思考過多の記録
DiaryINDEX|past|will
2007年09月22日(土) |
目くらましのお祭り騒ぎ |
毎日のように自民党の総裁選挙のニュースが報道されている。福田か、麻生か。今日は街頭演説、今日は挨拶回り。世論調査ではどちらが優勢…。大量の情報が垂れ流されている。 街頭インタビューや世論調査も、「福田か、麻生か」という問いを発し続け、その結果がメディアで流れる。2人の肉声を聞かない日はない。 明日の総裁選を境に、今度は新総裁・新総理の動向に注目が集まり、また大量の情報が流されるのだろう。
このことは、一種の錯覚と思考の麻痺状態を国民に与える。 すなわち、政権政党は未来永劫自民党であり、自民党の総裁候補にしか、総理大臣の選択肢はない、というものだ。 しかし、ちょっと待って欲しい。数ヶ月前、国民の審判が下り、参議院では民主党が第一党、衆議院では自民党が第一党という所謂「ねじれ国会」になっている。新しい総理大臣は、国民の審判を受けていないので(ただ自民党の議員や地方組織に属する人達によって選ばれただけなので)、早晩衆議院の解散総選挙を行うのが筋である。 その選挙で、「郵政民営化バブル」で膨れ上がった自民党が今の議席を維持できる補償はない。それどころか、第一党の座を滑り落ちる可能性だってあるのだ。その場合、公明党は間違いなく自民党を見限る。となれば、総理大臣は明日の総裁選の勝者以外の人間にならざるを得ない。 僕が書いたこのことは、今や結構高い確率で起こりそうだ。 それを何とか忘れさせようとしているのが、昨今の自民党総裁選挙のパフォーマンスだと思えてならない。
2人とも「構造改革の陰の部分に光を当てる」などと口当たりのいいことを言っているが、その構造改革を進めていた小泉政権に2人とも所属していたのだ。 2人ともまるで他人事のように語っているが、それぞれに責任を負っているはずだ。そのことには全く触れていない。いやはや、政治家の記憶力というのは都合よくできているものである。 2人の話を聞いていても、具体的に今の危機的な(国の、である。自民党のそれではない)状況をどうしていくのか、年金制度、医療制度、国際貢献、教育問題、格差の問題等々、山ほどある課題をどう解決していくのか、具体的な方策を殆ど語っていない。 「こうしたい」とはいっているが、具体的にどうやってその目的を達成するのか、それは本当に可能なのか、そのあたりの詰めが甘いのである。 というか、もともとそんな妙案は考えつかず、ただただ総理大臣になりたいだけ、また大臣になりたい人達に担ぎ出されただけなのかも知れない。 そうであれば、これ程国民をバカにしたお祭り騒ぎはない。
明日になれば総理・総裁がどちらになるかは決まる。 しかし、我々は選挙によって他の選択肢も持ちうるのだ。そのことを忘れてはならないと思う。 顔を変えただけで何かが変わる程、我々の社会が追っている傷は浅くはないのだ。
安倍首相の突然の辞意表明の後、自民党内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。具体的な政策論争などが何もないまま、既に大勢は「福田」に決しつつあるというのが、いかにもあの党らしい。
それにしても、事の発端となった安倍首相のこのタイミングでの辞意表明は、健康上の理由もあったとはいえ、多くのメディアで語られているように、本当に国民不在で無責任な行動であると言わざるを得ない。 参議院選挙の大敗後に続投を宣言し、「人心一新」と称して内閣改造を行い、外遊に出かけて勝手にペルシャ湾での自衛隊の給油活動の継続を「国際公約」にして「職を賭す」と口走り、帰ってきて国会を召集して所信表明演説を行い、その代表質問を受ける日に辞任を表明する。タイミングが計れなすぎると思うのは僕だけではないだろう。 おまけに、辞任の理由の一つを、「民主党の小沢代表に党首会談を断られたから」とした。だだっ子じゃあるまいし、人のせいにしてもらっては困る。また、「私が辞めることで、局面を打開しようと考えた」とも言っていたが、それを言うなら参議院選挙惨敗の直後だろう。あのとき、「反省すべきは反省しながら」と意味の分からないことを言って居座った理由は何だったのか。 本当に分からないことだらけである。
