ゆとり

テレビを消して、音楽を消して、PCから眼をそらして、そして、部屋を見渡しながら深く息をつくと、何だかホッとするのです。

今日、聴覚障害についてネットで調べもものをしていたときにこんな文章に出会いました。

『じつはゆとりのないこころの現れは退屈と無気力です。時間をわすれてなにかに熱中できないことです。』

まさに私は退屈で無気力な生活を送っていて、時間を忘れて何かに熱中できていないと感じています。「こころのゆとりが足りないのか...」としばし考えてしまいました。この文章で、ゆとりとは遊びなのだと言っていました。遊びには充分な空間が必要だし、遊びには充分な時間も必要で、その充分な空間と時間というのがゆとりそのものなのだということでした。

静かな部屋のベッドに寝そべって静けさを感じながら、自分と対面してみました。心地良い静けさに身を任せてみました。退屈だな、面倒くさいなと思っている時には見えない周りの様子が見えてきて、自分がこの空間の一部であるということを感じ、また、静かに流れる時計の針が指す時間とは異なる時間を感じ、こころが落ち着き始めるのです。

こころのゆとりというものが、「はいこんなものです。」とは呈示できませんが、確かにゆとりというべき何かがあるようです。まわりに既に存在しているゆとりという環境を、人間が感性を研ぎ澄ます事で感じていくということなのかもしれません。私は研ぎ澄ますために立ち止まって冷静にゆとりを感じる時間を持ってはいなかったのです。ですから、色々とやってみるけれどそこから何の充足感も得られなかったのです。

テレビを消して、音楽を消して、PCから眼をそらして、学校のことも忘れて、そして、部屋を見渡しながら深く息をつくと、何だかこれまでこころを悩ませていた物事がふと遠くの方にあるような感じがするのです。よし、これからあそこにあるひとつひとつのことを順に、焦らずに淡々とこつこつと解決していけばいいや。そんな落ち着いた思考ができて、妙にホッとするのです。

これからは、ゆとりを感じる時間を一日の中に必ず作っていこうと思います。

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2002年12月18日(水)

ゆとり

テレビを消して、音楽を消して、PCから眼をそらして、そして、部屋を見渡しながら深く息をつくと、何だかホッとするのです。

今日、聴覚障害についてネットで調べもものをしていたときにこんな文章に出会いました。

『じつはゆとりのないこころの現れは退屈と無気力です。時間をわすれてなにかに熱中できないことです。』

まさに私は退屈で無気力な生活を送っていて、時間を忘れて何かに熱中できていないと感じています。「こころのゆとりが足りないのか...」としばし考えてしまいました。この文章で、ゆとりとは遊びなのだと言っていました。遊びには充分な空間が必要だし、遊びには充分な時間も必要で、その充分な空間と時間というのがゆとりそのものなのだということでした。

静かな部屋のベッドに寝そべって静けさを感じながら、自分と対面してみました。心地良い静けさに身を任せてみました。退屈だな、面倒くさいなと思っている時には見えない周りの様子が見えてきて、自分がこの空間の一部であるということを感じ、また、静かに流れる時計の針が指す時間とは異なる時間を感じ、こころが落ち着き始めるのです。

こころのゆとりというものが、「はいこんなものです。」とは呈示できませんが、確かにゆとりというべき何かがあるようです。まわりに既に存在しているゆとりという環境を、人間が感性を研ぎ澄ます事で感じていくということなのかもしれません。私は研ぎ澄ますために立ち止まって冷静にゆとりを感じる時間を持ってはいなかったのです。ですから、色々とやってみるけれどそこから何の充足感も得られなかったのです。

テレビを消して、音楽を消して、PCから眼をそらして、学校のことも忘れて、そして、部屋を見渡しながら深く息をつくと、何だかこれまでこころを悩ませていた物事がふと遠くの方にあるような感じがするのです。よし、これからあそこにあるひとつひとつのことを順に、焦らずに淡々とこつこつと解決していけばいいや。そんな落ち着いた思考ができて、妙にホッとするのです。

これからは、ゆとりを感じる時間を一日の中に必ず作っていこうと思います。

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2002年12月17日(火)

