思考過多の記録
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2008年01月31日(木) |
杉並で起きた「教育破壊」について |
杉並区の和田中学校というところで、学校の教室を使用して進学塾の教師による有料の補習が始まったとメディアが伝えていた。 この試みが発表された時、日の丸・君が代問題で悪名の高いかの東京都教育委員会ですら、「教育の機会均等という観点から問題がある」と待ったをかけたものだった。しかし、結局実現されることになってしまった。 補修は主に成績上位の生徒が対象で、運営主体は保護者で作る有志の集団とその学習塾。そしてそこには、民間人出身である和田中学の校長が旗振り役として一枚かんでいた。 補修の初日、メディアは「いつもと違った授業が受けられて面白かった」と喜ぶ受講者である児童と、「期待しています」という親、そして校長の肯定的なインタビューを繰り返し流していた。まるで、これからの教育の姿の模範の一つであるかのような扱いであった。
僕自身は、この補修に対しては大いに疑義がある。 まず、何故わざわざ公立の学校の教室を、民間の塾の授業に提供しなければならないのか、という点である。親や子供は「塾に行くための時間が必要なくなってよい」と単純に考えているようだが、公立の学校の施設は当然「公共」のために使われなくてはならない。民間の一業者のために学校が便宜を図るというのは、公正・公平という観点からも、「教育の中立」という観点からもおかしな話なのだ。
第2に、東京都教育委員会がいうまでもなく、「教育の機会均等」という原則に反する。この補修は学年の全員が対象ではなく、「成績上位者」に限られていた。また、受講料もとっている。 公教育の原則は「機会均等」である。どの子供に対しても、等しく同じ内容の教育を受ける機会が与えられなくてはならない。今回の補修は、成績と金銭負担という二重の「関門」でこの原則を破った。同じクラスの中で、この補修を受けられる人間とそうでない人間がいることになったのである。当然、両者の学力の差は広がる。私立や塾ならいざ知らず、公教育がこのようなことを率先して行ってはならない。
そして、一番重要なことは、上記のことと関係するが、学校の中にある生徒間の学力格差をより広げる結果になるということである。 本来の教育の目的とは、決して成績上位者の成績を上げることだけではないはずである。個々人によって理解力の差があったり、家庭環境に差があったりで、ある程度の格差があることはやむを得ない。問題は、その格差をどう考えるかである。 本来の教育の目的、就中公教育の場合は、この格差をできるだけ小さくし、多くの生徒にある一定レベルの学力を保証することではないだろうか。つまり、学校として力を入れるべきは、上位者の引き上げよりも、下位者の底上げである。そのための教師による無料の補習を行っている学校もあると思う。 今回の和田中学校の補習は、この観点から考えても完全に発想が逆転している。わざわざ上位者に便宜を図る必要など本来はないのだ。彼等は普通に塾に行こうと思えば行けるのであるから。下位者は普通の授業だけでは理解ができず、学習内容が定着していないから下位者なのである。 教育を行う立場として、どちらに手を差し伸べなければならないかは明白ではないか。 こんな補修をされたのでは、「見捨てられた」と感じる成績下位者の学習意欲は低下するばかりである。当然、学力格差は拡大する。それでいいのだろうか。
和田中学校の「暴走」は、民間出身で教育の本質の何たるかを知らない校長と、自分の子供の成績を伸ばすことしか頭にない近視眼的な親たちによって行われた「教育破壊」であると断ぜざるを得ない。 あの校長の頭にあるのは、「公立」ではなく「効率」=成績至上主義であり(大方、出身母体の企業は「成果給」とやらを導入しているのであろう)、およそ教育とは無縁の発想だ。自分の学校の見かけ上の評価が上がればよいと考えているのかも知れないし、「やる気のあるものにチャンスを与えるが、やる気のないものには与えない」という「弱肉強食」的な考え方をしているのがみえみえだ。 いうまでもないことだが、こういう外資系企業的な発想は、本来教育とは相容れない。一体誰が、こんな不的確な人物を校長にするという有害な人事をしたのだろうか。 また、言うまでもないことだが、今回の騒動のさなかに、ストップをかけた都教委に関して「役人の硬直化した発想だ」とコメントしてこの校長の方針を支持した石原東京都知事もまた、教育の何たるかに関して無知であると言わざるを得ない。 とにかく、和田中学校のやっていることは、教育ド素人集団の教育再生会議あたりが喜びそうな、全く教育の本質を見ない暴挙であり、ある意味安倍前政権が掲げた教育政策の置き土産のようなものである。
今回の件に関して、僕が不可解だと思うのは、教育学者と呼ばれる人達の発言が殆ど聞こえてこないと言うことである。このような取り組みが、もし今後各地に広がるということになれば、それは教育の危機以外の何者でもない。それなのに、教育学者がメディアで発言した形跡は殆どない。 僕が唯一聞いたのは、教育評論家の尾木直樹氏のコメントだったが、彼は元現場教師ではあっても、教育学者ではない。 また、当の和田中学校の他の教師達が今回の補修実施をどう考えているのかに至っては、全く出てこなかった。あまり考えたくはないが、校長による「報道管制」や「発言封じ」が行われたのかも知れない。いや、それならまだいい方だろう。もし和田中学校の教師達が今回のことを、積極的であれ消極的であれ受け入れてしまっているのだとしたら、まさに教育の危機ここに極まれりということになるだろう。
