知らんけど

2003年03月31日(月) 頭痛

三月も終わりです。三月に関してはとても長く感じました。前半は試験があり、中盤は実習の準備、そして後半は実習と、とても充実しているからでしょうか?中身が濃いと、一日一日の時間はすごく短く感じるのですが、振り返ってみるととても長く感じるのです。逆に、暇過ぎると、一日一日は長く感じるのに、振り返ってみるととても短く感じるのです。振りかえったときに長く感じる一日を過ごしていきたいですね。

今日は、ずっと頭が痛く、帰って来て実習日誌を書こうと思ってメモをみたら、いつもよりメモが少なくて困ってしまいました。思い出して書こうとしますが、今も頭が痛いし、なかなか思い出せません。精神的には非常に充実しているのにも関わらず、体の調子が今一つなため精神が抑圧されている感じです。もやもやしてます。

明日は、特養での実習です。



2003年03月30日(日) テレビとパソコン

今日は、久しぶりの休みでしたが、雑用を済ませて後はテレビかパソコンかというデジタルな一日でした。デジタルといえば聞えは良いのですが、実際には完全な受身の生活ですからまるで脳細胞は働いていません。こうした受身の状態で休みを過ごすと頭がボーっとしてしまってよくありません。また、テレビやパソコンはずっと同じ画面を見つめてしまうので、目の疲労につながります。

以前から私は物理的な視野と、精神的な視野というのはとても密接に関係しているのではないかと考えています。実際の目で広い視野を持つ人は、気持ちの上でも広い視野を持っているのではないかと考えるのです。都会に暮らしていると、どうも視野が狭いし、眼の先にあるものはすぐ目の前の建物や人になってしまいます。そうした建物や人が少ない場所に行けば、無意識のうちに遠くを見ることになります。近くを見るのと、遠くを見るのでは視野の広がり方が異なるのです。

テレビやパソコンは、まさに目の前に対象物があります。まだ、街の中なら動くもを見たり、ちょっと遠いところにあるものを見たりしますが、テレビ・パソコンは目の前でじっとしています。そして、強い光を放っているものを見つづけることになります。まばたきの数も減るそうですから、いかに目を酷使しているかが分かります。

広い視野とか、狭い視野という視点ではなくても、テレビやパソコンから流れる情報を受身に見ているのは脳には良くないですね。五感を精一杯使った生活を取り戻したと思っています。野球も開幕しましたが、テレビではなくて実際に観戦しにいこうっと。



2003年03月29日(土) 良いことば

今、テレビで松井秀喜の特集をやっています。その中で松井が高校生の時の星陵高校の監督のことばがとても良かったので、掲載します。

心が変われば
行動が変わる
行動が変われば
習慣が変わる
習慣が変われば
人格が変わる
人格が変われば
運命が変わる

運命が変わらないかなあって思っている方は、まずは自分から取組んでみてはいかがでしょう?私はこれから自分に取組みます。



2003年03月28日(金) カテゴリの怖さ

昨日は、知らないうちに寝てしまって更新できませんでした。今日も相変わらず実習に行ってきました。様々なタイプの自閉症の子供をみましたが、いわゆる自閉症の典型的な特徴を持つ子供と、そうではない子供がいることを学びました。かなり幅が広い範囲を自閉症と呼んでいるそうです。こうした障害を広汎性発達障害と総称するようですが、自閉症の他に学習障害やADHDなどが含まれます。これらはすべて原因がいまだに良くわかっていない障害なのです。

この世の中には良く分からないことがたくさんあります。人間は常に分からないものへの探求心を持ってきました。そうした探求心が人間の社会を発展させてきたのでしょう。しかしながら、あまり良く分かっていないものに対して名前をつけてしまうことで安心してしまったりする悪い面も見られます。自閉症などは典型的な例かもしれません。確かに、カナーという学者が発見したような特徴を持つ発達障害児も居ますが、決してそうした枠に当てはまらない子供もたくさんいるわけです。

分からないが故に、大きなくくりとして自閉症という障害名をつけてしまったのでしょう。しかし、こうした障害児を日常的に見る言語聴覚士などは、自閉症とひとくくりにできないという要素を子供と接する中で感じているようです。ひとくくりにしてしまう事で、彼らへの対応は一律な対応になってしまう恐れがあります。こども一人一人に個性があるように、障害にもその個性が反映され、一人一人まったく違う障害を呈しているのです。そして、そうした個性に合わせた訓練の仕方を考えていかなければなりません。

物事を理屈で考えていくと、どうしてもカテゴリをつくって物事を整理したくなります。しかし、世の中にはそうしたカテゴリに収まらないもの、また、収めるべきカテゴリがないものがあります。カテゴリに収めてしまったほうがすっきりはするのでしょうけれども、カテゴリに放りこんだ瞬間に物事の本質や特性というものが薄れてしまうのです。

国と国との戦いに、個人個人の命の尊さが薄れていくようにです。



2003年03月26日(水) 実習三日目

イラク戦争もだんだんと死傷者が増えてきました。よりよい生活を送れるための補助をする仕事を目指す私としては、簡単に人が死んでいくことがなかなか受け入れられません。戦争が終わってしばらく経つとまた戦争はするべきではなかったというような話しが出てくるのでしょう。いつまでたってもこんな歴史を繰り返すのでしょうかね。

今日は、ダウン症の子と自閉症の子の2人のこどもと、構音障害を持つお年寄り3人と失語症を持つ女性1人の計6人の訓練を見学しました。1人のこどもの訓練は、最初から最後まで私にやらせてもらえました。だんだんとこどもと遊ぶ事、遊びながら発達の段階を見ようとする余裕が出てきた感じです。実際はまだ見れていませんが。