心と体の乖離

最近、疲れやすいのです。電車に乗れば知らない間に寝てしまっているし、授業中はなんだか集中力がなくボーっとしている時間が多いし、帰宅してもするべきことはたくさんあるのにやる気にならない日が多いのです。

単なる怠け心なのか?それとも、体に何か異変が起きているのか?いや、怠け心と思っている心が、無意識のうちに体に何か異変を起こしているのか?何が原因だかわかりませんが、とにかく動きが鈍いのです。体だけではなく精神の動きも鈍いのです。

先日の日記で、あれだけ目標や生活上の改善点を挙げたのに、こんな自分が情けないと思ったり、仕方がないからゆっくりじっくりとやって行こうと思ったり、気持ちもどっちつかずです。

今は、ゆっくり一日休める日がないので、自分にじっくり向き合う余裕や時間がないのかな?とも思います。というか、自分からそういう時間を避けているのかもしれません。やはり、将来の不安を考えてしまいますから。

気持ちと行動が乖離している状態です。何か良いきっかけはないかなと模索中です。

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2002年12月16日(月)

恥という動機付け

今の自分の生活に不満はいっぱいあるのだけど、では、その不満を何とかしようとしているかというと、実は何の努力もしていないのです。いくら適当な人間とは言え、理想ばかりで行動が伴わない自分にいい加減に嫌気が差してきたので、そろそろ立ちあがります。

▼嫌気が差してきた点

1)朝起きようとしない。
だんだん起床時間がノビノビになってきて、最近は、朝風呂の気持ち良さを覚えて、学校の一時間目をサボるようになってきたました。

2)部屋が散らかりっぱなし。
部屋が散らかす原因は、根本的な物の整理方法が間違っているということを何かで聞いた事があります。自分の生活導線に合わせたものの置き場所を考えないといけません。こないだ耳掻きがない!と騒いでいたら学校に行くカバンの中にありました。耳掻かないで、ノート書けって。

3)テレビの観過ぎ。
寂しいのです。しかし、寂しさに負けてテレビを見てしまい、ふと気がつくといつも「えっ?もうこんな時間?」ということばかりです。テレビで寂しさを紛らわしているうちに、何だかたくさんの脳細胞を怠けさせてる気分になります。実際に怠けてると思いますし。

4)お金の無さ。
一所懸命に働きます。

▼これから改善しようとする点

1)夜は早く寝て、決まった時間に起きる。
朝が起きれなくなってきたのは、単純に寝る時間が不規則だからです。今日中に寝るというのを目標にします。そうすれば翌日が気持ち良く過ごせるのですから。

2)物の整理方法を考え直す。
散らかっている物が、どこにどのように散らかっているかを分析して、一番使いやすい場所に整理していくことをします。もう年末ですし、大掃除を兼ねて頑張ります。

3)テレビの観過ぎを押さえる。
頑張って観ないように努力すればするほど観たくなるのがテレビなので、これまでも色々と見過ぎを押さえるための努力をしてきましたが失敗してきました。一番効果的だったのは、「テレビを持たない。」という方法だったのですが、やっぱり寂しいのでテレビを捨てるのは厳しい。そこで、まずは観ても良いから観続けないという努力をしたいと思います。30分観たらとりあえずスイッチを切って、静けさを感じる。しばらくして寂しくなったらまた30分観る。良くつけっぱなしにして色々な事をしたりしますが、あれは良くないですね。テレビはついているだけで中毒性がありますよ。

4)ホームページの更新をもっと頻繁に。
最近、ホームページ更新時に書くアイディアが浮かばないのは次のためです。「集中力の無さ」「知的好奇心の低下」「面倒臭がり癖」こうした要因の原因を、日常の生活でのレベルに落としていくと、恐らく次のような事が原因ではないかと思います。「寂しさ」「運動不足」「金銭的不安」「テレビの観過ぎ」。こうした要因に心を奪われてしまって、生活の色々な側面で創造的な思考ができていないのです。「寂しさ」はどうにもならないです。「運動不足」これは近くのプールに泳ぎに行きます。「金銭的不安」これはアルバイト先に日数を増やしてもらえないかを交渉します。来年の学費についても借入れをできないか検討中です。「テレビの観過ぎ」これは直していきます。

