思考過多の記録
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2005年01月25日(火) |
「公正・中立」な放送局 |
NHKが2001年に製作した従軍慰安婦問題を取り上げた特集番組が、安部晋三、中川昭一という自民党の2人の政治家によって圧力を受け、内容を改変させられたという問題が、先週あたりまで喧しく報道されていたのは記憶に新しい。後半はNHKと朝日新聞の泥仕合の様相を呈していたが、先週末に朝日新聞側がNHKに対して「法的措置」も匂わせた質問状を送ったあたりから、ぱったりとNHK側からの報道がなくなった。それまでNHKは、異常とも言える執拗さでニュース番組を通して朝日に対しての反論を行ってきただけに、この静けさはかえって異様に感じられた。
両者による抗議の応酬が続くうちに、問題の焦点が朝日の取材の仕方等に移ってきた、というよりもすり替えられてしまった。勿論、犯人は安部・中川とNHKである。しかし、いろいろな場所で指摘されているとおり、この問題の本質は、メディア(NHK)と政治家との距離であり、「公正・中立」な報道とは何かということである。 取材された側(NHKの元編集総局長)が前言を翻している以上、事実関係の検証は今後の調査に待たなければならないだろうが、NHK側が安部・中川やその他の国会議員に対して、番組に対する事前・事後の「説明」を行っていたことは、関係者全員が認めていることだ。そして、そういうことは日常的に行われているらしいことや、NHKがそのことを当然と考えていることが明らかになった。
問題はこの点である。事前であろうと事後であろうと、何故NHKは自局の番組の内容をわざわざ自民党の国会議員に対して個別に説明しなければならないのか。現編集総局長の記者会見での開き直り気味の発言を僕なりに解釈すれば、NHKの予算が国会の承認を必要とするというそのことが、時の政権政党への「阿り」を生んでいるということである。 確かに問題となった番組は、内容が結構論議を呼びそうなものであったが、それを内部で検討するだけならまだしも、国会議員にお伺いを立てること自体が、メディアとしての自殺行為であると言わざるを得ない。そして、そういう感覚が当時も現在も幹部に(もしかするとNHK職員全体に)ないらしいとは、開いた口がふさがらない。 一体僕達は、何を見せられてきたのか。自民党の政治家にとって都合のいいものだけだったということになる。ご丁寧に、受信料まで払って。それならば、「皆様のNHK」などと嘘をつかずに、受信料を廃止し、全額自民党に出資してもらって「自民党広報」に徹した方がずっと分かりやすい。今の状態のままで「公共放送」を名乗るのは烏滸がましいというものだ。
そして、圧力をかけた側の安部・中川ら国会議員達の責任も免れまい。彼等は一様に否定しているが、「公正・中立に放送するように」という言葉の持つ意味は、彼等の口から出た瞬間に「内容を変えろ」という「圧力」に変わる。政権政党の議員であり、予算の承認を行う立場であるNHKに対してどんな意味と影響力を持つのか、彼等が知らなかった筈はない。もし万が一、本当に無自覚なまま言っていたのなら、そんな基本的なことに思い至らない彼等には、次期首相候補どころか国会議員としての資格そのものがない。 彼等の言う「公正・中立」とは、要は「自分たちの意見に反するものを切り捨てたもの」という意味である。つまり、自分たちの考え方以外は認めないと言っているに等しいのだ。それを自分たちの権力をかさに暗にメディアに押しつけようとする行為、これはまるで彼等の憎んでやまない北朝鮮の金正日政権のしていることと同じである。いや、あからさまにやっていない分、安部・中川の方がたちが悪いとも言える。 NHKは彼等自民党議員の私物ではない。本当の意味での「公正・中立」とは、彼等の意見と逆の意見の存在と発表を認めるということだ。それとも、彼等は自分たちこそが「公正・中立」な立場だとでも思っているのだろうか。そして、そんな自分達の言うことをNHKがきくのが当然だと考えているのだろうか。そう思われても仕方がない政治家達の昨今の言動である。その奢り・高ぶりには怒りを通り過ぎて呆れ果てるしかない。
今日の夜7時のニュースで、NHKは久々にこの問題を取り上げた。その内容は、相変わらず安部・中川の朝日批判のコメントと、参議院本会議での小泉首相の答弁の垂れ流しだった。そして今まで同様、それに対する分析も、朝日側のコメントの紹介もなかった。NHKが政治家達と完全に一体となって組織防衛に走っていることの表れとしか見えなかった。それを我々は、もはや報道とは言わない。 NHKはこんなことをして恥ずかしくはないのだろうか。それとも、これまでずっと視聴者ではなく政府・自民党の方を向いて存在してきたので、そんな感覚すらないのだろうか。 NHKがどう言い訳しようと、安部・中川がどう開き直ろうと、番組の内容は変わり、僕達の目から隠されたものがあるのは事実である。そして、そんな「公共」の放送局から流される「公正・中立」なニュースを、僕達は日々見ている。 僕達は、もはやそんな時代を生きているのだ。そのことを改めて自覚させてくれたことだけが、NHKの唯一の存在意義といっても言い過ぎではないだろう。
