カバン

良いカバンを探しています。今のカバンはハンズで買った4000円ぐらいのトートバッグです。購入して使い始めてから気付いたのですが、使いにくいのです。だいたいトートバッグなどというもの自体が使いにくいものだということに最近ようやく気がつきました。

特に私はなで肩なので、片側の肩にだけ紐をかけるトートバッグでは、歩いているとずるずると落ちてくるのです。落ちてくると左手で「よいしょっ」と掛けなおすのですが、掛けなおした瞬間にまたずるっと落ちてきます。う〜ん面倒くさい。

私は背中に背負うカバンは、すぐに物が出せないのであまり好きではありません。となると、残るのは斜め掛けカバンか、手提げになるのです。私の歳になって斜めかけすると、お腹の出っ張りが目立つので、斜め掛けカバンは却下です。そうすると手提げカバンしかなくなってしまいます。

手提げカバンのほとんどがビジネス用ですが、私はその中でも大き目のものが良いかなと考えています。大は小を兼ねるということもありますが、何より多くのものをコンパクトに運べるという点が大事なのです。中途半端に小さいカバンだと、容量ギチギチで中身を詰めると、電車の中で本を出そうとすると一緒に筆箱が出て来たり、プリントが出て来たりします。そういう鈍臭いのは嫌いなのです。

しかし、あまりビジネスビジネスしたカバンも嫌なのです。カジュアルでも使えるデザインで、しかも機能性が良いカバンってのはなかなかありませんね。何か良いのをご存知でしたら誰かお教え下さい。

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2002年10月31日(木)

目標の本質

目的地を持たない船はさまよいます。しかし、その前に目的地を定めるには、その前提となる理由があります。そうやって目的というものをどんどんと紐解いていくと、最終的にはまったく予想もつかない理由だったりするのです。

例えば、一隻の船が日本に向かってきます。なぜ、日本に向かってくるのでしょうか?日本に必要な何かを積んでいるからです。その何かを日本に送りたい、もしくは、日本にそれが欲しいと思っている人がいるからその船はその荷物を積んで日本に向かっているのです。その思った人は、そうすることでお金が稼げると考えたのかもしれません。お金を稼げば、贅沢な暮らしができると考えたのかもしれません。そうやって考えると、この一隻の船が日本に向かってくる目的は、それを考えた人が贅沢な暮らしをするため。という筋を通すこともできるのです。

私達が生きていく際に、目的や目標というのは大事な要素といわれています。私は、そのことに対して今まで本当にそんな単純なものなのかどうかを疑ってきました。なぜなら、上の例に書いたように、何か目的を思いついたとしてもそれが本当に純粋な目的かどうかなんてわからないからです。日本へ向かうのだ!という目的は、間違いではないけれど、本当の目的ではないのです。私達の生活の中にもこのようなことが普通に起こり得ます。

「私はこうなりたいから、これだけの努力をする。」目標を掲げる際に一番単純な言い方でしょう。しかし、「こうなりたい。」と思わせる動機は何なのでしょう?意外と、私達はその心の奥に潜む「裸の欲」をごまかしてはいないでしょうか?逆に言うならば、その「裸の欲」を明らかにすること、そして、その事実を素直に受け入れる事によって、結果として目標を達成することができるのではないでしょうか?

物事の本質は、非常に単純なものです。複雑に表現または表出されている現象も、その根幹をなすのは単純なルールなのです。一本の線も、実は小さな小さな点の連続で構成されているのです。今は便利の時代ですから、時間がかかったり面倒くさい事はすべてすっ飛ばして省略します。いきなり複雑な結果だけを見る機会が増えているのです。私達が物事の本質を考えるということは、物事の最小のルールを見つけ出すということです。

この考え方は私達が何かをする際の目標を見つけるときにも有効な視点だと思うのです。私達のその行動の本質は何なのか?ジェットコースターが坂さえ登れば、後は自分の重みで様々な動きを可能にするように、私達も最初の目標さえしっかり定めれば、後は自動的に行動がついてくるのではないでしょうか?見なおしてみませんか?私達の裸の欲を。

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2002年10月29日(火)

目的が見えてきた

学校の帰りにクラスメイトとお茶をしました。初めて二人でお茶をする相手でしたが、話しが非常に盛り上がったのです。そして、この盛り上がりは、予期せず私の気持ちに少し変化をもたらしました。