5)生活の中に勉強を組み込む。
勉強しなければだめだ!のように「ねば」「べき」という語尾が付くような気持ちで勉強するのは大嫌いなので、普段の生活の流れの中に勉強という習慣を組み込む必要があると思っています。昔、寝ても覚めても勉強していたときは、「テレビが観た〜い。」というのと同じレベルで「勉強した〜い。」と楽しんでいたのですから、これから、それを再開するのも不可能ではないはずです。夢中になること大事ですからね。

6)本を読む。
あ〜、最近、ほとんど本を読まなくなりました。テレビの観過ぎ、遊びすぎというのがあるのでしょう。寂しがり過ぎというのもあるかな。テレビの観過ぎを押さえていけば本を読む時間は増えていくと思います。偏らずに幅広い読書したいですね。

読み返してみると「俺ってアホ?」と思わないこともないのですが、ここらで自分の恥をさらけ出して、そして、その恥を自分自身で感じる事は大事なことですよね。素直にこの恥を受け止めて改善するためのモチベーションにしたいと思います。

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2002年12月14日(土)

目標を立てる

目標を持って勉強する事が大事だなと感じてはいたのですが、なかなかそれが定めきれなかったので、じっくり考えてみました。学校そしてその延長線上にある仕事に関する目標を立てました。

■新しいリハビリを創造できるSTになるぞ!
学校で私がなんとなく感じているのは、現在のST業界は創造性に欠けているのではないかということです。(現場をまったく知らないので違うかもしれませんが。)「ことばと脳」というまだ解明されていない分野なので、なかなか科学的に証明される手段が確立されないということもあり経験的な部分が強調され、前例に従ったリハビリを行っているという印象を感じます。できれば、その部分を逆にメリットにして、発想の転換で新しいリハビリ方法を創造したい!と思うのです。ま、そのためには基礎をしっかり学ぶ必要がありますよね。

■在宅リハビリ支援システムの一般化を勧めるSTになるぞ!
言葉のリハビリは週数回のセッションだけでは効果が薄いそうです。そして、それを解消するためにIT技術を使った、在宅リハビリテーション支援システムというものが開発されているそうです。私は、これまでの経験を生かして、このようなシステムの普及と発展に寄与できるSTになりたいと思っています。そして、今まで以上に効率的なリハビリプログラムのあり方を創造したいのです。ま、そのためにも基礎はしっかり勉強しておく必要はありあますが。

■日本での言語病理学の確立に携わるぞ!
日本では言語病理学という学問が確立されていないのではないか?と思います。言語病理学概論という教科書も実は一冊もないのです。(調べました。)医学と言語の融合がこれからの言語療法には大事な視点となると考えます。現在、言語療法の世界は、教育畑の人達が中心となっているようですが、個人的には、もっと科学的な立場でリハビリを考えるSTが増えていくべきだと考えています。(もちろん教育の視点も非常に大事です。)将来、機会があるならばSTの本場であるアメリカで言語病理学の勉強をしたいと考えています。なぜなら、日本での言語病理学の確立に携わりたいからです。ま、そのために今ちゃんと勉強しないといけないのですが。

■リハビリだけではなく一般にも通用するSTの職域を創造するぞ!
STの職域を障害を持つ人のためだけではなくて、一般の人にも広げたいと思っています。まだ、どういう風に広げられるかはアイディアがありませんが、直感的にSTの専門性を日常生活の中にも応用することは、STの職域を広げ専門性を一般的に認知される機会を増やし、障害者だけを対象とした研究だけではなく、正常な人のことばと脳に関する研究を行う事によって新しいことが見つかるかもしれないと感じるのです。新しいST像の創造を行えるSTになりたいと考えます。ま、そのためには面倒臭がらずに勉強する必要があるのですが。

■世界に通用するSTになるぞ!
私はラッキーにも英語ができます。そして、できればアメリカで最先端のST知識や技術などを習得したいとも考えています。逆にアメリカに持っていけるような新しい発見や技術を創造したいとも考えています。そのために今やるべきことはやらないといけませんね。

