思考過多の記録
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掲示板に書き込んでくれたある芝居仲間によれば、僕は「何処にいても違和感がないし、何処にいても違和感がある」そんな男なのだそうだ。口では否定する素振りを見せながらも、言われてみればそんなものかも知れないと内心思う。だから僕は徒党を組まないし、徒党を率いない。一匹狼というと格好がよすぎるので、「動物占い」の自分のキャラに引っかけて言えば、‘一匹羊’ということになろうか。それなのに、何故「芝居」という、どう頑張っても一人では成り立たないメディアに魅せられたのか、今もって謎ではある。
一見すると、何処にいても僕はそこに馴染む。空気を読んで、その中で出しゃばらないようにするのが得意なのである。転校生を2回経験したことが大きいだろう。転校生は何もしなくても浮いた存在だ。その存在感をいかにして消すか。それが僕の至上命題だったのだ。僕は、カメレオンのようにその場にとけ込む術を覚えた。 それをある程度成功させながらも、一方で僕はいつでもその場に対しての違和感を抱いていた。それは強烈なものではなく、まるで‘空気’のような違和感だった。戦ってその場の空気を変えるというよりも、誰にも気付かれずにその場から去りたい、そんな違和感だった。
それは、何処に行っても僕につきまとった。「生まれてきてすみません」とまでは言わないけれど、何故生まれてきたのかを自ら問いたくなるような感覚である。といって、自ら命を断ち切ってしまわなければならない程の積極的な意義をも、僕は自分の生には見出せない。 その感覚をとことんまで突き詰め、のっぺりとした日常の中にその違和感を立ち上がらせようとしていたなら、僕は表現者(芸術家)として大成していたかも知れない。逆に、その感覚をとことんまで押さえ込み、葬り去って、みんなの中にとけ込んでしまうことができたなら、今頃は人並みに幸せな結婚をして、仕事も充実した、そこそこ平和な暮らしができていたかも知れない。 どちらもそれなりによかったのだが、今の僕がそのどちらも手に入れられていないのは、どうもこの違和感に対する僕のいい加減な姿勢が原因のようである。
それでも僕は、この言葉を僕にくれた芝居仲間に感謝している。だって、僕の違和感は誰の目にもとまらずに、僕自身がまわりに完全に埋没した存在なのかと思っていたのだから。いるんだかいないんだか分からないような存在のまま、歳だけとっていくのではあまりにも寂しい。これから僕は、この奇妙な違和感を何とか形に表すべく、活動していこうと思う。違和感の使い道としては、あながち間違ってはいなかろう。 問題は、延々と続くのっぺりとした、けれど「生きる」ことに忙殺される日常の中で、この違和感が徐々に摩耗してきつつあるということだろうか。いや、本来はそのことが平穏な生への第一歩になるのだから、それでいい筈なのだ。しかし、僕にはそれが何故か受け入れ難いことに思われる。 そう、生きていること、それこそが僕の違和感の全ての源である。
入院していた祖母が膵臓癌のため亡くなったのは、もう3週間程前になる。 仕事中の職場に母からの電話があり、病院から「もう駄目だ」と連絡があったと言われた。間に合わないとは思ったが、取りあえず定時まで仕事をして、地下鉄を乗り継いで40分程の病院に向かった。
僕がこの道筋を辿るのは2回目だった。 あの日僕は休日出勤をして、その足でお見舞いに向かおうと思っていた。しかし、手ぶらで行くのも気が引けて、会社の最寄り駅の花屋で、バスケットに入った花を買っていったのである。この数週間前に末期患者の個室ばかりが並ぶ病棟に移された祖母の病室に入ると、背を向けて横たわった祖母は、僅か数週間の間で一段と細くなり、別人かと思う程に頬がこけてしまっていた。 殆ど眠っているかのような祖母の耳元で、叔母と一緒に祖母を呼ぶと、祖母は顔をこちらに向けてうっすらと目を開けた。 「花を買ってきたよ」 と言うと、祖母は絞り出すように、けれどはっきりと、表情にならない表情で、 「うれしい」 と言った。そしてそのまま、再び混濁する意識の海へ帰っていった。
