思考過多の記録
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2006年08月20日(日) |
コミュニケーション不全総理大臣 |
終戦記念日前後の、主に靖国神社への総理の参拝を巡るメディアでの喧しい論争は、まだ記憶に新しい。様々な人が様々な発言をしていたこの時期だが、当然注目されていたのは小泉首相本人だろう。 靖国問題それ自体についても、勿論言いたいことは山ほどある。東条英機の孫娘とやらが堂々とメディアに登場してきて、先の大戦を正当化するような自説をとうとうと述べているのを聞くにつけ、この国はああいう破廉恥な行動が許されるようになったんだなと思わざるを得ない。 しかし、それはまた別の機会にゆずろう。僕が指摘したいのは、いつもながらの小泉首相の空虚な発言についてである。
小泉首相の発言の具体的な中身についてはこの間の各メディアの報道に詳しい。また、参拝当日の発言に対する反論を掲載していた新聞もあった。具体的な中身についてはさておき、問題なのは、首相のいつもながらの「はぐらかし」話法である。 僕は、参拝直後の記者団とのぶら下がりインタビューを最初から最後まで聞いていたが、どれひとつとして「対話」になっていなかった。形式は一問一答なのであるが、首相の発言は記者の質問に対する答えになっていなかったのである。ではどうなっていたのかというと、首相は自分の主張をいくつか持っていて、それをランダムに記者の質問に当てはめていた。いや、そうとしか思えないやりとりだった。結果、記者の質問と全くかみ合わない印象を与えたのだ。質問の内容とは無関係に、順番を変えながら同じことを何度も繰り返し答える。まるで記者の質問は自分が答えるためのきっかけ(キュー)に過ぎないかのようで、まるっきり人の話を聞いていない。
その論法も、いつもの首相お得意のものだった。まず、情緒に訴える。「信念」を強調する。問題をすり替える。そして、自分の意見に異を唱える人達を、十把一絡げに「勢力」という言い方で括り、特殊な人達だというレッテルを貼って排除する。そして、これらを繰り返す。これは、昨年の郵政民営化のときと全く同じやり方だ。そういえば、あのときの記者会見も、記者の質問内容とは無関係に、首相は同じことを何度も繰り返し喋っていた。そして、それが一種の「催眠効果」となって国民に浸透し、選挙での大勝をもたらした。 果たせるかな、今回も事後の世論調査で小泉首相の靖国参拝に関しては半数以上が「評価する」と答えている。同じ調査で、次期首相の靖国参拝に関しては慎重な結果が出ているにもかかわらず、である。街頭でのインタビューを聞いていても、「賛成」という人の殆どは小泉首相の言葉を繰り返していた。
いうまでもないことだと思うが、この問題は首相のいう「心の問題」ではない。小泉純一郎個人がどんな信条を持ち、どんな行動をしようと自由だが、彼は今「個人」ではないのだ。そんなことは政治のイロハだと思うが、総理大臣ともあろう人間がそれも分かっていないなどとは思いたくもない。 (勿論、これ程多くの一般の人が分かっていないのも大きな問題だが。) また、「戦犯」の問題は、東京裁判の正当性や中国・韓国の考え方がどうだという問題を脇に置くとしても、我々日本人があの戦争をどう考え、どう総括するのかという重要な問題と関わっている。そのことに対してどう考えるのか。首相として靖国に、しかも8月15日に参拝するのであれば、そのことを内外にきちんと説明(表明)するのでなければならない。首相が繰り返し、国民の多くが肯定したような幼稚な論理(というか、論理ですらないが)ではすまされない、大きくて根深い問題が横たわっているのである。そのことに対して、首相は正面から答えなかった。たぶん、そんな言葉も思想も、彼は持っていなかったに違いない。
