思考過多の記録
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2008年02月26日(火)

「あなたとは金輪際会いたくありません。」
と書かれた知人からのメールを昨日の夜中に受け取った。
 亡くなってしまった後輩を通して会った女性。途中喧嘩もあったが、同じ演劇を志す者としていい関係を保ってきた。
 彼女は年上の僕のことを「ちゃん」づけで呼んでいたけど、それは彼女の親近感の表現だったと思っている。



 昨年末、僕は彼女に酷いことをしてしまった。
 全てがメールでの遣り取りだったが、もともと激しい気性の彼女が投げつけてくる批難の言葉に、僕も逆ギレして批難の言葉の応酬になった。
「自分を守るために他人を攻撃する人は恐いので、これ以上関わりを持ちたくない。」
 彼女は最後のメールにそう書いてきた。



 そして昨日、僕は思い切って彼女の携帯の留守電にメッセージを入れてみた。
 彼女と僕を引き合わせた後輩の三回忌が来月にある。そこに一緒に行かれないかと思ったのだ。亡くなった後輩に対して、僕と彼女が絶縁状態にあることが何だか申し訳ない気持ちになったのだ。
 それに対しての彼女からの答えが、冒頭の言葉だった。
 彼女は、「私に関しての情報を一切削除して下さい。」とまで書いてきた。本当に絶縁するつもりなのだと思った。
 そこまで拒絶されてしまったら、こちらとしては為す術はない。



 一緒に芝居を作ったこともある仲間だったのだが、病気のせいで、また僕は何か大切なものを失ってしまった。



 さよなら。


2008年02月20日(水) All or Nothing

 僕の思考の癖として、「All or Nothing」がある。
 特に自分に関してだが、一部を否定されると、全てを否定されたかのように感じてしまうのだ。芝居の感想にしても、否定的な感想を述べる人が一人でもいると、その芝居が失敗だったように思われてしまうのだ。



 そうやって僕は、いくつもの思いこみ、思い違いをしてきた。
 共同イベントを「延期しましょう」と言われて、それを全面的な中止の意思だと受け取った。
 「言った」「言わない」という水掛け論になったとき、相手が僕が言ったはずのことを「言われていない」と言ったのは、僕と僕のプロジェクトを軽んじられたか全面否定されたと思った。「あなたの芝居とは方向性が違うので、もう出演しない」と言われて、自分の芝居自体の価値を否定されたと思った。
 「あなたとの間に溝を感じる」と言われて、それを絶縁宣言だと受け取った。



 その度に、僕は相手との関係を失ったり、悪化させたりしてきた。
 勿論、病気がこれを助長しているのは確かだ。しかし、僕の中に元々そういう傾向があることは否定できない。それも、全面的にプラスに受け取ることは圧倒的に少なく、たいていの場合は全面的にマイナスに受け取る。これは、一時話題になったアダルト・チルドレンの思考回路にちょっと似ている。自分で自分になかなか肯定感が持てない。



 しかし、世の中のことは全て白黒がはっきりしているとか、善悪にはっきり分かれるわけもない。というか、そんなことなど一つもなく、全てはグレーゾーンだといった方がいいだろう。
 「All」と「Nothing」の間には無限の段階があるのだ。
 「All or Nothing」と割り切ってしまえば楽である。ある意味、思考停止状態になる。「正義」か「悪」か、「肯定」か「否定」か。決めつけてしまえば、取り敢えず何かが分かった気になる。それ以上は何処にも進めない。



 「あなたとの間に溝を感じる」と僕に告げた人は、僕からの返事を待っていた。
 僕は今、その溝を埋める言葉を必死に探している。
 それは、「All」と「Nothing」の間を埋める言葉なのだと思う。


2008年02月09日(土) 「食」の豊かさの実態とは

 このところ話題になっている中国製の冷凍餃子の事件を見ていると、我々の「食」についていろいろと考えさせられる。ことは「中国産」だからというだけではない。アメリカ産牛肉の問題で牛丼が食べられなくなったり、牛肉の生産地に対してみんなが敏感になったのはそんなに前のことではない。



 「食糧安保」という言葉をよく聞くようになった。日本の食糧自給率は先進国中極めて低い。安い外国産の原料や製品を大量に輸入・消費するようになった結果、国内産が駆逐され、国内の第1次産業が「破壊」されつつあるのだ。今になって「地産地消」などと言っても、もう後戻りできる水準ではないと思う。
 ひとえに消費者である我々が、「安く、便利なもの」を追及してきた結果である。「飽食の時代」とか「グルメ社会」などと言われたこともあった。しかし、それが如何に脆弱なものであるのかが、今回の騒動で明らかになったと言ってよい。
 また、これは何も日本だけの問題ではなく、例えば中国産の野菜は世界各国に輸出されている訳なので、ことは国際的な「食」の問題となる。「食」に関しては、まさしく世界は一つであり、どこかで問題が起きると、それはあっという間に世界に広がるのだ。



 ファミレスやファストフードなど、飢餓に苦しむ国々から見れば羨まれるほど、僕達は24時間「食」にアクセスすることができる。また、冷凍食品やコンビニなどで様々な料理を手軽に手に入れ、食べることができる。しかし、その食材の原料が何処から来たのか、一体何を食べさせられているのか、口に入れる瞬間もその後も、僕達は知らないことが多い。もしかすると、知らないからこそ食べられているという実態があるのかも知れないのだ。
 昨年は消費期限や品質表示の偽装が相次いだが、事件として表に出ない限り、我々はそれを知る術がない。今回の餃子の件も、被害者が出て初めて表沙汰になったものであり、しかもことの全容がはっきりするまで一月の時間を要している。
 なおかつ、原因はまだ掴めていない。



 人間は食べなければ生きていけない。そして、人口は増え、物流のネットワークは世界中に張り巡らされている。今さら江戸時代に戻るわけにはいかない。
 今回の事件から我々が引き出すべき教訓は多いが、一消費者が自衛手段をとればすむ問題ではない(勿論、それは必要だろうが)。
 温暖化対策に今漸く世界各国は取り組み始めているが、同じくらいの真剣さで「食の安全」についても、知恵を出し合い、システムを整えていくべきではないだろうか。中国を悪者にすればそれで終わりというのでは、この先、第2,第3の「餃子事件」が起きることを止めることはできないと思う。



 それにしても、である。
 そうやって一生懸命守らなければならない「豊かさ」とは、一体何なのだろうか。


hajime |MAILHomePage

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