「何だか違う。」「望んでいたのはこんなことではなかった。」ずうっと感じていた学校への違和感を言語化できずにいました。しかし、それを分かち合える友人が周りにはいませんでした。しかし、今日、私と同じ感覚を持つクラスメイトを見つけたのです。私達はお互いによりアカデミックな環境を望んでいました。教室に碁盤の目のように座らされ、教壇に先生が立ち、そして講義を行う。生徒は、ひたすらに話しを聴き、ノートを取り、そして、試験前には試験に備える。

けっしてこのような教育方式が間違っているとは言いませんが、私が望んでいるものではありませんでした。私が望んでいたものとは、与えられる学習ではなく探す学習でした。教科書に載っている知識を詰めこみ、先生の言った言葉を逐一覚える。それはそれで、一つの勉学のあり方なのでしょうけれど、そんな教育で優れた臨床家が育つのでしょうか?まさに、偏差値教育の申し子がそのままの状態で臨床家になるのです。そんな人にリハビリされるのをどう思われますか?

決して、他のクラスメイトの一人一人が悪いわけではないと思います。日本において重要視されるのは、なんとなく全体に流れる暗黙の了解的雰囲気です。私がいくら外国の大学に長くいても、あの一種独特の雰囲気の中で、同じように自分の意見を言い積極的に授業に参加するのは難しいのです。恐らくこれは一人一人の生徒や先生が、これまでに知らず知らず身につけてきた悪しき習慣の結果なのでしょう。

そこで、私達はお茶をしながら、具体的な方策を話し合ったのです。なぜ、私達はこれほどまでに学校に違和感を感じるのか?そして、授業に対してもやる気を示せないのか?を。結論は意外と簡単に出ました。私達には、明確な目的意識がなかったのです。恐らく、他のクラスメイトにも同じ事が言えると思います。目的意識がなければ学校に入ってる事自体が不思議な事と思われるかもしれません。私もそう思っていましたが、それは違うことに気がつきました。

私達は、これから目指そうとしているものについて最初から完全に知っているわけではありません。むろん、調べまくって自分がこれから学校で勉強する目的を最初からバシッと決めたと思っている方もいるでしょう。しかし、「私は○○になりたい。」という場合、そこには漠然とした目的意識しかない事があるのです。そして、本人はそれに気がついていない場合があるのです。

環境の中に飛び込んでみて初めて気がつくこともありますし、逆に最初は分かっていたつもりのものが、分からなくなることもあるのです。

具体的な話し合いから、私達がこれから何をどう勉強しなければならないかの大枠が見えてきました。クラスの雰囲気を一朝一夕で変える事は無理ですし、私達にそんな義務はありませんから、とにかく、クラスの雰囲気に飲まれずに、今日話した大枠の目標を忘れないように頑張っていこうという結論に達しました。

しっかりとした目的意識を持つ事。それにはじっくりと考える必要があるのです。そして、そのためにはやはり仲間がいるということが非常に大事なのだなと痛感した今日でした。

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2002年10月25日(金)

苦しいときには

苦しいときには外を歩いてみる事です。新鮮な空気を吸って、体を動かせば、少しは気分が良くなるでしょう。さて、歩きに出ましょうか。デジカメも忘れずに。

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2002年10月23日(水)

やはり元気が出ない

元気が出たり、また元気がなくなったりで大変です。また元気がなくなってきて、この前の元気は空元気だったのかと落ち込んでいます。そこで、今の自分の状態を必死になって分析しようとしています。

まずは元気であるとはどういう状態なのか?というところから考え直す必要があると思い、私にとって元気であるということはどういうことかを考えてみました。私が元気だった頃はどんなことが可能だったのだろう?という視点で書き出してみます。

色々なことに興味が持てた。
すべてに意欲を持って取組めた。
成功のイメージしかなかった。
失敗しても笑って済ませれた。
周り人が気にならなかった。
物事に集中できた。
理解力が高かった。
ひらめきが常にあった。
どんな人との会話も弾んだ。
寛容になれた。
面倒臭がらなかった。
持続力があった。
物理的に周りがしっかりと見えた。
自分から物事のきっかけを作り出せた。
何事も怖がらなかった。
楽天的で居られた。
人肌のぬくもりを感じられた。
常に楽しみなことがあった。
酒がおいしかった。