■人間として幅広い柔軟なSTになるぞ!
頭でっかちで、頭の堅い、前例や常識にとらわれた人間にもSTにもなりたくありません。多種多様な経験や知識や技術を貪欲に吸収していきたいと考えています。専門分野以外の経験や知識が、STとしての想像力をも高めてくれると思うからです。そのためにも、学生のうちにST以外の分野で多種多様な経験ができるよう行動したいです。

私は、STになるために前の会社を辞めたのです。そのために、学校に行き国家試験受験資格を得ることは大事なことです。そして、一所懸命に勉強する事も大事なことです。また、勉強だけではなく様々な経験を得るために臆せずに行動する事も大事なことです。

目標を明確にしました。色々な不安も多いけれど、今後はこの目標達成のために不断の努力を行っていくつもりです。敢えて、公表したのは自分の中でなあなあにならずに周知の事実として自分への戒めとするためです。

あなたの目標は何ですか?

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2002年12月13日(金)

癒し

神戸でルミナリエが始まります。テレビでは試験点灯が行われたということを報道しています。「癒しの光」といっていましたが、一体癒すって何だろう?って考えてみました。

確かに、私も含めて世の中「癒しブーム」です。私が昔から聞いているゴンチチなども、癒しの音楽ということでCDショップに行くと、場所によってはヒーリングミュージックというジャンルで扱われています。ゴンチチの音楽もそうなのですが、実は癒しというのは単純なことなのではないでしょうか?癒しとは、「ゆったり」ということに尽きるような気がします。

今日も、梅田の地下道を学校に向かって歩いていたのですが、結構速く歩いているつもりなのに、周りの人はどんどん私を抜いていきます。なぜ、そんなに急ぐのでしょうね。電車が出発するときにも、必ず電車に駆け込む人がいますが、なぜ、そんなに急ぐのでしょうね。日本の都会は10分毎ぐらいに電車は来るのに。

あ、前から不思議に思う事があるのですが、電車が発車するときに音楽が流れますよね。あれは「危険ですよ。」ということを知らせているのでしょうけれど、あれを聞くと「急がなくちゃ!」と思う人がいっぱい居ると思うんです。危険を知らせる合図なのに、実際のところ、お客さんは「走れ!」の合図だと思ってる。あれで「駆け込み乗車は危険ですので、お止め下さい。」というのはちょっと的外れじゃないの?と思うのです。何も鳴らさず、静かに発車すれば、駆け込み乗車は90%は減る事請け合いです。

日本には、こういう意図しない部分で、人を急かしてしまうような環境があるようです。学校のチャイムにしてもそう。それから、歩道を走る自転車が歩行者に対して鳴らすベル音もそう。TVCMで流れる連呼・早口もそう。

癒されたい人が多いということの裏には、癒されない日常があるという単純で明快な問題をみんな自覚して、直していく意志を持てばいいのにと思うのですが、なかなか難しいようです。自分さえ癒されればと考える人も多くて、なんだか癒しブームが始まってからというもの、自己中心的な考え方も流行り始めてるような気がするのは私だけでしょうか?

蛇足ですが、携帯を使うのはお控え下さいという車内アナウンス。あれも私には理解できないなあ。他の人に迷惑はかけませんよ。どうしても携帯はマナー違反だと思う人の方が少数派のような気がするので、そういう人達のためのアンチ携帯車両を1,2両作ればいいだけだと思うのは飛躍し過ぎですか?新聞広げて、バサバサうるさいサラリーマンの方が、私には迷惑なんですが...


