思考過多の記録
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2006年02月15日(水) |
「ホリエモン」が堀江貴文を踏み殺す |
ライブドアの堀江ら元幹部達が捕まって、もうだいぶ経ったような気がしていたが、実はまだ一月あまりしか過ぎていなかった。この短期間の間に、ライブドアを巡るあまりに多くのことが明らかになり、あまりに多くの動きがあり、その結果あまりに状況が変わってしまったものだから、何だか随分と長い時間が流れた気がするのかも知れない。 時代の寵児と持て囃された堀江は、今や肩書きが「社長」から「被告」にかわって塀の中だ。
事件の概要はこれでもかとばかりに報道されているから、繰り返し書く必要もないだろう。とにかく言えることは、堀江やライブドアを作り上げ、彼等をヒルズ族の成功者として君臨させていた株価の「時価総額」というものが、全く実態のないものであったということだ。堀江は「裸の王様」であり、蜃気楼の御殿の住人だったということが白日の下に晒されたのである。 堀江のように、資産や人脈を持たない若造が「勝ち組」としてのし上がっていくためには。粉飾をしても、法の隙間を突いたからくりを使ってでも、自分達を「強者」に見せかけなければならなかった。そして、堀江と同じように何も持たない「弱者」達が、「夢を買う」ためにバブルを膨らませるための空気を送り続けた。マスコミの功罪がいわれるが、堀江株を買った者達は踊らされたというより自分達で踊ったのが実態なのだ。彼等が、「ホリエモン」という虚像を作り出し、ライブドアの戦略に乗ってそれをどんどん巨大化させていった。マスコミは、その現象を後追いし、増幅したに過ぎなかったのだと思う。 今、ライブドア株の時価を目の当たりにして、自分の見ていたのが虚像だったと気付いてももう遅い。彼等が「夢」を買うはずだったその金で、堀江は自家用ジェットを買い、六本木ヒルズの部屋の高額な家賃を払い、タレントと一緒にラスベガスのカジノを豪遊していたのである。そして、堀江自身はそれを至極当然のことだと思っていたに違いない。
ライブドアと堀江は、誰の「夢」を実現しようとも思っていなかったのである。また、IT産業で何をどうしていき、人々の暮らしをどう変えていくのかというビジョンも持っていなかった。堀江がメディアでもっともらしく語っていたのは、全てライブドアという会社の「将来性」を見せることで、株価をつり上げるためだった。今となってはそう見られても仕方あるまい。彼の目標はただ一つ 「時価総額世界一」 の会社を作ることだった。 この現実感のなさ。それは、堀江(ライブドア)の関連商品とされる「人生ゲーム M&Aエディション」が象徴するものだ。そう、彼等にとっては全てが虚ろなゲームだった。このひと月というもの、語られ尽くしてもはや手垢が付いてしまったこの比喩を、ここでもやはり使わざるを得ない。 彼はゲームの世界の裸の王様だった。その世界では「金」を増やすことが全てだった。あまりにも有名になった言葉 「人の心も金で買える」 は、彼の世界では紛れもない真実だったのだろう。そして、「市場原理主義」の嵐が吹き荒れ、老いも若きも株取引に血道を上げるこの静かなる平成の狂乱社会においても、それはある程度真実だった。 ゲームであった筈の虚ろな世界が、現実を飲み込んだこの社会で、だから彼は王様たり得たのだ。王様は裸だったが、誰もそのことに気付いていなかったのである。
彼が捕まった直後、彼をあんなに応援していた竹中や武部といった自民党のお歴々は、こぞって彼から距離を置き始めた。マスコミもしかりである。その狼狽振りは思わず笑ってしまうほどであり、己の浅はかさを何とか取り繕おうとする姿は哀れである。そそして、ライブドア本体からも、多くの人々が逃げ出しているという。むべなるかな。 いったん持ち上げておいて、掌を返したように貶めるやり方に対して批判されるや、マスコミは今度は「ホリエモンの功罪」ということで、「若者に夢を与え、チャレンジ精神を抱かせた」「既存の秩序に風穴を開けた」といった点で「よい面もあった」という意見を紹介し始めている。しかし、僕はそんなことで堀江やライブドアに免罪符を与えてはならないと思う。繰り返しになるかも知れないが、彼がやったことは「稼ぐためには手段を選ばない」「巨大化するためにはなりふり構わない」ということであり、「何でもいいから、勝てば勝ち組」という思想を人々に植え付けたのだ。「よい面もあった」というのは、綺麗事であり、それまで堀江を絶賛していた者達の聞き苦しい言い訳に過ぎない。
