思考過多の記録
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今日、恋が壊れた。 花火みたいな恋だった。
それは、突然やってきて、僕の中に光を投げかけた。 僕は、その光を信じた。 でも、それはずっと灯り続ける炎じゃなかった。
打ち上げ花火みたいに、パッと咲いて、そして消えていった。
どうすれば、僕は恋の対象になるのだろうか。 いい関係を、何故恋に発展させられないのだろうか。 花火は確かに綺麗だけれど、所詮は消えていく運命にある。
あなたのそばにいたい。 あなたがそばにいてほしい。 でも、どちらの願いも夜空の花火となって消えていった。
今日、恋が壊れた。 明日、僕は新しい恋を信じられるだろうか。
2009年07月09日(木) |
「爆弾」を抱えた人々 |
「誰でもいい」殺人がまた起きた。 今度は、パチンコ店にガソリンを撒いて火を付けるというもので、犠牲者が複数出た。 容疑者は40代の無職の男で、動機は、 「仕事も金もなく、人生が嫌になり、通り魔のようにたくさんの人を殺そうと思った」 という趣旨のものだった。
作家の佐木隆三氏は、この種の殺人を「自殺」の1つの変形だと分析している。 自殺するしかないというところまで追い込まれてしまった人間が、1人で死ぬのはしゃくだから、他の人間を巻き添えにして、「死刑」という形で国家に殺してもらおうとする行動だ、というわけである。 そういえば、大阪の池田小学校児童殺傷事件の被告もそんな感じだったし、例の秋葉原通り魔事件の被告も、茨城県の通り魔事件の被告も、「人生に嫌気がさした」という点では共通していたように思う。 要は、「殺人」そのものが目的ではなく、「他人を巻き込んで、最期に鬱憤を晴らした上で脚光を浴びて死ぬ」という願望からきた殺人なのだ。
こんなことを書くと遺族やけがをされた方やその関係者に顰蹙を買いそうだが、僕にはこの犯人達の心境が分かる気がする。 確かにやったことは許されないが、彼等がそこまで追い込まれるには、それ相応の理由があったのだ。 池田小事件の宅蠅篋2鵑離僖船鵐嚇校件の犯人も含めて、犯人はおしなべて周囲とのコミュニケーションをとることがうまくなく、だから「大人しい」「目立たない」などと言われる。 友達も少ないか、いない場合が多い。 そして、「非モテ」である。
今の時代、「友達がいない」「非モテ」は恥ずかしいこととされている。 この前「トイレランチ」という言葉があるのを初めて知った。 キャンパスなどで。みんなが友達とランチをしているのに、自分には友達がいないので1人で食堂で食事をしなければならない。そんな人が、その姿を見られたくなさに便所で昼食をとるというのだ。 だいぶ前から、「仲間から“浮く”」ことに対する恐怖感が若者に強いと言われていた。 しかし。便所で食事をしなければならない程だとは思っていなかった。 コミュニケーションがうまくとれない人間、引っ込み思案の人間は、どうしても友達が少なくなるか、いなくなる。 当然、女性にももてない。 そうすると、孤独感が深まる。 ストレスを発散する場所もない。 どこにも居場所がないと感じてしまった人間は、あるとき「暴発」する。 自分を無視し、辛い状況に追い込んできた「社会」に対して、最後の攻撃を行うのだ。
僕も友達は決して多い方ではない。 表面的な付き合いが苦手だし、そもそも一般的な「男」の感性と合わない。 電車の中で、男子高校生達がだれた、そして世間をなめた会話をしているのを聞くと、殺意や攻撃性が芽生えることもある。 そして、何度も書いてきたように、僕は典型的な「非モテ」だ。 最近は「非モテ」の人間が開き直って「草食系」とか自称しているが、僕にはそこまで枯れる気はない。 やはりもてたい。 しかし、もてない。 そういう人間にとって、世の中はどんどん生きにくくなっている。 「普通」から外れてしまった人間に対する「セーフティネット」がなく、友達がいなくて「非モテ」だったら生きている価値はない、と思い込まされてしまうのだ。