こうして書き出してみると、今の自分の不甲斐なさが目立ちます。今の私の元気がない状態というのは、こうして書き出した状況を理解しながらも、この状況に対して解決策を持たない状態です。努力はするのですが、結果としてはうまく行かない。行動することで物事が解決されるのであれば、すでに私は満足した生活を送っているはずなのです。それだけの行動は起こしています。しかし、そうは行かないのです。この原因は何なのか?私にはいまだにわかりません。

これを病的なものとして扱うべきなのか?単なる気持ちの問題として時間を置いて待つのか?どうも判断がつきませんが、ここまでわかっていながらどうしようもない自分に苛立ちます。生きる意欲さえうしないかけているのではないか?そんな自分が怖いのです。


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2002年10月22日(火)

科学的とは?

昨日、久しぶりに知人が経営するお花屋さん知人が経営するお花屋さんに行ってきました。その際に、前から欲しかったバニラのアロマキャンドルと、それを置くためのガラスの器を買ってきました。

アロマがどれほどの効果を示すのか、科学的な根拠を見たことがないので知りませんが、そんな根拠はなくても実際にバニラの匂いを嗅ぐと心が落ち着くのです。世の中にはそのようなものがたくさんあります。今日も、心理学の授業で「科学的とは?」という話しの中で、気功の話しが出てきました。気功の効果をどのように実験すると科学的に証明されるのか?という科学的実験の基本の話でした。

私は、言語聴覚士ということばのリハビリを行う職業を目指していますが、この科学的という話しを聴いて、非常に複雑な気持ちになったのです。言語聴覚士というのは、実際に患者さんを目の前にしてことばの回復を目指すための訓練を行います。その実際の場面に、科学的という考えはあまり入りこむ余地がないと思うのです。もちろん、科学的に証明され確立された理論の知識そして技術をベースにしていくことは間違いありませんが、それだけでは解決できない問題がたくさん出てくるに違いありません。例外もたくさんあるでしょう。

科学的な証明を待って臨床を行っていたのでは、目の前の患者さんに対して有効な対応はできないのです。しかし、だからといって科学的なものが大事じゃないわけではないようです。しかし、科学的な証明がどういった点で必要なのかもう一つ分かっていない気もします。儀式的・宗教的な治療法から、西洋医療を基盤とする現代医療を守るためなのでしょうか?そこが、非常に複雑な気持ちにさせるのです。

アロマが科学的にどれほどの効果をあげるのか知りません。しかし、知る必要もないのです。なぜなら、リラックスした気分を実際に味わっているからです。しかし、そこに科学的な証明を求める人達も居ます。揺れるアロマキャンドルの炎を見ながら、科学的とは何か?それは何を私達にもたらすのか?を考えるのです。

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2001年10月21日(日) 楽しむ
2002年10月21日(月)

働きかける

ここ数日、皆さんをお騒がせしている、管理者の元気または生きる理由問題ですが、何とか収束に向かいつつあります。人の気持ちは意外と簡単に変わるものなのですね。ですが、それゆえに周りの人を振り回してしまうのです。いいのやらわるいのやら。

収束に向かった理由は二つあります。一つ目は、今日、アルバイトをした事。二つ目は、気になる女性と食事をした事です。

汗水流して働く間に、不安な気持ちも流してしまったような気がします。なぜ、そのような感覚になるのか考えてみました。働くということは仕事の内容がどんなものであれ、多少は社会に貢献することです。社会に貢献するということで、自身の存在価値を確認できます。まあ、社会への貢献ということが、自身の存在価値につながるかどうかは、人それぞれでしょうけれど、少なくとも私にとっては意味のあることでした。自分がだれにどのように必要とされているか?を体で感じる事は、生きる理由の一つとして大きな要素のようです。

自分が心を許せる人と食事をするということほどの快感はありませんね。今日、それを強く感じました。気になる女性というのはイコール好きな女性という単純な公式には当てはめられません。確かに好きと言えば好きなのですが、性別関わらず好きな人は他にも居ます。気になる女性の定義は、正直いまだにわかりません。でも、「生きる理由」になるかもしれないと感じる人なのです。本当に特別な人です。ちょっと曖昧で良く分からない話をしてしまいましたが、とにかく、そういう人が存在している事で、これまた、私自身の存在価値を認識することができるのです。もちろん、相手が私の存在価値をどう考えているかはわかりませんが。

