思考過多の記録
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2013年03月08日(金) 「感性」の瑞々しさ

 ここ数年、自分の「感性」が干涸らびていると感じている。いや、もっと前からなのかも知れない。
 世の「賞」といわれるものを受賞する人達の多くは、この「感性」が独特であったり瑞々しかったりするのだ。だから、数多の作品の中でも光って見える。そして、多くの人達の心を捕まえ、揺さぶる。
 それが、残念ながら今の僕にはない。



 かつて、僕も時代の空気をビビッドに呼吸し、それを表現できていた頃があった。その時は、特に何が流行っているかとか、何が問題になっているかとか、そういったことを意識的に調べなくても、自分のアンテナにいろいろなものが自然に引っかかってきた。謂わば、時代を「肌で感じる」ことができたのである。
 いきおい、自分の作品にもそれはビビッドに反映された。狙わなくても、同じ時代に生きている人達に共感を持って受け入れられる、共通の空気感を持っていたのだ。好きなように書いていて、楽しかったし、手応えもあった。



 いつからなのだろう。そんな感覚が失われ、僕は「皮膚」ではなく、「頭」で世界を捕らえようとするようになった。それは、いくらアンテナを上げても、何も引っかからなくなったからだ。いや、アンテナ自体を上げられなくなったからかも知れない。
 皮膚がかさかさに乾き、感覚が失われてしまったという感じなのだ。
 やむを得ず、僕は本やマスコミの情報に頼って世界を理解しようとした。かつてはそれでも、皮膚がひりひりするような感覚があり、世の中を「感じる」ことができた。しかし今は、どうやっても世界の全体像は分からず、時代の空気を吸うこともできなくなった。
 自分でいうのも何だが、僕の書くものはつまらなくなってしまったし、書くこと自体が時には苦痛に感じられるようにもなった。



 しかし、僕には書くことしかできない。
 皮膚感覚が失われたのは、年齢のためだろうか。それとも、外部からの刺激を知らず知らずのうちに避け、限られた世界の中に留まっていたせいであろうか。
 それとも、今はエネルギーを蓄え、皮膚感覚が復活するのを待つ時期なのだろうか。時代の空気を無理矢理吸い込もうとして呼吸困難になっているだけなのだろうか。



 とにかく、一度深呼吸である。



 些細な言葉や現象にビビッドに反応することのできた「感性」の瑞々しさは、何もしなければ時と共に失われる。それを保つためには、「保湿クリーム」のようなものが必要だ。とにかく、虚心坦懐に世界と向き合うことである。また、逆説めくが、できるだけ多くの本を読み、たくさんの人と出会うことである。また、心を動かすトレーニングを欠かさないことだ。
 少しの休養と、その後の努力。それで自分の「感性」が蘇って、またいきいきと創作活動ができる。そう信じたい。


hajime |MAILHomePage

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