思考過多の記録
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2004年04月25日(日) |
海の向こうの戦争2004〜起こるべくして起こったこと〜 |
イラクで日本の民間人が人質になり、解放されて戻ってくるまでのここ数週間、僕達はこの国にまつわる実にいろいろなことを見聞きした。 最初にこのニュースが飛び込んできて、「日本中に衝撃が走りました」と伝えられたとき、僕は至って冷静だった。それは、人質の人達に対して距離を持っていたということでは全くなく、単純に「起きるだろうと思われていたことが、やっぱり起きた」という思いだった。要するに、あの事件は決して予見不能なことではなかったのである。逆に、ああいうことが起きないと思っていた人が存在すること自体、僕には理解できなかったのである。
書かずもがなのことであるが、あの事件の大元の原因は、あの5人が政府の退避勧告を無視して危険な地域に止まり続けていたことではなく、あの「イラク戦争」の開戦時、いち早くアメリカに対する支持を打ち出し、現在に至るも基本的にそれを変えていない日本政府の方針にある。そして、それを決定づけたのが、先般の自衛隊派遣であった。これは火を見るよりも明らかな事実である。 人質の中には、自衛隊が派遣されるずっと前からあの国で人道支援に当たってきた人もいるし、あの国の現状を伝えようと活動していた人もいる。そういう人達は、自衛隊派遣前には当然人質されるという危険に晒されてはいなかった。その時点での彼等が遭遇する可能性のある危険は、強盗の類か、戦闘に巻き込まれるかというのが主なものだ。彼等の活動は現地の人達に受け入れられていたし、しばしば感謝されてもいた。そのことが全員が無傷で解放されるという結果をもたらした主な理由なのだという分析は、おそらく外れてはない。
だとするなら、イラクにいた彼等を危険に晒したのは、紛れもなく日本政府の方針そのものだったといっていい。つまり、政府がアメリカを支持し、自衛隊を派遣したことで、あのような事件を誘発する土台を作ってしまっていたのだ。 それを棚に上げて、まだ彼等の安否が不明な時点から、既に政府・自民党や公明党の政治家、また保守系の識者やマスメディアから、彼等に対する「自己責任論」という名の批判が始まった。また、それに呼応するかのように、彼等の家族の元に多数の誹謗・中傷の手紙、FAXが押し寄せた。彼等が無事解放された後もこうした批判は続き、あろうことか「救出にかかった費用は税金だ。当事者に負担を求めろ」という言動まで飛び出したのだ。 これは僕には全く理解不能な感覚である。人質だった方々やその家族に対しては、励ましや労いの言葉をかけるのが、人間としてはごく自然で真っ当な対処の仕方ではなかったのか。何故彼等は非難されなければならなかったのか。
いくつかの報道にもあるように、直接的な原因は、事件解決のための選択肢の中に「自衛隊の撤退」を含めるように求めていたこと、そして記者会見で若い家族が声を荒げて政府の対応を批判したことである。自衛隊の撤退に関しては、早い段階で政府は「その考えはない」と素っ気なく否定していた。「いかなる脅しにも屈しない」と、小泉首相はバカの一つ覚えのように言っていたものだ。また、僕は問題の記者会見を直接見ていないが、それを見た小泉首相は「激怒した」とメディアは伝えた。さらに、解放されたばかりの彼等が「再びイラクに行きたいか」と聞かれてそれを肯定すると、「自覚を持ってほしい」と不快感をあらわにしたのも、他ならぬ小泉首相だった。また、この間福田官房長官は、「多くの人に迷惑をかけたことを自覚してほしい」といかにも冷ややかな態度で再三口にしている。 彼等を政府や自民党・公明党の政治家達が冷たくあしらっているという空気を察知して、記者会見での質問は家族達に批判的なトーンに染められ、識者達はここぞとばかりに「良識」を発揮し、週刊誌は露悪的に彼等や家族達の周辺詳報を書き立て、そして尻馬に乗った人達が彼等に対する誹謗・中傷に走ったというのが、どうやら今回の一連の問題の構造のようだ。
