思考過多の記録
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2011年04月05日(火) 被災地に木霊する虚しいコトバ「頑張ろう、ニッポン」

 東日本大震災(という名称に落ち着いたようだ)から3週間あまりが経つ。
 最初の1週間は、そのあまりの被害の大きさに、日本全体が茫然自失といった感じであった。
 被災地は広大で、自治体の機能も半ば失われた状態となり、正確な死者・行方不明者も把握できない有様だった。
 そして、それにすぐに続いて、例の福島第一原発の事故が起きた。
 そして、徐々に被災地にカメラが入り出し、地上からその災害を日本全国が「疑似体験」することになったのである。



 その後、今度はこの被災者を支援しようという取り組みが、日本だけでなく、世界でも始まった。ボランティアが被災地に入り、救援物資は次々に届けられた。ただ、それがうまく全体に行き渡るには至っていない。
 そして、原発事故は一進一退を繰り返しながら、今に至るまで続いている。
 大気中に、土壌に、そして海水に放射性物質が拡散し、「風評被害」が、これまた国際的な規模で起きている。放射線物質は今も原発から放出され続け、事態は改善しているとは言い難い。



 このような状況下、「頑張ろう、日本」という、よく分からないスローガンが巷間に溢れるようになった。
 ACのCMでは、サッカー選手や著名人が、
「日本の力を信じてる」
と語り、トータス松本に至っては、
「日本は強い国」
という、ほとんど小林よしのりかと間違えるようなメッセージを嬉々として発している。



 被災者を励ましたいのは分かる。
 この震災が、決して東北や関東という東日本地域の問題にとどまらず、日本という国に大きな打撃を与えたことも事実だ。
 だからこそ、
「困った時はお互い様」
で、みんなの力で被災地を助けたい、という考え方に僕は異論はない。
 が、誰かが新聞に書いていたが、被災者・被災地に向かって
「頑張れ」「頑張ろう」
という必要はないのだ。
 あれだけの未曾有の災害に襲われ、これまで築いてきた全てのものを一瞬にして流され、今もなお不自由な避難所生活を強いられている人達に、これ以上何を頑張れというのだろうか。
 伝えたいのは、失意の底にあっても、多くの人達が被災者を支援しようとしている。その助けを借りて、少しずつ、一歩一歩歩み出そう、ということでいいのではないだろうか。



 そして、今「風評被害」と「実被害」に曝されている福島の人達には、それは必ずしも〈天災〉ではなかったのだ、と伝えなければならないだろう。
 福島県民は、いってみれば国のエネルギー政策の犠牲になったのである。
 結果的に、人身御供になってしまったのだ。
 40年前に、あの地に原発を受け入れることを選んだ住民や行政の責任もあるが、第一義的には国と東電の責任である。
 このことは、もっと強調されていい。



 「日本は強い国」とか「頑張ろう、日本」というスローガンは、こうした責任論を曖昧にさせる麻薬のような力がある。
「今は誰かを責める時ではない。とにかく復興に向けてオールジャパンで取り組むべきだ」
と言う人がよくいるのだが、これは形を変えた「一億層懺悔」の理論である。
 天災だから、誰も責任は取れない。
 ましてや1000年に一度の大災害なのだから、誰も想定はできなかった。
 果たして本当にそうだろうか。
 もし本当に日本が「強い国」だったら、原発の事故の処理にこんなに時間がかかったりするだろうか。また、「日本の力は団結力です」とサッカー選手が言うCMもあるが、だとしたら、福島から来たというだけで宿泊を拒否したり、原発のある地域の来たにある南相馬市になかなか物資が運ばれなかったりするだろうか。
 石原東京都知事にいたっては、この災害は「天罰」であり、津波は日本人の我欲を洗い流してくれた、とまで言っている。
 これはさすがにすぐに撤回したが、今度は「同胞が災難に遭っている時」だからといって、花見を自粛しろ、などと言い出している。



 こうした言説の全てが、何か大切な真実を隠蔽してしまう。
 それが意図的であるにせよ、ないにせよ。
 「日本の力を信じてる」というだけでは、避難所に必要な物資や薬品が届いたり、必要な身体的・精神的ケアが施さたりするわけではない。
 また、原発事故が収束に向かうわけでもない。
 今回の震災を利用して、「日本人としての一体感」を高めようという方向に全体が流れたり、自衛隊が必要以上に称えられたり、ましてや統一地方選で自陣営の選挙戦に対する追い風に使おうとする動きに、僕達は注意しなければならない。



 こうした動きは全て、震災を都合のいいように利用しているだけであり、本当に震災から何を学ぶべきか、何をなすべきかに正面から答えるものではない。
 そして、そうした動きに身を委ねる方が、しんどい現実と向き合うよりずっと心地よく、快感ですらあるため、人々の多くがそちらに流れがちである。
 被災者の人達を思えば、このような行為は天につばするものであることは明白である。
 このようなことを続ける限り、自然が再び我々に牙をむいたとき、我々はまた同じように茫然自失に陥るしかなくなるであろう。


hajime |MAILHomePage

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