告訴されてなお、堀江は自説を蕩々と述べ、その罪を認めるつもりはさらさらないらしい。一方、かつての腹心だったライブドアの元取締役達は、次々と事件への堀江の関与を認める供述をしているという。政治家達・マスコミの豹変振りは先に述べたとおりだ。 しかし、考えてみればこれは当たり前のことである。堀江は「人の心は金で買える」と言った。裏を返せば、金がなくなれば人の心は離れていく。「金の切れ目が縁の切れ目」というわけだ。金のない堀江はただ癖が強く、扱いにくく付き合いにくい、どちらかというと嫌われ者タイプの一人の男に過ぎない。誰がそんな奴のことを心から心配したり、親身になって付き合ったりするだろうか。
今、彼は紛れもなく「弱者」になった。そんな彼に、誰も手を差し延べないだろう。人(や世間)を値踏みにしてきた彼は、逆に周囲の値踏みによってストップ安を付けられた。 けれども、それは彼が望んだ社会だったのではないだろうか。強い者がより強くなれる社会、弱い者は弱いままでのたれ死んでゆく、それをよしとする社会。彼が理想とした社会の有り様と、人間の関係性はそういうものである。 望み通り、彼はこのまま朽ち果てていくだろう。たとえ彼が刑期を終えて娑婆に出て、こっそり隠しておいた資産で復帰を狙っても、「ホリエモン」としてのオーラを再び発することはもはやできまい。何故なら、彼は一度「消費」され尽くしてしまったのだから。それが高度消費社会と市場原理主義社会の宿命である。 「ホリエモン」が堀江貴文を踏み殺す。それは、彼自身が招いた事態である。因果応報とはこのことだ。彼のゲームの中で、この結末は果たして「想定内」のことだったのだろうか。
2006年02月11日(土) |
「子宮」が維持する天皇制〜「おめでたい」懐妊〜 |
皇室典範の改正問題について書いたら、今週、秋篠宮妃の紀子さんの懐妊が発表された。その影響で、今国会での改正を主導していた小泉首相が事実上その方針を転換したことで、この問題は一種の「休戦」状態となっている。いわば、問題が先送りされた形だ。あまりのタイミングの良さは、何か意図があるのではないかと思われるほどだ。 この問題を政治問題化するべきではないという声も聞かれたが、そう言っている人達自身が思いきり政治問題化しており、小泉首相の求心力の低下も言われている。
これでスポットライトが東宮家から秋篠宮家へ、すなわち雅子さんから紀子さんへ移った。雅子さんがプレッシャーから解放されていいという声もある。しかし、より本質的な問題は、そもそも「懐妊」でこれほど扱いが変わるということの方ではないだろうか。 確かに、子供を宿し、生むことができるのは女性だけである。その子供が、次の世代を形成するわけだし、「家」を継ぐ者として扱われる。だから、女は子供を産めてなんぼ、それも男だったらなおよい、というのが伝統的な女性の立場だったわけだ。今毛嫌いされている言葉を使えば、それこそが「ジェンダー」であり、女性は長いことこのジェンダーの呪縛に絡め取られていたのだ。「男は外・女は内」という考え方をはじめ、女性に不自由を強いてきた制度の大元は、この「産み、育てる性」という枠組みだったのである。こういうことは女性学の教科書では基本中の基本であり、当然みんな分かっているものと思っていた。 しかし、一連の皇室の騒動を見ていると、どうやらそうではないらしいと思えるのである。
女が「産み、育てる性」としてのみ価値があるのなら、裏を返せば産めない女に(女としての、そして人間としての)価値はないということだ。極端な言い方に聞こえるかも知れないが、今回の問題に対する、とりわけ改正反対論者の主張を聞いていると、根底にこの考え方が横たわっているのではないかと思われてならない。 それは、「男系を貫いてきたからこそ、価値がある」という考え方と根っこは同じだ。要は、女は男の家系の「血」を維持するためだけに、ひたすら跡を継ぐ者(それも、できるだけ男)を産み続けろということなのである。「女の腹は借り腹」というわけだ。女の側からすれば、これ程理不尽で不条理な話はないのではないか。 こうした扱いを受け続けた女達の中から、多くの人々が立ち上がり、精神面・制度面の両方においてその変革を目指して戦ってきた歴史が実際にあった。それが今日の社会で曲がりなりにも「男女同権」が建前として成立する土台になっていることは論を待たない。今や、男性と女性に価値の高低の違いはないというのが常識である、筈だ。 そして、いまだにそれを認めたくないという人達が(男女を問わずに)少なからずいるというのもまた、事実である。
