸術は爆発だ!」というようなテレビなどで見せたイメージしかないのですが、その裏には哲学的な要素がたくさん含まれているのです。哲学の詳しい事はわかりませんが、彼の平易な言葉遣いの中から、とても深い人間への探求心、人生への探求心が見えてきます。芸術とは生きること。ありのままの人間としての姿をさらして生きていくことが大事だと岡本太郎はいいます。そうしたさらしていく過程を「爆発」と表現するのです。
芸術は爆発だ。
生きることとは人間性を何の装飾もせずに、ストレートに突き出していくことなのだということを言っているのです。
埋もれている生きることへの純粋な喜びを見つけ出す事、それなしで本当に生きているといえるのだろうか?僕は、岡本太郎の単純かもしれないけれど、激烈なエネルギーと理屈にただ圧倒されるのです。岡本太郎の本は、言葉の爆発なのです。
学校が突然あさっての土曜日に授業を入れてきました。東京から友達が来るのにです。何の説明もなく、突然、先生のあいている日がその日しかないから授業なのだそうです。では、もっと早めにそうした可能性があることを言っておけと思います。一応、友達には31にスライドできないか聞いていますが、学校の対応に不満は爆発です。
学校が終わった後、クラスメイトとお茶をするためにカフェに入りました。座ろうとした瞬間、隣のテーブルに座っていた初老の男性と目が合いました。パソコンをテーブルに広げていました。良く見ると、前の会社でお世話になった業者さんでした。約1年ぶりの偶然の再会です。こういう巡り合わせってあるんですね。名刺をいただいて、また、医療福祉関係でお仕事が一緒にできるといいですねと言って別れましたが、挨拶ではなく本当にそう思います。こんな形で再会するなら何かの縁があるのでしょう。
こうして偶然に人に会ったりすると、いかに私達は奇跡を生きてるかを実感します。何がどうずれてもこんなことは起こらなかったのですから...
朝はベッドの中で10分ほどまどろみ、いつも通り通学しました。電車の中では、本を読もうと思っていましたが、面倒くさくてウトウト。いつも聞いているAC/DCをMDで聞きながら学校までいつもよりも早歩きで向かいました。今日はなぜに早歩きだったのでしょう?自分でも良くわかりません。
学校についていつも通り機嫌は良くなく、通学してくるクラスメートに適当に挨拶して、授業が始まるまでを過ごします。1時間目から3時間目は「脳性麻痺」の授業でした。1時間目は正常発達児の摂食について、2時間目は先生が元職場での訓練の様子や言語聴覚士(ST)の施設での役割についての解説、3時間目は脳性麻痺児の症例をビデオで見ました。4時間目は、「音声障害」の授業で、反回神経麻痺の症例をビデオで見て、それ以外の声帯疾患の概要が説明されました。
昼休みはいつも通りに弁当を食べ、食後にキャッチボールをしました。休み時間は、今、覚えようとしている将棋をクラスメートと打ち、対戦相手に飛車・角落ちにしてもらったおかげで勝ちました。今日からまた新たな対戦相手と一局交えています。
帰りにコンタクトレンズ屋によって、新しいコンタクトを受け取り帰宅。夕食を取って、阪神広島戦をテレビ観戦し、試合後にこの日記を書いています。これから読書をして、さっさと寝る予定です。ちなみに今日はあったことをそのまま書いてみました。こういうのもありですかね。
今はまっているのは、岡本太郎氏の著作です。
毎時間毎時間、早くこの授業が終わらないかなあと思いながら授業を受けています。こんな意識で授業受けていて良いのだろうか?そう思う瞬間が何度もあります。こんな意識で授業受けているなら、さっさと教室を抜け出して、遊びたいだけ遊んで、さっと自分のやりたい時に集中して勉強できたらどれだけいいだろう。と思うのです。
学校の愚痴ばかりは良くないのだけれども、ホントにつまらない。毎日、椅子に座って何時間も先生が一方的に話しているのを聞いてるなんて、皆よくできますよね。私には苦痛以外の何物でもないのですけれども... これからは先生の話しを我慢して聞いてるのではなく、授業中に好きなことをやって過ごそうと思っています。自分にとって無駄な時間になるか否かは自分自身の選択にかかっているのですよね。
自分の選択で苦痛をなくしていく、奇跡をおこさなきゃ。
さて、やりたくない勉強はしないと宣言してから1週間が経ちました。今だ勉強したくなりません。学校から出される課題もやっつけです。やっつけでもどうにかなるのですから、そんなものが課題と呼べるのかどうか疑問です。とにかく授業でも、目がさめている時は聞いていますが、眠くなったら眠り、面白くないと感じたら白昼夢を見て過ごしています。
今、私が夢中になっているのは何か新しいことを起こすことです。これまでに日記でも書いたように、今のところ学校でいくつかの新しい活動を企画しています。恐らく、私自身の生きるエネルギーというのは、自分の手で何かを始めるというところに一番効率良く働くのではないかと思います。思い返してみれば、小学校低学年の頃です。親戚の叔父さんの誕生日にお呼ばれした際に、他の親戚の子どもが色々なものをプレゼントとして購入していたのに対して、私だけが紙粘土で作った模型だったのです。(渡すときには壊れていましたが...)