結局、小泉首相は最後までだだっ子のようだった。こういう人を「コミュニケーション不全」という。相手のことを理解しようとせず、自分の主張だけを繰り返す。人の意見に耳を貸さず、反論されるとキレる。 気が付けば、こういう人間が周りにも、世の中全体にも増えてきているように思える。他人に配慮しないことと自分を貫くことは別だが、それが同一視され、賞賛される。堀江や村上などもこの手の輩であり、だからこそ持ち上げられた。彼等のような人種を受け入れる空気が社会に醸成されている。それにネットが一役買っていることも否定できないだろう。 小泉首相は、だから高い支持率を維持してきた。このことは、僕達の社会全体が「コミュニケーション不全」に陥っていることの表れである。そして、首相はそれをさらに煽り立てた。彼の言動や行動スタイルが、国民に一種の「模範スタイル」を提示し続けたことは否定の使用はない。あれでいいのだと、あまたの老若男女がすり込まれたのである。その意味で、小泉純一郎の名前は戦後最悪の首相の一人として歴史に刻まれることになろう。
彼は間もなく首相を降りる。本人は清々するだろう。だが、彼の残した時代の「空気」は、彼が去った後も消え去ることはないだろう。そしてそれが、この後この国にたちこめてくる「暗雲」の元になっていたのだと、遠い将来に誰かが分析する日が来るのかも知れない。
中東のレバノンでは、イスラエルとヒズボラの戦闘が続いている。今日、1ヶ月に及ぶ戦闘を受けて、国連の安保理で採択した停戦決議が漸く発行した。しかし、一部地域ではまだ続いているようだ。 イスラエルが「テロとの戦い」というアメリカの論理を踏襲してしまっているため、もう一段ややこしくなっているが、大元は、あの地域をめぐる宗教・領土紛争である。ユダヤ教徒イスラム教が一つの根っこから分かれた宗教であること、そのために「聖地」を共有していることが根本の原因だ。神様は二つの民に一つの「約束の地」を与えたというわけである。これで人間の理性や英知を試そうというのなら、神様も相当に人が悪い。
どちらもが独占できない以上は、「共存」しか道はない。事実、歴史のある時期までは、彼の地でユダヤ教徒とイスラム教徒は共存していた。「シオニズム運動」で彼の地でのそれぞれの宗派の人口比率のバランスが狂ったことが、この図式が崩壊する引き金を引いた。その後、イスラエルを排除しようとするアラブ諸国の動きに対して、アメリカがイスラエルに過度に肩入れしたことが、話を拗れさせてしまった。 うんと単純にいうとそういうことだろう。 周囲をアラブ諸国に囲まれたイスラエルは、核兵器さえ所有して、軍事的に自国の安全を守ろうとしてきた。しかし、度重なるテロや、今回の戦争の成り行きを考えると、それは明らかに失敗している。
1ヶ月で1000人以上が犠牲になり(その大部分は民間人だ)、瓦礫と死体の山だけが彼の地に築かれていく。誰も勝者のいないこの戦争から、我々は何を学ぶべきなのか。 結局は、「兵器の力で国(国民)の安全や平和は守れない」という至極当たり前のことなのではないか。こんなことは何も今回が初めてではない。イラク戦争も、アフガン戦争も、その他ありとあらゆる戦争の全てが、このことを物語っている。そもそも、世界的最強の軍事超大国であるアメリカは、9.11を防ぎ得なかった。そして、タリバンを潰し、フセインを捕まえてもなお、アメリカへ向かう航空機を爆破しようという計画が立てられるのをとめられなかった。 どんな軍事力をもってしても、アメリカに対する「憎悪」が世界のあちこちで醸成されるのを抑えることはできなかったのである。
イスラエルは、ヒズボラを軍事的に弱体化させようと、徹底的に町を破壊した。しかし、これが逆にイスラエルへの憎悪と、ヒズボラへの支持を生み出している。結果として、軍事作戦自体も奏功していない。国際世論も敵に回してしまった。親分・アメリカがたどったのと同じ道である。 情けないのは、これだけの人間が犠牲になってもなお、何故多くの人達がそのことに気付かないのかということだ。もし本気でヒズボラを潰したいのなら、逆に徹底した平和外交を推し進めることで、軍事力で物事を解決しようとする武装勢力の愚かさを浮き彫りにすればいいのである。自分達まで同じように力を振りかざすのは愚の骨頂というものだ。 もっともらしく「国際政治」の力学を語っても、所詮は小学生レベルの喧嘩である。