今回の実習先では小児と成人の両方が見れ、しかも付いている先生が非常に良い先生で、実際の訓練に参加できるので見学実習とはいえ非常に中身の濃いものになっています。まあ、返ってきて実習日誌や観察記録を書くのは非常にしんどいですkれど。



2003年03月25日(火) 特養訪問

今日は特別養護老人ホームでの訓練を午前中に見学し、午後からは病院に戻って失語症の方の訓練を見学しました。特別養護老人ホームでは、数名の方とフリートークをさせてもらいましたが、フリートークとは言え、こちら主導で行うフリートークは非常に難しいものでした。本来であればフリートークの中から様々な症状を観察したり、検査的な要素を盛り込んで症状を確認したりするのだそうですが、私にはフリートークを続けることに必死でした。

なんせ皆さん痴呆をはじめとした脳の機能障害をお持ちの方々ですから、私の話しに興味を持とうとしない人、質問とはまったく関係のない話しを始める人など様々です。フリートークが続かない原因を単純に自分の能力のせいと思うと自信を失いそうです。バイザーの先生のフリートークのように雰囲気を盛り上げていく技術はまだありませんが、少しづつ改善できればいいなと考えています。

今日も百聞は一見にしかずの一日でした。



2003年03月24日(月) 実習

実習が始まりました。やはり教科書や授業だけの知識では何にもわかりやしません。実際の症状を見たり、臨床の先生に話しを聞かないと身につかないですね。百聞は一見にしかずということわざはまさにこういう時に使うのでしょう。

初日と言う事で多少疲れましたが、明日も楽しみです。今日は短くてすいません。早く寝ますね。



2003年03月23日(日) 自慢話

自分がどれだけすごいかを自慢されるととても困ります。なぜなら、価値観が違う人のすごいことは、私にとってまったくすごくないからです。しかし、そういうことなど気にする様子もなく、どちらかというと聞き役になることが多い私にべらべらと話す人がいるのです。

別にその人自身が「俺ってすごいじゃん。」って思うのは構いませんし、自慢したがる気持ちも良く分かりますし、多少の自慢話ならお付き合いします。中には、私の価値観から見てもすごいなと思える人も居ますし、自慢話のすべてを否定するつもりはありません。

しかし、自慢話が高じて他人の価値観を否定する人は勘弁です。

ああ、今日は気分の悪いことがあったので、愚痴になってしまいました。すいません。明日から実習です。



2003年03月22日(土) 達成感

連休中のホテルはとても忙しくなります。朝から夕方まで一息入れる暇さえありません。普通、嫌な仕事をしていると時間が非常に短く感じるものです。別に今のアルバイトが好きなわけではありませんが、毎回、時間が経つのがとても早く感じます。恐らく、仕事の特徴に原因があるようです。

学習心理学という分野で、スモールステップという理論があります。小さな目標を立てていくことで達成感を呼び起こし、最終的な目標へ近づいていくという学習の理論です。大事なのは、小さな目標はその人の能力で必ず成功する目標を立てることで、こうした成功体験を繰り返して物事を達成していくという心理学的に非常に有効な手段です。

私のホテルでの仕事は、決まった時間内にいかに多くの部屋のベッドを作り上げていくかです。一つのベッドを作る方法はすべて同じ手順なのですが、一つ一つの部屋のベッドを作り上げる毎に達成感があります。早く作れたという達成感。きれいなベッドにできたという達成感。効率的に仕事ができたという達成感。こうした達成感を積み上げていくことで、小刻みに達成感を感じる事ができます。

達成感を小刻みに感じる事で、仕事に熱中できます。さっきよりも「早くきれいに効率的に。」が常に新たな目標になるから熱中できるのです。熱中することで時間が短く感じます。面白いもので、時間が短く感じる体験というのは、その時間間隔とは反比例してとても充実しているように感じるものです。退屈な時は、時間が長く感じる割には、思い返すととても短く感じたりするのです。

人生も小刻みに達成感を感じていきたいですね。今は短く感じても、振り返ったときに充実感がある人生がいいですね。



2003年03月21日(金) 戦争テレビ

日が長くなってきました。バイトが終わった後もまだ明るいのがとても嬉しいのです。こうした喜びって大切ですね。季節や自然を感じる事のない都会では、日の光さえも感動を演出します。明日は雨のようです。このところ、週末になると天気が怪しくなります。週末がバイトばかりの私は何ともありませんが、休みの皆さんにはちょっと勘弁でしょうね。

テレビでは戦争の話し一色ですね。こうした番組が多いと、他のバラエティ番組の内容の無さに愕然としますね。いつもそれを観てへらへら笑ってる私がいる事の方がもっと愕然ですが... それだけ戦争と言う事実はエンターテイメントになってしまっているのでしょう。ニュースに出てくる解説者が、精巧なジオラマを前にしてまるでゲームをするかのように戦略を推測する姿はまさにエンターテイメントの要素が全面に出ています。

テレビ番組は二言目には「情報」ということばを使っています。「新しい情報は入ったでしょうか?」「情報が入り次第お伝えいたします。」などなど。私もそんなことばにだまされて、夜な夜な「新しい情報入らないかな〜」なんて意識でテレビから離れられなかったりするのです。しかし、私に戦争の情報なんてそれほど必要がありません。あるとすれば友達との会話での話しのネタになるくらいでしょうか。一般小市民にとって、戦争の情報なんて必要ないのです。そう考えると、戦争をニュースで取り上げるというのは一種のエンターテイメントなのです。視聴率稼ぎなのです。また、エンターテイメントとして私達も情報を求めているのではないのでしょうか?