先月亡くなった祖母の49日の法要が、降りしきる雨の中行われた。今朝まで祖母の遺骨は家にあって、毎日のように線香を上げていたのだが、これまで兄や祖父のために手を合わせていた墓の中に納められた。これをもって祖母はこの世との縁が切れ、完全に向こう側の人になった。 寂しい限りだが、考えてみると、実際に一つ屋根の下で暮らしていたこの十何年間の日常の中で、僕はそれ程祖母の存在を強くは感じていなかったと思う。僕の帰宅が遅く、また家を出るのが早いため、祖母とは一週間まるまる顔を合わせないということもあったのだ。それでも僕は、特段の寂しさを感じなかった。祖母の存在が完全に消え、記憶の中にだけ存在するようになってから、僕は寂しさを感じるようになったのだ。
形あるものを愛することは難しいのかも知れない。「ロミオとジュリエット」や「世界の中心で愛を叫ぶ」といった純愛ものは、相手と完全に結ばれることなく終わる。そして、それが人々を感動させる。物語の恋人達にとって、そして物語を見ている観客にとって、「愛」は幻想であり、妄想である。だからこそその「愛」は完成し、無謬であり、無敵なのである。 しかし、もしもロミオとジュリエット、朔太郎とアキが交際を始めたら、途端に2人の関係は「現実」になる。「現実」の人間関係においては、「無敵」で「無謬」な愛などあり得ないことは、物語を見ている人達はいやという程分かっている。だからこそ、ロミオとジュリエットは心中し、アキは病死する。そうしなければ、無敵の「愛」は完成しないのである。
形のないものは誰をも裏切らない。それは宗教に似ているかも知れない。「国」や「民族」や「郷土」といった形のないものへの「愛」を煽り立てたり、それに乗ってしまったりする人間が多いのは、それが原因である。 「国」も「民族」も「郷土」も、それを愛する人を裏切らない。何故なら、愛する人はその人にとって無敵で無謬の対象を妄想によって作り上げ、それを愛しているからである。つまり、その人にとって「国」や「民族」や「郷土」は、その人の幻想の中にしか存在しないのである。自分が作り上げた幻想が自分を裏切らないのは当然のことだ。 「国」や「民族」や「郷土」を「神」や「恋人」と置き換えてもいいだろう。相手に裏切られない「愛」、これ程幸せなものはない。だから人は、現実に疲れると幻想にすがる。
祖母はもう、僕の幻想の中にしか存在しない。そこには軋轢もないし、誤解もすれ違いもない。疎ましさも感じない。だから僕は、祖母の不在を悲しむ。その意味では、おかしな言い方に聞こえるだろうが、これは幸福な悲しみと言っていいのかも知れない。 例えば、北朝鮮の拉致被害者が帰ってくる。その不在を悲しみ、再会の日を切望していた家族は心から喜ぶ。しかし、やがては、異なる人間同士による「日常生活」というやっかいなものが彼等を支配する。一緒にいるだけで幸福だった生活も、摩擦を含む普通の「人間関係」に変わっていくのだ。何故なら、お互いにとって、相手はもはや「幻想」の中ではなく、現実に存在しているからである。
「会えない時間が 愛育てるのさ」という昔の歌謡曲の文句がある。まさに目の前にいる、現実の相手を愛すること。それがいかに困難であるのかを表している。 何とかそういう「愛」が可能にならないかとは思う。しかし、それには、自分にも相手にもある種の「強さ」が必要とされるだろう。現実の「愛」を引き受けるには、それなりのキャパシティがいるのである。
僕は祖母をどれ程受け入れていたのか。どれ程祖母の愛に応えていたのか。考えると、非常に心許ない。そのことを祖母に確認しようにも、既に祖母は墓の中。この世との縁が切れた存在である。
2005年01月08日(土) |
「空元気」にサヨナラ |
報道によれば、昨年末の「紅白歌合戦」の視聴率は過去最低だったそうである。「紅白」もその舞台だったとされるNHKの一連の不祥事で、視聴者が離れてしまったことが原因の一つとされているが、それ以上に「紅白」という番組の形式自体が時代にそぐわなくなってきていることが大きいのかなとも思う。
見るとはなしに見ていたのだが、今年は去年の「世界に一つだけの花」やその前年の「地上の星」のような、世代を超えて浸透した曲がなかったという印象を持った。僕などは知らない歌手が増えたし、かといって「日本の心」とやらの演歌にも共鳴しない。非常に宙ぶらりんの世代といえるが、では、結構「若者シフト」の紅白のメニューで肝心の若者が喜んでいるのかと言えば、そんなこともなさそうである。勿論、同じ世代の間でも嗜好は細分化しており、一つの世代の中ですら圧倒的な支持を持っているアーティストというのがいないというのが現状ではないだろうか。ふるい曲を歌う歌手が結構いたのも、このことの現れであろう。 要は、違った世代が集って一つの番組で盛り上がろうというやり方自体が成り立たなくなっているのだ。これは随分前から言われていることなのだが、2004年はこの傾向がより強く表れていたということなのかも知れない。
