思考過多の記録
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2007年05月22日(火) |
15歳に見せたい/見せたくない映画 |
先日『ツォツィ』という映画を六本木ヒルズのシネコンで見てきた。先月封切られたが、今では東京の中心あたりでしかやっていないかも知れない。
内容は、南アフリカのスラム街に住むツォツィ(「不良」という意味である)と呼ばれる少年を中心に展開される、同じスラム街の仲間とひったくり等で金を稼ぎ、ボロ屋の2階に住んでいる。 ある時、彼等は満員電車で背広を着た紳士から財布を奪おうとするが、抵抗されたため、ツォツィは脅すために盛っていた筈の千枚通しで紳士を刺し殺す。その夜、酒場で「今日はやり過ぎだ」となじった「博士」と呼ばれる仲間を、彼は逆上してしたたか殴りつけ、顔が変形して片目が潰れるほどにしてしまう。 感情の高ぶりを押さえられないまま、ツォツィは酒場を飛び出し、野原を駆け抜けてその向こう側に広がる富裕層の住む住宅街を目指す。ある家の前の木の陰に身を潜めていると、ちょうどそこへ車に乗って女性が帰宅する。彼はピストルを突き付けて車を奪い、追いすがろうとする母親に縦断を浴びせてそのまま逃走する。しかし、免許を持たない彼は途中で道路標識に激突。仕方なく、車の中のものを盗んで立ち去ろうとすると、赤ん坊の泣き声が。そう、後部座席に赤ん坊が乗っていたのだ。ツォツィは赤ん坊を見捨てることが出来ず、紙袋に入れて家に持ち帰る。 幼い頃、暴力的な父親の元で育ち、母親は伝染病で十分な愛を与えられなかった。家を飛び出し、貧しい孤児達とともにドラム缶の中で育った粗暴なツォツィだが、拾ってきた赤ん坊の面倒をみているうちに、徐々に人間性が芽生えてくる。 ざっと紹介するとこんな感じになるだろう。
エピソードはいくつかある。母乳を飲ませるためにたまたま同じスラム街で見付けた乳児を抱いた母親の家を訪ね、銃で脅して乳を飲ませることを繰り返すうちに、その若い女性(未亡人である)と心の交流が生まれたり、自分が殴ってしまった仲間を引き取ってきて「必ず大学を受けろ」と励ましたり、「くず」と罵られ、唾を吐きかけられた車いすの男性を冷酷な怒りにまかせて追い詰めるも、彼が鉱山労働中の事故で足が不自由になったことを知って、何もせず、金も取らずに立ち去ったりと、ツォツィが変わっていく様を丁寧に追っている。 最後にツォツィは、自ら赤ん坊を返すために、件の家を訪れる。警察に囲まれる中、父親が歩み寄り、ツォツィの手から赤ん坊を受け取る。その時、彼はこの映画の中で初めて涙を流し、泣くのである。 彼が警部の呼びかけに応え、銃を捨てて両手を挙げる後ろ姿で、映画は終わる。
貧困と格差、命、生活等、実にいろいろなことを感じ取れる映画だと思う。ところがこの映画、R-15指定、すなわち、15歳以下は保護者同伴でも鑑賞できないというのだ。 その理由は、冒頭の殺人に代表される暴力的なシーンがあるためだという。そういえば、かつて『バトル・ロワイヤル』も同じ理由でそういう指定がかけられたと記憶している。あの映画と『ツォツィ』は根本的に違うが、「暴力的シーン」という同じ括りで規制がかけられたことになる。 僕が見て感じたのは、この映画は本当は13歳〜18歳くらいの、一番多感な青年期の人達に見て欲しいということだった。彼等は、僕達大人も一度は通り過ぎてきた筈の、心と体の衝動や欲動が押さえられない、自分が何者かも見えていない、そんな不安定で精神的にも敏感な存在である。そんな彼等が、最初は無慈悲・冷酷に見える主人公が変化していく様子を見て、いろいろなことを感じ、考えて、自分と向き合うことができる映画なのではないかと思う。 そう考えると、むしろ「13歳以上推奨」としたいところである。 たしか、この映画がR-15指定になる前に、それに反対する何処かの団体が15歳以下の若者を対象に上映会を開いたというニュースもあった。
しかし、一方で考えなくてはならない事実もある。 このところ多発する少年の凶悪な犯罪の背景に、残酷なシーンを売りにした映画のDVDや劇画、ゲーム等に影響が垣間見える。つい先日起きた会津若松での母親殺し・遺体切断事件でも、17歳の少年の部屋からはその類のDVDや本等が押収されているという。それを考えたとき、はたして今の15歳以下の人間に「分別」というものがあるのかどうか、疑わしくなってくるのも否めない。勿論、全員が全員そうというわけではないが、生まれたときからリアルな戦闘や殺戮シーン満載のゲームやビデオ・DVDがあった世代は、僕達とは感性がある程度は違うと考えるのが妥当だろう。
だからといって、あの映画の所謂「残酷シーン」をカットして見せるとなると、それも違うと思うのだ。前半のその種のシーンがあってこそ、後半の主人公の変化にリアリティがあり、胸に響くものがあるわけで、それがなければ、ただの「綺麗事」で終わってしまう。人によっては、道徳を押しつける作品かと思うだろう。 つまり、作品としては、暴力的・残虐なシーンはなくてはならいのだ。監督も、リアルではあっても結構抑制的に描いているなとは思う。これは、そういうシーンを売り物にする作品ではないからだ。 だが、問題は今の日本の15歳以下の少年達の中には、作品の「文脈」を無視して、暴力的・残虐なシーンといわれる部分にのみ注目し、興奮し、ある種の欲望を持ってしまう人間が、ある一定の割合で確実に存在するということだ。「千枚通しで人を殺してみたい」と短絡的に思ってしまう人種のことである。まさか映画館の入り口で、一人一人の人間性をチェックするわけにもいかないし、それは不可能だろう。 そう考えれば、「15歳」という年齢による機械的な規制もやむを得ないとも思われてくる。 けれども、そのことによって、本当はこの作品をきちんと自分なりに受け止め、理解し、何かを感じ取ってくれる筈の15歳以下の人間までシャットアウトすることになるのだ。そこがジレンマである。
映画が終わり、外に出た。平日の六本木ヒルズには、スーツを着たビジネスマン・ビジネスウーマン達が颯爽と歩き、若いカップルが肩を寄せ合って歩き、中高年のおばさんの集団が、地図を前に何やら大声で喋っている。前の通りを行き交う車の音が、ゴウゴウと川の流れのように聞こえてくる。 豊かで、平和な光景だ。 人工的な都市空間に眩しい光が降り注ぐ。おしゃれをした人達が行き交う。それは、さっきまでスクリーンに映し出されていた南アのスラムの光景とは全くの別世界だった。 ここは、同じ地球だろうか。そして、あのスラムで暮らす人達と僕達、六本木ヒルズを行き交う人達は同じ人間なのだろうか。 人工的な空間を歩いているうちに、この日常自体が人工的に作り上げられたもののように思えてくる。そして、この人工的な日常の足の下に、広大なスラム街が広がっているような感覚にとらわれてしまった。
僕は、今の日本の「まともな」15歳に、この映画の感想を聞いてみたいと思う。
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