利己的な私には、社会的な主義主張はないのですが、人が無駄に死ぬことは普通に考えて嫌なことです。そういう意味で、すでに何人かの死亡者が出ているこの戦争は止めてもらいたい。一個人としてそう想います。でも、その想いとは裏腹にテレビで情報を求めている自分がいるのです。



2003年03月20日(木) 失礼な話し

人の顔をバカにするのは非常に失礼な事なのですが、ブッシュさんってアホ面ですよね。ブッシュさんが大統領選に出ていた頃から思っていました。アホ面=アホなのかどうかは一概には言えませんが、私は彼のアホ面っぷりから当選はないだろうと考えていました。でも、気がついたら大統領になっていました。今、戦争まで始めています。

ほんと、人の顔をバカにしたり、顔で人を判断するのは超失礼なことなのですが、あながち間違いではないと思ったりしています。科学的に顔の印象と実際の性格を比較した研究をすれば面白いのではないかと思うのですが、こんな私はやはり失礼なのでしょうか?決して、アホ面に代表されるようなアホバカ論争ではなくて、人の顔というのは、性格のすべてではないにしても一部を表していると思えて仕方がありません。

もしかしたら、逆に顔が性格を決める要素になることも考えられますね。アホ面だから、アホと思われて実際にアホになっていくということもあるかもしれません。(アホ面にこだわりますが...)血液型などはその類だと言われていますね。心理学的な立場では、血液型による性格類型は成立しないそうです。恐らく、A型はこんな性格という解説だけがまず一人歩きし、それにA型の人が当てはまる部分を拡大解釈して、それが自分の性格だと勘違いしてしまうというのです。そうした勘違いにある一部分の性格だけが強化されてしまい、A型のような人ができあがると言われています。

問題の本質は、ブッシュは実際にアホなのかどうか?です。実際にアホな性格なら、その性格特性とアホ面という顔の特性に関係性があると証明できるわけです。性格が顔に影響してるのか、顔が性格に影響してるかはわかりませんけれど。私は、本当に失礼でアホな思考だと思いますが、ブッシュはアホだと思います。なんとなく。顔を見て。



2003年03月19日(水) 好奇心の開放

実習前ということもあり、こどもの発達について集中的に勉強をしています。その中で、こどものモチベーションについての話がありました。知的障害児に代表されるような発達に遅れを持ったこどもの言語訓練を行う際には、こどもの訓練に対するモチベーションが大事な要素になってきます。(もちろん健常児もそうです。あ、健常児というのは平均的な発達をしているこどもの事をいいます。発達に遅れを持ったこともというのは、決して発達しないこどもという事ではなく、平均より遅いだけです。)

こどものモチベーションは、大人の私達とは違って人間として必要不可欠な能力を獲得していくために必要なものです。例えば、部屋の中にたくさん置いてあるおもちゃに好奇心を抱かない一歳児は、恐らくことばの獲得の段階に来ていない可能性があります。また、おいしそうなお菓子に対して指差しをすることで、大人に対して自分の欲求を伝えるためには、伝えたいという気持ちがなければいけません。こうした欲求を支えるのは好奇心なのです。

しかし、こうした基本的な好奇心はある程度時間が経ってくると平凡化、形骸化してくるのだそうです。基礎的な好奇心がある程度満たされると、それを土台にしたまた新たな好奇心が生まれてくるのだそうです。高いレベルの発達を望むためには、こうして新しい好奇心を保ちつづける必要があるわけです。そのためにはどうする必要があるのか?

一番大事なのは、こどもの自発性を育てることです。自発性に支えられた行動と、それに伴う楽しい経験が新たな好奇心を生むのです。育てるというと、大人が「ほら、自分でやりなさい。」という感じがしますが、違います。こどもは本来、自発的に興味を持つ生き物なのだそうです。その自発性をどうやってサポートしていくかが大事なのですね。(発達の遅れのあるこどもは自発性に問題のあるこどもも多いようです。その場合は専門家が環境を整えて、自発性を発揮できるような訓練をしていきます。)

人間には本来そうした好奇心を持つための自発性と言うのが備わっているのです。それはこどもに限らず、大人にだってあるはずなのです。本来備わっている好奇心を、恥ずかしい気持ちや面倒くさい気持ちから開放させてあげることができるかどうかが人間としての成長に大きく影響するのではないか?と思うのです。こどもから学ぶ事、とても多いです。だって、私達も一度は通ってきた道ですからね。



2003年03月18日(火) 人間の法則

ことばの概念を獲得していく際に、人間は一つのことばの意味を広い範囲に適用してから細かい事物の概念を獲得していきます。例えば、子供がことばの概念を発達させていく際に、「りんご」ということば(単なる音としてのことば)を覚えた際に、りんごの形状に似た物をすべて「りんご」と捉えていきます。そのうちにみかんを見て、周りの大人がそれを「みかん」と言っていることを聞いて、「りんご」のカテゴリーに含まれていた「みかん」が除外されていきます。こうして、だんだんと個々に概念が行き渡り、「りんご」も実はある種類の果物を意味する事だと理解し始めます。

中谷彰宏さんの著書「大人のスピード勉強法」という本を、以前、「何でも感想文」で紹介しました。その中で、中谷さんは「とにかく本をスピードを出して読みきる事が大事です。分からないところは分からないでいいのです。分かるところが分かるところなのです。分からないところは、そのうち分かる時が来ます。」という主旨のことを書かれていました。

