女性を誘って食事に行ってきました。私が女性を誘って食事などに行くと、それを傍で見たり聞いたりしている友人は、私を冷やかしますが、私は全然まったくと言って良いほど下心はないのです。私の本意は、「この人と話しがしたい。」ただ、それだけなのです。
では、女性ではなく男性でいいではないか?と言われるかもしれませんが、男性は大抵の場合以下のような状況に陥る可能性が大です。
1)愚痴を聞かされる。 2)エロ話に花が咲く。 3)主張しあって言い合いになる。
男性から愚痴を聞くのは大嫌いです。男が男に愚痴を吐くのは、私は嫌いです。エロ話も男同士のエロ話は下世話過ぎて面白くありません。主張しあって言い合いになるのは、恐らく男という生き物の本能でしょう。共感しあってどうのこうのという関係にはなかなかなれないです。
決して、すべての男性がこうなるわけではありません。しかし、なかなかこの男性と飲みに行きたいなあと思う人はいないのです。私にとって食事に行ったり軽く飲みに行くのは仕事仲間で行くのとは訳が違います。自分のプライベートな時間をできるだけ、自分が居心地のいい環境で過ごしたいですし、相手の人にも同時に居心地の良さを楽しんで欲しいと思うのです。
「女好き」という言葉が、どのような人を指しているのか不明ですが、男性よりも女性と一緒に居た方が楽しいと感じる私は、ある意味「女好き」なのかもしれません。しかし、それにしても女性はすばらしい存在ですね。癒されます。
今日も相変わらず、非常に退屈な授業の連続でしたが、何とか生き延びました。
今、私が力を入れて自身の習慣にしようとしていることが一つあります。それは、「自分にとって大事な人を、一日一度でいいから元気な気持ちすること。」です。大事な人と書きましたが、特に特定の人と定めたわけではなく、その人が私に元気を与えてくれる何かを持っている人であれば、私はその人を元気にする相手として見ます。
例えば、クラスに笑顔が素敵な女性がいます。別に彼女に対して私は何の気持ちもありませんが、彼女の笑顔を見て素直に「素敵な笑顔だな。元気がでるな。」と感じます。ですから、彼女に対して「素敵な笑顔やね。元気の出る笑顔やから、これからも続けてね。」と言います。恥ずかしがりますが、とても喜んでくれます。
決して、外面的なものだけではなく、いつも私が落ち込んでいる時に励ましてくれる人や、やはり、ただそこにいてくれるだけで自分らしさを発揮できるような特別大事な人がいたりします。そういう人に対しても、私は感謝の言葉だけではなく、いかにその人の存在が、私だけでない他の人をも助けているかを心を込めて伝えます。
私を昔から知る人は気持ち悪がるかもしれません。無理もないと思います。私は昔はどちらかというとクールな人間で、他人より自分という感じの人間でした。性格ですから、今でもそういう部分は根本的に残っているとは思います。しかし、今では素直に自分の感情を出したり、弱さを出したりすることができるようになってきました。そのせいか、人の弱さも受け入れられるようになってきたのです。
私が自分の弱さを受け入れた瞬間から、いかに周りの人に助けられているかがわかるようになってきました。別に、周りの人は私を助けているなんて思っていないし、私もみんなに助けてくれなんて大きな声でお願いするわけではありません。しかし、そこに居てくれるだけで私の心を鼓舞してくれる人はたくさんいるのです。存在に感謝できる人はいたるところにいるのです。
これまでの私の傲慢さを反省し、みんなに元気をもらっているのだから、これまでの傲慢さを償うつもりで、みんなに元気を与えたいと考えるようになってきました。元気を与えるという行為は、こちらから元気の出る言葉のような何かを相手に与えることだけではありません。相手が持っている弱さや辛さを、無条件に受け入れる事も相手に元気を与える手段の一つなのです。私は、不完全な人間です。ですから、私が誰かを救い上げて助けるという事はできないかもしれません。しかし、自分で歩いて行こうとする人々の傍で、「歩いているだけでいい感じだよ!」「素敵な笑顔だね!」「そのままでいいじゃんよ。」「自分のペースで行こうよ!」と一緒に歩きながら声をかけることはできるのです。
決して、今の生活は私にとって満足の行く生活ではありませんが、私の言葉で一瞬でも元気が出た人を目の当たりにすると、「生きていて良かった。」と心の底から思えるのです。