イスラエルが笑いものになり、ヒズボラが後ろ指を指されるのは、別に自業自得なので構わない。そのために失われていく命と、破壊されていく生活・人生が夥しくあることが、何ともやりきれないのである。 これは、歴史上何度も繰り返されてきたことだ。その度に反省の弁が語られ、誓いが立てられるが、すぐに反省は忘却され、誓いは破られる。これもまた繰り返しである。 そして、アジアの片隅に住んでいる僕達日本人は、他人事のように暑い国の戦争を見ている。そして、竹島問題に熱くなり、尖閣諸島問題で隣国に対する嫌悪感を募らせる。これもまた、繰り返しである。
神様も、相当に人が悪い。
2006年08月07日(月) |
シアンの空の下、僕達は出会った |
1年ぶりの劇場公演『MIRAGE HOTEL』が終わってもう2週間が経とうとしている。今週精算会があり、久し振りに出演者と顔を合わせた。何だかあの舞台がもう随分昔のことのように思われた。 苦労話は、笑い話に変わっていた。
何かと苦労が多く、評価も酷評(主に演劇関係者)から好評(主に一般のお客様)までまちまち(両極端)という今回の舞台だが、いろいろな収穫もあった。そのひとつが、myria☆☆というインディーズバンドのヒマリさんと出会えたことである。 実際に僕が彼女を知ったのは、もう1年以上前になるだろうか。僕が以前に客演した劇団の代表と彼女が知り合いで、その人が薦めるのでライブに行ったというのが、僕とこのバンドとの出会いである。その前に、その劇団のBBSでヒマリさんとは何度か会話していたかも知れないが、今となっては定かではない。しかし、以前知り合いのバンドのライブに行って以来、あの大音量が苦手で十年以上は行っていないというライブハウスに足を運んだのは、たぶんmyria☆☆のサイトにアップされていた「Bee」という曲のプロモーションを見たからだと思う。個人的なつながりというよりも、彼等の「曲」が僕に興味を抱かせたのだった。
初めてのmyria☆☆のライブで、僕は芝居仲間と正面の最前列に陣取って、酒を飲みながら聴いていたと記憶している。その時は、出たばかりのファーストアルバムの曲を中心に演奏していた。ライブはいくつかのバンドがそれぞれの持ち時間の中で連続して曲を披露していくという構成だった。開始時間がよく分からなかったので、myria☆☆の他に2,3のバンドを聴くことになったのだが、すぐにmyria☆☆は他のバンドと質的に違っていることが分かった。 音楽の専門的なことは全く分からないのだが、彼等の音楽は、音量とビートとパワーで客を煽り、のせようとするライブハウス系のバンドにありがちな音楽のあり方とは明らかに違っていた。どちらかといえばスローテンポでゆったり聴かせるスタイルで、メロディラインは分かりやすいが少し屈折していて、どこかノスタルジックで癒される感じの曲が多かった。そして、歌詞。多くのバンドは一度耳から入ればすぐに意味がとれてしまう「話し言葉」的な歌詞を多用する。おそらく、パワーとテンションで押し切るバンドにとっては、歌詞の重要度は低いのだろう。しかしmyria☆☆は、歌詞=言葉のイメージの喚起力も重要な表現手段だと認識して使っているのだと思った。そして、時にシビアでディープになりそうな題材を引き留め、客に近づけようとしている努力も伝わってきた。そこには、ヒマリさんのヴォーカルの力も働いていた。 終演後、簡単に挨拶を交わしただけだった僕とヒマリさんが、まさか1年後にこうして相見えることになるとは、誰も想像していなかっただろう。
僕の芝居にmyria☆☆の曲を使ったらどうだろうと閃いたのは昨年末あたりだった。ダメもとですぐに連絡をとってみたところ、前向きな答えが返ってきた。また、新曲をやるので次のライブに来て欲しいというお誘いもあった。そして僕は、年末の新曲発表のライブに浅草に出かけ、ライブ終了後に初めてヒマリさん達と話したのだった。 このとき、海のものとも山のものともつかぬ演劇関係者の僕に、ヒマリさんは若干の警戒心を抱いているように見えた。しかし、同時にmyria☆☆の新しいお客さんの開拓になればという思いもあったと思う。話は進んで、新曲の歌詞をいただいて使用曲を決定すること、決定した曲を優先的にレコーディングしていただけることでまとまった。同時に、春の発売が決まっていたDVDに僕が推薦文を寄せることも決まった。 この日、浅草のファミレスから、僕とヒマリさんの関係は始まったのだ。
