思考過多の記録
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2007年08月27日(月) |
月日は過ぎ、時は移ろい、季節は巡る |
薬が一つずつ減っていくのを見ながら、1週間が経っていくことを実感する。 そんな毎日を送り始めてどれくらい経っただろう。 季節は冬から春、春から夏へと移ろった。芝居の稽古中に、蝉が初めて鳴き始めるのを聴いたと思ったら、もう夜は虫の声である。暑さも間もなく一段落するそうだ。 温暖化が進む地球でも、季節は秋へと、確実に移り変わっていく。
自分が動かなくても、自分が何をしていようとも、無関係に季節は変わっていくと実感する。逆に、時間の流れが実感しにくい。そんな不思議な毎日である。 仕事をしていると、忙しさのあまり季節を忘れる。しかし、「○月○日までに何々をすること」という指令が矢のように飛んでくるので、月日が進んでいくのが嫌でも分かる。しかし、逆に進んでいる途中の実感は全くない。 家にいると、月日の移ろいが全くの自然現象のように感じる。何に追われるでもなく、でも確実に日にちが過ぎ、月が変わる。それが実感できるのは、薬の減り具合だけだ。
間もなく仕事に復帰することになりそうだが、一体何処に行くのか分からない。 僕は今日から、ハルシオンを飲むことになった。 それでも何でも、月日は過ぎ、時は移ろい、季節は巡る。 僕が生きていても、いなくても、同じように。
2007年08月15日(水) |
「大きな物語」に対抗するために |
終戦記念日が訪れる度に感じるのは、戦争体験者の割合が減っていくことに対する危機感である。これは止めようもないが、確実にある変化を日本社会にもたらすであろうと思われる。いや、既にその変化は始まっていると見ていいだろう。
戦争とは、「国のために戦って死ぬことは美しい」という「大きな物語」ではない。当時の個々の国民が、戦場で、そしてこの国のそれぞれの地域で体験した、惨めだったり、辛かったり、悲しかったり、苦しかったり、狂気だったり、やりきれなかったり、言葉を失ったり、そうした「個々の具体的な体験」の集積なのである。 だからこそ、体験者の言葉は重く、貴重なのである。「大きな物語」によって隠されている戦争の実態を、彼等の証言は白日の下にさらすからである。また、それだけの迫力がある。戦争をイメージで捉えている人間には決して太刀打ちできない、鬼気迫る何かがある。
しかしこの国は、半ば意図的に、そうした人達の貴重な証言による戦争の実態を、若い世代に遺産として伝えてこなかった。その結果、毎年毎年テレビでは、「8月15日って何の日だっけ?」という若者が登場することになる。 そしてそうした若者が、例えば石原慎太郎が作った特攻隊の映画を見たりすると、素直に感動して、「大きな物語」に賛同するようになるのだ。
状況は明らかに反戦平和を唱える者にとって年々不利になっていく。 「戦争は二度とごめんだ、嫌だ。」 という言葉は、体験者から発せられれば重みを持つが、戦争を直接肌で感じていない世代が口にすると、やはりイメージの世界、つまり「大きな物語」と同じ次元のものになってしまうのだ。 そうなったとき、多くの国民にとって心地よく、分かりやすく、受け入れやすいのは「大きな物語」の方なのである。 そして、国の舵取りをする人々は、そうした国民の空気を読み取り、国の方向性を徐々に、しかし大胆に転換するだろう。そのとき、「小さな物語」の集積なってしまった反戦平和という行き方は、極端に抵抗力を弱められているはずだ。
例えば、防衛庁が防衛省に昇格になった。大したことではないと国民の大多数が思っただろうが、実はこれが、国の方向性の転換の重要な第一歩の一つなのだ。 もしこの後、自衛隊が自衛軍になるようなことがあり、徴兵や軍隊経験の義務化等が行われるようなことがあれば、特攻隊やひめゆり部隊や空襲やそれぞれの戦場で亡くなった方々は、本当の「犬死に」となる。 もし本気で戦没者を哀悼しようというのであれば、「戦後レジームからの脱却」などとは口が裂けても言えないはずだ。何故なら、戦没者の死を無駄にしないために、日本は戦争をせずに平和な社会を築き、国際社会で名誉ある地位を得るという目標を打ち立て、それを曲がりなりにも実行してきたからである。
