思考過多の記録
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2011年01月13日(木) 2011年の念頭のつぶやき

 2010年初の日記である。
 というか、かなり久し振りの日記になる。



 最近は、僕は主な日記の場所をmixiに移した。
 mixiでは肩肘を張らずに、思ったことを口語調で書き殴っている。それもこれも、SNSという閉ざされた空間の安心感があるからだ。今でこそmixiも普通の登録制になったが、始めた当初は「招待制」といって、mixi登録者が別の人を「正体」するという形でしか登録できなかった。
 なので、全く素性の知れない人間が登録することは少なく、例えば援交目的や詐欺・フィッシングの類の犯罪を目的とした人間が入ってくることを、ある程度排除することができた。
 勿論、登録者の中での誹謗・中傷、トピックと呼ばれる掲示板の炎上や「荒らし」も見られはしたが、もっとオープンな空間、例えば2ちゃんのような無法地帯のようにはなっていなかった。
 また、自分の日記もプロフィールも、誰に何処まで公開するかの設定が自分でできるため、登録者全員に見せる情報と、マイミクという「お友達」にだけ見せる情報を分けることができる。日記の公開範囲も同様だ。



 ブログやサイト等のネット上で丸裸にされることによって傷付いてきた人達が、このシステムを歓迎したのは当然と言えよう。mixiは空前の盛り上がりを見せた。しかし、一昨年あたりから、mixiは拡大路線を取るため、オープンな登録制に移行してしまった。
 このことへの反感からか、徐々にmixiを抜ける人が見られるようになってきたのだ。目先を変えようとしたのか、運営はいろいろな昨日やアプリを付け加えていったが、それも利用者にとっては「余計なもの」と捉えられているようだ。



 そして、今のトレンドは何と言ってもツイッターである。
 昨年の流行語大賞の中に「○○なう」が入っているが、言うまでもなくこれはツイッター上のつぶやきの言葉の定番だ。
 140字という限られた文字数の中で、今やっていることや感じたことをリアルタイムで発信・共有できるこのメディアは、爆発的に普及した。僕の友達や知り合いにも、始める人間が続出している。
 自分も発信できるが、例えば自分の好きな有名人のツイートをフォローしたり、情報をどんどん広げていったりと、個人的な用途からビジネスまで、このメディアは様々な可能性を持っているといっていいだろう。



 反面、僕はこのツイッターの機能が、それを使う人間の思考形態に大きな、それもあまりよくない影響を与えはしないかと危惧している。
 ブログは、文字数が限られていないため、自分の日常から始まって、世界的な問題に対する意見表明まで、まとまった情報を個人が発信するツールである。
 当然、多くの人達に向かって書かれるのだから、読者を得るためにはそれなりの文章構成力を必要とする。また、匿名性があまりないため、無責任なことは書きにくい。
 勿論、自分と反対の意見の人達からまともな反論とは言えない誹謗・中傷の類を書き込まれ、炎上することも考えられる。その場合には、自分の個人情報がいとも簡単にネット上に流出してしまうことにもなるのだ。
 最悪の場合、そのブログは閉鎖されてしまう。
 これはこれで、とても困った現象ではある。
 ネットの持つ悪い一面が顕著に表れる事例と言えよう。



 これに対してツイッターは、140字という制限があるため、それを推奨する人間に言わせれば、「限られた文字数の中で情報を如何に伝えるかの力がつく」ということになるのだが、いかんせん140字である。厳密に論理を展開し、結論を導くという正攻法の文を書くにはあまりにも少ない。
 いきおい、自分の感覚に頼った表現になりやすい。
 また、ブログの文章もそうだが、内容の真偽の鑑定をする絶対的な存在がいないため、間違った事実や認識に基づく感情やものの捉え方をもとにした、瞬発的な言葉の発信が行われる可能性も高い。
 それが多くの人達によって同時多発的になされれば、対象されたものは社会から抹殺されかねない。