これって、まさに人間のことばの概念の獲得プロセスと同じではありませんか。大枠を掴んで、理解できた細かいものを大枠の中から除外していく(整理していく)という作業をすることを中谷さんは言っているのです。実際に、私はそのような方法で同じトピックの本や文献を読みまくるようにしていますが、確かに中谷さんの言われるように、「分かるときは分かるし、分からないときは分からない。」という思考錯誤を繰り返して理解に至っていると思います。

こういった概念の理解一つにしても、私達人間には何らかの法則らしきものがたくさんあるような気がしてならないのです。何かに迷ったときは、ふと人間自身が持つ法則に目をやってみると、何かしらの解決策が見つかるかもしれません。



2003年03月17日(月) 最大の疑問

「戦争始まるみたいだね〜。」梅田の街角で、ふと聞えてきました。私だってふと口にしそうなことばなのですが、なんだか妙にショッキングな感じを受けたのです。「戦争」って一言で片付けられてしまうその裏には、多くの命が失われる可能性が現実としてあります。でも、太平洋戦争での敗戦以来、戦争なんてことと無縁で来た日本人には「戦争」ということばの持つ意味が実はわかっていないのかもしれません。こうやって偉そうに戦争について書いている私だって良く分かりません。

プライベートライアンという映画を観た事があります。多くの人が観られたと思いますが、あの映画を映画館で観たときの衝撃は大変なものでした。特に最初の15分ぐらいは。映画に行く前に、テレビで撮影の裏側を紹介する番組を観ました。実際の戦争体験者の話しを元に忠実に戦闘シーン再現したそうです。音、描写、映画で忠実に再現されなかったのは匂いだけだったそうです。

あのシーンを観て、なんとなくではありますが「戦争」というものの現実を観たような気がします。政治・経済など、国の戦略というのに絡めて、ニュースなどで「戦争」とさらりと言われると、「はは〜ん、戦争かあ。アメリカも戦争好きだなあ。」ぐらいにしか思いません。そこに何の悲壮感も悲しみもないってことに最近気がつきました。神戸で主婦が突然刺されて亡くなった事件には、悲しみややるせなさを感じるのにです。

人を殺す事はよくないことだ。というのは当たり前のように言われるのに、なぜ戦争は許されてしまうのか?こどものような疑問ではありますが、これだけ技術や教育が進んだ現代でも解明できない最大の疑問です。



2003年03月16日(日) 本当の教養

今日はアルバイトの日でしたが、これまでになく忙しい一日でした。ある有名ホテルの客室係としてベッドのシーツの交換をしています。いつもなら一人でだいた10部屋もやれば多いのですが、今日は一人で18部屋もしました。疲労困憊です。こうも忙しいと、だんだんと仕事に熱中してしまって時間が経つを忘れてしまいます。

仕事に熱中していると、だんだんと仕事にリズムが出てきます。みなさんもお仕事にしろ、勉強にしろ、遊びにしろ、熱中しだすと独特のリズム感がでてきませんか?個々人でリズムは違うにしろ、テンポ良く仕事ができていく感覚があるはずです。今日の私も忙しさの中にも、そうしたテンポ良さが心地良く感じていました。しかし、そのテンポを崩すようなことをする人が世の中にはいるのですねえ。

どーでもいいことをくどくどくどくど言うおばさん。今日は忙しいからとにかくベッドを作っていきたいのに、「部屋の温度は18度にしなさいよ。暑いから。今度からちゃんとしてね。」私は、それを言われるたびに手を一瞬止めなければならないので、リズムが狂います。私の心の中には、あれをやってこれをしてという仕事の順番ができあがっていますから、別に言われなくてもするのですが、おばさんにとっては気に入らないのでしょう。こういう人に限って、自分のことをとやかく言われるの嫌ったり、ちょっとしたミスでも謝らずに言い訳ばかりするのです。

こうしたちょっとしたことで、私は非常に落ち込んだりします。別に注意された事に落ち込みはしません。ただ、何でこの人は自分の事に関してはこれだけ敏感なのに、自分の感覚を他人に置き換えてみる事ができないのか... そこに落胆します。「人の心がわかる心を教養という。」私が、ここ数年で耳にしたことばの中で一番心に響くことばです。すごい知識なんかなくてもいいし、すごい身体能力なんてなくていいし、すごいお金持ちじゃなくてもいい。人の心がわかる心という教養が社会に広まれば、とても素敵な社会になるのになあって思うのです。

ちょっとロマンチック過ぎますか...



2003年03月15日(土) アメリカ的

マジェスティックという映画をビデオで観ました。何でも感想文の方にも駄文が書いてありますが、おもしろい映画でした。ハリウッド映画というのは、いつでもメッセージが分かりやすくて、メッセージそのものがエンターテイメントになっているのが楽しいですね。今回のマジェスティックでも、映画が放つメッセージがビシバシと伝わって面白かったです。

この映画が伝えたかった事は、「覚悟」「勇気」「行動」の3点でしょう。どちらもアメリカ的な成功哲学にはつきもののことばですね。アメリカでロングセラーを続けているデール・カーネギーのセルフヘルプ本にも同じようなことが書いてあったと思います。とにかくアメリカはシンプルで早いって感じですね。ファーストフードってのがアメリカ発祥というのもうなづけます。

別にうだうだ考えていくことが嫌いなわけではありません。私自身うだうだ考えるタイプなので、こねくり回したような映画も意外と好きです。しかし、こうした分かりやすいアメリカ映画を通して、単純ではあるけれど気持ちの高揚が得られ、それが明日の原動力となるのもまた確かなのです。単純すぎてしまうと、大事な部分を忘れてしまう事もありますから、そこは常に注意が必要だとは思いますが。

