思考過多の記録
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2005年02月12日(土) 歪んだ鏡の前に立って

 最近の小・中・高校生の「犯罪シーン」での活躍ぶり(?)には目を見張るものがある。佐世保の同級生殺害事件のようなショッキングなものもあるが、あの事件が特異なキャラクターによる特異な犯行であったというよりも、もっと大きな地殻変動のようなものの発露の一つであったのだと思わざるを得ない。
 最近の例だけでも、小言を言われた親を殺してしまった高校生、ドンキホーテの放火事件を模してスーパーで放火事件を起こした小学生や、偽札を使った高校生や中学生、普段から金をせびっていた対象の父親を集団で暴行して殺害した中高生、仲の悪い友人の鞄をひったくるようにメル友の男性に指示した女子高生等、枚挙に暇がない。



 こういう事件が起きる背景として、よく戦後教育や憲法、教育基本法等が槍玉に挙げられ、少年法の改正の必要性が声高に語られる。しかし、法律を変えれば青少年が「健全」に育つと考えるのは、余程の楽観主義者、悪く言えば脳天気な人々である。ことはそれ程単純ではない。青少年の行動をコントロールしているのは法律の条文などではないことは明らかだ。
 「道徳」や「公共心」の欠如がこうした青少年犯罪を招くというのがこうした人々の論旨の中心である。それでボランティアに行けとか、イラクの自衛隊の元で活動しろなどという話になるのだ。一見正しいように思えるこの主張だが、僕は全くの的外れだと考えている。それは、児童・生徒による自殺や傷害、殺人が起こるたびに、「命の大切さ」を教えるように通知する各都道府県や市町村の教育委員会の対応にも似た外れ具合だ。



 今起きていることは、「善悪の彼岸」という次元すら超越している。早い話が、「何でもあり」の世界なのである。僕が学生の頃、偽金を作って実際に使うなどということは、「善悪」もさることながら、非常に高いハードルを越えなければなし得ないことのように思われた。つまり、「善」と「悪」との間には、凡人には越えがたい心理的な隔たり=壁があったのである。
 しかし、今やその壁はほぼ完全に取り払われたように思われる。偽造通貨を行使するのも、ドラッグを売買したり使用したりするのも、おじさんに下着を売るのも、さらには人を殺すことも、全ては日常生活と地続きになった。これは、「不良」という存在がほぼ消滅したことと軌を一にしている。かつては、高校生は校舎の裏やトイレなどでこっそりと喫煙していたものだが、今や通学や帰宅途中の駅や路上などで制服のまま堂々としているのだ。援助交際が話題になった頃にも言われたが、「善」と「悪」を隔てていたもの、すなわち、「善」と「悪」を判定していた「価値観」が根本から崩れ去ったことがその原因である。



 はっきりさせておかねばならないのは、その価値観を壊したのは今の若者ではない。若者の道徳心の欠如を嘆く大人達こそが、その張本人である。大人達が作り上げてきた社会の構造が、今の若者達の心象風景を作りだし、あの精神構造を生み出したのだ。言ってみれば、フランケンシュタインのようなものである。生まれてきたものがおぞましいとすれば、それは生み出した者の醜さの反映である。
 僕達は今、歪んだ鏡を見ているのだ。そこに写っている顔は目を背けたくなる程醜悪だが、それは紛れもなく僕達自身の顔である。
 そう、僕達が生きているのは、「何でもあり」の世界なのだ。生き馬の目を抜いて生きているのは、「親」である大人達の方だ。如何に法律の文言を変えようと、刑罰を厳しくしようと、生み出されてしまった怪物を止めることは、もはやできないのである。



 何故鏡は歪んでしまったのか。そのことを問い続けることによってしか、この世界を変えることはできないだろう。古きよき価値観に立ち戻るのではなく、全く新しい自画像を描くこと。その困難さに耐えることができなければ、僕達の行く先にはさらなる地獄が待っているのだと思われてならない。


hajime |MAILHomePage

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