戦争に対する実感が失われていくこの国は、この後一体どこに行くのだろうか。僕達の次の世代が、何処かの国へ出征していく姿など、僕は見たくない。 そのためには、戦争を知らない僕達はどう行動すればいいのか。本気で、真摯に考え、実際に行動すべき時にきている。
少し前の話になるが、7月の公演が終わって1週間が経った頃、出演者の1人から手紙が来た。 僕自身は、本番終了の2,3日後から、出演者の全員にメールを送っていたのだが、それに対してはほぼ全員がメールで返事をしてきた。 その中で、彼女だけは、直筆の手紙をよこしたのだった。 思い起こせば、彼女はそのままDM葉書として出すことができる7月公演のフライヤーに、わざわざお客さんの1人1人にメッセージを着け、封書で出していた。その方が、機械的に思われず印象もよいだろうと、出演者一同、その気配りに感心したのだった。
中を見ると、便せん2枚に手書きで、今回の芝居に対する思いなどが書かれていた。役者としても、個人としても、悩み、苦しみ、もがきながらも、何とか上演できたことはとてもよかった、と書かれ、お礼の言葉と僕に対する激励の言葉が並んでいた。 その簡潔で飾らない言葉の中に、僕は彼女の演劇に対する、そして人に対する真摯な態度を読み取ることができた。 彼女は、こういう手紙を、僕だけではなく、出演者一同に書き送っているのだろう。それぞれの相手に合わせた言葉を選びながら。
彼女はときにお茶目でとんでもないポカをやったりするけれど、基本的にはとても真面目で気遣いのできる、しっかりして素敵な女性である。 それが、手紙という存在/行為と文面から伝わってくる。 いい役者なのに人間としてはどうなのか、と思わせる人もこの業界には多いが、そんな中、いい役者でありながら人間的にも真っ直ぐな彼女は、なかなか貴重な存在だ。 勿論、その真っ直ぐさが、演劇に対する態度にも表れてくる。 彼女とはこれで2度目なのだが、また次も一緒にやりたいと思っている。そう思わせる何かを、確実に彼女は持っている。 手紙を受け取って、僕はそのことを改めて実感したのである。
2007年08月07日(火) |
僕は誰のことも幸せにしていない |
街中を楽しそうに歩いていくカップルを見ていると、つくづく自分は独りだと実感させられる。 何が悲しいといって、別に彼女がいないとか、結婚していないとか、家庭を持っていないとか、子供がいないとか、そういう目に見えることではない。 それよりも、もっと根本的なことである。 僕が独りだということは、僕と一緒にいて幸せだと思ってくれる女性がいない、ということだ。これまでもいなかったし、今もいない。 そして、もしかしたら、これからもずっと。 つまり、僕は誰のことも幸せにしていないのである。 そのことが悲しい。 せっかくこの世に生まれて、誰のことも幸せにしてあげられない。 誰も、僕といて幸せだと思ってくれない。 これほど悲しいことがあるだろうか。
あの女性(ひと)は、僕といて幸せだと思ってくれるのだろうか。 僕は、あの女性(ひと)を幸せにしてあげられるだろうか。
「小沢さんを選ぶか、私を選ぶか!」と安倍首相が絶叫したその結果がはっきりと数字になって現れてから、もう何日もが過ぎた。しかし、選ばれなかったはずの安倍氏は、まだ首相の座に居座り続けている。
就任以来、彼の目指す「美しい国」とやらに向かって彼の行った政策は、どれも国民の方を向いていなかった。第一、小泉改革の副作用としての「格差」が浮き彫りになり、ワーキングプアやニートが社会問題化しているときに、「美しい国作り」「戦後レジームからの脱却」などといったスローガンがいかに空疎なものであるか、彼よりも国民の方が先に実感していた。ただし、当初国民は若さや清新さといった本来政策とは何の関係もない理由で安倍「お友達」内閣に高い支持率を与えた。これが首相を増長させたことは想像に難くない。 「格差」に目を配ったつもりの「再チャレンジ」という方策にしても、「格差」を是認した上でのものであるから、そもそも再チャレンジしようにもできない人間が多数いることへの認識と配慮が全くなかった。