周りの環境や人との対比で、自分の存在価値を求めると意外と見つからないのだなあということを今回強く感じました。対比ではなくて、周りの環境や人へ働きかけによって自身の存在価値を感じる事ができたのです。生きる理由は、そこにつながっていくわけですし、それを感じることができれば、自然と元気は出てくるようです。

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2002年10月19日(土)

喜びなし

連日の暗い話しになりますが、お許し下さい。

さて、今日も元気が出ずじまいの一日でした。私の元気のなさというのは、ため息をついて下を向いてウジウジというタイプではありません。人とは普通に話しますし、行動することも億劫ではありません。

ただ、うきうきしないのです。

ただ、喜びを感じないのです。

さて、私に元気が出るのはいつになるのやら。無理はしませんが、このままずうっと行くと厭世主義者みたいになってしまうような気もして怖いです。逆に世捨て人みたいな生活の方があっているのではないかと思うほどです。以前から書いていますが、私の理想の女性は私の「生きる理由」になれる女性なのですが、今のところそのような女性も居ないし、さて、私の「生きる理由」は何なのでしょうね。

女性に「生きる理由」を求めるなんて... という方もおられると思いますが、では逆にどのような理由なら満足の行く正統派の「生きる理由」になるのでしょうね。仕事?遊び?食事?私にとってはそれが女性とどのように違うのかわかりませんが、どちらにしろ何らかの理由が今の生活には足りないような気がするのですね。

恐らく目指す言語聴覚士には、努力しつづければなれます。優秀な言語聴覚士にだって頑張ればなれます。でも、それらが「生きる理由」にはならないのですね。

皆さんにとって、元気の源とは何ですか?「生きる理由」とはなんですか?中には理由なんてないのだと言う方もおられるでしょうけれど、それは多分解決にはつながらないです。私のような理屈屋にとって、理屈で説明できない漠然とした不安はとても恐怖です。だって頑張り様がないのですから。

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2002年10月18日(金)

元気がない

何がどうしたのかわかりませんが、精神的に不安定です。アルバイトを始めて、学校も始まり、生活的には充実しているのですが、精神的に充実していません。

これが私の気質なのでしょうか?元気の出ない自分が非常に嫌です。元気を出そうと努力するにも、それを行う元気がないのでどうもダメです。だからといって無理をしないで時期を待てば、いつまでもこの状態が続くような気もします。

病院にでも行きますか。セロトニンが足りないようです。

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2002年10月17日(木)

アルバイト始めました

アルバイトを始めました。ホテルのベッドメイキングです。宿泊された方が出た後や、宿泊されている方のベッドを片付け、新しいシーツを組みかえるのです。

どんなアルバイトをしても感じるのですが、どんなに些細なことでもそこにお金が絡むならばそれは誰かの仕事としての結果なのです。当たり前のことなのですが、それを意識して生活していることは少ないですよね。これからは手に取った商品や、何気なく使っている公共物や、サービスが、自分の元に所に来るまでにどのような過程を経てきたのかを少しだけ考えてみようと思っています。

今は、大量消費の時代ですから、たくさんの消費に慣れてしまって感謝する余裕さえありません。大事なことを忘れているような気がします。大量生産とは言え、そこには何らかの形で人が関わっているのです。

例えば、自動販売機は人の手を借りずに缶ジュースを販売しています。私達も何の気兼ねもしないで缶ジュースが買えます。丁寧におつりまで出してくれます。しかし、缶ジュースがあの自動販売機から出てくるまでに、誰かがあの自動販売機をデザインし機械の設計をし、生産ラインをデザインし、そこでロボットと共に何らかの部品をつけたり検査したりする人が居て、あの自動販売機を置く場所を営業する人が居て、それを運んで設置する人が居て、そこにジュースをセットする人が居て...

当たり前のことなのですが、缶ジュース1本買うのにそこまで考えないのが普通です。しかしながら、自動販売機の仕事に少しでも関わった事のある人なら、なんとなく仕事のことが頭に浮かびながら缶ジュースを買うのではないでしょうか?私は、これからホテルに泊まる際に、必ずベッドのシーツをセットしている人のことを考えるに違いありません。これまで、何の気なしに寝ていたベッドに仕事を感じることになるでしょう。

人生の豊かさには、こういった経験や想像に基づく「理解」が大きく関わっているのではないでしょうか?色々なことを考え、そして経験していくことは必ず人生を豊かにしてくれるはずです。働く喜びを改めて感じています。

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2002年10月13日(日)

