思考過多の記録
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映画「サルバドールの朝」を見た。 この映画は、スペインのフランコ独裁政権下の1970年代初頭に起こった実際の事件を扱った物だ。
独裁政権下、純粋な少年・サルバドールは労働者階級の自由のための秘密結社に参加、銀行強盗を繰り返し、仲間とともに地下機関誌等を発行し、フランスの仲間からピストルを調達して武装していた。 それが、ひょんなことから警察にマークされ、組織も孤立し、袋小路に陥った中で起死回生のために行った銀行強盗の現場で、警察との銃撃戦に巻き込まれてしまう。このとき、警官一人が死亡したことから、この罪がたまたまその場にいたサルバドールに着せられてしまうのだ。 担当弁護士の必死の捜査で、サルバドールの無罪は証明されるが、裁判では弁護側の証人・証拠はことごとく却下される。そして、フランコ暗殺未遂の「報復」のための見せしめとして、サルバドールに死刑が宣告される。そして、弁護士の働きかけも虚しく、恩赦もなく、それは実行される。
この映画は、非常に重い。勿論、サルバドールは普通の若者として恋もするが、思想の違いのためにうまくいかなかったりもする。しかし、確かに銀行強盗という手段でしかなくても、彼等はスペインに「自由」を取り戻したいという純粋な情熱で突き動かされており、若さも手伝ってそれだけで時代を駆け抜けていった。 これがある種の青春映画ともされる所以である。 彼等は狂信的な革命家などではなく、みんなちょっと血の気が多く、正義感が強い普通の青年だったのだ。 だからこそ、最後に家族に会って、これまでの家族の写真を見ながらみんなで笑い合ったりするシーンがもの悲しさを誘うのだ。
なお、この映画はサルバドールの死刑のシーンをかなりリアルに再現している。もしこのシーンがなく、彼刑場に消えていく後ろ姿で終わったなら、映画の印象はだいぶ違ったものになっただろう。 この生々しいシーンこそが、この映画のリアリティを保証し、これが美しい「物語」などではなく、まぎれもない「現実」だったのだということを見る者に強く印象付ける。 僕は、映画全体を通して、何かが深く心に突き刺さったような気持ちになった。
そして、もう一つの特徴は、サルバドールの父親の存在である。若くして反政府運動で検挙され、服役もした父親は、出所後に人が変わったようになり、感情を表に表さなくなった。スクリーンの中の父親は、いつも無表情でテレビの娯楽番組を見ていた。 弁護士が息子の事件の減刑嘆願書を書くように進めても応じず、息子の面会にも一度も訪れず、処刑の日にも姿を現さなかった。 この父親の深い深い絶望は、おそらく人民戦線敗北後にスペイン全土を覆った絶望なのであろう。この父親を責めることは誰にもできない。
映画の最後に、「彼の家族は、今でも彼の再審を求めて活動中である。」という内容の字幕が出る。 遺族にとって、この事件はまだ終わっていないのだ。
独裁政権という、最もおぞましい物の犠牲になった一人の若者。 その悲劇は、今でも地球上のそこかしこで起こっているのであろう。 映画が終わって外に出ると、ちょうどサラリーマンの帰宅時間であった。平和な日本の、いつもの光景である。 しかし、この日本でも、前の小泉政権や安倍政権下で、少しずつ「戦前」に逆戻りするような法律が準備されたり、実際に可決されたりしているのだ。 表面的な平和な社会のその底流は、少しずつ変化しつつある。その意味でも、この映画は他人事ではない。 尊い命と、それを平気で踏みつぶす権力。そんな図式を、早く世界からなくしたい。そして、日本がそんな社会に逆戻りしないようにしていかなければsならない。そう強く感じさせられた映画だった。
僕が好きになった彼女は、数ヶ月前までは僕と同じものを目指していた。 そして今、彼女は僕とは違うものを目指している。 どちらも表現活動。でも、方法論が違う。
あるとき彼女は、理想の結婚の形として、自分と相手のそれぞれが、それぞれのことに打ち込んでいて干渉し合わないようなもの、と語っていた。 彼女は僕が好きなわけではないけれど、今まさに僕サイドから見れば、それと同じことが起こっているわけだ。
結婚するかどうかはさておき、もし彼女と付き合うなら、この孤独と不安に耐えなければならないのである。僕はそれを苦とは思わない。むしろ、僕もそういう形を望んでいるといってもいい。 でも、今は僕の中で彼女の存在が大きくなりつつある段階である。 この段階での孤独と不安は、正直言ってきつい。 これも試練かも知れない。
僕が僕のやりたいことに打ち込んでいるときに、彼女が彼女のやりたいことに打ち込んでいる姿を想像しよう。 そうすることで、僕は少しだけ、孤独と不安を忘れることができるかも知れない。
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