「美しい国」から始まった安倍政権は、本当に何もかもが今の世の中の現状と噛み合っていなかった。小泉改革で日本の国自体がズタズタになり、格差の問題やワーキングプアの問題、医療制度改革の問題等、その弊害がどんどん表に出てきて国民が痛みに苦しんでいるときに、「美しい国作りを目指す」「戦後レジームからの脱却」「再チャレンジの機会を」「憲法改正のための法整備」と、まるで国民の置かれている現状とは無関係な、謂わば自分だけの世界に閉じこもっていったのだ。 彼の言葉は、全て空虚で、彼の妄想でしかなかった。今、何にどう取り組まなければならないのか、結局最後まではっきり示せず、「美しい国」「戦後レジームからの脱却」という妄想に囚われて、実態が見えていなかったのである。 彼は「国」という「共同幻想」のカタチを変えようとした。実際にそれは、教育基本法の改正や、防衛庁の省への格上げなどの政策となって現れた。しかし、その「国」を実際に構成している国民は、もっと切実な問題に直面し、日々様々な局面で苦しめられてきたのだ。
そのピンぼけぶりが分かるのが、例の「教育再生会議」である。教育の専門家を殆ど入れず、「教育基本法の改正」とか「教員免許更新制度」「教育バウチャー制度」等、現場レベルで見たら百害あって一利なしの方策をどんどん決めてしまった。そこには、現場の教員の意見はまるで反映されていない。まさに、「印象」「抽象」「妄想」のレベルで論議は進んでいった。 経済政策も然り、外交・安全保障政策も然りである。「妄想」で動いて現実を見ていない。だから問題にぶつかってうまく前に進まなくなる。置き去りにされ、迷惑を被るのはいつも国民だった。 国民は「消えた年金」をどうしてくれるのかと思っているときに、「憲法改正」を夢見ていて、あちこちから指摘や突き上げを受けて慌てて動き出すというのは、一国の首相としての資質が問われてもやむを得なかった。
要は、総理の器でもなく、能力もない人間を1年前に選んでしまったのだ。その意味で、自民党の責任は大きい。「責任政党」だと胸を張ることは、今後許されまい。勿論、それを支え続けた公明党も責任は免れない。 しかし同時に、発足当初に60%以上の支持率を与えてしまった国民も、反省すべき点があるのではないか。あれはただの「印象」「期待」による支持だった面が大きい。今となってはそれは全くの眼鏡違いだったことがはっきりした。 小泉改革の「負」の遺産が国民を直撃し始め、それに対して政府は何ら有効な手が打てず、閣僚の不祥事が重なり始めた頃から、漸く目が覚め始めたように支持率が下がっていった。しかし、我々国民は、もっと慎重に政治家を、就中一国のリーダーたる総理大臣の資質や政策を見極めるべきではないか。さもないと、どの党が政権を握ろうが、同じ過ちが繰り返されることになる。
はからずも、昨日テレビのインタビューに答えた武部党改革推進委員長は、「選挙で勝てる人を選ばなければならない」と、1年前の自民党の人々と同じ発言をしていた。事の本質をまるで理解していない。 もし今雪崩を打って福田支持を打ち出している自民党の人達が同じ意識だとすれば、まさに末期的症状であり、自民党に明日はないというべきだろう。
辞任表明の会見で、国民に対してひと言の謝罪の言葉もなかった安倍首相。最後まで彼は「国」という「妄想」だけを見ていたのかも知れない。
今日は、ここ2回ほど僕の演劇ユニットFBIの舞台写真を撮っていただいている名鹿さんという方の写真展「写真が夢を見たような写真」を見に、高円寺に行ってきた。 写真は店内に飾られているものと、ファイルされているものがあり、内容も、東京の街角を捉えたものと、初島の風景写真とがあった。初島の写真の中には、猫の写真も結構あって、これに結構癒された。 色合いの面白さや、陰影の濃い写真等があり、人物画とは違う彼の一面が見られた気がした。
僕が行くと言っておいたので、名鹿さんは店にいるはずだったが、ちょうどお友達を迎えに行ったところだった。お店の人が電話をつないでくださった。 やがてやってきた名鹿さんとお友達と僕の3人で、店の外に設置されたテーブルで話をした。彼はストリートパフォーマーや舞台写真等人物写真を中心にしているのかと思っていたが、意外にも原点は風景写真だそうである。 人物はどの瞬間を切り取るのかが難しいが、風景は何処を切り取るかが難しいと思う。どちらにも共通の部分もあるだろうが、素人と考えではそういうことになるのではないか。
話は自然と「メジャーになるには」という方に流れていった。 写真で食えている人は本当に少数である。名鹿さんのお友達は文章(小説)をコンスタントに同人誌に発表されている方だそうだが、今純文学で食うのも難しい。言わんや演劇をや、である。 結局の所我々3人の達した結論は、「メディア、特にテレビに露出しなければ売れない」という、当たり前といえば当たり前の結論だった。作家でも写真家でも役者でも、テレビに出ることによって全国的に存在が知れ渡る。「世間一般」に認知されるのだ。そうなって初めて、知り合いでないお客さんが劇場に詰めかけ、同人誌でない場所にお金をもらって文章が発表できるようになる。 「メジャーになる」とはそういうことである。 逆に言えば、テレビに出られない限り、「知り合い通しの発表会の見せ合い」から抜け出す方法が、今の日本ではないのだ。
