思考過多の記録
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ついに、不惑の歳を迎えた。正確には、そうなってから既に3日が経過している。誕生日は何かしら特別な感じがするものだが、今年はことさら一つの分水嶺を越えるような気がして、あまり来てほしくはないと思っていた。しかし、無意識のうちにやり過ごそうとしても、またたとえやり過ごしても、分水嶺を越えてしまったという事実が消えるわけではない。そんなこんなで、何とも中途半端な感じでその日をやり過ごした。
なってしまえばどうということもない。あっという間だったと言えばそういう気がするし、長かったと言えばそうであったような気もする。 20歳になったとき、大人の仲間入りをした感慨がそれなりにあった。30になったときは、三十路に足を踏み入れた感慨がそれなりにあった。そして、今感じていることは、ついに「中高年」の域に足を踏み入れたのだな、ということである。「大人」になった実感が乏しいままに、ただ歳を取ったという感覚だけがあるという、些か妙なことになっている。
最近職場で、アルバイトの女性と話をしていて、「若いな」と思っていたら、その人は27だった。20代後半の人間に対して若さを感じた自分に愕然とした。しかし、これなら昨年20代前半や20歳そこそこの人と接して、「若い」というよりも「違った生物」のように感じてしまったのも、さもありなんということか。 勿論、同じ年齢でも人間は様々だし、本質的にはその人個人の資質によるのだけれど、それでも相手にある種の「若さ」を感じることが多くなってきたということは、自分がそうではない領域に入り込んでいることの立派な証明ではある。
20代の頃、僕は早く30になりたかった。30代は、ある程度の若さを残したまま、ある程度の成熟を手にすることができる理想的な世代なのだと僕には思えた。 しかし、僕にとっての30代は、残念ながら僕が思い描いていた程豊穣な年月ではなかった。勿論、それは誰のせいでもないわけだけれど、とにかく思った程多くのものを手にできないまま、そして思った程に人間的な成長ができないまま、僕の30代は終わってしまった。
僕は不惑の歳になった。今までよりは分別があるように振る舞わなければならいだろうし、とても知らなかったとは口に出せないことも増えていくだろう。また、今までよりは懐の深いところを見せなければならないだろうし、自分よりも若い世代に対する批判精神と懐の深さの両方を兼ね備えなければなるまい。そして、今までよりはあらゆる場面で社会(集団)の中心に一歩近付いたポジションを求められたり、図らずもそこに立たされたり、またはそんなポジションを巡って他人と争ったり、争う素振りを見せたりしなければなるまい。 不惑どころか、惑ってばかりである。しかし、若い頃とは違って、それを如何にも確信を持ってやっているというポーズまで作らなければならない。 不惑とは、まったくもってやっかいな代物である。
年齢なんて関係なく、自分は自分なんだと居直ってみても、それではすまされない部分が増えてくるのが、このあたりの年齢からであろう。 それでも、僕は考え続ける。人生の折り返し地点をとうに過ぎたここに至っても、分かった風な口だけはきくまいと思っている。きっと死ぬまで、世の中も自分自身も分からないことだらけだろう。「40にして惑わず」と言った人間が生きていた時代に比べて、今は変化が激しく、誰も先のことなど読めはしない。釈迦だって、今の時代に生まれていたら悟りを開けるかどうか怪しいものだ。
戸惑いながら、迷いながら、僕はこの分水嶺をゆっくりと越えていく。
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