思考過多の記録
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前にこの日記で書いたmyria☆☆というインディーズのバンドが、この春にPVを集めたDVDを出すことになった。その帯に書かれるキャッチコピーと、中の冊子に載せる短文を、ひょんなきっかけから僕が書くことになった。 いかにインディーズとはいえ、完成すれば店頭に並ぶようなものの文章を頼まれたのは、勿論初めての経験である。BBSでしか僕の文を知らないリーダーのヒマリさんにとっては、ある種の冒険だったに違いない。それでも僕に頼んでくれた期待を裏切るわけにはいかず、いろいろ考えた挙げ句に、何とか文章を捻り出した。 事前に「例文」をいただいて、「例文のことば、表現など、良い部分があったらそのまま使ってくださってかまいません」といわれていたのだが、こちらも物書きの端くれ(文字通り「端くれ」だが)である。少々堅苦しいかなと思ったが自分流の言葉でまとめて、ヒマリさんに送った。
返事はすぐに来た。特に冊子用の文章を彼女はとても喜んでくれたようだ。「感激です」とまで書いてくれたメールの最後を、彼女は次の言葉で締めくくった。
「コメントありがとうございました!! これはほんとうに私の宝物です」
これを読んで、僕も感激した。僕も随分色々な形で、いろいろな人に対して言葉を書いてきた。しかし、自分の書いた言葉を「宝物」とまで言ってくれた人が、これまでいただろうか。今回の文は、myria☆☆の音楽の世界をリスペクトする内容だったが、本当に気に入ってもらえるか正直不安だった。勿論、目的はあくまでもmyria☆☆のよさを多くの人に分かってもらうことであるが、当事者が僕の言葉をどう受け止めるかということも大事である。 「宝物」とまで言ってもらえるとは思っていなかったので不意を突かれた感じもあるが、とにかく、自分の言葉が誰かの中でそれだけのインパクトを持っち、大事にされていくであろうと言うことは、素直に嬉しい。またそれ以上に、僕の言葉が、これから先その人の力になっていくであろうことが、僕にとっても喜びだし、励みにもなるのだ。
僕自身、高校時代に部活の後輩からもらって、「宝物」にしている言葉がある。今の僕がその言葉に相応しい人間なのかどうかは甚だ怪しいのだが、それでも、その言葉をもらった自分がいた事実は、僕にとっても誇りである。この先、生きていく中でも、僕はその言葉を忘れずに持ち続け、力にしていけるだろう。 そして、今回の僕の言葉が、彼女や他のメンバー達にとってそういうものになってほしい。少なくとも、そうなりうる言葉を生み出せたのは、僕と彼等の間に何かの「縁」があるということだと思う。
彼等と彼等の音楽に出会えたこと。 それこそが、僕にとっての「宝物」なのだと、あらためて思う。
2006年01月08日(日) |
「どこへ行くか」ではなく、「どこまで行くか」 |
昨夜、演劇関係の知り合いの新年会に出席した。前の芝居で知り合った人達や、今関わっている人、そして初対面の人と、様々な人達と話をした。短時間しかいられなかったので話せなかった人もいたのだが、楽しい時間だった。
僕宛の年賀状を見ていると、自分の時間が他の人達と異質な流れであるのがよく分かる。 今から10〜15年程前、僕の周囲は結婚ラッシュだった。年賀状には、幸せそうな結婚式の写真が多く見られた。それから数年後、今度は出産の知らせが届くようになり、赤ちゃんを抱いた両親や、赤ちゃん本人の顔写真が年賀状を席巻した。そして、年賀状の中の子供達は年を追うごとに成長していった。七五三や幼稚園の入園の様子が伝わってきた。何かの発表会等のイベントで活躍するかわいらしい姿も多く見られた。さらに数年後、今度は小学校の入学式で、おめかししてランドセルを背負った子供達が、緊張した顔でファインダーを見つめていた。一緒に移っているその子の親は、たいていが笑顔だった。 そしてここ数年、僕宛の年賀状から、子供の写真が消えつつある。イベントごとに報告されていた子供の様子の記述自体がなくなっている文面も珍しくない。僕の知り合いの多くの家庭では、子育ては次の段階に入りつつあるようだ。
僕の年賀状は、相変わらず芝居の報告をし続けている。自分の家族に関する記述は皆無だ。それはそうだろう。僕は僕の家族を持っていない。 「おばさんになる前に、結婚式に呼んでね」 僕の女友達がウエディングドレス姿でこう言い残して花嫁の控え室に消えて行ってから、今年で12年になる。彼女と僕は同じ歳だ。僕がおじさんなのだから、彼女は残念ながらおばさんになっているだろう。今年、彼女から来た年賀状には、彼女の2人の娘が笑顔で写っていた。
池袋の地下にある小さなバーを借り切って行われた新年会に集まったのは、殆どが演劇関係者だった。その殆どは、多くの人達に認められ、「プロ」と呼ばれる日を夢見て、所謂「普通の」生き方から降りている人達だ。 そこには、熱気と焦燥感と幻滅と情熱がない交ぜになった、地上の街の日常とは全く別の時間が流れていた。そして、僕はある部分において、確実に彼等と同じ時間の流れを共有しているのだと分かった。
もはや行けるところまで行くしかない。たとえこの道が正しい方向ではなかったとしても、ここまでくると引っ込みがつかない。もはや正しいことと間違っていることの区別などどうでもよい。
「どこへ行くか」ではなく、「どこまで行くか」。
僕にはもう他に選択肢はないのだと、あの空気の中で思ったのだった。
「今年こそは、世の中が平和で、みんなが幸せに暮らせる、いい1年でありますように。」 年が変わるとき、世界中の殆ど全ての人達が、様々な神に対してそう祈る。 そして、毎年そういう1年であったためしがない。 世界中で、また僕達の身の回りで、たくさんの凄惨な事件が起こり、弾丸が飛び交い、多くの人々の血や涙が流れ、悲しみと怨嗟が世界を覆う。 勿論、それと同じくらい笑顔もあった筈なのだが、年の終わりにそういうことは不思議と忘れ去られている。 そして、年が明けるとともに、悲しい記憶もまた、忘れ去られていく。
毎年毎年、直線的に進行する時間の中で夥しい出来事が起きるが、僕達はそれを「断片」として記憶する。そして、それは徐々にすり切れていき、書き記された文字は読めなくなっていく。 年の終わりに僕達が振り返るのは、まるで大きな固まりのようになった出来事の集積である。ディテールも生々しさも失われてしまったそれを見て、僕達は言う。 「あまりよく覚えてないけど、あまりよくない1年だったな。」 そうして長い歳月の中で、たくさんの固まりが集積され、その一つ一つはもはや元の形が判然としないまでに押しつぶされてしまう。 そうして、僕達の一生は過ぎていく。
今年1年が、これまでの1年と違う1年になることは間違いない。 ただ、この1年が過ぎたときに、僕達はいったいいくつの事柄を覚えていられるだろうか。 そして、思い出せない出来事を積み重ねながら、僕は、僕達はどこまで行くのだろうか。
1年の始まりに、世界中の多くの人々が高揚感をいだき、カウントダウンをしてその瞬間を待つ。そして花火や爆竹でその到来を祝福する。 1年が終わる頃には、殆どの人達がその高揚感を忘れている。そして、自分達が年の初めに祈ったことも、その内容も忘れている。そして、また1年前と同じことを祈る。1年前と同じ高揚感の中で。 そんな1年が、また始まる。
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