ココロ晴々

広島方面に旅してきました。広島から呉へ向かう電車の中で、JRが出している中吊り広告にこんな文句が書いてありました。

『ココロ晴々 のんびりひろしま』

この中吊り広告に気付き、そして外を見るとそこは瀬戸内海が広がっていました。「水尻」という駅でした。電車の中からは青色の海がきらきらと光っているのが見えました。島が浮かび、そして広島の西の町が見えました。電車は単線なので、反対側から来る電車が通り過ぎるまでホームで待機です。その短い時間の中で、ふと「ココロ晴々」について考えたのです。

電車の中からその光る海、浮かぶ島を見ている間、ココロがすべての束縛から解き放たれたような感覚を覚えました。まさに、ココロ晴々。伏目がちな目が明るさを如実に感じるほど大きく広がる感じがしたり、頬の筋肉が自然に引き上がり、への字の口はふと微笑みの口になっていたりするのです。

人間が決めた時間という概念からも、生きるべしという根拠の無い義務からも、そして、世の中の面倒くさい事柄すべてから解き放たれていくのです。ここに居る自分という事実、そして、その前に広がる海と空と空気という事実、この2つの事実を感じることができた喜びに浸っていました。ココロ晴々。

あなたを縛るもの、それは一般的には当たり前と思われている事柄かもしれません。そうした事柄を見なおしてみる機会を持つ事で、本当に大事なものが見えてきます。時間・お金・物欲そういったものから解き放たれる事、それがゆっくり生きる事なのです。さて、あなたはココロ晴々?

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2002年10月12日(土)

話す事は放す事

相談をもちかけられるたびに、私はこの言葉を思いだし聞き役に徹する努力をします。

『話すことは放すこと。』

相談を持ち掛ける人の大半が、実は既に心の中にある程度の決断を持って相談してきます。なんらかの結論が彼らの中には出ている場合が多いと思います。しかし、それが正しいのか?また、第三者はどのような反応を示すのか?を無意識のうちに求める事が相談という形になって現れることが多いような気がします。相談を受ける側としては、そのような無意識の部分を冷静に頭の片隅に置き、相談者自身が自分で責任をとれる形でその内に秘めた決断を実行することができるようにしてあげなければいけません。

まずは、相談者自身の決断をうまく引き出して言語化する。そして、それを意識下で確認させる必要があります。相談者の決断(思い)を、言語化し意識下にさらすというのは、非常に難しいことです。相手が発する言葉をしっかりと受け取り、状況や相談者の性格などを考慮し、いくつかの言葉から相談者の本当の心を掴んで、明確に言語化していくことが大事なのです。例えば、「俺、最近辛いねん。」の一言から、「そう言えば、前から仕事のことで悩んでたようやね。」という言語化をします。こうすることで、相談者は次に「そうやねん。上司がな〜。」と話しがスムーズに出てくるのです。

言語化というのは、いくつかの言葉や状況や性格から相談者が何を言わんとしているかを前もって察知して言葉足らずな部分を補うという作業になります。こうすることで、相談者はまず相談相手が同じ話題の中に居る事を確認し、そして、聞いてくれていることを確認し、自身も相手の言葉を聞いて再度自分の言葉を確認することとなります。こうすることで、自身の思いを意識しながら、そして、スムーズに話すことが可能になります。

こうして話しているうちに相談者は自身の考えを自分で聞くことになります。そして、より正確な情報を相談相手に伝えようとします。こうして話しをすることでどんどんと自身の意識を再度確認していくことになるのです。自身の言葉に勇気付けられ、そして、自身の言葉で自身の決断を促進していくわけですから、誰かが言ったからこれをする。という他人よがりの決断をしなくて済むのです。

これが、いわゆる『放す』事なのです。自分の気持ちを話す事で、自分のぼんやりとした気持ちを客観的な場所へ放し、それを相談相手の言語化により再確認するという事になるのです。逆に私達自身も、何かに迷ったりした際には、誰かに話すことが肝心です。今、こうして書いている私でさえ、自分自身のこととなると整理不能に陥ります。何か悩みがあるときは、まずはその気持ちを『放し』てみる事が大事です。

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2002年10月10日(木)