その後、「シアンの空」という曲の世界を軸に、それまで考えていた物語を構成することで、あの芝居が出来上がったというわけだ。ヒマリさんの出演は、 「myria☆☆の曲は、私が歌うことで一番生きる。」 という彼女のシンガーとしての信念から実現した。ただし、舞台初体験で台詞はしゃべれないという制約があり、僕はそこから「碧の女」という役を生み出した。結果として、台詞を一切喋らず、歌と動きだけという設定と、役者とは異質な彼女の存在感が、この役の神秘性を高めることになった。勿論、批判的な意見も内外から聞いたが、僕は結果的によかったと思っている。 慣れない現場で限られた時間しかなかったにもかかわらず、彼女はよく頑張ってくれた。それは、彼女がこの作品をとても気に入ってくれて、何とかその世界を表現しようという高いモチベーションを持ち続けていてくれたからなのだ。 そして、この作品は、myria☆☆とヒマリさんとの出会いなしにはあり得なかったのだといっていい。
公演後、ヒマリさんとじっくりお話しする機会があった。話をしていくうちに、脚本と楽曲を通じて出会った僕達は、異ジャンルながら非常に似通った立ち位置にいるということが分かった。 ヒマリさんはmyria☆☆のリーダーだが、myria☆☆はヒマリさんのバンド・プロジェクトという位置付けになっている。一方、Favorite Banana Indiansというのは僕の個人的な演劇ユニット、いわば公演ごとのプロジェクト・チームである。コンセプトメーカーであり、表現者であり、微妙なポジションで人を束ねなければいけないというところが、彼女と僕では同じだ。そこには、ジャンルを越えて共通する悩みや大変さ、また喜びがある。
もう一つの共通点は、二人が表現者として立っている位置と、目指している方向性だ。これは説明がなかなか難しいが、簡単に言えば、「エンターテインメントと独自のこだわりとのバランス」をはかりながら作品を作っているということだろうか。自分の趣味に走りすぎるのではなく、かといってそれを完全に捨てて「売らんかな」というあざとい路線を追及するのでもない。そのぎりぎりの境目を模索しながら表現する。その根本にある考え方は、「一人でも多くの人に、自分達の音楽・舞台を届けたい」という思いだ。とはいえ、それは「売れる」ことそれ自体が目的なのではない。あくまでも「自分達がやりたい表現」を発信し続けることが重要なのだ。この表現のあり方に関する思想は、僕とヒマリさんで完全に一致していた。
音楽と演劇という別の世界にいながら、いや、むしろ別の世界にいるからこそ、僕達は同じ問題意識や方向性を共有している。そして、だからこそ、僕と彼女は、表現の場においてお互いに支え合い、いい刺激を与え合うことができるのだと僕は確信している。 「シアンの空」に出会った僕の作った劇的世界に、ヒマリさんが強く、深い共感を寄せてくれた。二つの世界の幸福な出会いがそこにはあった。それは恰も、『MIRAGE HOTEL』の主人公達のような、奇跡にも似た出会いだといえるだろう。「シアンの空」が生み出されなければ、そして『MIRAGE HOTEL』の企画がなければ、僕達はまだ本当の意味では出会っていなかった筈なのだから。 話の終わりに、僕とヒマリさんはこう言い合った。 「山に登りましょう。エベレストでなくてもいい。登れる山に、登れるところまで、とにかく登りましょう。」
あれから1年が過ぎ、僕は再びあのライブハウスを訪れた。 ヒマリさんはステージにいて、『MIRAGE HOTEL』の登場人物から、すっかりmyria☆☆のヴォーカルの顔に戻っていた。彼女は、何曲目かに「シアンの空」を歌った。僕も口ずさんでいた。彼女が表現の現場にいること、それを目の当たりにしているだけで、僕は幸福だった。 終演後、僕とヒマリさんは次なる企画の話をしていた。それは、山登りの準備の話に似ていた。その時、ライブハウスの出口から透明な翼の天使が飛び立ち、東京の夜空に消えていくのを、僕は見たような気がした。
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