授業が退屈なので、それならばということで、一所懸命話している先生の声を無視して、教科書を頭から精読しました。すでに今学期が始まってから何回か授業をしているのですが、今日の範囲まで読み進めるのにたったの一時間しか要しませんでした。授業とは何なんだろう?という疑問がふつふつと沸いてきまして、非常に虚しい気持ちになったのです。
大体、講義形式の授業とは何の為に行われるのか?こんな根本的なことを疑い始めたのですが、それを考え始めると、なぜ学校に行くのか?というところまで行きついてしまいました。そして、学校とはあくまでも知識の枠組みを与えるところであって、決して知識を与えてくれるところではないのだということを悟りました。知識とは、自分で取りに行って、自分で加工して、自分で消化して、自分の身に変えていく物だと思うのです。
本来なら、学校は自分の身となった知識を、自分の表現法で自分のスパイスを加えて発表する場でもなければなりません。そういう環境であれば、仮に自主性のない生徒であっても、知識に対して自ら近づき、自ら手を伸ばすことで、知らぬうちに自分の身となるのです。しかし、それさえないのですから、今、私はこの学校で何をしなければいけないのかがわかりにくいのです。わかりにくさは目標を曖昧にします。曖昧な目標は動機付けを弱くするのです。
んー、愚痴になってしまいました。しかし、このことを考える事で、なんとか学校と自分を切り離し、自分の人生の方向性を自身の考え方と方法できっちりを修正する必要があるのです。学校に行かなければ国家試験を受ける権利が得られないのですから、行くしかないのですが、勉強というのは学校に行かなくてもできるものです。学校に対する期待を捨てる事、学校をうまく使う事、そして、自分の勉強を高めていく事を考えていかなくてはいけないのですね。
学校とは学ばせてもらうところではなくて、自ら学ぶために使うところなのですね。そういえば授業料もたくさん払ってますしね。
人間は変わるものです。常に変化しています。今日の私が、明日の私であるという保障はないのです。私自身もこの数年で様々な側面で変化していきました。常に成長という前向きな変化をしたいという思いはあるのですが、なかなか意識的に成長することは難しいのです。気がついたら自分は成長していたな。と思うことがほとんどです。
これは決して私だけの感覚ではないと思われますが、私が「ああ、自分は成長したなあ。」と思えるのはたいてい何かに失敗した後です。なぜか何かに成功した後で「自分は成長したな。」と思ったことがありません。大切な人を失った時、自身の夢が達成できないなと諦めた時、一人でも生きていけると思っていたのにどうしようもなく寂しさを感じた時、貯金が底を尽き生活能力を失ったことを実感した時、やりたい事をやっているはずなのにやる気が出ない時、などなど。
どんなものが「失敗」なのか?ということにもよります。それぞれの人が、それぞれの失敗の感覚を持っていると思います。皆さんそれぞれが持っているであろう「自分にとって魅力的な自分でありたい。」という目標に達するための、細かい一つ一つの努力が報われない時、それは失敗に感じるのです。
失敗する事は、自分の目標や価値観が本当に心から望んでいる事なのか?という客観的な視点から見なおすチャンスを与えてくれます。また、仮に正しい目標や価値観を目指していたとしても、その目指し方に問題がある可能性を気付かせてくれるものでもあります。
今、「うん、俺って成長したな。」と思えるのは、「うん、俺はたくさんの失敗をしてしまったけど、そこから何かを学ぼうとしてきたんだろうな。」という失敗に対する肯定的な見方ができるからだと思うのです。失敗を恐れずに行動してみようと言いますが、私は敢えて自分にはこう言い聞かせるのです。「失敗するために行動してみよう。失敗は私に成長という変化をもたらしてくれるはずだから。」
怖がらないで、楽しみましょうね。
先日、禅寺のお坊さんが書かれた本を読んでいたら面白いことが書いてありました。「働く」という言葉の語源です。「働く」という言葉は、「傍(はた)を楽にすること。」という言葉の変形だと考える説があるそうです。