彼等に一定の判断の甘さがあったことは事実かも知れない。しかし、危険を顧みずにあの地で地元の人達のために働こうとした彼等が非難された本当の理由は、実はそのことではないと僕は思っている。 もしも彼等が純粋な観光客であったなら、逆説的ではあるが、政府・政治家やメディアがこのような反応をすることはなかったであろう。「心配だ、無事に解放されてほしい」→「無事解放されてよかった」という、ごく当たり前の反応になっていた筈だ。そう、観光客には「思想的背景」がない。彼等が持っていたのはそれだ。フリーのカメラマン・ジャーナリスト・NGO…みなあの戦争に疑問や怒りを持ち、自衛隊派遣をはじめとする政府の方針に批判的な考え方をしていた。そして、彼等の信念に基づいてあの国で活動していたのである。まさに、そのこと故に彼等は攻撃されたのだ。「政府を批判しながら、政府に助けを求めるのはおかしい」という狭い了見の批判は、こうしで出てきたのである。
小泉首相、福田官房長官をはじめとする政府・与党の政治家達の態度の背景には、間違いなくこうした考え方があった。もし家族達が世論の同情を集めすぎると、自分達の軽はずみな政策決定が罪のない自国民を危険に晒したことが浮き彫りになり、自分達が批判に晒されることになる。そして、もしそれが自衛隊の撤退を求める強いうねりにでもなったら、アメリカの手前対処に苦慮することになる。まかり間違えば政権の基盤も揺るがしかねない。ならば、早いうちから彼等に批判的な空気を作っておこう。そう画策した人達がいたとしても不思議ではないのだ。 つまり、人質だった人達のその家族は、小泉政権と米英のイラク政策の「無謬性」を証明するために攻撃され、傷付けられたのだ。案の定、解放が決まったときに自民党の安倍幹事長は「自衛隊の撤退には応じないという、日本政府の毅然とした態度が、人質の無事解放をもたらした」と、本気で言っているとすればイラク情勢に対する無知をさらけ出すようなコメントをしている。
こんな政治家達をいただき、こんな政府が治める国に住んでいることを考えると、僕は暗澹たる思いにとらわれる。結局僕達の政府は、イラク人ではなく、アメリカの方を向いて「復興支援」を行っているということが改めて世界中に知れ渡ったのだ。そして、そんな政府を支持する日本人が少なくないこともまた明らかである。イラクの人々こそいい面の皮だ。 僕は、彼等が非難されるいわれはないと思う。本当に非難されるべきは、今彼等を非難している人々の方なのである。冷静に考えればそうなるはずなのだが、この国の人々は普通に物事を考える力までも失ってしまったようである。
今回の事件は、起こるべくして起こった。それは、国内から湧き起こってきた批判の合唱も含めてそうだと言えるのかも知れない。
(この話はまだ続く)
2004年04月05日(月) |
「ニュース番組」が歴史になった日 |
平日夜10時台のテレビから「ニュースステーション」(=「Nステ」)が消えてから1週間が経った。18年半にわたって放送されていたのだが、僕は放送開始後1年程してから見始めた。「金曜チェック」がちょっとしたブームだった頃である。以来番組終了まで、夜10時からの僕の生活に、あの番組はしっかり組み込まれていたのだった。
「Nステ」については、放送中も、そして終了直後にもいろいろに語られ、分析されてもいるので、今更僕が言うまでもないことなのだが、本当に日本のニュース番組のありかたを変えた番組だったと思う。ある意味でテレビというメディアの特性を十二分に意識し、それを活かしてニュースを扱った初めての番組だったと思う。 この番組の前に、久米宏という人は「ぴったしカンカン」でそれまでのクイズ番組のあり方を変え、「ザ・ベストテン」で歌謡番組のあり方を変えていた。いずれも、テレビというメディアの特性をより活かす形での変革で、当然のことながら高視聴率をマークしていた。その意味では、言われているように久米氏はテレビの寵児であり、メディアを深いところまで理解していた人なのだと思う。 このあたりについて書き出すと長くなるのでやめるが、とにかく「Nステ」という番組は、「ニュースをこんな風に扱ってもいいんだ!」という衝撃を各方面に与えたことは確かだ。
