思考過多の記録
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2008年03月31日(月) 新しいことは何処に

 この頃、テレビをめっきり見なくなった。
 ニュース番組は見るけれど、そのほかに見るものといえば、超脱力系で有名な「タモリ倶楽部」くらい。
 あとの番組はおおむね、芸能人が集まってわいわい言っているだけのものが多く、ただうるさいだけである。



 ある時期までは、僕も今はやりの曲やギャグ、話題のものなどを追うためにテレビを見ようとしていた。しかし、今や誰もが知っていなければ恥ずかしい曲とかギャグとか話題が減っているように思う。
 新しいことが必ずしも魅力的なことではなくなっているのだ。少なくとも、僕の中では。



 これは、僕自身のアンテナが錆びたということなのだろうか。
 それとも、よく言われるように、「流行の蛸壺化」という現象だろうか。
 とにかく、今やテレビはかつてのような地位にはいないと見た方がいいだろう。勿論、その影響力はまだまだ大きいけれど、それだって徐々にネットに取って代わられつつある。



 しかし、新しいものに全くふれないというのも、編集者という職業柄も、脚本家としても、非常にまずいことだ。
 もっと僕をわくわくさせるような新しいことが出てきてくれればいいのだけれど、今のところはちょっとした義務感で探しているような段階である。



 とにかく、今のテレビは面白くない。勿論、新しくもない。
 もっとテレビというメディアの特性を生かした刺激的な試みを、現場の人達は考えてほしいものである。
 新しいのは、日々流れていくニュースだけ。
 だから僕は、ニュース番組だけは欠かさずに見るのである。


2008年03月27日(木) 不気味な「現実からの遊離」

 茨城で起きたあの事件を、僕たちはどうとらえればいいのだろうか。
 これまで報道されている範囲で僕が感じる犯人像は、「現実世界から遊離した人物」ということだろうか。
 「人を殺してみたかった。」
これが彼の起こした一連の事件の犯行の動機である。最初は妹がターゲットだった、たまたま居合わせた人を次々に手にかけたというのも戦慄の事実だ。
 おそらく妹の件は別にして、彼の中では「ディズニーリゾートに行ってみたい。」「車を運転してみたい。」「あのゲームをやってみたい。」という日常の普通の事象と同列に「殺人」があったのだろう。これが彼の思考の特異性だと思う。
 昨日起きた岡山での突き落とし事件の犯人の高校生は、貧困による進学の断念という隠れた動機があった。それに対して、茨城の事件の容疑者にはそれが見あたらない。定職に就かないことを家族に責められていたという不満を口にしてはいるようだが、それと無差別殺傷の間には、深い溝がある。



 彼の中で、何かのきっかけで殺人願望、すなわち、本当に純粋な願望が芽生え、妄想とともに膨らんでいったのだと推察できる。そして、「殺す」ということについての現実感を欠いたまま、実行に向けて現実的に動いていたのだ。
 僕が戦慄を覚えるのは、「命」や「他人」に対してのこの現実感の希薄さである。
 彼が対戦ゲームを好んでしていたというと、そこに原因を求めがちである。しかし、僕はそれはあながち間違っていないと思う。ゲームの画面での「死」と現実の「死」が彼の中ではイコールになっていた可能性が高い。
 そして、それこそがかれの「現実感」だったのである。



 また、自分で二つの携帯を持ち、その間でメールのやりとりをしていたというのも何か象徴的だ。
「私は神である。」
「私のすることがすべてだ。」
そうメールを自分の携帯に送っていたという彼。
 そこには「他者」の存在が決定的に欠落している。
 彼自身の世界、彼しか存在しない世界の中で、まさに彼は「神」だったのであり、その行為は無条件に肯定される。そこに「他者」はいない。
 そして、実際に傷付けられ、殺されたのは、全くの他人=「他者」であった。
 この不条理な事実。これこそが、彼の意識が現実世界から遊離していたことの証左ではないか。



 裁判になれば刑事責任が問えるかどうかが話題になり、ネットでは「気違いは死刑にしなくてもいいのか」といった類の言説が溢れるだろう。
 しかしそれ以前に、人間はここまで壊れてしまったのかと、僕は驚愕せざるを得ない。
 例えば宮崎勤や酒鬼薔薇のような「劇場型」の無差別殺人は、誤解を恐れずに言えばまだ理解できる。
 しかし、今回の事件はあまりに即物的だ。殺人という行為の異常さ、重大さにもかかわらず、完全に自己完結しているところが特徴である。
 当然、反省の弁もない。容疑者は顔さえ隠していなかった。
 この違い、これは日本の社会の変化の縮図を示してはいないか。
 僕たちの社会は、足下から不気味に変化しようとしているのではないか。
 そして、その変化は、もう止めようがないところまできているのかも知れないのである。


2008年03月20日(木) 不条理な世界

 物価が上がっている。ガソリンや生鮮食品、パン、牛乳と、値上げされたものは枚挙にいとまがない。全て、我々の日常の生活に関わってくるものだ。
 原因は、巷間言われるように、原油高や小麦等の原材料費高である。
 何故それが起きているのか。これも繰り返し分析が行われているように、アメリカの株式市場やドルに投資されていた「投機マネー」が、原油や穀物の先物市場に流れ込み、価格を押し上げた結果だ。
 要するに、金をたくさん持っている連中の「マネーゲーム」の結果が、実体経済を動かし、我々の日常を直撃しているのである。



 世界的な金余りだともいわれる。しかし、我々にはその実感はない。要するに、金持ちが金を使って金を増やし、それがまた金持ちに戻っていく。そこに我々持たざる者が巻き込まれているのである。まったく理不尽な話しだ。
 金が余っているのはごくごく一部の富裕層だが、その連中のために、多くの貧困層が割を食っているのである。
 僕はこれは、金融資本主義の末期的症状だと思っている。



 そもそも通貨というのは、「交換」の媒介項として存在していた。それが、「利息」という金が金を生む仕組みが出来たあたりから、金と実体経済が乖離し始めたと考えられる。何かを買うための手段であったお金が、それ自体商品に化けてしまう不思議さ。これを認めたところから、今日に至る長い道のりが始まったのだろう。
 金融資本主義は、マネーがマネーを生む壮大なゲームだ。サブプライムローン問題を考えてみても、他人の債権を組み込んだ金融商品というものが存在するということ自体、普通の常識では考えられない。これが認められるのは金融市場という閉じられた世界の中でのルールに過ぎない。しかし、やっかいなのは、それが実体経済と乖離しながらも、実体経済に悪い影響を及ぼすことだ。
 そして、ゲームの主導者達には損は波及せず、ゲームに参加していない人間にしわ寄せが来る。不条理としか言い様がない。しかも、この仕組みにより、貧富の差は固定化されていく。
 しかも市場は、オートパイロットで動く船か飛行機のような者だ。誰も操縦できないまま、自動運動は永遠に続いていくことになる。



 はっきり見えてきたことは、資本主義は人間を幸せにしないということではないか。
 かといって、社会主義や共産主義に未来があるとも思えない。
 では、第三の道を探ることになるのか。
 とにかく、このバカげた制度の息の根を早く止めて欲しいものである。それには膨大なパワーと明確なビジョンが必要だ。そんなものを作り出す手間をかけるくらいなら、今のオートパイロットで動くこの船に乗り続けたいと思っている人間が多くいる限り、この不毛なゲームは続いていくのだろう。
 そして、弱者はむしり取られるだけむしり取られ、強者はますます富んでいくだろう。



 これが、我々が望んでいた世界の姿だろうか?


hajime |MAILHomePage

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