現実、私は日本人ですし、大阪は日本じゃないといわれても、実際は日本人ですし、アメリカ的なものを取りいれても決してアメリカ人になれるわけではありません。しかし、アメリカ的な分かりやすさを生活の中に取り込むことで、結構、楽観的に人生送れてしまうのではないかと思うのです。単純に、分かりやすい生活もいいかもしれないですね。



2003年03月14日(金) 物事の重心

学校は休みに入りましたが、実習が始まるまでは土日祝日を除いてこれからも毎日学校に通うつもりです。今日は、再来週から始まる実習とは直接関係ありませんが、障害を持つ方の移動を手伝うための技術の訓練をしました。ベッドから起き上がれない人を、ベッドの上に起き上がらせて、車椅子に乗せるための訓練です。人間を持ち上げてみればわかりますが、人間は非常に扱いにくい物体です。それをいかに最小の力でお互いに負担なく移動させるかということを学んだわけですが、目からうろこの状態でした。

人間は、生まれつき自分の体のバランスをとるようになっています。そうでなければ歩く事も走る事も座る事もできません。ましてや、座った位置から立つ事さえできないのです。ちなみに椅子に座った状態で、上半身をまったく動かさずに立つ事ができますか?これができないのです。一度、やってみてください。必ず、上半身は前傾します。足を引くという動作を入れる方もおられるかもしれません。何がこうさせるかというと、バランスを取っているのです。通常時の人間の重心は、第二仙椎の前約1インチだそうです。第二仙椎というとお尻の出っ張っている骨の一つ上の背骨になります。まっすぐ立ったり座ったりする時、人間の重心はそこにくるのです。

ですから、椅子から立ち上がるときも上半身を前傾させることで、第二仙椎とのバランスをとり重心を前に移動させることで無理無く立ち上がる事ができるわけです。こうした重心のバランスの取り方を、患者さんの移動のときにもうまく取り入れていきます。患者さんの重心のバランスを移動させながら、自分の重心もうまく操って一番効率のよい動作を心がけるのです。この重心がバシッとはまると、人間の体は極端に軽く感じます。不思議なくらい軽く感じるのです。

漠然とではありますが、このことは人生や普段の生活にも適用できるのではないかと考えました。恐らく、すべての物事は重心を持っているのです。その重心をしっかりと見極めて、その重心に自分の重心を近づけることで、物事はこれまでとは違う扱いやすさを持つのではないでしょうか?自分の長所や特技が重心とすれば、自分の得意なものと、取組もうとしている物事の共通点を探り出し近づけることで、重心が重なってすっと物事が動き始めるのかもしれません。

物事の重心を探ること。なかなかおもしろい視点になるのではないかとワクワクしているところです。



2003年03月13日(木) preoccupied

久しぶりの休日だったにも関わらず、散髪→ブロードバンドルータとLANコードの購入→紀伊国屋で立ち読み→銀行で新しい通帳ゲット→溜まっていた公共料金の支払い→古本屋に要らない本を売却→レンタルビデオ借りる→妹のパソコンをネットに繋ぐためのLAN設定... とまあ雑用で過ぎていった一日でした。

毎日、何かしらするべき事があるというのは、とても良い事なのですが、こうして丸一日フリーな日があって、しかも次の日も休みってのは気分的にも楽ですね。久しぶりに気持ちにゆとりができたかなって感じがしました。なぜ、こんなにゆとりを感じるほど休みと休みではない日の間にギャップを感じるのでしょう?普段からゆとりを感じながら生活できれば、それに越したことはないのに...です。

私自身、一日を自由に過ごしてみて、ことば通り「自由」を感じたのが印象的でした。「9時半までにここに行かなければならない。」「1時半までに戻らなければならない。」「3時までに仕上げなければならない。」など、普段の生活では意外と制約が多いものなのかもしれません。何が制約で何が自由かは、個々人によっても感じ方は違うのでしょうけれど、最近の私は忙しさにある意味かまけていたところがあったようです。

どいうことかというと、自分らしさを再確認する時間を取らずに過ごしていたということです。英語で「preoccupied」という形容詞があります。「夢中になった,(…に)没頭している」という意味です。非常に前向きな日本語訳がつけられていますが、実際の会話ではネガティブなイメージで使われます。「pre」とは「前もって」という意味です。「occupied」というのは「占領された」という意味です。「前もって占領されてしまう。」という意味が成り立つのです。

行動を起こしつづける事で結果を出していくことは、自信にもつながりますし、充実した生活に必要不可欠な部分でもあります。しかし、そうはありながらも自分という人間を内省して確認するゆとりというものも非常に大事なのではないかと思うのです。もし、不明瞭になりつつある自分自身を、忙しさで「preoccupied」しているのなら、一度、その忙しさを取り除いて、自分自身を見なおす事も必要なのです。



2003年03月12日(水) 感覚遊び

自閉症児への訓練のための教材研究をしています。研究とは名ばかりで、実際は、先日見学させもらった施設で使用されていた教材を見よう見真似で作ってみるという試みです。日常生活に使用される様々なモノを色画用紙で作っていきます。それぞれ、大きなものと小さなものを作ります。例えば、黄色の大きなカメラと黄色の小さなカメラというように。

このようないくつかの種類のモノを呈示することで、色、種類、大きさで分類することができます。こうしたものの分類を通して、モノの様々な概念をことばでやりとりする訓練を行うのです。視覚を用いて、「黄色の大きなカメラ」と「緑色の小さなクツ」を区別し分類するのは、彼らとっては簡単なことです。しかし、同じものをことばで聴いて区別し分類することがなかなかできないのです。(症状にかなりのばらつきはありますが。)