あのときのあの一言が、おそらく僕に対して発せられた意味のある最後の言葉になるのではないかと、あの直後からなぜか僕にはそんな予感があった。 そして、その予感は現実になった。 僕が病室に到着したときには、祖母はもう病室から運び出された後だった。骨粗鬆症だった祖母に対しては、延命のための心臓マッサージはできないと医者から言われていた。ちょうど医者が病理解剖を含めた今後の手続きについて、父親や叔父・叔母達に説明をしようというところであった。 地下の一室に安置された祖母の遺体を顔にかけられた白い布を取り、その顔を見たとき、無理矢理はめられたと思われる入れ歯のせいなのか、それとも頬がこけて輪郭が変わったせいなのか、僕にはそれがどうしても祖母本人だとは思えなかった。
祖母の棺は家の祖母が使っていた部屋に戻ってきた。 その週末に行われた通夜は冷たい雨の中、そして翌日の告別式は一転して春のような暖かい風が吹いていた。 「お別れでございます」 と葬儀屋が言って、みんなで棺桶の中に花を入れる段になって、泣き出す人達もいたのだが、僕は寂しさを感じながらも、やはりどうしてもそれが祖母本人とは思えなかった。祭壇に飾られた遺影の方が、余程本人らしく思われた。
火葬場で最後に祖母の顔を見たときにも、涙は出てこなかった。祖母が入院していたこの1ヶ月あまりの中で、心の奥深くで、僕はこのことを既に受け入れていたのかも知れない。 火葬場の職員が深々と頭を下げ、祖母の棺桶が釜の中に送り込まれる。ゆっくりと鉄の扉が閉まり、炉が低く不気味な音を立て始めたとき、僕は祖母が彼岸へ旅立ったのを感じた。
祖母の骨は、骨壺の半分程の量しか残らなかった。子供を6人産み、育て、大きな病気もいくつかした祖母の骨は、既に細っていたのかも知れない。 骨を拾うときも、骨壺が家に戻ってきたときも、涙は出なかった。けれど、寂しさは残った。かつて、僕が保育園に入る前に、仕事にでている母親に代わって面倒を見てくれていた遠い日の記憶が、どこかに残っているせいかもしれない。 それでもぼくは涙を流さなかった。既に祖母はあちらの世界に行ってしまった。僕はそれを理解していた。
先週末、告別式から2週間が過ぎた日、僕は初めて祖母の夢を見た。それはまだ比較的元気だった頃の祖母の姿で、突然襲った雷雨の中、家の者に交じって洗濯物を取り込もうとしている場面だった。 生きているときの祖母は、本当にそんな感じだった。年をとっても、なるべく周囲に迷惑を変えまいとして、何でもできるだけ自分でやろうとしていた。 目が覚めたとき、そんな祖母はもうここにはいないのだという事実が、初めて実感を伴って僕の胸に押し寄せてきた。
そのとき、祖母が亡くなって以来初めて、僕の目から涙が溢れ出てきた。
2004年12月04日(土) |
自分が知らない‘自分’の世界 |
朝目覚めると胃が重く、それが午後まで続く、という状態がずっと続いていた。総合病院に行ってみると、僕がかかった内科の女医は、胃潰瘍やその他の内臓疾患の疑いがあると言った。そして、血液検査の他に、胃の内視鏡検診(胃カメラ)をするようにと告げた。 「入っているのは5分だけですから。リラックスしてもらえればすぐに入りますよ」 と事も無げにその女医は言った。 しかし、経験者の意見は、何ということもなかったというものと、辛かったというものとに真二つに分かれた。
