思考過多の記録
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2007年01月31日(水) |
あまりに低レベルな… |
柳沢厚労大臣の「失言」には、驚きも怒りも、そして呆れすら通り越してしまった感じがある。何をコメントする気力も失せてしまう程だ。勿論、あの女性を子産みの「機械」「装置」に擬えた発言だ。一体いつの時代の人なのだろうと思ってしまう。今時こんなことを発言したら批判にさらされることは、小学生でも知っていると思っていた。まさか大の大人が、しかも少子化対策の先頭に立つべき厚労大臣がこんな認識でいるとは、正直考えていなかった。まさに、生きている化石のような人のようである。 柳沢大臣も、さすがに「機械と言っちゃ悪いけど」「ごめんなさいね」などと言いながら話したというし、「すぐにまずいと思い、訂正、撤回した」とも述べている。しかし、逆に考えれば、こういうことを意識的でも無意識でも言ってしまうということは、女性に対する彼の根本的な認識はそういうことなのだろう。あの大臣の妻は、きっと子供を産む機械・装置としての役割を期待されて柳沢家に嫁いだに違いない。そして大臣自身もまた、「機械」から生まれたことになる。
また驚くことは、これが島根県松江市の自民党市議の後援会員達を前にした発言だったそうだが、報道によれば、開場から異論は出ず、司会者も特に訂正したりしなかったそうだ。ということは、その会場にいた人達の殆どが柳沢大臣と同じ認識だということになる。地方都市の、しかも自民党の後援会ともなればむべなるかな、という感じではある。しかし、それにしても、21世紀に入っているのにそれなのか、と愕然とさせられる。 確かに、子供は「社会の子供」であるが、例えば労働力を供給するため、国力を伸ばすために子供を産み育てるのではないと僕は思う。つまり、国から「発注」されて子供を「生産」するために女性は存在しているわけではない筈なのだ。柳沢大臣と、彼の発言を聞いて何の疑問も違和感も持たなかった人間の女性に対する認識は、まさにそういうことなのだと思う。勿論、彼が男性だからこそ出てくる発想だ。彼は生まないし、育てないからである。女性は、決して自分のことを「機械」「装置」だと認識したりはしない。
いずれにしても、何という程度の低さだろう。柳沢氏は一応エリート官僚出身らしいが、エリート官僚とはこの程度なのだろうか。人間として恥ずかしいことは何かが全く分かっていない。こんな人間が大臣としての仕事をしているのかと思うと、本当にこの国は大丈夫かと思う。そして、こんな人間を大臣に任命し、ことここに至っても罷免する気すらない安倍総理の人間性もまた、大いに疑われるところだろう。 スキャンダルや失言が後を絶たないのを見るにつけ、政治家というのは、おしなべて人間性が壊れてしまった生き物なのだろうかと思ってしまう。だが、ここは民主主義の国である。政治家は選挙民の鏡だ(あえて「国民」とは言わない)。彼等を国会に送り出した選挙民の民度が表れている。 「機械」「装置」と言われ、どんな状況下でも一人でも多くを産み、育てる役割のみを期待されている女性達だが、たとえ怒りを覚えても、それを投票行動という形で表現することを知らないかのように見える。勿論、同じ構図が男性の側にもある。政治家達になめられるのも当然といえる。
という風に書き連ねることが、あまりに大仰でばかげたことに思われるのが今回の騒動だ。本当のところ、情けな過ぎて笑ってしまう。柳沢氏には一刻も早く「退場」してほしい。これ以上恥をさらしたくなければ、そうするしかないだろう。早くそのことに気付いて欲しい。それだけである。
今年に入って、死体を切断する事件が立て続けに起こった。犯人が逮捕された事件が2件、まだ全ての部分が見付かっていない事件が1件である。こうなると、人を殺したら死体を切断することがお決まりのセオリーであるかのような気さえしてくる。 ひとつひとつの事件について、感じることはいろいろある。しかし、まだ捜査段階なので事実が断片的に明らかになっている状況である。事件像や人物像はどんどん変わっていくだろう。 それでも、その人達が誰かの遺体を切り刻んだという事実は変わることはない。
犯人が分かった2件の事件で、遺体を切断した人間が述べた理由には共通しているものがある。妹を切断した兄は「死体をクローゼットに隠そうとしたが、入らなかった」。夫を切断した妻は「死体は案外重かった。「早く自分の目の前から取り去ってしまいたかった」。つまり、「物体」と化した人間は、扱いに困る“存在感”を示すということである。それをコンパクトにしてしまうことによって、「物体」ではなく「モノ」のレベルにしてしまいたかったということのようだ。 人の体をバラバラにするというと、怒りや憎しみに駆られたからだと思いがちだ。しかし、少なくともこの二つの事件は違うように思う。 どちらの事件にしても、殺すときには激情に駆られて後先も考えず、そこしか見えていないという状態で実行するものの、我に返ってみると、目の前に大きな「物体」が出現してしまったというわけである。おそらく二人とも、とても冷静に判断して、しかも冷静に行動して、死体を切り刻んだのであろう。明らかになってきたあの妻の、夫殺害後の行動からもそれが読み取れる。夫の腕を生ゴミと一緒に捨てるときも、夫の首をバックに入れて電車に乗っているときも、女はきっと動転してなどいなかったに違いない。 怒りや憎しみで人は殺せても、遺体を切り分けるところまではいかないのだろう。そこには、もっと別な感情、というか「感覚」があるように思う。
結局のところ、兄と妹、そして夫と妻は、お互い相手とうまく関係を結べなかった。だから、「殺意」を抱かせるような行動・言動をとってしまったり、実際に殺意を抱いて手を下してしまったりしたのだろう。そこに、相手の存在の希薄さ・非現実性がある。そして、気迫であり、非現実的であるのに、自分の領域を侵してくる「邪魔者」としてしか認識されなかったことが容易に想像される。 この奇妙なねじれの感覚が、殴った後30分も話し込んだのに、改めて首を絞めたり、離婚話が進んでいるのに「今しかない」と思って殺してしまったりという、理屈では考えられない行動原理になって表れているのではないか。 そのねじれは一貫して続く。兄は妹のバラバラ死体からわざわざ乳房と陰部を切り離し、あまつさえ妹の下着を持って予備校の合宿に参加した。妻は流れ出る血を吸い取るための培養土まで買って、殺害後2日間遺体をドレッサーに「保管」した上で、遺体を解体した。 これらの行為の何処にも現実感がないように僕には思える。しかし、二人は現実にそれを行ったのだ。
しかし、それでもなお、切り刻まれた人間は「生もの」としての存在感を表す。それは、死臭であり、「血のにおい」である。だからこそ隠さなければならなかったし、捨てなければならなかった。 「生身の人間」をばらして「モノ」にしてしまおうとしても、やはり「生もの」にしかならない。人間は物体ではないのである。「血が通っている」とはそういうことである。彼等には、それが分からなかった。いや、そうと実感できなかったのかも知れない。死体の処理に困るとは、彼等には想像できなかったのである。殺してしまえば、相手はたちどころに消えてしまうとしか彼等には思えなかった。それは、相手が生きているときですら、相手の存在を生の感覚で感じ取れていなかったということなのである。
これらの事件のことを考えるとき、僕の思考は定まらなくなる。一つ一つのエピソードは分かる気がしても、それをひとつにつなげるものが見つからない。起きてしまったことはなかったことにはできないし、いかようにも解釈できるように見えて、実はどんな解釈も許さないのだ。 それは、バラバラにされた人間の断片をつなぎ合わせても、決して元の人間を復元できないことに似ているように、僕には思える。
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