やってみる

矢沢永吉さんがテレビで言っていた言葉に反応しました。

『俺達やることがあるから幸せだよな。』

彼が言う『やる事』とは、人にやらされるのではなく、自発的にすることがある。という意味だそうです。別に矢沢永吉さんの大ファンでも何でもないのですが、たまに放映される矢沢永吉さんの特集は大体見ています。彼の言動が演出されたものかどうかという問題はさておき、例え偶像化されたものであっても大変な魅力を持ったアーティストだと思います。アーティストである限り、彼は自発的に何かをし続けなければ生きていけないわけですから、当たり前の言葉とは言え、私には素直に受け入れることができました。

やることがあるから幸せ。こんな単純な言葉が私の心に響くのは、恐らく自発的に何かをすることによる充足感を味わっていないからではないか?そう思いました。無意識のうちに、携帯のメールをこまめにチェックしたり、何かないかな?と思いながらテレビやインターネットに向かう自分に気付き、ちょっと愕然としたりしています。矢沢永吉さんはアメリカ大陸を車で走って、その大きな自然に何かを感じているのに...

『したい事が無い。』と言う若者が増えているという話しを見たのは、新聞だったか雑誌だったか。以前に日記に書いたかもしれませんが、日本のものの豊かさに加えて情報の豊かさが私達から創造する力を奪い取っているのかもしれません。いや、力というよりもその前提となる意欲をも奪っているのかもしれません。

私の知り合いでご商売をされている方がいます。最近、良く私のところへメールで「客が来ないよ。」「不景気でダメだ。」「儲からない。」という事を言われます。私はそれに対して、自身の未熟さを顧みず「待っていてもお客さんは来ないですよ。」「何か仕掛けましょうよ。」「愚痴ではなくて創造しませんか。」と返事をします。ビジネスにおいては何かを仕掛けなければ、何も始まらないというのは当たり前のことです。しかし、私の知り合いの方は、現在のところ、日々の業務に追われてしまっているせいか、長いスパンで見た利益を考えた戦略の構想と、自身の精神的創造をストップさせてしまっているのです。

と言いつつ、では私自身にこの状況を当てはめてみるとどうなのか?「おもしろくないよ。」「何も楽しいことないよ。」「興味が沸かないよ。」なんて事を口には出さずとも、心のどこかで考えている自分がいたりします。もし、友達がこんなメールを送ってきたら、私はどのような返事をするのでしょう?「面白い事は待っていてもやってこないよ。」「楽しい事したいなら、何か仕掛けましょうよ。」「興味は沸くもんではなくて、自分から持つ物だよ。」と返すでしょう。

知り合いの方への返信を、そのまま自分に返信することになるのです。まさに、有言不実行。思索をめぐらせて色々と受けのいい言葉は思いついても、それが伴わないのですから、情けない限りです。

『俺達やることがあるから幸せだよな。』

この言葉の裏には、「俺達やろうと思って実際にやってるから幸せだよな。」というニュアンスがあるのです。やらされたり、何もしないで何かいいことないかと待っていても何も幸せは向こうからはやってこないのです。幸せを掴むには、動くことなのです。幸せに自分が近づいていく事なのです。

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2002年10月06日(日)

心で聴く

あるTV番組で越前屋俵太が、心に残ることを言っていました。

「言葉ではなく、心で聴きなさい。」

この番組は越前屋俵太が、様々な職人を彼の独特の話術で取材するという番組で、その回は弓を作る職人さんの所へ取材に行っていました。職人さんには弟子がおり、弓を作る過程の一部をお手伝いしていたのですが、なかなか師匠がお弟子さんに伝えてようとしていることがお弟子さんに伝わらないのです。師匠は、「お前のとのコミュニケーションはどうやって取ったらいいのだろうなあ。」と嘆いていましたが、お弟子さんは現代っ子というか口の利き方を知らないのか、「師匠がもっと正しく日本語を話してくれればいい。」となかなかすごいことを言っているのです。

お師匠が特にその話し方とか態度に対して起こる風でもありませんでしたので、越前屋俵太も苦笑いです。伝統工芸を継ぐ者が少ないという弱みからなのでしょうか?私自身も、そこで師匠が怒らないのが不思議でしたが、番組はそのまま弓を作る作業を淡々と紹介していきました。あのような歴史のある伝統工芸品の製作というのは、まさに勘と感覚がすべてのようです。弓とは関係ありませんが、精密機械よりも熟練した人間の手の方が本当に微妙な違いを読み取るそうです。職人芸とは、こうした人間の研ぎ澄まされた感覚によって成り立っていたといっても過言ではないと思います。