ニュースをバラエティやショーのように扱うことに対しては批判もあった。とりわけ、それまで「不偏不党」という暗黙の了解のあったニュース番組の、それもメインの進行役がニュースに対してある立場からコメントを述べるという手法は、かなりの物議を醸した。「偏向している」ということで番組の責任者が国会に呼ばれたり、最近では自民党の政治家が出演を自粛するという「嫌がらせ」を受けたりもしていた。その他、表沙汰にはならない有形無形のプレッシャーは、番組や久米氏に対して相当かかっていただろう。 けれど、「客観報道」の顔をしながら、一見無味乾燥なニュースを流し続けるNHKのニュースが、どれだけ「偏った」ものであるかは今更指摘するまでもないだろう。久米氏と「Nステ」が追求していたのは、「客観報道」の名の下にうち捨てられようとしていた権力に対するチェック機能としての報道だったのではないか。それを行うのに、テレビの特性を十二分に活かすことが有効だと、久米氏と番組スタッフは判断したに違いない。すなわち、「ニュースを面白おかしく伝えること」は「手段」であって「目的」ではなかったのである。
僕達は、テレビという「窓」を通して、日本を、そして世界を見る。勿論他の媒体もあるけれど、テレビは同時性とインパクトの面から見て、僕達にかなりの影響力を持つ。「Nステ」は、これまで僕達が何かつまらないもの、自分達から遠い世界のことと思って敬遠すらしていた「ニュース」(とりわけ政治的な話題)を、僕達により届きやすいやり方で伝えた。こうして、僕達がテレビという「窓」の向こう側で起こっていることにより関心を持ち、そのことで僕達自身が権力チェックする視点を身につけていく。それこそが健全な民主主義社会の維持・発展のカギになる。久米氏と「Nステ」はそれをテレビというメディアの一つの使命と考えていたのだ。 最終回の終わり近く、久米氏は 「僕は民放を愛している。それは、民放が全て戦後に生まれ、国民を戦争へとミスリードしたという歴史を持たないからだ。これからもそうであることを願っている。」 と発言した。久米氏と「Nステ」の信念をよく表している言葉だと思う。
自民党や石原などの保守的な政治家達から嫌われ、批判されていた久米氏だが、その批判者達も彼の実力は認めていた。一つの番組が終わるということで総理大臣までもがコメントを求められたというのは、少なくともニュース番組では過去に例がないだろう。18年半の間に、それだけ人々の間に定着し、影響力を持ってきたということの現れだ。久米氏と「Nステ」はテレビというメディアの使命を十二分に果たしたのだと言っていい。そして、間違いなく日本のテレビ史にその名前が刻まれることになるだろう。
思えば18年半の間に、久米氏と「Nステ」は実に様々なニュースを伝えた。久米氏も年老いたが、僕もそれなりに齢を重ねた。「世界」という抽象的なものしか見えていなかった学生時代、夢を追いきれなかったモラトリアムの時期を経て、今や僕も社会人である。 その間、僕はずっと「Nステ」という窓から、社会や世界を見てきた。世界地図が変わり、政権が入れ替わり、カルト教団が事件を起こし、飛行機は墜落し、世界貿易センタービルが崩れ落ちた。戦争もあちこちで起きた。多くの人が亡くなった。それは確かに日本や世界の歴史だったが、それをリアルタイムに伝え続けた久米氏と「Nステ」の歴史であり、それを見続けることでリアルタイムに出来事を感じ、「体験」してきた僕自身の歴史でもあった。
その番組が終わり、久米氏が夜10時台のテレビから去った。 「Nステ」という番組と、それを見続けた僕の人生のある「時代」が、「歴史」に変わった。「歴史」が増えた分だけ、人は確実に年老いていく。 それは、「Nステ」が始まった年に植えられた六本木アークヒルズ前の桜の苗木が育ち、今や見事な桜並木として花見スポットのひとつになっている、それくらいの時間が流れたということである。
そして今日、同じ夜10時台のテレビに、装いも新たに古館氏のニュース番組が登場した。
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