思考過多の記録
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2016年05月28日(土) |
物書きの男にも魅力を感じて欲しい |
スポーツ系の部活動やサークル活動をしている人は、それだけで目立つしモテる要素がある。野球でもサッカーでもバスケでもバレーでもテニスでも器械体操でも、目の前でそれが行われれば、目を惹くし、格好いいと思われる。 肉体だって鍛えられているのだから、美しいと思われるだろう。 スキーでもスノボでも、あらゆるスポーツにそれは当てはまる。
文化系でも、演奏家は、ギターであれピアノであれバイオリンであれドラムであれ、やはり目を(耳を)惹くし、凄いと思われるだろう。格好いいと思われるかも知れない。 絵画や彫刻といった作品も、同様に人の目を惹く。目の前で創作過程は見られないが、できあがったものははっきりと目の前に形として現れている。
しかし、基本的に文化系はこういう点では不利である。 僕は文章がうまいと言われるが、そのことでモテた記憶はない。 スポーツや演奏は、目の前でそれを披露されれば分かりやすい。自分には到底できないことをやっているというのははっきりと分かるし、肉体が躍動する様は魅力的だ。 同様に、楽器の演奏も、目の前で行われれば、「おおっ!」と思う。自分にはそれができないし、今行われていることは凄いことだとすぐに分かるからだ。それ自体が感動的ですらある。 しかし、文章がうまいというのは、目の前で何かが起こっているわけではない。書かれたものを見て、初めてそうだと分かる。そこには「読む」という行為を介在させる必要がある。早い話、本を外側から見ただけでは、いいのか悪いのか判然としない。もし中に書かれている文章が素晴らしかったとしても、目の前にある本は本でしかない。
要は、凄さが目に見えないのである。そして、肉体が凄い動きをして、美しいとか格好良いいとか感じられる程には、うまい文章は感動的ではないのである。 「凄い!」「格好良い!」というのがなく、「ふーん。それで?」という感じになる。下手な文章であろうが、うまい文章であろうが、書くという行為そのものが別段変わるわけではないし、そもそも書くという行為は観衆の前で行うものではない。 (書道はまた別である。これはこれで身体の動きやできあがったものが目の前に出てくると分かりやすいので、やはりその場で感動されたり感嘆されたりする。)
「格好良い」と思われ、憧れられたり好きになられたりするのは、大抵は運動系の部活の人間であった。僕は学生時代から演劇部だったが、全然そんなことは思われなかった。黄色い声も飛んでこなかったし、下駄箱にチョコレートやラブレターが入っていたこともない。 つまり、何ということもない、特に賞賛されることもない存在だった。 それで、彼女もできなかった。 どんなに素敵な文章を書いても、それだけで女性が好きになってくれることはなかった。 不公平だと思う。文化系の、しかもパフォーマンスを伴わないスキルは、特に異性から見て、まったく魅力にはならないのだ。 「僕はこんなに凄い文章が書けるんだよ」「それで?」「それでって?」「だって、格好良くないじゃん。イケメンでもないし」以上である。 確かに、文章を書くのに肉体的な鍛錬は必要ないので、身体も美しくはない。第一、文学少年・文学少女なんて、どこか暗いイメージがある。 だからモテないのである。
どうしてこういうモテ格差が生じるのか。まったくもって不公平である。 サッカーで華麗にゴールを決めるのと、誰が読んでも唸るような文章を書くことと、どちらも高度な能力が必要だと思うのだが、後者はあまり評価されない。というか、モテにはつながらない。 お前はモテるために文章を書いてるのかと言われそうだが、有り体に言えば、半分はそうかも知れない。誰かが僕の価値や魅力を見つけて、それを男性としての魅力に変換してくれないかと思っているのだが、そんな気配は全くない。 どうして文化系の能力しか備わらなかったのかと恨めしく思う。もし体育会系だったら、ここまでの人生の中で、絶対彼女ができていた。顔がそんなに良くなくても、目の前で動く肉体が魅力的だと思われれば、それに惹かれる女性は必ずいた筈である。
再三書いているように、僕はもう人並みの幸せは捨てた。結婚して家庭を持ち、子供をもうけることなど頭にない。 しかし、恋人を持つことは諦め切れていない。そのくらいはいいだろうと思っている。別に将来一緒になれなくても、今この瞬間に僕を愛してくれる人でいいのである。 イケメンでもなく、肉体も美しくなく、何も凄い技を目の前で見せられない男だって、恋人の1人はいても罰は当たらない筈だ。 文化系でも良いと思ってくれる女性を、切実に求める。
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