そうした、人間の感覚や勘というものが非常に重要視される世界で、このお弟子さんが師匠の立場に立って物事や言葉を判断できないのですから、職人としての素質に疑問を持たざるを得ないという気持ちで番組を見ていました。

この番組では、越前屋俵太が最後に職人さんに、彼が職人さんやその仕事振りを見た感想を書をしたためるのが恒例になっていて、その回も例に漏れず、弓の職人さんの仕事振りに対して「弓は心で打つべし」としたためたのです。そして、お弟子さんの方を向いて放った言葉が冒頭の言葉だったのです。

心で聴くというは非常に抽象的な言い方ですが、人間のコミュニケーションは様々な形で行われます。言葉を話す、聴くという行為だけではなく、その言葉の表現の仕方、言葉と言葉の間の沈黙、言葉を発する時の表情、言葉が発せられる背景要因など、色々な情報を元にコミュニケーションを成り立たせているのです。まずは、言葉だけにとらわれないことが大事なのです。また、コミュニケーションには必ず理由があります。どうしてこの人は、こんな事を言うのだだろう?どうしてこの人は、こんなに人の話しを聴かないのだろう?彼らの言葉や態度だけを見て、その人の真意がわかるのであれば、この世の中にこれだけ誤解は生じません。相手のコミュニケーションの動機がどこにあるのか?それを気にしながら話す事。これこそが、心で聴くということではないでしょうか?

あなた自身も、心を聴いて欲しいのでは?

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2002年10月04日(金)

ギター

ギターを始めます。「始めようと思っています。」ではなく、始めます。今週中にギターを買って来る予定です。

ギターを始めようと思ったのには3つの理由があります。まず、第一に、こうやってサイトを通して言葉による表現を行っていますが、同じように音楽を通して自分を表現したいということ。第二に、友人が行ったライブに行ってみて才能があるないではなく、才能を磨こうとしているその姿に惚れ惚れしたこと。第三に、将来、言語聴覚士として音楽を利用したリハビリが行えないか?と考えたこと。

第一の音楽による表現への思いは昔からありました。個人的な話しで申し訳ありませんが、私はスムースジャズというジャンルの曲(一昔前はフュージョンと呼ばれていました。)が大好きです。これらのほとんどの曲がボーカルの無い音楽です。しかし、歌声や歌詞によるメッセージがなくても、音楽は私の中に何らかの感情を起こします。心が動かされるのです。それは、その音楽がエネルギーを持って私に影響を及ぼすからです。そのエネルギーとは、演奏者が音に注入した表現の力なのです。私も、そのようなエネルギーを発してみたいのです。

第二の友人のライブを見たことは、人を感動させるのは音楽そのものではなくて、人の才能の可能性なのだということです。才能には与えられる部分もありますが、自分で磨こうとしなければ磨かれないものです。私に音楽の才能があるかどうかは分かりませんが、磨こうとしない状態で一体何が磨かれるのでしょうか?何かにチャレンジする前から諦めている事が実は非常に多いことに気付きました。別に大義名分を掲げたチャレンジではなく、静かに自分の「できたらな〜」という思いに対して、何らかの行動を起こす事。それによって、予期せぬ道が開ける事もあるのではないでしょうか?

第三の言語聴覚士として音楽を利用したリハビリを行う事ですが、ことばのリハビリで多く見られる障害のほとんどが脳の障害です。脳というのは未知の世界で、私達が想像しないような、様々な外的刺激から劇的な回復を見せる事があります。昔の経験を追体験させることでよみがえる場合や、新しい価値観を提供する(新しい趣味などを見つける)ことでことばがよみがえる事もあります。私は、言語聴覚士として患者さんに様々な価値観を提示できるようになりたいと思うのです。一緒に、昔の音楽を歌うこと、新しい音楽を聞かせること、音楽に限りませんが、新たなことばのリハビリの可能性を探るきっかけを作りたいと考えたのです。

たかがギターを始めるのに、えらく大層な理由ですが、逆に言うとギター一本で私の人生において新しい出会いや新しい経験、そして、新しい創造を可能にするきっかけを得られるのです。本当はしたいのに、心の中で勝手にできないとか無理などと決着してしまっているもの、みなさんの中にもあるのではないでしょうか?私は、とにかく始めてみる事にしました。みなさんもいかがですか?

過去の今日
2002年10月01日(火)

日記 / issy