思考過多の記録
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2011年03月09日(水) |
Let it be. |
少し前に、主治医の先生から、以下のような趣旨のことを言われた。
「自分で何とかしようと動いたり、あがいたりするよりも、流れて身を任せてみましょう。そして、その時その時で、対処していけばいいんです」
なるほどな、と思った。 世間では、何事に対しても、前向き、能動的であることがもてはやされる。 企業でも、「自分は何がしたいか」「そのためには何をしていけばいいのか」と常に突きつけられている。 常に前進し、ステップアップすることが求められている。 それができない人間は、「敗者」の烙印を押される。
けれど、世の中は、そして人生は、そう簡単にいくものではない。 岩波書店のブックレット「きびしい時代を生き抜く力」(香山リカ・江川紹子 2011年2月)の中で香山氏は、 「人生とは、ままならないもの」 と発言している。 いくら自分で壮大な計画を立てたとしても、人生にアクシデントはつきものだ。世の中には、勝間和代氏を筆頭とする成功者による著作が溢れ、彼等は公演やテレビなどのメディアでも、自分の成功譚を語る。すると、それを読み、見聞きする我々は、自分が彼等のようになれないのは、自分の力が足りないからだとか、才能がないからだとか、ついついそう考えがちである。 が、実はそれが全てではない。 誰もが成功者になれないからこそ、成功者がもてはやされるのである。
能動的であろうとして、つまり、流れに逆らってもがいているうちに、流れに飲み込まれてしまうことはよくあることだ。 そうなったら苦しい。 また、自分にはその流れに逆らう力がなかったのだと考えると、惨めになるし、自分を責めもする。 しかし、そこで考え方を変えて、先述した僕の主治医の言葉のように、敢えて何もせずに流れに身を任せるのも、案外といい処世術かも知れない。その流れが自分を何処へ運んでいくのか分からないが、苦しい思いをして無駄な労力を使わないだけ、命を永らえる可能性も高いというわけだ。 また、こうも考えられるだろう。 流れに身を任せることによって、自分では想像もしなかった場所に辿り着くことができるかも知れない。
かつては僕も自分の脚本の中で、 「祭りは探すんじゃなくて、自分で作らないと」 と主人公に語らせていた。 主体的に環境に働きかけよ、そして突破口を開け、というわけだ。 だが、どう頑張っても祭りは始まらない場合もあるし、そもそも祭りを始めなければならないのかどうかも、立ち止まって考えてみてもいいのではないだろうか。
すべては、なすがままに。 そう考えると、肩の荷がだいぶ降りる気がする。
かつての仲間達が、たゆまずに芝居の世界で活躍しているのを見るにつけ、焦る気持ちはある。 何だか自分だけが置いて行かれている気がする。 かといって、そこで無理矢理自分も始めなければと焦って、あがいて、もがいてもせんないことだ。 自分が辛くなるだけである。 ならば、流れに身を任せよう。 もし僕が本当に芝居の世界に戻る必然性があるのなら、きっといつか、そういう流れに乗ることができる筈である。
なすがままに。 今は、なすがままに。
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