その一方で安倍内閣は、企業減税や労働ビックバンへの布石等、大企業にばかり目を向けた施策を打ち出した。 企業の活動が活性化すれば、景気が回復し、その恩恵を国民全体が受けることが出来るというのが安倍氏の政策の根本にある考え方だが、今日発表された労働経済白書によれば、企業が得た収益が労働者にうまく再配分されていない実態が明らかとなっている(これが選挙前に発表されていたら、自民党の票はさらに減っていただろう)。すなわち、ここでも安倍氏の政策は机上の空論であることが証明される。成長の成果は企業や株主だけが受け取れるシステムを、安倍内閣は作り上げていたのだ。これは国民相手の「詐欺」といってもいいだろう。
安倍内閣が力を入れているという教育問題においても、その施策は全くのピンぼけ、というより害悪ですらある。「教育再生会議」なる教育の素人集団を組織し、全くの印象論から生み出された具体的な法案の内容は、それは酷いものばかりであった。何しろメンバーはワタミの会長やヤンキー先生といったいかがわしい面々ばかり(ヤンキー先生は、さっさと会議を抜けて代議士に転身するというおっちょこちょいぶりだ)。議論が非公開なのは、きっと公開したら読むに耐えない中身のなさだからであろう。 それが安倍氏の趣味にとどまっていればいいのだが、教育基本法の改正に始まり、教育バウチャー制度や教員免許更新制度等、他国で既に失敗していたり、教育の根幹を変質させるような法案に結実し、衆参の与党圧倒的多数下で中身のある論議もせずに次々と強行採決した。 教育だけではない。国民投票法案や、米軍再編に絡む自衛隊法の改正等、これからの国の形を、ということは我々国民の運命を決める法案が、雑ぱくな審議の下、いとも簡単に多数の力で強行採決されていった。 年金の問題にしても、既に40年前から浮いたり消えたりしていたというではないか。この間、一時を除いて政権にあったのは自民党である。安倍氏もその中枢にいた。そのことを忘れてしまったかのように、「社保庁の責任」→「公務員制度改革の必要性」とまるで第三者的な立場であるかのような言い方をする。自分を正しい立場の側に置くこの論理のすり替えも、教育制度改革など様々な局面で多用された。 この状況は、安倍氏が選挙での敗戦をうけ、自身の進退問題への質問に対して答えた言葉と一致する。
「私の内閣の基本的な政策や方針は、国民の皆様に支持されていると確信している。」
国民は、安倍内閣の施策・政策に「ノー」と言ったのだ。それを目の当たりにして、この発言である。国民の審判よりも、自分自身の「確信」とやらの方が重いし正しいと、彼は語ったに等しい。 だとすれば、選挙とはいったい何なのか。有権者とはどんな存在なのか。多くの国民の声よりも、自分の信条を貫くのが政治なのか。 安倍首相の今回の一連の言動や態度、そしてここまでとってきた政治的手法は、民主主義の否定以外のなにものでもない。そういう意味での「戦後レジームからの脱却」は、安倍氏はとっくに果たしていたのだ。
だが、これはひとり安倍氏だけの問題ではない。 先に指摘したように、国民は当初、安倍内閣に空前の支持を与えた。 もっと遡れば、小泉・竹中が推し進めてきた政策が、今現れてきている「格差」を生み出し、この国の根幹を破壊するものだったことに、もっと早く気付くべきだったのだ。ここまで問題化するほど酷くならなければ、また年金や増税といった形で自分達の身に直接降りかかってこなければ、政策の本質を見抜くことができない国民の側にこそ、この国の問題の本質が潜んでいるのである。 そんな国民だから、居座ってもそのうち今回の経緯を忘れてくれるだろうと、安倍氏は高をくくっているのかも知れない。小泉から直伝の「鈍感力」とやらは、すっかり安倍氏に染みついてしまったようだ。 マスコミの関心は、既に自民党内部と同じで「内閣改造」に移っている。しかし、国民の審判を無視した状態がこのまま続いていいのか、ジャーナリズムはもっともっと問題にすべきだ。それをしないのは、マスコミ自体が国民をなめているということにもなる。
そして、政治家からも官僚からもマスコミからも、なめられても仕方がない行動をとってきた国民がいる。 美しい。ここはまさに醜悪なまでに美しい国である。
国民が今回の選挙で感じた怒りや違和感を持続できるか、民主党が真に国民の側に立った政策を打ち出せるか。ここが、今回の選挙がこの国にとって大きな「岐路」となるのか、それともいつもの「真夏の珍事」で終わってしまうかの大きなポイントとなる。 もしこれでも安倍政権が長く続くようであれば、本当にこの国はお終いだろうと思う。
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