私たち健常者は、当たり前のようにものを見てそれが何かがわかります。しかし、その裏には、まず見たものの形を理解するために、色の違い、明暗の違いなどを見て輪郭を認知します。輪郭から更に情報を加えて立体性を認知し、モノの形を判別していきます。そして、その形をこれまでの記憶と照らし合わせて、それがカメラだとわかります。カメラだとわかることと、カメラを「カメラ」ということばと結びつけることはまた違う脳のプロセスなのです。更に細かくいくと、発話の際のことばと、聴く際のことばは脳の違う場所で処理されるのです。

このような人間の能力は、本を通して学んだわけでもないし、母親の真似をすることだけで学んだわけではありません。様々な「感覚」を通して、様々な刺激を得る事で磨かれてきた能力です。体、そして、脳が感覚として学んできたものだとも言えます。この頃、そうした感覚的なものを失いかけているのではないか?と思うようになりました。

教材作成の過程で、ハサミで画用紙を切る感覚や、マジックで画用紙上に様々な模様を書く感覚など、子供の頃に楽しく感じていた感覚を久しぶりに体験しました。パソコンの画面を眺め、テレビで情報を得て、本の活字を追うという最近の受身の活動とは違う何かものを取り戻したような気がします。実際、こうした工作をした後は頭がすっきりするのです。確かに知識を得ることは必要なのですが、同時に体の感覚をフルに使った体験も人間の感性を育てるためには必要不可欠なのです。

たまにはこどもの頃を思い出して粘土遊びでもしてみませんか?新しい何かを発見できるかもしれません。



2003年03月11日(火) 感情コミュニケーション

先日行われた言語学の試験結果が思わしくなかったためか、先生のご機嫌が斜めです。今日、それが爆発しました。いつの頃からか、怒られるということをずっと経験してこなかった私には、先生の怒鳴り声がなんだか心地良くさえ聞えたのです。それは、先生の感情が私の感情を刺激し、活性化させたからだと思うのです。

あらためて、私の周りでは、感情によるコミュニケーションがずいぶんと減っている事に気がつきました。私自身も反省しなければいけませんが、日頃のコミュニケーションの質が以前と異なってきたように感じます。こうしてWEB上で自分の考え方をアウトプットすることも一つのコミュニケーションだと思っていましたが、どう転んでもこのWEB上で私の感情をストレートに皆さんに伝える事はできないのです。

「好きだ。」ということばよりも、黙ってぎゅっと抱きしめる方が、愛情という感情は伝わります。「このバカやろうっ!」といくら促音やビックリマークを駆使して怒りの勢いを伝えようとしても、先生の怒りの感情が声に乗って空気を伝わってビンビンと体を刺激するのとは伝わる内容が異なります。皮膚感覚や、聴感覚、そして、怒りに赤らむ先生の顔が目の前にあってこそ、本当の意味での怒りが伝わってくるのです。そして、その感覚は私達の感情を刺激して、私達の心を動かします。

感情をもっと感じたい。感情をもっと伝えたい。そんな思いを募らせた一日でした。感情のコミュニケーションは、例えそれが怒りであっても心と心のコミュニケーションなのです。



2003年03月10日(月) 学ぶ

集中講義も後半に入りました。今日から音声学の授業が始まりました。私が目指すのは言語聴覚士ですから、音声ということに関してはかなりの知識を持つ必要があると思いますし、大事な授業です。授業では、主に日本語の音声について学びます。

言語というのは、まず話し言葉ありきです。話し言葉のない言語はあり得ないそうです。ですから、ことばというのは音声言語を基本としています。音声言語ですから、何らかの音声を使うのですが、どのような音声が、どのようにして発せられるのか?それが音声学です。人間が発せられる音の数は、恐らくかなりの数でしょう。それらのうち現在世界でわかる範囲での音が、すべて発音記号となっています。国際音声表記という形ですべてが記号で表されるのです。国際音声表記(IPA)→http://www.arts.gla.ac.uk/IPA/ipa.html

唇や舌などを駆使して、音を出します。また、音に音色をつけるために口の中の容積を変えて共鳴の調節をしたりします。音声学を学んでいてまず思うのは、どのようにしてこんな複雑な事を人間は習得するのか?ということです。母親の口の中を見て、「た」の発音を学んだわけではありませんし、「か」の発音の仕方を真似したわけではありません。

すべてはトライ&エラーで習得されているのです。母親の発する音を聞いて、それを真似する。自分が発した音が、フィードバックとして自分の耳に入る。その音と母親や他の大人達が発する音と比べてみる。そして、細かい調整をしていく。こうした時間のかかる学習の過程を経て、私達はことばを駆使することができるのです。生まれながらにこうしたことばの機能が脳の一部に存在するという説もあります。どちらにしても、ことばというのは人間を人間たらしめる存在ですし、その習得過程も発音一つとっても、かなり複雑な過程を経てきているわけです。

「学ぶ」と聞くと、「勉強」という苦しい体験が思い出されますが、私は「学ぶ」とはまさにことばの過程にみられるようなトライ&エラーの繰り返しだと思うのです。大量の刺激に日常的に触れ、それについて考えてみる。人間の五感をフル活用して刺激を入れて、そして考える。表現する。そして、それを楽しむことが大事です。こどもは楽しそうにことばを習得しているではありませんか。私達もこどものように、楽しく学んでいきましょう。



2003年03月09日(日) アクティビスト

イラク問題でもそうですが、何か大きなニュースがあると出てくるのが評論家です。評論家がどんな評論をするのかいつも注意して見ていますが、「この評論家すごいな。」って思ったことのある評論家はなかなかいません。