ということになってくると、「売れるかどうか」の基準は「テレビに出られる(出せる)ものかどうか」=「大衆が求めているもの/視聴率がとれるものかどうか」ということになる。 「売れる」ことに重点を置こうとすれば、まずはテレビ的にありかどうかを検証しながら表現を行っていくのが早道となる。それも、「ちょっとだけ尖っている」「ちょっとだけ新しい」要素が含まれていなければならない。時代が「今」もしくは「もう少しだけ先」に求める空気を持っていなければならない。テレビが取り上げるのはそのようなものである。
しかし、ここに何かおかしな倒錯があるような気がするのは僕だけだろうか。 演劇を例にとれば、筧利夫や古田新太、佐々木蔵之介、勝村政信、トヨエツといった人達は、もともと舞台で人気があり、力もあったので、それをテレビが拾ったのである。それが今や、テレビで有名になった人が出ないと、劇場の席が埋まらない。 どうも順番が逆のように思えてしまう。 作家においても然りだ。賞を取り、メディアに露出してインタビューを受けたりコメンテーターになったりすることで、注目を集め、本が売れる。 そういう人達が、「芸術で飯を食っている」という状態なのだ。 言ってみれば、テレビに食わせてもらっているようなものである。 一般の人達にとっては、やはりテレビに出たというだけで、昔ほどではないにしろ、何らかの権威付けが行われ、「凄い人」のように見えてくるわけだ。
ネットがここまで普及した今でも、例えばケータイやネットから火がついて有名になる小説家などもいるにはいる。しかし、その認知度はテレビのそれと比べるとまだまだだ。 多くの人間が「発信」する手段を得ているにもかかわらず、いまだにテレビの特権的な地位は揺るぎない。 まさに、「テレビ帝国主義」である。 この国では、特に芸術を志す者は、みんなテレビに媚びを売るような表現を発信しなければならないのだろうか。 芸術だけではない。政治的な言説も、エンターテインメントも、流行も、感情の基準も善悪の判断も、全てテレビが基準になり、それが大衆に浸透していく。それを覆すことの出来るメディアは、残念ながらまだない。 この閉塞状況は、いつまで続くのだろうか。
12月に共同でイベント公演をやろうと言っていた相手から、 「白紙に戻していただけませんか」 と突然メールが来た。 この人は都内を中心にピアノ弾き語りで活動する女性のインディーズアーティストで、彼女の生演奏を中心にして芝居を展開するというのがイベントの趣旨で、場所もあるライブハウスを既に押さえてある。 2人で話し合いをしながら粗筋を考え、使用曲も決定した。彼女も結構楽しそうに見えた。それが、このメールである。 理由として、打ち合わせやメールの遣り取りを進めていくうちに幾つかの不安要素が出てきて、それを抱えたままではイベントは出来ないと判断した、という趣旨のことが書かれていた。
僕に言わせれば、順番が逆だと思う。 畑が違う人間通しの企画だし、初めての経験でもあるので、不安要素が出てくるのは当然のことだ。しかし、本番は3ヶ月半後に迫っている。まずはその不安要素というのを共同プロデューサーである僕に提起してもらって、2人で話し合った上で、それでも不安が解消しないとなったら、そこで初めて「白紙」という選択肢が出てくるものではないのか。 今の段階では、彼女が何を不安に思っているのか、僕にはさっぱり分からない。分からないまま、一方的に「白紙」という結論的なことを提起されても、こちらは困惑してしまう。
僕はこのイベントをずっと楽しみにしてきた。 それは、勿論作る側としての面白さもあるのだが、彼女の一ファンとしても純粋に楽しみにしていたのだ。 彼女の歌の魅力を如何に引き出すか。僕の中ではそれも隠れたテーマになっていたのだ。 箱書きも完成し、脚本はもやは書き始められようとしていた。僕の中から、物語が生まれる準備はほぼ整っていた。 それが、突然の三行半である。一体何があったというのだろうか。
彼女のmixiの日記に、「大変ショックなことがあった」という趣旨のことが書かれていた。お酒を飲んでも美味しくないし、眠れもしない、というくらいのショッキングなできごとで、そうとうめげてしまっているようだ。 おそらくはこのことが彼女の今回のメールと関係があると思われる。 にしても、である。 何故結論だけ彼女は急ぐのか。途中の相談は僕には出来ないとでも言うのだろうか。 何はともあれ、彼女と話してみなければならない。それさえも拒むようなら、本当に一から考え直さなければならなくなる。
今現在、彼女からの返信はない。
|