学校という与えられる環境の中で、自分らしさを発揮する場面がなければ、当然、気持ちは萎えてきます。今、私が勉強したくなるようにするには、私が持ち合わせている特性を充分に活かせる環境を作る必要があるのでしょう。さて、それは何なのでしょうか?学校というシステムに組みこまれてしまわぬよう、創造力を働かして自分にとって適切な環境作りをしていけるよう考えていきたいと思っています。
とりあえず、1)休憩時間には将棋をしている。→将棋を知らないので将来臨床で患者さんと楽しめるように。 2)昼休みはキャッチボールを。→体を動かして脳を刺激。 3)遊びの企画。→自分のエネルギーが使える場を得る。の三つを柱に勉強への興味回復を試みています。急がば回れ。とにかく生活を楽しむ余裕が必要です。
自分がここに存在するということの奇跡を考えると、私達の能力では計り知れない力がこの世界に働いているのではないか?という気持ちになります。
奇跡として産まれてきた自分を大切にすること、この世に産まれてきた奇跡に感謝すること。そう思うだけで人生は豊かなものに成り得ると思います。
私は何の宗教も信じてはいないけど、様々な宗教を信じる人達の気持ちはわかるし、彼らが求めているものが何かがわかります。中学生の頃に見たNHKの地球大紀行は、当時の私に無力感を与えました。人間なんてちっぽけな... そして、生きる意味は?と問い始めました。生きる意味に答えが出ない間は、何をしてもひとつひとつの行動に意味が見出せなかったのです。宗教に生きる意味を求めた人達がそこに安心感や充足感を感じているのではないでしょうか?
宇宙ができたのは奇跡。その宇宙の中で、地球のような星ができたのも奇跡。その地球に海ができたのも奇跡。生き物が誕生したのも奇跡。人間が誕生したのも奇跡。それらの奇跡の上に成り立つ私達の存在も奇跡。私達が決断したり迷ったりして何かが起きたり起きなかったりするのも奇跡。その私達が経験する生活のすべてが奇跡。
私は何の宗教も信じていないけれど、この奇跡の連続の上に成り立つ私達の奇跡は、何か私達の手の届かない、理解の範囲を越えた「ひとつの秩序」の表れではないのか?という気がします。それは生きる意味を求める一部の人間の愚かさを際立たせます。「何の為に生きているのか?」ではなくて、「生きる事によって何かが起きる。」のです。すべての出来事は、これまで起きてきた奇跡の延長線上にある奇跡なのです。私達が生きる事は奇跡だし、それを前提にすると私達が起こす言動、そしてその結果もすべて奇跡なわけです。
そう考える事で私は、生きる意味を捜し求めるしんどさから救われるような気がするのです。
今日は体が辛いので早めに寝ます。
今、「この世の一番の奇跡」(オグ・マンディーノ)という本を読んでいます。自己啓発の本なのですが、小説仕立てでなかなか面白いのです。恐らく、これから後半にかけてこの本のメインとする部分が出てくると思います。楽しみです。
「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」
マザー・テレサのことばを噛み締める毎日です。無関心が日本の社会を蝕んでいるのは事実かもしれない。そう思わせる出来事がありました。誰かがやってくれるだろう。時間が解決してくれるだろう。まあ、それも間違いではないのでしょうけれど、そこに自分の社会への働きかけはないし、社会から自分への働きかけもないと考えると、やはり自ら働きかける事が大事なのではないか?と考えます。悟りをひらいた振りをした人が多すぎる。
自らを戒め、自分を社会に活かし、そして社会を自分に活かす生き方を模索したいと考えています。
今日は授業が午前中まででした。昼食を取って神戸に戻り、三宮をブラブラ。特にあてもなくほっつき歩いていました。それで、歩きながら色々と考えていたのですが、考える事があまりにも後ろ向きだったのである事を試みました。ある事とは、とにかく目に入ったものを、ことばにして解説してみるという試みです。