ある本にアナリストとアクティビストの違いの話しが出ていました。今の日本にはアナリスト、すなわち分析家はたくさんいるけれど、実際に行動で示すアクティビストが極端に少ないと書いてありました。なるほど、これまで私は物事を深く考えて、様々なものを注意深く観察して、分析していく冷静な心が必要だと考えていましたが、それだけではいけないようです。分析的思考は「事実」と「論理性」を重要視します。事実がなければ論理性は保たれないし、論理性がなければ事実は光り輝きません。しかし、今の時代はそうした論理的な思考よりも創造的な発想や行動が求められているのかもしれません。

遊びや突拍子もない思いつきから、新しいものが生まれてくる事も多いのではないでしょうか?論理的思考に偏ってしまって、そうした遊び心や奇抜なアイディアを無意識のうちに排除してきたのではないでしょうか?よりよいアイディアを目指して、論理的思考と創造的思考のバランスを考えていきたいものです。そして、アナリストという側面だけではなく、アクティビストとしての側面も強化していきたいものです。



2003年03月08日(土) 本質

試験が返ってきています。今のところ結果は上々で、とにかくパスさえすればいいと考えていた割にはよい成績です。しかしながら、短期記憶に頼って得た結果でこんな点数が取れていいのか?という疑問も湧き上がってきます。やはり試験で本当の能力なんて評価できませんね。

ある試験で、ことばの発達が遅れている子供が遊んでいるビデオを見せられてそれを評価するという形式のテストがありました。もちろん、ビデオでわかる範囲のこどものことばの状態や、遊ぶ姿からの運動発達や知的発達の状態などを評価するので、メモをとらなければなりません。しかし、そのメモが減点の対象になりました。答案用紙にメモを残してはいけない。それが先生の考え方だったようです。

ある生徒は充分に合格ラインの点数を取っていたにも関わらず、そのメモのおかげで20点引かれて再試験となりました。60点の学生と79点とってメモで減点されて再試験になった人の能力の差は一体何なのでしょうか。先生は何の能力を評価しようとしていたのでしょうか?先生の考えていることがテレパシーのようにわかる生徒を振るい分けるための試験のようにさえ感じました。

メモを残す事が良いとか悪いとかという考え方の問題ではなく、こうしたことがまかり通る評価体制というものに疑問をもちました。こうしたことは一例に過ぎず、この世の中には、こうした不合理なものが多いような気がしませんか?多くの人がそうした不合理なものに適応するために必死になって頑張らなければならないなんて、とても無駄なことです。何が本質なのか?表面的なものだけではなく、その奥にある人間の本質を評価してもらいたいですね。そして、私はそうした医療人になりたいです。

▼今日の日本政府の米英支持に関して
日本政府には戦争回避の方針をもってもらいたかったです。最近、私も含めた日本人の危機感の無さに諦めを感じる事が多々あります。まるで他人事みたいにニュース見てる自分がいるんですから。日本人は日本が攻められたらどうするのでしょうね。一目散に外国に逃げるのでしょうね。あまり難民を受け入れない国の国民が難民になるときが来たりして。それもお金はたくさん持った難民ね。笑い事じゃないんですが、現実味はまるでゼロなのが怖い...



2003年03月07日(金) ゆっくりだけでいいのか?

最近、テレビでやっているCMでお気に入りがあります。大和証券のCMです。「動いている人は美しい。」このコピーの真意はともかく、今の私を応援してくれる言葉に聞えるのです。

ゆっくり、焦らず、確実に。という座右の銘を5年くらい掲げているのですが、最近この「ゆっくり」という部分に少し説明不足を感じ始めています。確かにゆっくりという感覚は非常に大事な感覚なのですが、最近はスピードを重視した生活を送ることで何かと結果が出ているのです。これはどう考えたら良いのだろう?と考えていますが、今のところうまく説明できないのです。

なんとなく感じているのは、大きなスケールや長いスパンで見たときにはゆっくりに、小さなスケールや短いスパンで見たときは急いで行動するのがいいのかな?とか、やりにくい事、解決し難い困難な事はゆっくり時間をかけて、今すぐにできる簡単で単純な事は急いで時間をかけずにすることなのかな?という事です。

スポーツでもそうですが、緩急をつけた動きとか、メリハリの利いた攻撃なんていい方がされています。そうした視点が生活においても必要なのかもしれません。焦らず、緩急つけて、メリハリつけて、確実に。そんな感じに変えればよいのでしょうか?これからも考えます。



2003年03月06日(木) 意外な言葉

聴覚検査の実技で1回目の試験落ちていたのですが、今日の再試でなんとか通りました。ほっと一安心です。今日は意外な人に意外なことを言われて、とてもうれしかったのです。

聴覚の先生は比較的厳しい先生で、悪く言うと重箱の隅をつつくようなとても細かい指導をする先生なのですが、今日の再試後にとてもうれしい一言をかけていただきました。「あなたは、就職したらその地域の中心的存在になる人だと思うから、どんなことでもできるようにしておきなさい。」言っていることは非常に厳しいことで、私にはまだ基礎知識がついていないということを言っているのですが、その前提として「地域の中心的存在になる人」という言葉がついていたのが驚きでした。

意外な人に言われる意外な言葉は非常に心に残るものですね。それがどんなに嫌いな先生でも、嫌いなだけにうれしいというかなんというか...これを糧に頑張って基礎科目から積み上げていきたいと考えています。