また、様々な色を持った多くの歌手を短時間でさばかなければならないため、曲ごとの見せ方がバラバラで印象が散漫になる。加えて、一つの曲が終わるとすぐ次の曲のコールがされたり、アナウンサーが喋り出したりするので、曲の余韻が台無しになる。本当に音楽を「消費している」という感覚なのだ。 音楽を楽しむためにも、「紅白」という形式はそぐわないし、ショーとして見ても無理があるのである。
そして、今年最も感じたのは、やたらと「元気を出そう!」というメッセージが溢れたことだ。「マツケンサンバ」に代表される、ただテンションだけが高い馬鹿騒ぎの曲が目立ったのである。あの曲などはまさにバブル時代の残滓という感じで、そんな時期を懐かしんでどうするんだ日本人!とテレビの画面に向かって叫びたくなった。 アテネオリンピックのメダリスト達をやたらと呼んでいたのもその流れである。しかし、世界や日本の現実の様々な情勢を考えた時に、それらのことがどうにも「空騒ぎ」としか見えないのだ。「紅白」自体もバッシングの対象になっているNHKが、士気の低下を恐れて一生懸命空元気を出そうとしているのではないかと穿った見方もしたくなる。
あらゆる意味で、今年は「紅白」と時代の空気のずれを感じた。1年の最後に、今年巷間で流行った歌をチェックするという意味ではなかなか便利な番組だったのだが、出場を辞退する大物アーティストも結構いて、今やその機能すら果たせていない。 かつては「国民的番組」などとも言われたのだが、今や一部の「紅白オタク」の番組に変質しつつあるというのが実態ではなかろうか。 もはや「空元気」ではどうにもならない状況が僕達の世界を覆い尽くしている。それに対して本当に音楽が力を発揮するためには、もっと別のあり方、表現の仕方がある筈である。 今の世界の状況に対して、「紅白」が無効であるのは勿論だが、「空元気」を振りまくことが主流の今の日本の音楽状況も、決して有効とは言えない。そのことに気付かなければ、日本の音楽シーンはますます閉塞状況に追い込まれていくのではないだろうか。
喪中のため、比較的静かな年末年始を送っている。 そんな中でも、新年の挨拶を寄せてくれる人達がいる。そして、行き違いから年賀状をくれた人もいる。そしてその中には、結婚を知らせるものが何件かあったりする。
昨年は純愛が何年ぶりかのブームになった。巷に流れる歌も、多くは恋の切なさを歌い、愛の喜びを歌い上げる。愛する人といること、いや、愛する人がいること、それだけで喜びであり、幸せであることに間違いはない。何より、生きていることに対する喜びを感じることができる。 残念ながら、昨年もそんな人と出会うことはなかった。
今年、僕はまた一つ齢を重ねる。そのことは、出会いの可能性をこれまで以上に限られたものにすることは疑いがない。そのことに対しては、僕はもう諦めの境地に入りつつある。やはりそうなるのだという納得の気持ちも出てきた。 けれども、愛する人といることが何故幸せなのかを考え、それは自分が生きていることの意味や意義を与えてくれるものだからだと思い至ったとき、僕は少し寂しさを感じる。僕にはそれを感じるすべは与えられていないのだから。
僕は数ヶ月後に一つ齢を重ねる。僕がここまで生き延びてきた理由はただ一つ、命を捨てることへの恐れである。いや、正確には、命を捨てる直前の苦しみや痛みなどに対する恐れである。逆に言えば、それ以外の理由で、自分の生を積極的に捉えたことは終ぞない。 僕が生きていることを、僕は積極的に肯定できない。何故なら、それを「愛」という形で積極的に肯定してくれる人は、今まで存在しなかったからである。そして、これから先も、もしかしたら一人も存在しないのかもしれない。
よく大災害や戦争があると、生き残った人々は、自分が生きているということのかけがえのなさに気づき、命の重みを感じたりするのだが、誰にも選ばれていない僕はそんなことを感じることもできない。 愛する人がいないということは、僕の命がなくなっても困る人もいなければ、心底悲しむ人もいないということだ。それならば、一体この命は何のためにあるのだろうか。誰のためにもならない命は、一体何のためにあるのだろうか。誰からも愛されない命は、一体何のためにあるのだろうか。
今年も僕は、死ぬのが怖くて生き延びた。一体いつまで生き延びるのか。意味のない人生は、一体いつまで続くのか。 今年、幸せになっていく人達を見送りながら、僕は自分の愛なき空虚な未来を思う。
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