思考過多の記録
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電車の中や街角で仲睦まじく寄り添うカップルや夫婦を見ると、僕は恋愛には不向きなのだろうなと改めて思う。僕にはきっと、相手を柔らかく包み込んだり、癒してあげたりすることはできないだろうな、と。
優しい人だと思われることも多いが、実は僕はちっとも優しくはない。無条件に相手の全てを受け入れる、受け止める、そんなことはきっとできないに違いない。 もし誰かと付き合うことになったら、おそらく僕はその人の心を業火で焼き払ってしまうだろう。後には、荒涼たる景色が広がる。何ものも残さない。それ程までに焼き尽くす。 勿論、僕自身も燃え尽きて灰になるだろう。 結局、生産性のない関係である。それを「愛」と呼べるだろうか。
中島みゆきの曲に「炎と水」というのがある。 ここでは、激しい性質の、両極に存在するような男と女が惹かれ合う。 この曲の中では、男の方が「水」、女の方が「炎」として描かれている。
Flame&Aqua なんて遠い者たち 私たちは互いに誰より遠い Flame&Aqua なんて同じ者たち いちばん遠い者がいちばん近い Flame&Aqua 互いから生まれあう あなたがいなければ 私はまだ生まれていないような者
あなたがあなたになればなるほど 私が私になればなるほど 互いは互いが必要になる 誰から教えられることもなく Flame&Aqua あなたは一途な水 私たちの行方を指し示す者 Flame&Aqua 私は揺れる炎 私たちの行方を照らし出す者 Flame&Aqua 求めずにいられない 私たちは あまりにひとりでは担い過ぎる炎と水
僕はこの曲が僕の恋愛の形を示しているように感じている。この曲が発表されたのは随分前になるが、その時はそんな思いはなかったものの、何故か気になる曲だった。 そう、多分僕は「あまりにひとりでは担い過ぎる」存在なのであろう。だから、女性は誰も寄り添おうとはしなかったのだ。僕に深入りされれば、自分が癒され、救われるどころか、簒奪され、焼き尽くされ、手酷い目に遭うことが分かっていた。その危険性を察知したのだと思う。 柔和そうに見える物腰の奥に、とんでもない地獄が口を開けて待っているのだということが、きっと僕の言動の端々に現れていたのではないだろうか。
だから、僕に相応しい人、僕と寄り添える人は、この歌にあるように「あまりにひとりでは担い過ぎる」女性なのだと思う。
この曲のさらに前、僕がまだ大学生だった頃に、やはり中島みゆきが、自身がパーソナリティを務める深夜のラジオ番組で、唐突に 「甲斐よしひろに伝えて下さい。『3ヶ月だけ結婚しないか』って。そうそれば、お互い血みどろな曲が書けるぞって(笑)」 と発言した。冗談めかして言っていたが、中島みゆきと甲斐よしひろがどんな音楽性を持っていたかを知っている人なら、ひょっとしてあの歌の「炎と水」は、この2人のことでもあるかも知れないと思い至るだろう。実際、この後中島みゆきは、自身のアルバムを甲斐よしひろにプロデュースしてもらっている。 きっと、僕もそうなのだ。ごく普通の恋愛、ごく普通の交際(何をもって「ごく普通」というのかという問題もあるが)はできないのだろう。 相手にとって、帰り着く場所にもなれないし、疲れた心と体を休める場所にもなれない。相手もまた、そういう人間。きっとそういう相手としか愛し合えない。 とても困難な愛になるのだろうけれど。
しかし、そういう相手と出会っていないからといって、当座何か困るわけでもない。 何かあるとすれば、愛のあるセックスができないことくらいだろうか。 「くらい」と書いたが、実はこれが結構心身に堪える。 傷が深くなればなるほど、僕はさらに「あまりにひとりでは担い過ぎる」男になっていく。
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