目の前に女の子が歩いていたら、「若い女性が歩いている。」とことばにし、携帯で話しているサラリーマンが居たら、「サラリーマンが携帯で電話をしている。」「ネクタイはダサい。」「スーツのボタンを三つしている。」などと、とにかく目に入るものをありのままにことばにしていったのです。たまに、ダサいとかブサイクなどの主観も入ってしまいましたが、とにかく客観的に事実だけを述べるように努力しました。
これが結構大変なのです。すべてのものをことばにしていくのは実際には不可能です。ことばにするという作業は意外と時間を使います。だんだんと早口になり、そのうち口形をつけてことばにしていくことができなくなりました。そこで心の中で唱える事にしたのです。心の中で、次々と目に入る状況をできるだけ客観的にことばにして述べていくのです。すると不思議なことに、これまで意識していなかった事柄にも意識が行き始め、「は!面白い!」「え?こんなのあったの?」というような新たな気付きを体験していきました。
もう一つ気がついた事がありました。それは、通りすぎていく人達とは恐らく高い確率で二度と知り合わないだろうということです。一人の人間がいるということは、そこに一つの人生があるというのに、私達はそんなこと意識してお互いを見ていないのです。でも、自分にはない価値観を持ったそれだけの人達がただ通りすぎていくのを意識して見ていると、「なんて自分は知らなさ過ぎるのだろう。」と思ったり、「世の中には知り合うべき人はたくさんいるし、出会うべき価値観は無限にあるんだな。」と感じたり、これまでに感じた事のない感覚を覚えました。
で、最終的にふと心に浮かんだのは次の思いでした。
「生きてるってこういうことなのか。すばらしい。」
実際のところ、「こういうこと」がどんなことなのかことばで説明はできませんが、一つ突き抜けた感覚を覚えました。生きる意味はわからないけど、生きていることを実感した。そんな雨の水曜日の午後でした。
風邪を引いてしまいました。喉の痛みに始まり、咳が出てきました。毎年、秋から冬にかけて慢性気管支炎を起こすのですが、そのときのようなひどさはありません。ただ、胸のあたりがむずがゆく、痰が出て咳き込みます。
風邪気味のせいもあるかもしれませんが、最近は授業が退屈で仕方がありません。一応、先生の話は聞いてはいますが、ほとんどノートは取りません。「ふ〜ん。」とか「へ〜。」というような、心を動かされるような事柄しかノートに記さないようにしています。これは風邪もありますが、もう一つ、私の心境の変化が影響しているかもしれません。とにかくやらされ勉強はしない方がまし。最近、強くそう思っているのです。
やりたいと思わない勉強はしない。というように心を決めると、何だか普段の生活の気持ちが楽になりました。そこで、前からやりたいなあと思っていてできなかったことをやり始めたのです。手始めに、ラフティングというゴムボートで激流を下る遊びをクラスで企画してみました。それから、学校の休み時間に将棋を始めました。というのも、私は将棋をしたことがないので、将来、臨床に出たときに患者さんとそれなりに対戦できるようになっておきたいと思ったからです。そして、近日中に、ビール工場見学ツアーの企画を打ち出す予定です。
やりたい事をやると書きましたが、実際には、私らしさを素直に出しているだけです。よく考えると、私はこういう人間だったのです。自分から何かを始めるということを楽しくできる人間なのです。事実、この数年間において、こうした自分らしさというものをすっかり忘れてしまっていたようです。もう、外部の圧力にやらされるという人生おさらばです。
自分らしく生きることを思い出して、退屈な授業を耐え忍びます。
夕食時になにげなくついていたテレビで、浅香光代さんの半生を取り上げた番組をやっていました。特に内容はよくわかりませんが、そのときにふと思ったこと。「芸能人の半生記の番組多いなあ。」
こうした番組の目的は何なのだろう?単純にそう思いました。視聴者が喜ぶからやっているのだろうし、喜ぶからにはエンターテイメントとしての価値があるからやるのでしょうけれど、芸能人の半生記にエンターテイメント性を求める視聴者のこころが良く分からないからです。いかに自分が安定した普通の生活をしているかを再確認すると同時に、自分もあんな奔放な部分があったら良かったのになあ〜という羨ましい気持ちを呼び起こすためでしょうか?