彼等は、無意識のうちに雅子さんと紀子さんを天秤にかけた。ここまでは、「長男の嫁」である雅子さんの方が「上」であり、だからこそ「世継ぎ」を産む「腹」を期待されていたのである。しかし、懐妊が分かった今、その「腹」は紀子さんに期待され、彼等の中では価値が逆転し、紀子さんが「上」になった。彼等が慇懃無礼に述べる慶事の言葉の裏には、こうした打算が透けて見える。 もしも紀子さんが産むのが男であるなら、それは「男系」を継ぐ者となり、紀子さんの株はますます上がる。しかし、もしも女だったら、世継ぎを産めなかった彼女の価値は一気に下がる。改正反対論者達は、やはり慇懃無礼に寿ぎの言葉を述べるだろうが、内心の落胆は隠さないだろう。 そして、再び天秤は動き、雅子さんの「腹」の価値が上がるというわけだ。何故なら、雅子さんは直系の長男の嫁なのだから。
皇室の伝統の維持を叫ぶ者達にとって、畢竟女は「腹」である。もっとあからさまに言えば「子宮」である。その子宮に何が宿るか(または宿す力があるか)によって、彼等は女の価値を決める。このグロテスクな構造は、勿論皇室に限ったことではなく、いまでもとりわけ地方などでは根強く生き残っていることだろう。それがあからさまに見えているのが天皇家である。 皇太子妃などといかにも高貴な立場のように扱われていても、結局は一つの子宮として存在しているにすぎない。それ以上の役割を、皇室に入ってきた女性は期待されていないのである。これまでの雅子さんの扱われ方を見ていると、それがよく分かる。誰も彼女に皇室外交など望んでいなかった。そんな暇があったら、子作りのために夜ごとまぐわえ、というわけである。
もし、女性を子宮としてしか扱わない今の形でしか天皇家が存在できないのだとすれば、またそうしなければ天皇制が維持できないのだとすれば、そんな天皇制の犠牲者をこれ以上出さないためにも、もはや制度そのものを終わらせるべきだ。「国のありように関わる」などという声もあるが、天皇制がなくなっても国政に直接の影響はない。天皇家が文化に直接貢献したのは、もはや歴史の話である。つまり、天皇家も、天皇制もその役割は殆ど終わっていると言っていいのだ。そんなもののために、一人の人間(=女性)が犠牲になる価値などない。 随分前にも書いたと思うが、もしも天皇家の人々に人間らしく生きてもらおうと願うなら、「天皇制」という枠を一日も早く取り払ってあげることだ。断言してもいいが、雅子さんは外務省にいた方がずっと人間的で、彼女にとっていい人生を歩めた。国にも貢献できた。それを潰したのは「天皇制」なのである。天皇制を守ろうという立場の人々は、この現実をどう考えるのだろうか。紀子さんにしても事情は同じことである。
生まれてくる命に罪はない。天皇家の子だというだけで、男だったら歓待され、女だったら失望に迎えられる。それもまた悲劇ではないか。誰にとっても不幸なこの制度は、一体誰のためにあって、何のために守られ、継承されていかなければならないというのだろうか。
2006年02月05日(日) |
守ろうとしているものは? |
皇室典範の改正問題が俄に喧しくなってきた。改正に反対する人々の鼻息は荒い。彼等の主張はわかりやすく、一貫している。 曰く、「男系の家系を維持してきたのは世界的に見ても日本の天皇制をおいて他にはなく、この日本古来の伝統を何としても維持していかなければならない。」彼等にとって、天皇家が「男系」で貫かれてきたことこそが、天皇家の価値なのである。逆に言えば、ここに女の血が混じってしまうと「男系」が途絶え、天皇家の価値が失われてしまう。それを阻止したいということのようだ。 あろうことか皇族の一員である三笠宮?仁という人物までもが、皇室典範反対を公然と唱え始めた。天皇家の問題は「文化」の問題であり、政治的な論議には馴染まないという話もあるが、彼の行動は思い切り政治的である。勿論、現行憲法下の皇族のあり方とはかけ離れている。まさになりもふりも構っていられないという状態なのだ。