教育学者の怠慢も、教育政策や教育に対しての考え方の変化も憂慮され、また批判されるべき事だが、最も罪深いのはやはり親であろう。 自分の子供のためなら、教育全体がおかしくなっても何の痛痒も感じないという、このエゴイスティックな感覚が、これまで教育全般にどれだけ悪影響を与えてきたか、考えて欲しいものである。 目先のことだけ考えれば、自分の子供の成績が上がり、志望校に合格し、安定した職業に就けるように願うのは、親としてある意味当然のことである。しかし、そのことによって教育全体がおかしくなり、それが社会に悪影響を与えた時、自分の子供がその社会の中でどんな風に育ち、困難な生を生きなければならなくなるのか、そこまで見通して行動して欲しいものである。 教員免許の更新制度など、明らかに教育に悪影響を与えるような政策が通ってしまうのは、こうした「親の目」があってのことである。 本当に自分の子供を守りたいのなら、もっと広く世の中に目を向け、深く教育について考えて欲しい。「いえ、私はちゃんと子供の教育について考えています」と今回の推進役となった親たちは言うだろう。しかし、彼等が考えているのは本当の「教育」のことではなく、畢竟「成績」のことでしかないのだ。
もし今回和田中学校のやったことが、モデルケースとなって全国に広がっていくとすれば(そして、そうなりそうなことは容易に想像がつくが)、教育全体に対するその影響は計り知れない。その意味で、今回の「事業」(「授業」ではない)を推進した人々の罪は深い。 その背景には、広がりつつある「格差社会」がある。根は深く、問題の解決には困難が伴う。 金と時間をかけずに塾の授業を受けるにはどうしたらいいかなどと姑息なことを考える暇があったら、もっと本質的なことを考え、論議して欲しい。それが、真に子供達のためになることである。 そして、そこにはやはり専門家としての教育学者の存在が不可欠である。関係諸先生方の奮起に期待したい。
アフガンの多国籍軍への給油活動の継続を定めた所謂「給油新法」が、衆議院で可決→参議院で否決→衆議院の3分の2で再可決、という異例の手法を使って成立した。 いろいろなところに書かれたことだが、直近の「民意」を反映した参議院で否決した法案を、「郵政民営化賛成か反対か!」の一点のみの古い民意しか反映していない現在の衆議院で再可決するという手法は、どう考えても乱暴で、議会制民主主義を形骸化する酷いやり方だと思う。
再可決の日、朝日新聞にコメントを寄せた慶応大学の教授は、この法案が「軽い」ものであり、「国民の懐を痛めるようなものではない」という理由で再可決は妥当というコメントを載せていたが、事実誤認も甚だしい。もし意図的なものでないとするなら、慶応の学術的なレベルが疑われる。 まず、この「給油新法」は自衛隊を海外に派遣する、しかも国連のお墨付きを得たわけではない、所謂「アメリカとその一味」による軍事活動への派遣である。しかも、外国の艦船に給油をする訳なので、本来なら憲法が禁じている「集団的自衛権の行使」に当たるか否かで、もっと活発な論議があってもいい話だ。しかもこの法案、前の法律にあった自衛隊の活動の国会での承認の条項を削除してしまった。国民の代表である国会で、軍隊である自衛隊の活動のチェックができないのである。シビリアンコントロールの上で大変問題である。 実際、この法案の審議の過程で、アメリカの補給艦に自衛隊が給油した燃料が、アフガンではなくイラクの作戦に転用されたのではないかという、限りなく「クロ」に近い疑惑が持ち上がった。新法ではこうしたことのチェックもできない。 その意味で、「軽い」法案では決してないのである。 また、他国の艦船に対して、日本が提供する油は「タダ」である。当然これは日本が税金で買うものであるから、「国民の懐が痛まない」というのはまやかしだ。
しかし最大の問題は、この自衛隊の活動が本当にアフガンの人達のためになっているのか、ということではないだろうか。 自衛隊が給油した他国の艦船は、アフガンでのタリバン等武装勢力の掃討作戦に参加している。これをもって給油推進派・別名アメリカの子分達は「テロとの戦いに日本が参加するかどうかの重要な法案」「国際社会も日本に期待している」と言っていた。 しかし、自衛隊の油の使われる先は結局は「軍事作戦」であり、それはアフガンの社会と国土にダメージを与えている。そして、それは今も成功しているとは言えない。アフガンの治安は最悪の状態が続いている。 こういう状況の中、本当に苦しんでいる普通の人々を救うために、日本ができることは他にあるはずである。医療支援や技術支援といった民生部門での支援である。こちらの方が、直接現地に赴かなくてはならないリスクはあるが、所謂「顔の見える」実質的な支援になり、アフガンの人達にも喜ばれるのではないだろうか。
紛争地から遠く離れた洋上で、ひたすらアメリカの下働きのように軍艦に給油し続けることが、果たして本当に「国際貢献」であり、アフガンのためなのだろうか。 せっかく一度自衛隊が帰ってきたのだから、そういう論議がもっともっとなされてよかった。最終的に数の力で押し切って、これまでと同じことをし続けることを選択したこの国は「思考停止」に陥っているとしか言えない。 いや、何よりも、本当に大切なのはアフガンの人達ではなく、「国際貢献」「テロとの戦い」というお題目であり、それを仕切るアメリカの意に沿うことなのだとこの国は考えている。そのことを、国際社会に向かって宣言してしまったのが、今回の新法成立の顛末なのである。
いい面の皮なのは自衛隊、そして、本当の犠牲者は「テロとの戦い」の巻き添えになっているアフガンの人達なのである。
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