確かに紹介される芸能人の方たちは、芸能界では成功者でしょう。しかし、一般人の私にとってはまったく縁のない世界で、そこで取り上げられる内容は、「ふ〜んそうなんだ。」というぐらいの感想しか持てない非常に私的な内容ですから、私はまったく面白くなくて、いつもチャンネルを変えてしまいます。中には彼らの生き方になんらかの格好良さを感じ取ったりする人もいるのでしょうね。
やっぱり電車の中で、となりで読まれている新聞が気になるように、他人の人生もきになるものなのでしょうかね。それとも、自分と同じような人を探し出して安心したいのかな。
風邪気味で頭がくらくらしていました。喉も少し痛くて、今日の朝は久しぶりに辛くて午前中の授業を休みました。学生という身分はこれができるから大好きです。まあ、明日も一日中授業があるので、そのためにも今日は様子を見ました。
体調の悪さは精神力でカバーだと思い、「俺は元気だ。俺は元気だ。」と暗示をかけようとしましたが上手く行きませんでした。肩から首にかけてだるさがひどく、肩を回したり自分でもんだりしたりしましたが、結局、今もだるいです。でも、だんだんと慣れてくるもので、午後にはだるさにもなれて、午後は普通に授業を受けて、夜は遊びに行きました。
私は、暗示の効果を身をもって体験した事があります。そんな能力を持っていたときがあるのです。どんなに頭が痛くても、「だんだん痛くなくなる。」と何度も唱えていると、本当に痛みがとれたのです。熱が出ていても、「すぐに平熱にさが〜る。」と何度も唱えていると、本当に熱が下がったものでした。その頃の自己暗示能力はすごいものがありました。
「集中力」なんでしょうね。今は、一つの暗示を集中して唱える持続力があまりありません。途中で、もういいやとなってしまうことが多くなりました。多分、大好きな女性に会いに行くとかなら、頭の痛みなんてすぐ吹っ飛ぶのでしょうね。確かに、今日も友達を御飯を食べているときはまったくだるさを忘れていましたし。自分の意思ではなんともならなくなっていますが、そうした環境を与えてやると人間の痛みなんて意外と簡単に除去できたりするのかも。
何か一つの物事が上手く行かないときに、まったく別のものに取組んで楽しみを見つけることで、うまく行かなかった物事もうまく行き始めるこってありますよね。
今、私はあまり勉強に関して夢中になれていません。夢中になれないから、あまり楽しんでいるとは言えないし、楽しめないから取組む時間も限られています。結果として、あまり知識もつかないという非効率な状態なのです。この状況をふと客観的に見てみると、勉強を「やりたくじっとしていられない!」からは程遠く、「やらなければならないのだが...」という義務感のような感覚で捉えてしまっているのです。
私の性格上、「やらなければならない。」という義務感から勉強はできません。だから「勉強したくてじっとしていられない!」という気持ちになるまで勉強しないことにしました。その代わりに、やりたい事をとことんしていくことにしました。やりたくてじっとしていられない勉強以外のことを徹底的にやってみることにします。そうすることで、何かが変わるかもしれないからです。
国家試験?まあ、落ちれば縁が無かったと考えればいいでしょう。お金?別にどうにかなるでしょう。本当に勉強したいという気持ちになれば、国家試験だって何とかなるはずですし、急がば回れという戦略で行くことに決めました。
これまで何だか見えない何かに縛られていた感じでした。自分らしさを開放して、純粋なやる気を呼び起こします。
昨日のふしだらな日記に恥ずかしさを覚えながらも、やはり自分の本心はこれだなと確信を深めております。
私の表現手段で一番うまく行くのがこうした文字による表現です。私が得意としているのは、「ラブレター」、「批判的文章」、「感想文」です。学校から出るレポートなんて、小一時間でできてしまいます。逆にラブレターは推敲に推敲を重ねて完璧にするまで時間を惜しみません。他人の書いたアイディアに批判的な文章を書くのは、それが正しいとか間違いなど関係無く、ただ単純に楽しいです。理屈を言葉にしていく過程がおもしろいのです。