 このブログ→SNS→ツイッターというトレンドの移り変わりを見ると、人々が誰かとの繋がりを欲しながらも、だんだん「社会性」を失っていく様が見て取れるような気がするのは僕だけだろうか。
 それは、理解不能な「他者」を排除し、深い思考を必要とする事象を感覚的に捉え、無責任に発信する行動を促す。
 こうして作られた「世論」が個人を傷つけ、個人や会社や役所等の社会的な地位を脅かし、さらには国の政策や外交にまで多大な影響を及ぼす。
 中国人は何となく嫌いだから、その中国に毅然とした態度を取れない民主党は無能だ、という具合である。
 そこには大きな論理の飛躍や根拠のない思い込みが多分に混じっているが、ツイッターは考える時間的余地を与えない。ツイートするスピードと言葉の切れだけが重要視される。



 かくして、一億総大衆週刊誌化が進行する。
 深い考えもない有象無象が、勝手に叫び声(もはや「さえずり」ではない)をあげ、それがやがて1つにまとまって大きな罵声・怒声となる。
 ここからまともな文化や思想は生まれない。



 この「エンピツ」も、かつては人気サイトで、一時はサーバーの容量オーバーで新規登録を停止していたくらいだ。
 それが今や、閑古鳥が鳴く寂しさである。
 少なくとも、mixiやツイッターのように、社会現象として取り上げられる影響力はない。また、アメーバブログのように有名人が登録しているわけでもない。
 何となく、中途半端な存在になってしまった感がある。
 一時は僕も、登録を抹消しようかと考えた。
 僕はmixiとアメブロに登録していて、軸足がmixiにあるので、既にアメブロの更新頻度が下がっている状態だ。こちら用の別の文章を書く余裕がないというのが現状である。



 しかし、それでも僕は、今暫くここに留まろうと思う。
 書きそびれたのだが、昨年2010年は、僕がエンピツに登録し、「思考過多の記録」を書き始めてから10周年にあたっていた。
 書き始めた当初は、当然ここしか自分の思ったことを発表する場がなく、かなり力を入れて書いていたものだ。
 もともと仲の良かった後輩に勧められて登録したのだが、書き始めると反響もそれなりにあり、僕自身もできるだけ「他者」に向けて文章を書くことを意識していた。それは、今もそう心がけている。
 では、アメブロとの違いは何なのか。
 アメブロでは主に音楽や演劇、そして政治といった具体的な事象を取り上げ、名指して批評するというかなり「過激」な文章スタイルを敢えてとっている。
 それは、「革命前夜」というそれ自体が過激なタイトルをつけてしまったことによるころが大きい。
 また、確実にエンピツよりも認知度が高く、登録者が多いため、多くの人の目に触れるので、僕自身の「公式」な見解を示す場にもなり得る。
 この「思考過多の記録」は、その名の通り、ある事象や現象を、もう少し抽象的な思考方法と、自分自身の内面に引きつけた表現で書き表す場になるだろう。
 ちょうど、mixiとアメブロの中間である。



 そんな具合なので、今年も更新頻度は低くなるかも知れない。
 しかし、ツイッターのような瞬間的・直感的でない思考も存在するということを示すためにも、ここは死守していこうと思う。
 ここは、どうやらYahoo!の検索で辿り着く人が多いようだ。
 それを知った上で、敢えて中立にはこだわらず、また週刊誌的な表層的・センセーショナルな思考・表現に堕することなく、淡々と書き続けていくつもりだ。
 読者の皆様方におかれては、もう暫くのお付き合いをいただきたいと願っている。
 そして、思うところがあれば、メールなどできかせていただければ幸いである。
 基本的に一方通行のつぶやき(「さえずり」ではない)ではあるが、常に自分と、自分に繋がる人達に向けてのつぶやきであり続けたいと思っている。


hajime |MAILHomePage

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