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2002年12月09日(月)

弱さ

昨日から今日にかけて学校の友人と交わしたメール交換の私が送信した内容を掲載します。実に素直に自分の気持ちが表現できた内容だったので、女々しい感じのする内容ではありますが、弱さを恥ずかしがる歳でもないので敢えて掲載します。

1、(最近元気がないね。というメールに対して)うーん、何かねぇ。理由わかんないけど。最近浮き沈みが激しくてね。明日バイトしたらちょっとは気が紛れると思うけど。

2、(騒いでみる?というメールに対して)心配させてごめんね。今はただ何もせずきれいな景色みたり、温泉に入ったり、星見たりしたいなあ。できれば、誰か大事な女性と一緒に。心が乾いているのかもしれないな。基本的な安心とか愛情とか足りないのかなあ。独りが寂しいのかもしれない。いろんな意味でね。

3、(人の事ばかりで、自分が甘えられてないんじゃない?というメールに対して)バイト終わった。バイトしながら昨日の○○ちゃんの「甘える」って言葉について考えてた。俺誰かに甘えたいのかもしれない。すべての不安や辛さや寂しさを受け止めてくれる環境を求めてるんだろうと思う。無意識に母親的存在を求めてるような気がするな。そういう受け皿がないから何をやっても充実感がないのかもしれない。誉められたい人に誉められる欲求が満たされないから。

4、(クラスの中で一人でいるように感じてる?というメールに対して)クラスに限らないかも。今までずうっとそうだった。転校多かったし、外国暮らしも長かったから独りでいる事が普通だったし格好いいと思ってた。宮元武蔵とか高倉健とか孤高の人に憧れてきた。でも実際にそんなの無理なんだよね。自分の弱さ隠すために信念なんて体のいい言い訳してきたんだな。今、自分の人生の危うさを目の当たりにして独りであることにビビってるんだと思う。こんなはずじゃなかったのに。という思いはそこからきてるのかもしれない。

5、(心を閉じてはダメだよ。というメールに対して)心を閉じているのかなあ。その辺まだ自覚できないでいる。本来の自分がどんな人間なのかってのも、良く分からなくて、どうしたら自分の心が開くのかが良く分からないよ。長く閉じてたから自分にもありのままがどんなものかが分からない感じがする。

強さを過剰に意識し、自分の弱さをごまかしてきたんです。弱さと面と向かうことは非常に怖いのですが、自分の弱さとうまく付き合っていくためにも、どのような弱さかを理解する必要があるようです。

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2002年12月07日(土)

定期落とす

定期を落としました。

こうしたケアレスミスを犯すたびに、「注意力が散漫だな。」と自己嫌悪に陥ります。特に、最近はどこかぼんやりしていて、さんかくのしそうに書くアイディアも浮かんでこないこともしばしばです。

ぼんやりしながら過ごしていると、知らない間に時間は過ぎていき、気がつくともう1週間が過ぎていたりするのです。「ん?俺はこの1週間何をしていたんだろう?」という自問が毎日のように繰り返されるわけです。

確かに、勉強に関しても私生活に関しても以前よりは充実していますし、考え過ぎが悩みというエネルギーを消費する形になることは減ってきましたが、この注意力の散漫さはどうにも解消されないのです。

睡眠が充分に取れている状態を熟睡と言いますが、仮にその状態を普段の生活に当てはめるなら「熟生(ジュクセイ)」になりますが、まさに熟睡感がないのと同じで熟生感がないのです。なぜにこれほどまでに冷めた感じなのか?そして、どこか現実から距離を置いたところに自分がいるのか?自分でもわかりません。

とにかく、今回の定期の紛失は、定期そのものの勿体無さよりも、そんなケアレスな生活を送ってしまっている自分を再認識することとして非常にショックなのです。これを契機に何かが変わればなとは思うのですが...

気持ちの熱さとは、何から生まれるのでしょうか?あなたは熱く生きていますか?その熱い気持ちの源泉は何なのでしょうか?

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2002年12月05日(木)

具体的行動

昨日からずっと「周りを気にしない自分らしさ」というのを考えて実行しようとしています。

あらためて考えてみないと自分らしさがわからないというのは、実に皮肉な話しです。何も意識せずにただそのままで居ることが自分らしさなのでしょうが、意識すればするほどわからなくなります。

実行となると、余計にちぐはぐです。考えても分からないのに、実行に移せるはずもないのですが、敢えて、自分らしさを意識した行動に移してみました。移してみたとはいいますが、実際に私がしたのは、できるだけ「自分らしさを出そう。」と考えないことでした。自分らしさを出すために、自分らしさへの過剰な意識を押さえようとしたのです。ただ、動く。それだけを心がけ、「考えるな。考えるな。そのままそのまま」という暗示をかけつづけていました。