文章の上手い下手ってのはあるのでしょうけれど、私は、上手い下手という部分にとらわれる必要はまったくないと思います。そんな技術的というか、ハウツー的な部分をマスターしても、たいして面白い文章なんてかけないと思います。私がラブレターや感想文を書く際に、これは大事だなって思うのは、1)読み手のことを意識する 2)自分の考えがある の二つです。もし、シンプルにかけるならシンプルに分かりやすく例えなどを交えてかければ更に良いのでしょう。文法的な正誤なんて意識にも上りません。
思考というものが言葉をベースに行われるのなら、頭の中に描いている思考を文章として明示化してみることは自分自身を再確認する事になるのではないかと思い、さんかくしそうを続けています。まあ、大した人間でないことを周りにさらけ出す事にもなるのですが、それはそれでまた良し。格好つけても仕方がないのです。文章を書いて、自分自身を再認識し、そして弱い自分も受け入れる覚悟を決める。ん〜、書くって心地良いですね。
連休明けの学校はとてもきついものでした。バイトが忙しいぶん、学校でじっと座って話しを聴くだけの時間は拷問に近いものがあります。6月でバイトを辞めるのですが、今以上に体を動かさなくなるとどれだけストレスが溜まっていくのだろうと考えると、ちょっと心配です。
学校のホームページの掲示板で、クラスメイトに「何か満たされてないのでは?」という指摘を受けました。確かに。精神的にも肉体的にも調子は上昇中なのですが、その上昇気流に乗っかるものが不足している感じがします。何をどうすれば満たされるのかよくわかりません。時間を忘れるほど勉強には充足感を感じませんし、バイトはストレスの発散にはなりますが、後に特に何も残りません。お金は奨学金などで充分あるし...
それで一つ自問自答してみました。
「おい、issy。今一番欲しいもの、または、望んでいるものは何だ?素直に答えてみろ。バカにしないし、笑わないし、軽蔑もしないから。」
で、瞬間的に出てきたのはこんな答えでした。
「女の子を抱きしめたい!」
この瞬間的に出てきた本心そのものに向かい合うと、「まあ、なんて俺は寂しい男なのだ...」と自己嫌悪に陥ってしまいます。しかし、道端を歩いている女性にいきなり抱きつくわけにも行きませんし、女友達に「とにかく、抱きしめさせてくれ!」なんて言えませんし、かと言ってそういう対象となるための好きな女性も居ないわけで、踏んだり蹴ったりで溜息は止まりません。セックスがしたいとか、キスがしたいとかじゃなくて、「抱きしめたい!」ってところがまた悲壮感を漂わすわけでとても悲しいのです。
満たされないもの。恐らくそれは周りの人からの関心とか、自分自身の夢とかではなくて、自分自身をさらけ出せるパートナーが居ないってことなのでしょうね。よし、抱きしめることができる人を探そうっと。
昔、AC/DCというロックバンドにはまっていた時代があります。今また、そのバンドにはまりかけています。
自分の精神的・肉体的な調子の良し悪しが、聴く音楽によって分かるということがあるんだなあと始めて気がつきました。AC/DCはロックの中でもハードな部類に入るハードロックです。そんなハードロックを随分と長い間聴く気になれない状態が続いていました。好きなはずのハードロックが「うるさい。」と感じる日々だったのです。その代わりに、スムーズジャズという「差し障りのない心地良さ」を表現する音楽を聴いていました。
スムーズジャズは大好きな音楽スタイルです。しかし、気持ちをググッと持ち上げてくれるような音楽ではなく、リラックスする音楽ですから、これを聴いてるうちはリラックス状態でいることを意味します。面白いことに、私がスムーズジャズを専門に聞き始めた頃を振りかえってみると、様々なストレス下に置かれはじめた時期と重なるのです。心がリラックスを求めていたのかもしれません。
サラリーマンを辞めて、学生になってからも一年間は同じ状態でした。今考えると、私の脳はいろんな意味で疲労していたのかもしれません。企業という組織に組み込まれて、組織内で人間関係に気を使い、仕事の面ではできる自分を見せたいという気持ちと、本当にこれで良いのだろうか?という気持ちとの葛藤に悩み疲れていたのでしょう。その疲労がこの学生の一年をかけて、少しづつ治癒されてきたのかもしれません。