とても素敵な説ではありませんか。仕事をしているときに私達は意外とこの仕事の結果がどのような形で社会に貢献しているかを考える事が少ないものです。また、一般企業で働いていると、まるで上司のためにとか、社長のためにとか考えがちです。または、お金を稼ぐ手段としか見ない人もいるでしょう。しかし、もともと働くとは、傍の人々を楽にすることが目的だったのです。傍の人ととは、自分の家族であろうし、社会の人々であったに違いありません。
今の時代、「人のため」という考え方自体が、非常に古臭い考え方として隅に追いやられています。技術・情報・モノ・金などなど、豊かになるという事の基準が人とはまったく関わりのないところに置かれているのです。しかし、良い技術、良い情報、良い物など、実はすべての基本は人の生活を楽にするためのものです。人の心がわからないと、人のための仕事はできません。傍の人を楽にすること、それはまさに人を理解することから始まります。
あなたにとって働くとは何ですか?
朝の気分が一日の気分を変えてしまう事がよくあります。このところ慢性的に朝のラッシュで人とぶつかったりすると「こらっ、あほんだら。」と心の中で悪態をつぶやいてしまうのです。こんな状態ですと、一日の気分は「こらっ、あほんだら。」をベースとした気分になってしまいます。
そんな気分が嫌だったので、出際に本棚に無造作に置いてあった一冊の本を手に取り、電車の中でぱらぱらとめくりました。手にした本は「人生はゆっくり変えればいい!」という本でした。いつ買ったのか、どこで買ったのかも覚えていないほど、もしかしたらまだ読んでいなかった本かもしれませんが、いつもの違った気分を与えてくれました。
今日の私は、授業中は先生の顔を凝視し、先生の言う言葉をひとつも聞き漏らさない勢いで集中できましたし、何よりも授業を楽しむ事ができました。不思議と姿勢も一定で、いつものように落ち着かずに後ろに反り返ったり、うつぶせに寝たりということがありませんでした。気分一つでここまで変えられるのか?という驚きを感じたのです。
今日はたまたまなのかもしれませんが、こうしたちょっとした変化をもたらす行動はいくらしても損ではないのではないか?そんな気持ちになりました。何気なく手に取った本が今日一日の気分を変えてくれ、今日の気分が明日の気分を変える可能性があるのです。やるべきことなんてありません。なんとなくやってみましょうよ。何かが変わるかもしれません。変わらないかもしれませんが、宝くじと同じです。やってみないと変わることもないのです。
今日はいつもと違い少々体がだるい朝でした。昨日のアルバイトの影響もあるのでしょう。しかし、それにしてもだるい朝でした。ようやく起き出して学校に行きましたが、授業中も寝てしまう始末。何が原因だったのでしょう。
最近の自分の生活パターンの中でひとつだけ定まっていないものがあります。それは睡眠時間です。ただし、起床時間でもないし、何時間寝たかでもないのです。何時に寝るか?なのです。昔、何の根拠もない話しとして「日付が変わる前に寝ると良い睡眠が摂れる。」という事を聞いた事があります。何の根拠もないのですが、最近の私の体の調子は明らかに、入眠時間に影響されているのです。
体がの調子が良いときはたいてい12時前には完全に夢の中です。ですから、11時過ぎから寝る準備をはじめて11時半頃には布団に入っているという状態です。この入眠時間ですと、翌朝の目覚めの状態が比較的良く、逆に12時を過ぎてしまうと次の日の調子はあまりよくありません。
私の場合、インターネットへの接続がテレホーダイの11時以降ということもあり、調子に乗ると翌朝のことを棚に上げて午前2時ぐらいまでホームページの更新などをしてしまいます。(さんかくのしそうはあまり更新しませんが...)こういう日の翌朝に限って、もっと早く寝ていれば良かったと思うのです。
睡眠の深さに影響しているのでしょうか?何らかの体のリズムが影響を及ぼしているのは明らかですが、具体的に何がどのように影響を及ぼしているのかはわかりません。しかし、問題は寝るのも意思の問題だということです。今日は11時半までには寝るぞと心に堅く誓わないとなかなか時間がもったいなくて布団に入れません。サラリーマン時代は睡眠時間が5時間ぐらいでもまったく平気でしたが、今は退屈な授業を聞いているだけの学生生活ですから、睡眠時間の欠乏は居眠りという重大な問題を引き起こします。(少し大げさですが...)