そういう正しいのか間違っているのか、何だか良く分からない心理操作とは別に、もうひとつ行動を起こしてみました。昨日の日記にも書きましたが、私は、自信を失っていると考えていましたので、「具体的に何に自信が持てないのか?」また、「何に自信を持てば周りを意識せずに自分らしさを発揮できるのか?」を考えてみました。

私が出した答えは意外と簡単な答えでした。「自分自身をコントロールできる力」要するにセルフマネジメントの力が、今の自分にはない。寂しいと感じたら、寂しさをコントロールできずにイジイジと寂しがっているし、学校に不満を持ち始めたら自分自身の努力は棚上げしてイジイジと愚痴ってるし、そういう生産性の低い心のテンションを変えることのできなかった自分に自信を失っていたのでしょう。

そこで、単に心を意志だけでコントロールするのは難しいので、道具を作りました。まず、今、私が一番非生産性を感じているのが、学校に対してでしたので、まずは学校に文句を言う前に意識をもっと自分自身の勉学に向けるために、自分用の学習管理シートというものを作り、今日から本格的に自分の学習生活をコントロールしはじめました。これを軌道に乗せて、全体的なコントロールを取り戻したいと考えています。

かなり漠然とした不安がずうっとありましたが、なんとなく実際の行動に移すことで気持ちは少しづつかわりつつあるようです。焦らず、ゆっくり、確実に、本来の姿を取り戻したいと考えています。

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2002年12月02日(月)

自分探し

自分らしさを失って、周りを気にし過ぎています。

周りを気にするという性格はどのような気質が影響しているのでしょうか?昔から、ずっと周りの目が気になって仕方がありませんでした。しかし、オーストラリアで五年過ごしていた間はまったく気にならなくなりました。そして、帰国してからもしばらくの間は周りの私に対する評価などまったく気になりませんでした。

しかし、このところ昔のように周りの目が気になるという性格が戻ってきました。他人の評価を気にするという裏には、何があるのかが自分でも良くわかりません。本当は周りの目など気にしない生活に戻りたいのですが、なぜか気になる。もしかしたら、自分の生活に自信が持てていないのかもしれません。

やはりどこかに後ろめたさがあるのかもしれないとも思います。日本の一般的な価値基準の中で私という人間が持っているバックグラウンド、性格、信条、憧れなどがうまく当てはまっていないのではないのか?と考えるのです。しかし、私はこれからもこの日本と言う国で生きていくのですから、その一般的な価値基準からできれば離れたところにいたくない。という気持ちがあるのでしょう。

周りの目が常に私を見ているはずはないのですが、自分らしさと日本の一般的な価値基準とのギャップを、他人の目に感じているのかもしれません。もしかしたら、そんな格好の良いものではないかもしれません。単に、自分という人間に自信がもてないのかもしれません。それにしても自信というのはどこから来るのでしょう?これまでの私の経験は恐らく多くの人が経験できなかった経験ですから、胸を張って自信を持っていられるはずです。しかし、そうではありません。

そう考えると、やはり私の自信の根拠となる経験や考え方が、今のところ、確固たる立場を築けていないのではないかと思うのです。私が最も私らしかった頃を知る人は周りにいないというのもありますし、私が自分らしさを表現してもそれが共感されていると感じる人が周りにいないのかもしれません。

周りに原因を求めても仕方がないので、結局は私自身が何かを変えていかないといけないのは良くわかっているつもりですが、さて、何をどう変えていったら良いのか?答えは簡単には出ないのです。周りへの期待を捨て、自分らしさを素直に出すということが必要なのかもしれませんし、自分らしさをある程度押さえるところは押さえて、周りの環境にあわしていく事も必要なのかもしれません。私としては、自分らしさを素直に出す事にしか突破口は見えないかな?と考えています。

久しぶりに、自分らしさとは何か?ということをじっくり考えてみようと思います。自分探しの旅は終わらないのです。

過去の今日
2002年12月01日(日)

日記 / issy