そして当日。かなり緊張しながら病院へ。 いつもとは違うフロアに行くと、そのガランとしたフロアの一角に内視鏡の検査をする部屋があった。唾液を押さえるという薬を飲まされて、暫く待たされる。その間に、まず喉が渇いてきて、いささか動きが鈍くなった。 その後、まず胃の動きを弱めるための薬品を筋肉注射される。そして、喉にゼリー状の麻酔薬を入れられ、約5分待たされる。その間に麻酔薬は固まって喉の周囲に張り付いた。成る程、喉の感覚が麻痺したようになっている。おそらくその間に、先程注射した薬品の効果が現れてくるのだろう。因みに、その効果は1時間くらい持続するようで、その間は飲食はできない。
そして、ベッドに横向きで寝かされ、いよいよ先端が点滅している黒くて長い管が、担当の医者の手によってゆっくりと入ってきた。喉が麻痺しているため、思った程の気持ち悪さはない。が、やはり何か異物感がある。暖かく、固い何かが喉の奥に詰まったような、そんな感じだ。 「楽にして下さい。何も心配はいりませんよ」 と僕の顔を見ながら医者は話しかけ続ける。 できるだけリラックスした方が入りやすいと言われていたので、そうしようとはするのだが、気が付くと力が入っている。看護婦が僕に、 「そんなに抵抗しないで下さいね」 とか言っている。
勿論、僕は抵抗しようという意思はない。しかし、体は異物の侵入に対する反応を示す。おそらくそれは、薬によって極端に弱められた反応である。が、薬が作用しない部分は確実に抵抗を示すため、肩に力が入ったり、知らず知らずのうちにマウスピースを固く噛んでいたりする。医師が胃を膨らませようと空気を挿入すると、当然体はそれを排出しようとして、最大限の活動を試みる。僕はこれを止めようと頭では思うのだが、体はそれとは無関係に反応する。 そうこうするうちに、ゆっくりと管は引き抜かれ、喉を管の尻尾が通る微かな感覚が過ぎていった。 医師は僕に言った。 「十二指腸に潰瘍の‘古傷’がある以外は、潰瘍や胃炎はありませんでした。」
人間の意識は、‘無意識’という巨大な氷山の上に浮かぶ小さな島のようなものに過ぎない、と言われる。しかし、それよりさらに下には、‘身体’というさらに広大な不可視の世界があるのだ。 自分の体は自分のものの筈なのに、自分でコントロールできない部分がかなりある。しかも、それは紛れもなく‘意識’を持つ自分という存在の根幹をなすものだ。身体のない意識は存在できる筈もない。 つまり、自分という存在は、自分の意思で完全に動かすことはできないものに乗っかっているということになる。まるで舵が思うように効かない船に乗って波間を漂っているようなものである
しかし、その体は、僕の‘意識’の(ということはつまり僕自身の)与り知らないところで潰瘍を作り、それを自分の力で治していたのだ。僕の意識と無意識の境界上にかかり続けた「ストレス」に体が反応し、さらにそこでできた傷に対して、体を守るための別の反応が起こった。要するにそういうことである。 そして、繰り返すが、僕はそれを全く知らなかったのだ。
僕の体の奥深くで、僕の知らないことが起こっていた。そして、おそらく今も、それは起こっている。僕達がその全てを知ることは、ついぞできないだろう。‘意識’の知らない‘無意識’が体に働きかけ、それが見えないうちになんらかの反応を引き起こしている。そして、それが表に現れれば‘疾患’となる。 内視鏡の画像は、僕の体の裏側に、僕の知らないピンク色の、ぶよぶよ、どろどろした世界が存在していることを僕に教えてくれる。 それは僕ではない、しかし僕とは切り離せない。‘他者’と‘自分’が背中合わせでくっついたような、奇妙な世界である。
僕がもらったのは、結局対処療法的な薬だけだった。 姿が見えない敵に対して、いや、敵かどうかも分からないものに対して、‘自分’を守るために僕はどう戦うべきなのだろうか。
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