…あるメルマガより
《難しく考えることはない、やりたいかやりたくないかだけなんだから》



2003年03月04日(火) 一瞬を生きる

実習先となる姫路の病院に行ってきました。私より2歳若い実習担当のバイザーは、非常にサバサバした感じの良いバイザーで、気兼ねすることなく結構話ができました。小一時間ほど話しが盛り上がりましたし、実習へも緊張無く入っていけそうです。何せ実習といわれるものは初めてですから、何かと不安がつきものだと思っていましたが、今日の対面でかなり不安は払拭されたような気がします。

学校の授業を途中で抜けて梅田から姫路まで電車で行きました。阪急電車と山陽電車を乗り継いで1時間半、途中に明石海峡大橋が見えました。先日の日記に書いた、NHKスペシャルで紹介されていた安藤忠雄さんの建築も見えましたよ。その電車に乗りながら色々と思いをめぐらしていたのですが、ふと不思議な感覚に襲われたのでそれを携帯に記録しておきました。

『姫路に向かう山陽電車の中。窓の外は海が見える。向かいの席には、若いリクルーター、妙な若作りをしたおばあちゃん、不思議な味を出している中年おじさん。窓から西日が差す中、太陽の偉大さを感じるととも、その偉大さとは裏腹に人生のはかなさを感じる。流れゆく時間は一定でも、人間の人生は好む好まざるを問わずに放物線状の時間として流れる。自分のちっぽけな存在に気づくと同時に、わずかな人生の時間に自分を偽る生き方はしたくないという思いがつのる。太陽の光は降り注いでいる。後はいかに自分の人生というはかない限られた時間を光輝く快適なモノにしていくか?なのだ。あるがままに生きないのであればどう生きる?私は私自身を太陽の光にさらして生きたい。』

別に詩にするつもりもなく、ただ思った言葉をそのまま残したのですが、自分にとって今日感じた事は非常に大事なことのような気がします。一瞬一瞬をどう生きるかということを初めて意識した瞬間でした。



2003年03月03日(月) 睡眠

睡眠時無呼吸症候群。他人事ではありません。私はそんなに太っていませんが、どうも日中の眠気が取れないのです。意識が無くなるほどの眠気ではありませんが、これはもしかしたら軽度ではあるけれども、睡眠の質に問題あるのではないかと考えるのです。気持ち良く朝を迎えたいです。それで、一日のリズムというか気分が八割方決まってしまいますからね。

最近、気になるのが寝返り時に目がさめることです。ばっちり覚醒するわけではないのですが、ぼんやりと寝返りした記憶が残っていますから、多分、起きてるのでしょうね。枕のせいなのかと思って買い換えようかと思いましたが、まだ悩み中です。

1年半前に鎖骨を折った時に、折れた鎖骨をかばうために寝返りをしない睡眠を強いられた時期がありました。そのとき以来、鎖骨が完治してからもなかなか寝返りの感覚が元に戻らないのです。たかが寝返りなのですが、どうもここに原因がありそうです。いつも右側を向いて寝ているために、右の目元のしわが増えてきました。

質の良い眠りを求めて今晩も研究です。おやすみなさい。



2003年03月02日(日) タイ・オーストラリア

4月の前半から中盤にかけてタイとオーストラリアに行く事にしました。タイではカナダで仲の良かったタイ人の友達と会う予定です。バンコク中心にゆっくりしたいと思っています。オーストラリアは色々行きたいのですが、今回はシドニーだけです。以前、通っていた大学がシドニーから電車で約二時間ぐらいのところにあるので、そこに7年ぶりにいってきます。この前シドニー近郊で列車事故があったと思いますが、あれはまさに私が乗る電車です。

今回、タイに行くのは観光+友人に会うという目的があります。タイ人以外にも日本人の友達にも会う予定です。とにかく楽しみたいという気分です。オーストラリアは観光というよりかは、里帰りみたいな感覚です。昔の友人にも会いたいし、昔の先生とかにも会いたいですね。ビールも飲みたいし、クリケットも観たいし、何といっても向こうの太陽をいっぱい浴びたいですね。後、チャンスがあればオーストラリアのST(言語聴覚士)事情も見聞してきたいと思っています。

ここ3年というもの、純粋に楽しむという行為をしてこなかっただけに、今回のタイ・オーストラリア行きは楽しみです。また、写真など掲載するつもりでいますのでお楽しみに。

タイ情報をおもちの方は是非色々と教えて下さい。ここは観とくべき、これは食べるべき、これは飲むべき、これは体験しておくべき、という情報があればメール、掲示板で教えて下さいね。



2003年03月01日(土) 世界は一つじゃない

試験が終わったばかりだというのに、今日もいつもと同じ時間に起きてアルバイトに行ってきました。ん〜、土日にアルバイトが朝からあるのは、こういう時に辛いですね。体が思うように動かないので、イライラしました。外は雨だし、お客さんはチェックアウト遅いわで、何だかストレスの溜まるアルバイトでした。

今日、一つ嬉しかったのは、バイト先に韓国人の留学生の女の子がいるんですが、6ヶ月目にして初めて話したことです。アルバイト先では人間関係をシンプルにしておこうと思って、あまり話しをしないようにしているのですが、最近、やはり土日だけとはいえ、6ヶ月もいるので周りの人達の方から私に話しかけてくれるようになってきました。

ホント、色々な人がいるものです。話していて、色々な人生があるのだなあと感心してしまいます。それぞれがそれぞれに意味のある「人生」ですから、それが自分にとって不可解なものでもとても面白い。考え方というか、一つの行動に至るプロセスには様々な価値観や思考の傾向があるのです。そう考えると、同じ対象物を見ていてもそこに感じるものは人それぞれだということが良く理解できます。

世界は一つではない、世界はこの世に生を受けた人数分あるのですね。


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