なぜそうまでして、彼等は「日本の伝統」とやらを守ろうとしているのか。 「女系」では天皇家の価値がないというのは、「女性」という性を低く見る考え方に他ならない。今どきこんな考え方が残っていたこと自体が驚きだが、それを必死に支持しようとする現代の化石のような人達がいるのも事実だ。 自分の性が否定されているにもかかわらず、「良識ある識者」の一人として反対派の論陣に加わっている‘勘違いおばさん’の櫻井よしこは、
「今更指摘するまでもなく、天皇を戴く皇室の姿こそは、まさに日本の歴史であり、日本人の歴史観、国家観を反映したものである。」
という意味不明で思いこみたっぷりの文章の後、こう主張を展開する。
「現代の価値観からみて、理屈で説明しにくいことは少なくない。(中略)だが、現代の価値基準で論評したり、批判するのは当たらない。大事なのは、幾百世代もの先人たちが、それを是としたことである。それは各々の時代に生きた日本人の価値判断であり、心の積み重ねだからだ。万世一系や男系天皇制を貫くための努力と工夫の全てが日本人の祖先の心が形になったものであり、それらは日本文明の中心軸を成してきた価値観なのだ。 先人の心を知れば、皇室が日本の歴史観を体現していることも、皇室を論ずるのに、歴史観や国家観を顧みないことの愚も、自ずと明らかである。」
識者面している割には、この文章には内容も論理もない。昔の人々が‘是’としたことに対して、現代の我々がその内容を検討し、再考や批判を加えてはいけないのだろうか。伝統とは、誰も手を加えたりできず、ただただ有り難く押し頂いて形を変えないように細心の注意を払いながら後世へと継承していくしかないものなのだろうか。 もし櫻井氏が本気でこう考えているのなら、それは「ジャーナリスト」という自らの職業の否定である。即刻辞めてもらいたい。 天皇制は文化的な存在=評論・批判の対象にしてはならないという考え方も、これと同じことである。天皇が純粋に文化的な存在などではなかったことは、それこそ歴史を紐解いてみればすぐに分かることだ。同様に、反対派が唱えるy「天皇家は万世一系」というのもフィクションであることもすぐに判明する。 こうなると、ありもしないことや根拠に乏しいことを伝統というのかと揶揄したくもなる。
反対派は、女系が続くと元々の天皇家の「血」が薄まり、ついにはなくなってしまうことを危惧しているようだ。それが日本人の民族性や国家像をも変えてしまうということらしい。 しかし、一般の国民からすれば、それが何ほどのことなのかと思う。すでに天皇制は形だけのものになっていると僕は思う。別に天皇家がなくなっても、日本がなくなりはしない。日本人の精神性の根本に天皇制があったのは、もはや遠い昔だ。いや、もっといえば、「日本」という名の国家がなくなったとしても僕達の生活はなくならないのだ。確かに文化的な側面は強いとしても、所詮国家などというものは単なる「入れ物」に過ぎないというのが僕の考えである。 「天皇」もまた然りだ。そこに閉じこめられている人々を、早く「入れ物」から出してあげる算段をする方が、よほど人間的というものである。
「血」「国家」「民族」という実態のないものにすがり、それを死守することに心血を注ぐことで、いったい何が得られるのだろうか。確かにそれらは人間を魅了するけれど、よく考えてみると僕達個人とは何の関係もない。 平沼赳夫衆議院議員は「命をかけても守らなければならない!」と力んでいたが、もし国会で皇室典範の改正案が成立したら本当に切腹でもする気なのだろうか。たぶんしないだろう。所詮はそんなものである。 かつてこの国が起こした戦争は、表面上はそうしたものを守るためという名目だった。しかし、本当の目的は別のところ(植民地での権益の獲得)にあったわけである。純粋にそれを信じて命を落とした者達は貧乏くじを引かされた。 僕達が歴史に学ぶとすれば、フィクションに踊らされるな、ということだった筈である。そうしたことを顧みずに無闇に「伝統」を振りかざすことの愚は、自ずと明らかではないかと思うのだが。
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