そうなれば、そういう目で自分を見、不当に低い地位に甘んじさせられ、さげすまれ、排除される「社会」を攻撃したい。 そんな衝動に駆られるのは、むしろ自然なことではないか。 不特定多数を狙うということは、「社会」全体に対する攻撃を象徴する。 そして、自分の生に価値を見いだせないなら。恨みのある者達の生に価値を見いだせるはずもない。 だから、死刑を望む。
勿論、事情は少し違うけれど、様々な理由から自分の生に価値を見いだせなくなり、自殺を決行する人間も多い。 日本の自殺者の数は、先進国の中では高い水準の3万人台で推移している。 いつからこんなに息苦しく、そして生きにくい世の中になってしまったのだろうか。 様々な通り魔事件をニュースで見るたびに、僕はその背後に蠢く膨大数の「憎悪」を持った人間を感じ取る。 そしてその「憎悪」は。いつ僕の中にも芽生え、成長していくか分からないのである。
そんな「爆弾」を抱えた人々が、今もこの国の様々な場所に潜んでいる。 先に書いた佐木隆三氏は、 「彼等がどうして追い詰められていったのかを解明し、そこから社会が学ばねばならない」 と発言していた。 「正義」を振りかざして極刑を叫ぶだけでは、問題の根本的な解決にはならないのである。 「極刑にしろ」「死刑にしろ」と声高に主張する無責任な人間こそが、「爆弾」を抱えた人々を、そして僕を追い詰めていく。
2009年07月04日(土) |
業務連絡〜「旧」サイト閉鎖のお知らせ〜 |
これを僕の演劇ユニットFavorite Banana Indiansの「旧」サイトを見ている人にどうやって伝えたらいいのか分からなかったのだが、この日記を「旧」サイトのリンクから読んでくれている人もいるようなので、その方にだけでもきちんと伝えようと思う。
実は、FBIのサイトは昨年の春にリニューアルした。 殆どのコンテンツはそのまま引っ越しているので、これまでのデータも見ることが出来る。 URLは、
http://favorite-banana-indians.net/
である。
今までのサイトは、FBIの創設メンバーである女性がデザインしたものを、僕が継ぎ接ぎで更新しながら使ってきた。 新しいサイトは、3年ほど前から僕の芝居の宣伝美術を担当して下さった方にデザインをお願いし(彼女にとっても、サイトの制作は初めてだったようだ)、管理も更新もお任せしている。 雰囲気が全く違っているので、まだご覧になっていない方は是非見て欲しい。 最新のレビュー(観劇日記)もそちらに載せている。
もうひとつのお知らせとして、この「思考過多の記録」は息吹肇の「裏公式エッセイ」になった。 ということは「表」があるわけで、それは今年の春から始めた「息吹肇の革命前夜」というブログである。 僕にとっては、稽古場日記を除いてはブログ初体験である。 URLは、
http://ameblo.jp/fbi-kk/
である。
もし「炎上」してしまったときのことを考えてこちらも残してあるが、今は主力は「革命前夜」になっている。 ただし、こちらはこちらで今まで通り不定期に続けていくつもりだ。 「表」に書くのは憚られるようなことを書いていこうと思う。 勿論、新しいサイトからも見ることが出来る。
だいぶ前から使っているので、愛着のあるサイトではあったし、「可愛い」と言われたりしたものだが、近いうちにこちらは閉鎖しようと思っている。 芝居のイメージも変わり、「旧」サイトのイメージとは合わなくなっていた。 「旧」サイトの作成者も、閉鎖を了承してくれた。
FBI自体も変わっていくと思う。 この先どうなるのかはまだ闇の部分もあるが、敢えてその闇に突っ込んでいく勇気も必要だろう。 僕の近くでも、劇団をプロダクション組織に変えた所もあれば、辞めていく役者さんも出てきている。 僕も、人生の節目に来ている。 しかし、やれるところまではやってみるつもりだ。 新しいサイトともども、今後ともお付き合いいただければ幸いである。
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