今、AC/DCを聴いて「格好エエやん!」と思えるようになってきました。心がドキドキワクワクしてくる自分がいます。溜まっていた疲労が抜けてきて、ようやく待ち続けた自分らしさを開放して行ける時期がきたのかな?と暖かい春の到来とともに期待が膨らむのです。
このところ思考回路がストップ状態で、とうとう若年性痴呆かと疑っています。今日のあるある大辞典で、お茶に含まれるカテキンが大脳の機能低下を防ぐなんてことを言うものだから、お茶を飲みまくりです。しかし、あのような情報番組が増えていますが、事実を伝えてるのでしょうか?テレビやインターネットの情報は疑ってかかることにしている私も一応お茶を飲んでいます。
連休中のアルバイトは意外と暇で、普段の土日とあまり変わりません。ただ、新人さんの指導をしながらなので、気疲れします。以前、サラリーマンをしていたときも私の下についた新人を指導をしていたことがあります。私の運が悪いのか、新人さんの傾向として誰でもそうなのか分かりませんが、本当に物分りが悪いというか考えないというか... 一を言っても本当に一しか分からないのです。
仕事ができるできないというのは、どれだけ仕事に関わる人達のことを考えられるか?という能力というよりは気遣いの部分だと私は信じているのですが、その部分が新人さんには分からないのでしょうね。しかし、私は彼らにそんなことは指導しません。一しか分からない人にはとりあえず次の二を教える努力をしています。これがとても疲れるのです。
人を教えるってとても大変なことなのですね。あらためて実感。それにしても「考える」ことをしない人、意外と多いのですね。
「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」マザー・テレサのことばだそうです。バイト先の同僚が教えてくれました。
週末だけのアルバイトとして働く私にとって、アルバイト先での人間関係は簡潔なほうが良いと考えています。しかし、彼はフリーターとして毎日働いているせいか、職場での人間関係に強い問題意識を持っているようです。彼に「私は、あまり人間関係に関心が無かった。」と言ったところ、マザー・テレサのことばを教えてくれました。
うむ〜、です。
閉塞感が溢れる日本に蔓延しているもの、その答えの一つとして「無関心」というものが挙げられるのではないか?昨日観た映画「ボーリングフォコロンバイン」の中で繰り返し言われていたこと、「マスメディアや政治家に代表されるように、アメリカ国民を恐怖に陥れることで、われわれの心を支配している。」というのも日本に当てはまるし、非常に納得の行く答えの一つです。
流行に後れまいとしたり、消費活動の中に充足感を感じるような情報コントロールをされたり、恐怖感をあおられているにも関わらず、私達は他人のことには無関心だったりするのです。なんだか矛盾している概念なのですが、その矛盾こそが閉塞感だったりするのかなと思うのです。
なんだかよくわからないのですが...
すいません。最近、書く意欲が湧かずにほったらかしになっていました。たわいのないことでも、毎日書いていくようにします。そのうち調子が戻る事もありますしね。
昨日は、琵琶湖へバス釣りに行ってきました。ボートで沖まで出て、黙々と釣りを続けましたが、結局一匹も釣れませんでした。まあ、でも天気も良かったし、久しぶりの自然の中での遊びに大満足。また、外で遊びたいです。いい季節ですし。
今日は、昼から映画を見てきました。「ボーリングフォコロンバイン」を見てきました。また、何でも感想文の方に感想を書きますが、久しぶりに面白い映画を見ました。ドキュメンタリー映画ですから、なかなか他の娯楽映画との比較は難しいのですが、映像ならではの説得力に圧倒された感じの二時間でした。
明日からバイト3連ちゃんです。皆が休みの時に働く。このバイト生活も後わずかですので(6月いっぱいで辞めます。)、明日から頑張ってきます。
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