睡眠時間という生活の一部分のお話しではありますが、私はすべてにおいてリズムということを意識することが大事だと考えています。考えるリズム、話すリズム、歩くリズム、本を読むリズム、書くリズム、遊びのリズム、食事のリズム、寝るリズムなどなど、これらは意識して行う事ではないために意外とないがしろにされがちですが、実は私達の生活のリズムはこれらの一つ一つの動作のリズムによって構成されているのです。なんだか、生活のリズムがなあ... と感じるとき、一度立ち止まって一つ一つのリズムを見なおしてみることが大事ではないでしょうか?
さて、私は睡眠のリズムから直していきたいと思います。
家族というものは何なのでしょう。すでに多くの方に語り尽くされた感もありますが、北朝鮮から帰ってきた方々の話題を見聞きするたびに、考えるのです。
私も三十路を迎え、色々な意味で「家族」ということを考えるようになりました。色々な意味の中には、生まれてから親子や兄弟関係を持ってきた家族という意味もありますし、これから私が育んでいく自分の家族という意味もあります。
これまで私の家族としてきた両親や兄弟というのは、今の私にとってはもう家族という単位では見れないようになってきました。三十路という年令が関係あるのかどうかはわかりませんが、結構昔からこういう意味での家族という概念は、私の中では希薄になっていたかもしれません。そして、その事がなんとなく輪郭をもって私の考えの中に浮かび上がってきたのが三十路というきっかけなのかもしれません。
もちろん親子ですし、兄弟ですから、家族ではないとは言っても完全否定な訳ではありません。しかし、なんとなくもう既に違う所帯なのかな?と思うのです。生活のリズム、経済的なつながりの希薄さ、精神的依存の消滅、色々とあると思います。それらが、もう俺はこの家族の一員という位置付けではないなと思わせるのです。
では私にとっての家族とは何かを考えると、それは私の家族なのです。それが誰になるのかはまだわかりませんが、私の妻であり、私の子供でありなのです。いや、妻とか結婚とか、いわゆる制度的なものに縛られた思考はあまりよくないかもしれません。そういった儀式的なものは抜きにしても、どんな人にも家族と呼べるものが必要なのです。ある人は一緒に苦労してきた職場の人間を家族のようなものと考えるかもしれないし、仲の良い友人達を家族のように考えるのかもしれません。いずれにしろ自分の家族と呼べるものがより豊かな人生を送るには必要だと感じています。
そう考えたときに、北朝鮮に拉致された方々の問題を見ていると心が痛むのです。二十何年間も拉致された自分の子供や兄弟を待っていた家族にとって、帰国された方々は自分の失った家族です。しかし、拉致された方々も北朝鮮で自分の家族をはぐくまれてきたのです。非情な構図です。家族対家族という間に挟まれた彼らを見ていて心が痛まない日はありません。家族と一言で済ます事は簡単だけれども、やはり自分にとっての家族というのは誰にでもあるはずです。
国交正常化のダシに使われているような感じになってしまった拉致被害者。国のすばやい対応を願うばかりです。日本は個々の家族の重要性を認識できないような国ではないと信じています。
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